シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2006年06月17日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!

 悪人というのは、自分が悪いことをしていると思っていないから始末に負えないし、悪いことと知っていながら、開き直って、やるやつはもっと始末におえない。

 昨日、TVで、尼僧の生き様をみた。仏門に入って恋愛をし、戒律を破ったために、半身不随になりながら、そこから自分の人生をつくりあげた、過酷な人生を体験した尼僧の話であった。

 私には、親鸞の悪人正機説を、そこに見るような気がした。

 親鸞の教えは、言葉にすると曲解されやすい。だから、親鸞は、話し合いの機会をなるべくもって、自ら説き聞かせ、伝承したのだろう。

 仏教論をするつもりは毛頭ないが、親鸞の悪人正機説には、上座部仏教(小乗)と大乗仏教をつなぐ思想が生きているように思われてならない。親鸞は恐らく、仏陀の教えが経典となり、文字化され、あまりに形骸化しているのを嘆いたのであろう。

 悪人を救えなくて何の教えがあるのだろうか? 不幸で満ち溢れているこの世の地獄を救わなくて、自分だけ仏でいられようか? そのような悪を救える阿弥陀仏の生き様を本願としたのであろう。

 仏陀もまた、形骸化したバラモンの教えを、救いの思想にかえた人生だったのである。当時のバラモンも、仏教でいう上座部のようなものだったようだ。当時のバラモンも、上座部仏教も、正しい修行を行い、自ら善人になろうとすること自体は、確かに正しい行為である。

 しかし、そこには、なぜ善人になるのか?という目的がない。善人であればいいというのでは、単なる自己満足の域を出ないし、不必要な自負心につながる。下手すると、自分は正しいことを行っているから偉いのだと、独善的な錯覚を生んでしまうだろう。

 仏陀が、覚りを開いて、伝承しはじめた意味がそこにある。仏陀は菩提樹の木の下で、覚りを開いたとき、ブラフマンに、その覚りを広めよと諭された。当初、仏陀は、私の覚りは、とても言葉では言い表せないもので、不可能だと拒んだのだが、ブラフマンは、何度も説得し、ついに、仏陀が、この世に生まれた意義を説いたのだろう。

 それが、悪人正機説なのであろう。

 悪を救うために、善はあり、善人になるのは、悪人を救う為になるのだ!ということなのだろう。

 「あなたが覚られたのは、あなたのなかに悩みの悪があったからである。あなたは、いま覚られたのだから、悪に報いるべきではないのだろうか?」というようなことをいったのだろう。

 だから、大乗のために上座部があり、上座部のために大乗があることになるだろう。これはつまり、善人は一旦、悪から離れ、善人になって、善人として、悪人を救うということである。これが真の選ばれし者という意味であり、エリートの意味なのである。

 悪人を救う為に、善人になる。だから悪人を救えない善人は、善人ではなく偽善者なのである。これはどのようなことにもあてはまる。例えば、病人を救う為に医者になるのであって、社会的身分や金銭で贅沢な生活をするために医者になるのではないだろう。人々を善人に導く生活のために、政治家になるのであって、威張ったり、特権意識をもつためになるのではないだろう。ここから、他力本願が生まれてくる。他力というのは、他の人の力となるために、他の人への善の導き、阿弥陀仏の慈悲のことをいうのだろう。

 現代人は大きな過ちを犯している。この世に現れるものの全てにおいて、目的がある。それは神の意志、教えともいえるだろう。地球は、人間のためにあり、水や空気は、生きるためにあり、花や自然は、感情を育てるためにある。神々の行為は、全て無償で人間に向けられているものである。この神々の無償の愛を、仏という。万物には仏が宿る。

 我々は穢れているから、この世に生まれてくる。この世の人間に向けられた愛を知るために生きる。人間のなかに愛を育てるために、周囲は一見して、悪で満ち満ちている。いかに快適便利に暮らそうとも、一方では恵まれない、不幸な人々がいて、救いの手も伸びないのだから、トータルでこの世は地獄なのだ! 

 穢れたなかに、穢れを拭わないものは、ますます、穢れていき、やがて、霊性を失った獣のようになるだろう。悪を善に変えないものは、益々この世での快楽に依存し、肉体を失ったとき、全てを失い、途方にくれ、その欲だけが残される。目的の叶えられない、手段に埋没するだろう。いくら金を稼いでも満足することなく。いくら食べようとも、満腹することなく。いくら威張ろうと、赦すことなく。自分で自分を破滅に追い込んでいくだろう。

 人間は、肉体をうしなったとき、肉体の上に依存していた荷物が、自らに襲い掛かるのである。他者に不快を与えたら、それはそっくりそのまま自分に返ってくる。 

 だから、悪の上に君臨するのは善ではなく、悪の下に、身を犠牲にするのが善なのである。悪があるから、善があるのである。善は自らのなかから悪を分離し、悪を善に成さしめ、統合する。自分のなかの進む力を、止まる力から分離し、進む力をもって、止まる力を克服する。これは人間の意志であり、これが無重力のなかでの歩みかたであり、これが、親鸞の悪人正機説なのであろう。

 そして、仏教の戒律は、悪人こそが、善くなっていかなければならないものなのである。坊主の説法を受けて、悪に染まるようでは、頭を丸めた意味がないだろう。人間は一歩一歩でもよいから、神様に向かって、前に進むべきなのである。






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Last updated  2006年06月17日 18時46分17秒コメント(0) | コメントを書く
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