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背番号41(その2)
2代目タイガース非公式サイトです
みなさんこんにちは 背番号41の第2回目です
前回はいままでのなかでも異色というのか 「二重契約問題」の米田さんが入ったためにちょっと変な感じだったわね 前回を読んでない人はちょっと戻って見てきてね
前回の3名は合わせて7年間しか「41」を着けてなかったけど 今回は3名で20年間着けてるのよ 特に長かったのは最初に出てくる鎌田実さんの通算13年 通算というのは鎌田さんは途中で近鉄に行って またタイガースに戻って「41」をつけてるからよ
さてちょっと先走って書いちゃったけど「41」は面白そうな番号ね それでは本編に進んで頂戴
鎌田 実 内野手
昭和30年代のタイガースが誇った名二塁手。兵庫県三原郡広田村(現:南あわじ市)の出身。今(2026年)現在「41」を着けている村上頌樹投手も淡路島出身というのは奇遇だろうか?
地元の洲本高校時代には遊撃手としての守備力に加えて打撃力も注目される存在になっており、甲子園出場は惜しいところで成らなかったが、プロのスカウトからも高い評価を受けている。
大学に進みたかった鎌田は、「それも合わせて面倒を見る」という条件を出した読売に気持ちが傾くが、父親が倒れて以来母と4人兄弟での苦しい家庭事情から、鎌田に早く就職してほしいと願う家族に猛反対され断念する。
読売が脱落したとわかると中日にいた佐川直行スカウトが水原監督の意を受けて猛アタックをかける。ところが佐川が提案する契約金の額を聞いたオーナーが猛反対して話は白紙になってしまう。どうしても鎌田を自身の説得でプロ入りさせたい佐川は辞表を提出して大阪タイガースに移り、引き続き鎌田の獲得に全力を挙げた。
タイガースのショートには吉田義男がおり、高校を通じて遊撃手だった鎌田は「レギュラーになれない」との思いから「大阪だけは行かない」と抗戦したが、家族が佐川に口説かれる形で話が決まってしまう。鎌田自身にとっては不本意であり不安を抱えた入団となった。もらった背番号は「41」でタイガース在籍の13年間はこの番号で通している。
ルーキーの1957(昭和32)年は、シーズン後半で控えながらも一軍にいたところ、吉田が怪我で離脱したためショートのスタメンで28試合出場している。
1958(昭和33)年には本格的にセカンドにコンバートされることが決まり、ベテラン白石長栄の控えとはいえ67試合と出場機会は増えていく。
3年目の1959(昭和34)年、白石を抜いて109試合に出場し、規定打席不足ではあったがレギュラーの座を奪った。翌1960(昭和35)年から3年間連続でフル出場、1963(昭和38)年までその地位を守っている。
ところが、1964(昭和39)年に長嶋茂雄や杉浦忠とともに立教大学のスターだった本屋敷金吾が阪急ブレーブスから移籍して来るとレギュラーを奪われてしまう。
それでも簡単に譲ったわけではなく1965(昭和40)年から1966(昭和41)年は拮抗した成績でレギュラーを争っている。
鎌田は1966年オフにトレードで近鉄バファローズへ移籍し3年間セカンドのレギュラーとしてプレーしたのち、1970(昭和45)年にタイガースへ復帰し、新人の時からなじんだ背番号「41」を再び背負うことになる。
晩年の3年間をタイガースで過ごしているが、1971(昭和46)年にはコーチ兼任となり、1972年のシーズンを最後に現役を退いた。
その後長く評論家として活躍。1993年には近鉄の総合アドバイザーに就任して2年間務めたことがある。
鎌田の通算成績は1482試合4451打数1041安打264打点24本塁打、153四球360三振で打率 .
