国家の指導者の地位にありながら、参拝の意味をわかっていない馬鹿モノが多いので、改めて参拝の意味を考えてみたい。参拝とは、神に参じ、拝するという意味であろう。国家に災いがあるとき、民族の指導者は参拝して、神々の怒りを鎮めるか、神々の叡智を戴き、治めてきた。とくにわが日本国は、天皇を民族の祭司家として、神を崇め奉ってきた神道の古い伝統文化の国家である。
昔の日本であれば、昨今の天変地異の多さは、指導者の無責任さや自らの驕り、利己心として認識され、指導者自らの生命の犠牲を元に、神々に赦しを得る為にのみ、修験道者のように参拝したであろう。なにしろ参拝というのは、日本列島を創造した神々に拝謁する行為なのだから、非常に厳粛で国家の一大行事であり、ふざけた気持ちや御利益主義でやるのなら、百害あって一利無しといいたい。
恐らく、神をも信じないエゴイストだからこそ、参拝自体を私物化し、自己保身や自己権性欲や名誉欲の道具として扱うことができるのだろう。これでは、参拝自体が、神々のお怒りに触れてしまい、参拝すればするほど、天変地異が起こるだろう。
神を信じるかどうかはその人の心の問題だが、神を信じない者は参拝するべきではない。
参拝は心の問題というのは、確かにその通りだが、であるならば、心を神が宿る位に明鏡止水にし、万事に自らの生命を捧げる心構えがなければ、参拝の意味はないだろう。参拝後の行為が問われるところである。
参拝しても、利己心を捨てずに、変わらなければ、参拝する意味もなければ、神々の怒りにも触れよう。まして、参拝を道具に自己保身や権力強化をするのは、自らのエゴを放縦する理屈をつくっているにすぎない。巧妙な詐欺犯罪と同じである。
詐欺は国民や人を騙せるが、神々は騙せないぞ!
唯物論もここまでくると、人類破滅へまっしぐらの観がある。実際、日本人の出生率は減っていくだろう。霊を物で殺したからである。唯物論がよくないからといって、唯霊論がいいわけではない。神の御威光をたてに、自らの欲望に邁進するのは、更に悪いだろう。人間にはわからないことが沢山ある。認識できないことが沢山ある。だから人間よりも上位の存在を思い、自らが謙虚となることが肝要なのである。
神々に拝謁するには、まず、自らのなかの傲慢さ、自負心、利己心等を拭い去らなければいけない。参拝の作法とは、身体でそのことを実感させるものなのである。参拝後も至って参拝前と変わらないのは、参拝を無意味だといっているようなものだ。だから、そのような神社は必要ないとなるだろう。
神社や参拝の風習は、人間のなかの利己心を抑えるためにあるといえるだろう。日頃から利己心を拭い去る努力をしているのなら、参拝する必要はない。現に、日本の風習、文化は、日頃の生活から自然に行うように体系づけられているからである。挨拶はその最たるものである。相手の神と自らの神が、挨拶という行為を通して自然に顕れるようになるのが真の挨拶であろう。挨拶を強要するのは、かえって悪である。
こういった形式本位の風習が形骸化し、悪となり、本来の善の意味を失い、死んでいくのである。
分枝論論議や、亡くなった天皇のメモまで持ち出されるようでは、墓場で宴会をやるようなもんで、日本民族などこの世から消えてなくなるのは時間の問題だろう。
わが国の馬鹿な指導者が、神聖な血を汚し、神社を汚して、無くしていくのだろう。
権力者は国民から税金をとって贅沢三昧、戦時中は、国民を戦場に送っといて知らん振り、いつの時代も変わらない。ただ演技だけが罷り通っているだけだ!
こんな国家に愛国心が沸くほうがおかしいだろう。
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