タイガース非公式サイト2代目

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2023年08月14日
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背番号13(その1)

では「背番号13」を始めます 

前回の「まとめ」の中で特殊な番号って書いたけど なぜかって言うと球団創設時に誰も着けなかったのね 
 創立時は監督の着ける「30」までしか番号は無くて選手・監督ふくめ総勢21人 無いのは「4」「13」「22」「23」「24」「26」「27」「28」「29」だったのよ 21人しかいないから22以降の番号については
森茂雄さんの 「25」と石本監督の「30」以外無いのが当然よね

「4」はやっぱり「死」ということで最初付ける人がいなかったのは想像できるわ でも「13」というのはキリスト教圏では忌むべき番号とされるけど そういう意味で嫌ったのかなあ・・・

「4」は先代のころに連載してるので見てほしい 渡辺敬蔵さんが初めて着けたのが創立7年目の1942(昭和17)年だったのね

でも「13」が初めて使われたのは戦後になった1950(昭和25)年の徳網茂さんからなのよ ちょうど2リーグ分裂の年だよね それまでよっぽど嫌われてた番号なのかしら?

ということで徳網さんからみていこうね

徳網 ( とくあみ ) 茂 捕手

徳網茂は京都生まれ。京都商業では1939(昭和14)年夏、1940(昭和15)年は春夏と甲子園に出ており、選抜では準優勝している。

卒業後は同志社大学へ進む。大学ではのちの徳島池田高校の監督となる蔦文也と同期チームメートだった。さらに社会人林兼商店(現在の大洋漁業)に進み全国に知られる選手として活躍。1948(昭和23)と1949(昭和24)年には都市対抗本戦に出場して、この年一旦は毎日オリオンズへ入団が決まる。

しかし2リーグ分裂の混乱に巻き込まれ、年が明けた1950年の1月26日に毎日と契約してすぐ交換トレードによりタイガースに移籍し、背番号「13」を最初に着けた選手となった。タイガースには10年在籍して、その間「13」で通している。
 1年目から135試合に出場し487打数122安打69打点2本塁打で打率 . 251の数字を残している。この年から6年間連続で100試合以上に出場しており正捕手として活躍した。この間には4回のオールスター出場もあるように、当時はなかなかの人気選手だったことがうかがえる。

1956(昭和31)年からは石垣一夫や山本哲也の台頭により正捕手の座を失い、1959(昭和34)年には出場がわずか2試合となって引退した。

高橋孝明 投手

徳網が10年着けていた「13」を1960(昭和35)年から引き継いだのは高橋孝明。神奈川県の鎌倉学園から社会人いすゞ自動車へ進み、タイガースに入団している。

高校時代は1年生からエースで、ストレートとシュートに見るべきものがあったが社会人に進んでから伸び悩み、プロ入りしたものの大成するだけの素質はなかったようだ。

入団年には2試合にリリーフ登板しているが打者5人と対戦して被安打1、奪三振1の記録が残る。

2年目の1961(昭和36)年は8試合に投げているがほぼ敗戦処理、11イニングで打者42人と対し被安打7、防御率1 . 64という成績だった。

3年目の1962(昭和37)年になると1軍での登板はなく、この年限りで引退している。

金子哲夫 投手

金子哲夫は愛媛県西条高校の出身というから、タイガース現役の秋山拓巳投手の先輩にあたる。

1959(昭和34)年の夏の選手権にはエースとして出場し、法政二高、松商学園、平安高校、八尾高校と強豪校を次々に破って決勝へ進出。宇都宮工業との決勝戦も延長15回を最後まで一人で投げ切って完投し8-2で勝ち、初出場初優勝の快挙を成し遂げた。多分今でも母校では伝説の大先輩として知られているだろう。

立教大への進学のうわさもあったが、1960(昭和35)年にタイガースへ入団する。最初の背番号は「36」だった。

1年目の公式戦は1試合の登板はあったが勝ち負けには関係なかった。2年目の1961(昭和36)年は一軍の登板はなく、ウェスタン・リーグで防御率1位と勝率1位のタイトルをとったものの、もともと軟投派タイプなので先発は一度もない。翌年も二軍にくすぶったまま終わる。

1963(昭和38)年、前年まで高橋孝明が着けていた背番号「13」を着けてみたが状況は変わらず、この年限りで引退している。

まとめ

 初めのころは誰も着けたがらなかった番号なのかしら? 

今回紹介した初期の3人は全く名前も知らなかったけど 「初代13番」の徳網さんは6年もレギュラー捕手を張った選手だったんだね しかも現役10年間を「13」で通してる でもネタばらししておくと「13」を着けた最長記録は葛西稔さんの13年なのよ

​ 高橋さんと金子さんは「一軍でちょこっと投げれただけでも思い出になった」っていうレベルかな 金子さんは甲子園優勝投手だったけどプロの渇望する剛腕タイプではなく 一軍レベルでは通用しなかったみたい やっぱりプロは厳しいね! 
 残念だけど このお二人は一軍でまともな成績もなく数年で引退してるから写真は全く見つかりませんでした
その2へ続く  ​






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Last updated  2023年08月14日 17時00分09秒
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