234だった。
打撃には大きな特徴があり、フォアボールというものが選べない。一番多いシーズンでも571打席で25個、1961(昭和36)年は522打席で9個しか選んでいない。届くところはすべてストライクゾーンというのが鎌田。悪球を見事に打ち返すのにど真ん中が打てないという「ドカベン」の岩鬼のような打者だったらしい。
鎌田の人を知るには実際に接した人に話を聞くのが一番なので、現役を共にしたタイガースOBの本間勝さんの回想録から抜粋引用する。

「普段は、全く無愛想で箸にも棒にもかからない人間に見える時があるが、仕事をさせたら、実直で正確。寸分の狂いもなく、実に見事に仕上げる。自分の技術には絶対の自信を持つ守備の人。打ち取った打球がセカンドへ飛ぶ。平凡な内野ゴロ。グラブの真芯で捕球する。『パチン』小気味の良い、乾いた音がマウンドまで聞こえてくる。気分のいいものだ。半面、間一髪のプレー。打球を処理する時の体の切れの鋭いこと。実に見応えがあった。」
「名手といわれる内野手はたくさんいたが、私が直に肌で感じ、この目でしっかり見てきた選手の中で、自然に投球のリズムを良くしてくれ、自然に気持ちを盛り上げてくれたのが、カマさん(現役時代の呼び名)のプレーだった。」
「人には真似のできないプレーも見せてくれた。バックハンドトスである。1963年の海外キャンプで仕入れてきたワザ。当時、ほんの短い距離でならバックトスをする人はいたが、五㍍前後からでも平気でトスをしたのは同氏だけ。簡単なプレーではない。手首とヒジのバランスを、よほどうまくとらないといい球は投げられない。二ゴロの併殺プレーで、二塁ベースへトスする際の、クロスプレーで行うケースが多い。大胆かつ、素早いワザ。某球団ではついていけない選手がいて、監督からストップがかかったという。」
「バッティングに関しても個性派だった。人には真似のできない打法の持ち主。決して褒められたフォームではないが、人呼んで“大根切り”打法。なにぶん、カマさんのストライクゾーン、高めの球は頭の上まであった。そのむずかしい、とんでもないボール球を、バットのヘッドを立てて、強引に振り下ろす。打法の命名はこのバッティングから。確率は低いが、これが時にはヒットになるから面白い。見ていると、つい『プッ!』と吹き出してしまうが、ベンチの中はといえば、『やったあ』の大声と拍手で大いに盛り上がったものだ。」
本間氏の中では同時にプレーした印象深い選手で、このほかにもエピソードがある。あとは次の URL で読んでみてほしい。
鎌田さんは2019(令和元)年8月1日9時30分、肺がんのため80歳で死去されました。ご冥福をお祈りします。
柿本 実 投手
福岡県京都郡苅田町の出身。苅田高校時代は内野手だったが、豊岡セメントに就職し準硬式野球に変わる。さらに社会人野球の日炭高松に入部して硬式野球に転じている。
1959(昭和34)年の都市対抗野球本戦での好投が認められれて南海ホークスに入団。ところがルーキーだった1960(昭和35)年はたった1試合の登板しかなく、シーズン終了後には戦力外となって自由契約選手公示されてしまう。
ここに中日ドラゴンズが手を差し伸べて移籍し、近藤貞雄コーチのアドバイスで上から投げていたのをサイドハンドに変える。
これが功を奏して中日1年目の1961(昭和36)年には、17試合に登板してプロ初勝利を含む3勝を挙げた。
1962(昭和37)年、サイドが合っていたのだろう60試合に投げそのうちの40試合が先発(リーグ最多)、リリーフも20試合こなし、20勝17敗、防御率2 .
06の成績を挙げて周囲を驚かせる。
さらに1963(昭和38)年も48試合で21勝13敗、防御率は1.70で最優秀防御率のタイトルを獲得する。この年、柿本は28歳だった。
2年連続の20勝投手となったが、1964(昭和39)年が15勝19敗、1965(昭和50)年は9勝7敗と成績は落ちていく。
1965年のオフ、佐藤公博との交換で阪急ブレーブスに移籍することになった。しかし阪急では20試合0勝1敗に終わり、1年で戦力外。自由契約となったためタイガースが声をかけて入団が決まり、入れ替わるように近鉄へ出ていった鎌田の着けていた「41」を引き継いだ。
タイガースでは1967(昭和42)年から先発とリリーフをこなすユーティリティな投手として活躍しており、3年間で77試合(先発36)に登板、15勝11敗と戦力になった。まだ余力はあったが1969(昭和44)年のシーズン終了後に引退。柿本引退後すぐに鎌田が近鉄から戻り、再び「41」を着けることになる。
