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背番号0(その1)
では「背番号0」を始めます
「00」より少し歴史が古くて日本のプロ野球で初めて着けたのは広島の長嶋清幸さんで1983(昭和58)年のこと 「00」の登場より5年早いのね 長嶋さんは今回出てきますがタイガースに移籍してきてまた「0」を着けてます この人にとってはきっと意味のある番号なのよ というより愛着かな?
タイガースでは2023(令和5)年現在も含め7人の選手がつけてます 順にみていきましょう
中野佐資 外野手
中野佐資 ( さとる ) は国学院栃木高校までは投手だったが社会人三菱重工横浜に進んで肩を壊し外野手に転向している。都市対抗にはよく補強選手として出場して活躍し、実績を買われて1986(昭和61)年にドラフト2位でタイガースに入団する。最初にもらった背番号は「13」だった。
慎重169センチ、体重70キロそこそこの小柄な選手だったが、見た目に似合わずホームランも打てる意外性のある選手だった。
ただし、公式戦出場は 1 年目が3試合、2年目が7試合しかなく、社会人からの入団にしては即戦力になれなかった。
1988(昭和63)年、村山実が2度目の監督に就任すると背番号を変えることを薦められ、タイガースで初めて「0」を着けることになった。新入団のジョーンズが「00」を着けたのと同じ年だ。
村山監督は中野に加え大野久、和田豊の3人を「タイガース少年隊」と命名し、それぞれにレギュラーポジションを与えて売り出しにかかった。
村山監督は実際に3人をレギュラーに育てようと我慢強く使い続けており、大野にはセンターが与えられ全130試合に、和田はショートで127試合、中野はレフトで108試合に出て飛躍している。中野は274打数65安打25打点4本塁打で打率 .
237だった。
1989(平成元)年にはボールに向かっていく攻撃的なバッティングが開花して、124試合に出場し打率 .
268、11本塁打、41打点を記録している。
積極的に打ちにいくため死球も多くなり17個を記録して死球王になっているが、闘志あふれるプレーが目立ちレギュラーへ駆け上るかに見えた。
しかし、1990(平成2)年が96試合、1991(平成3)年は114試合に出たが規定打席は遠く、完全なレギュラーとまでいけない状態が続く。
1992(平成4)年にはラッキーゾーンが無くなってホームランも出づらくなり、台頭してきた新庄剛志に定位置を奪われて出場は72試合に減少してしまった。
1993(平成5)年にはポジションが無くなり5試合の出場に留まる。この年まだ30歳だったが限界を感じて自ら申し出て引退の道を選んだ。
長嶋清幸 外野手
静岡県の自動車工業高校時代には4番外野手として広島の目にとまっていたが、タイガースの田丸スカウトも接触しており、下位指名の可能性があった。
しかしドラフト会議では両球団の指名はなく、タイガースはドラフト外での獲得の意思があったにもかかわらず岡田彰布との入団交渉が長引いたために連絡が遅れ広島に獲得されてしまった。
長嶋自身タイガースファンだったため連絡を心待ちにしていたようだが、意に反してのカープ入団だったのではないか。
広島では1年目の1980(昭和55)年から一軍の試合に出ており、最初の3年間は10試合、36試合、79試合と順調に出場試合を増やしていく。
そして4年目の1983(昭和58)年、背番号を「66」から「0」に変えると大ブレイクする。全130試合に出場して464打数137安打57打点13本塁打、打率 .
295という素晴らしい成績で山本浩二からセンターのポジションを奪ってしまった。
この年から8年連続100試合以上に出場、5年連続二けた本塁打を記録するなど勝負強い打撃でレギュラーに定着して活躍する。1984(昭和59)年の日本シリーズでは3本塁打10打点の大活躍で日本一の立役者になり、MVPに輝いた。
1988(昭和63)年からホームランが一桁になり、勝負強さに陰りが見え始め、広島は長嶋をトレード要員とみなすようになる。
1990(平成2)年には成長著しい前田智徳の態度が悪いと𠮟責してフロントの逆鱗に触れるなど問題児扱いになり、1991(平成3)年にトレードで中日へ放出されてしまった。
中日では星野監督のときは好かったが高木監督と合わず2年在籍しただけで1993(平成5)年には宇野勝とともにロッテにトレードされた。しかしこの年も40試合出場にとどまり腐っていたところへタイガースが声をかけ、1994(平成6)年に金銭トレードで移籍することになる。
中日時代は背番号「4」、ロッテでは「31」を着けていたが、タイガースに入って「0」に戻った。タイガースでは4年間在籍しており、1994年から2年は守りにもついたが、1996(平成8)年から代打専門となり、1997(平成9)年を最後に現役を退いた。
通算成績は18年で1477試合4031打数1091安打448打点107本塁打、打率 . 271であり、ドラフト外入団の選手では優秀な成績と言える。また数字以上の勝負強さが魅力だった。
引退の翌年の1998(平成10)年から2003(平成15)年まで引き続きタイガースに残ってコーチとして選手を育てた。その後も在籍経験のある中日やロッテでコーチを務めている。
吉田浩 外野手
富山県の高岡第一高校から1990(平成2)年にドラフト6位でタイガースに入団。最初の背番号は「64」だった。
プロ入り後の5年間は一軍登録されることなくファーム暮らしが続き、初出場は1995(平成7)年4月28日のヤクルト戦で代走だった。この年、15打数3安打1打点で初本塁打も記録している。
1996(平成8)年に背番号を「42」に変え、出場数も34試合に増えた。1997(平成9)年に吉田監督が就任すると代打要員として抜擢されて82試合に出場し、98打数26安打を記録している。
1998(平成10)年は背番号を「0」に替えて臨んだが34試合の出場に終わり、代走や守備固め中心の選手になってしまう。
野村監督になっても立ち位置は変わらず、35試合、13試合、8試合と徐々に出番はなくなっていったため、2002(平成14)年を最後に引退した。
まだ31歳ということもあり、2003(平成15)年に社会人住友金属鹿島に入部すると4番センターで都市対抗本線に出場、同年のワールドカップでは銅メダルメンバーとなった。
まとめ
う~ん背番号「0」も「00」に似ているのね
やっぱり最初からこの番号を着ける選手ってほとんどいないじゃない?
長嶋さんは移籍組で古巣の広島で着けてた番号だし、中野さんや吉田さんは気分一新というか変化を求めてのゲン担ぎみたいなものだしね 1から始まる番号とはちょっと性質が違う印象
調べてみると 最初にゼロというものを定義したのは7世紀のインドの数学者・ブラーマグプタという人物 「何もない状態」ってことなので やっぱりいい番号と言えないんじゃないかなあ
カトリックでは「何もない状態」っていうのは神の存在も否定することになるので 「0の概念」を受け入れるまでに相当な抵抗があったらしいわよ
タイガース背番号史 42-9 2026.07.30
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