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背番号27(その3)
背番号27の第3回目です
過去2回ではスター選手と呼べる選手は白坂さんくらいかな でもあくまで守備で名を上げた選手だし背番号「27」も1ヶ月しか着けてないからなあ
ということで総合力でとびぬけた選手はつけてないのよ 今回は4名の選手を紹介するんだけどパッとしない状況は変わらないわ
駒田 桂二 投手(再掲)
すでに背番号4で紹介しているが詳細に加筆して再掲する。
大阪府東大阪市(旧布施市)出身。東商業高校時代は全く無名で、戦時中ということもあって全国大会とも無縁だった。
戦後、社会人野球の東洋紡でプレーしていたところタイガースの眼にとまり、2リーグ分裂直前の1949(昭和24)年のシーズン途中に入団している。最初につけた背番号が「27」。右投げで身長は180センチあり、当時としてはかなりの大型投手だろう。
途中入団だった1年目は変化球の制球難もあって6試合で0勝0敗、防御率は4 . 50という数字しか残せなかった。シーズンオフに背番号を「4」に変えているため「27」は1年しか着けていない。
ところが2年目の1950(昭和25)年になると改善がみられ、32試合(先発19)7勝6敗、防御率も3 . 52と戦力になってくる。
3年目の1951(昭和26)年が駒田のキャリアハイで、45試合(先発28)で11勝13敗、227回2 / 3を投げており防御率3 . 24と好くなっている。当時各球団が2リーグ分裂による選手の絶対的附則に悩んでいた時期であり、駒田の貢献は貴重なものだった。
1952(昭和27)年も43試合(先発18)とフルに働いているが、8勝8敗、投球回数は156回に減るとともに防御率も4 . 04に落ち、これ以降は年々登板機会が減り成績も低迷が続く。
1953年 32試合(先発8) 5勝5敗 85回 防御率3 . 07
1954年 28試合(先発8) 8勝3敗 113回 防御率1 . 57
1955年 14試合(先発10)5勝4敗 67回 1/ 3 防御率2 . 51
1956年 5試合 (先発2) 1勝0敗 20回 防御率0 . 45
駒田は2リーグ分裂後の数年をよく支えたが、徐々に選手が入団してくる中で存在感が薄れていった。1956(昭和31)年のシーズンを最後にタイガースを退団し、古巣の東洋紡績に戻ることになる。
通算成績は205試合(先発95)、45勝39敗、831回を投げ奪三振264、与四死球243、自責点286、防御率3 .
10だった。勝ち越しているのは立派である。2016年8月1日に86歳で逝去。
富樫 淳 投手
すでに背番号6で紹介しているが再掲する。
景浦が亡くなり、戦後最初に背番号「6」を着けたは富樫淳。
兵庫県武庫郡(現西宮市)鳴尾村出身!身近に大阪タイガースがいる環境で育ち、野球好きで少年期からタイガースの協和寮に入り浸っていたという。
関西学院中から平安中を経て法政大学に進み、昭和21(1946)年にタイガースへ入団する。背番号6は入団から4年間着けた。学生時代までは投手だったがすでに肩を痛めており外野手に転向している。
プロ入り後も肩の故障は続き、フルシーズン戦えない状態が続いた。タイガースで4年間プレーし、初年度には4番藤村の後ろの5番を打ったこともあるが、外野で膝に大怪我(当時フェンスがなく鉄線を張っただけだったがそこへ突っ込んで膝を負傷 ) を負って退場。その後は怪我とも戦いながらの現役生活となった。
昭和24(1949)年には肺結核を患いってしまう。現役最後となる1950(昭和25)年には背番号を「27」に変えて臨んだが、病気の回復が見込めないとして引退している。
野手としては通算169試合516打数135安打48打点の打率 . 262という成績でホームランは打てなかった。投手で3試合登板しているが、0勝0敗に終わっている。
引退後は1956(昭和31)年の夏の選手権で、母校である平安高校の監督として優勝するなど、アマチュア野球の指導者として活躍した。1986(昭和61)年に62歳で亡くなっている。
麻田 勝也 投手
富樫の退団した翌年1951(昭和26)年は「27」は空き番になっており、その翌年継承するのが麻田。
大阪府出身。学歴は大坂第二師範学校という情報のほか平安高校というのもあり、実際のところよくわからない。球歴もノンプロでの経験があるとか軟式野球出身とか諸説あってこれもはっきりしない。右投げ右打ちの投手ということでタイガース所属選手だったことは記録に残っている。
タイガースへの入団は1952(昭和27)年で21歳の時。背番号「27」を着けたわけだが、公式戦の登板は無く、1年の在籍で退団している。
引退後は大阪市に採用されて教員を務めたと伝わる。
岡田 功 投手
麻田が退団した翌1953(昭和28)年は空き番。1954(昭和29)年から「27」を着けたのが岡田だった。
兵庫県尼崎市の出身で高校は県立尼崎工業。1949(昭和24)年の夏の選手権では4番ライトで兵庫県大会の決勝に進むが芦屋高校に敗れている。
1950(昭和25)年にタイガースへ入団。最初につけた背番号は「48」だった。
入団後の2年間は1軍出場が無い。3年目となった1952(昭和27)年には背番号を「46」に変えると初めて1軍に呼ばれたが6試合の出場で3打数0安打に終わっている。
1953(昭和28)年はまた1軍に呼ばれず、1954(昭和29)年に6試合5打数1安打とプロ入り初ヒットはでた。
1955(昭和30)年には背番号を「27」に変えて31試合に出場することができたが、13打数0安打、代走や守備要員に終わっており2盗塁を記録しただけだったため現役続行をあきらめて引退する。
1956(昭和31)年からセリーグ審判部に転身して審判を目指し、これが天職となって、以後1992(平成4)年まで37年間(そのうちプロ1軍審判員を36年間)勤めている。1969年日本シリーズ第4戦のホームクロスプレーでのセーフ判定は特に有名である( 日本シリーズで初めて退場になった阪急の司令塔が“
証拠写真”
で納得。「僕がヘタやったんだね」【プロ野球はみだし録】 |
野球コラム -
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)。
13年連続日本シリーズ出場、日本シリーズ通算94試合出場、日本シリーズ通算21回出場( 1963
年~ 1967
年、 1969
年~ 1981
年、 1983
年、 1991
年)、レギュラーシーズン通算3902試合出場は審判として日本プロ野球記録。1992年シーズン終了後に引退。審判としての実績はウィキぺディア等を参照。
まとめ
いかがでした? 「27」を着けた人が選手として活躍してくれたケースが少ない感じは変わんないよね・・・ 麻田さんは写真も残っていないなあ 富樫さんの写真もそうだと言われてみてもよくわかりません
その中で駒田さんは唯一10勝投手になってるんだけど「27」を着けてたのは新人の1年間だけで未勝利だったのよね
岡田さんは審判になってから才能を発揮してる異質な人 セリーグ審判部長まで上り詰めてるし 引退後もマスターズリーグの審判なんかも務めてたらしいよ
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