柿本はそのままチームに残って1970(昭和45)年から2年間を二軍投手コーチ、1972(昭和47)年から2年間には一軍投手コーチを務めた。
非常にメンタルが強く(というより茶目っ気があり小さなことを気にかけない性格)、コントロールも好かった。それが幸いして動揺とか緊張という言葉に縁がなかったのか、プロ生活通算で1402回1 /
3を投げてワイルドピッチが1球もないという記録を持っている。
通算成績は300試合(先発173)に投げて83勝71敗、1402回1/3で276四球、645奪三振、防御率2.55である。
渡辺 博敏 投手
佐賀県出身で県立伊万里高等学校。高校では目立った球歴はなく、日本大学に進むが、ここでもさしたる記録は残っていない。大学卒業後は一時期教員になっていた。
しかし、野球に対しては未練があったのか、郷里に近い西鉄ライオンズの入団テルトを受け、これに合格して1970(昭和45)年のドラフト外でプロ入りしている。
西鉄にはルーキーの1971(昭和46)年から2年間在籍しているが、一軍で投げる機会が無いまま1972(昭和47)年のオフに金銭トレードでタイガースへ移籍している。背番号は同年限りで引退した鎌田から「41」を受け継いだ。
タイガースには1973(昭和48)年から4年間在籍したが、公式戦では1974(昭和49)年に3試合、1975(昭和50)年に3試合しか投げていない。1976(昭和51)年には一軍での登板がないまま引退している。
通算成績は6試合0勝0敗、9イニングを投げ3四球1奪三振、自責点3、防御率3 . 00だった。サイドスローで小さく変化する独特のボールを持ってはいたが、高校から大学を通じて野球に専念した形跡がなく、プロで通用するものではなかったようだ。
引退後は教員だった指導力が開花し、1999(平成11)年にはアフリカのガーナでの野球指導、2003(平成15)年にはパキスタンのナショナルチームの監督に就任、2005(平成17)年からタイのナショナルチームのコーチ・監督を務めるなど活躍は国際的だ。
写真等は見つからないが「知恵袋」に西鉄入団時の記事が掲載されているので以下に掲載しておく
西鉄ライオンズに不敵な新人投手がお目見えした。
西鉄球団は二十三日、福岡市天神二丁目の球団事務所でテスト入団の渡辺博敏投手( 22 )=日大文理学部四年、 181 ㌢、 77 ㌔、右投げ右打ち=と正式契約をすませた。
渡辺は大きなモーションから重い速球をくり出す本格派で、十一月末テストを受けていたが「先輩の佐藤さん(南海)には負けたくない」と大見えを切ってみせるたのもしさ。「思わぬ貴重な戦力になってくれそうです」と青木社長も目を細めていた。
渡辺投手はことしの東都リーグ芝工大戦で 2 試合に登板、 5 イニングを無失点で押えているが、昨年までは佐藤(南海)が在学していたせいもあって、登板の機会に恵まれなかった。ドラフト会議で指名されなかったのもそのせいで、テストのおりピッチングを見た稲尾監督が「フォームの欠陥を直せば十分に使える」とほれ込んだ実力の持ち主。
三塁手から投手に転向したのが佐賀県伊万里高三年のときで、速球と大小二種のカーブが主武器。「スピードはある方だと思います。コントロールにも自信があります」といい切った。
プロ野球については「動きは速いと思いましたが、なんとかやれるでしょう。一日も早く一軍入りしたいですね。小さいころからの西鉄ファンだし、あこがれのチームで投げられるのは本望です」と感想をひとくさり。
自信のほどを問われて「佐藤さんには失礼だけど、在学中は練習量が少なかったし、スピードもぼくと同じくらい。あの人が新人王になれるのなら・・・」といってのけた。サイズ 27 (十一文半)のクツをはく大型新人である。
まとめ
実は2代目は鎌田さんが「41」だとは知らなかったのよ もっと若い番号だろうとおもい込んでました 今回改めて先代の原稿をまとめることで 自分の新常識となったわけよ 鎌田さん自体は鉄壁の内野陣の一人として有名なんだけど 意外と背番号知ってる世代は年配の人に限られるのかもしれないね 鎌田さんの人柄やプレー振りは本間勝さんのコラムを読むとよく判るよ
柿本さんは中日で大化けしてタイトルまで取った投手だね タイガースでは知名度がないんだけど投手コーチもやってる
渡辺博敏さんは アマチュア時代の情報もほとんどないしプロでも6試合しか投げていないので どういうタイプかも分かんないね ただ外国の代表チームの監督になるなど指導力は買われてたみたい
ではこれで背番号「41」の2回目を終わります 次回3回目は2代目の知らない選手ばかりだけどまた3名を紹介するね
背番号41―3に続く
