シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2006年08月13日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!

 終戦記念日(本来、敗戦記念日というべきだが)がせまるなか、日本サッカー代表監督オシムの「敗戦は、最高の教師である。負けることを最も学んだ国は日本である」という言葉が目に入った。そこで負けることの意味を考えてみたいと思い、あれこれ、ネットサーフィンをしていたら、以下の記事に目が止まった。

http://www.joho-kyoto.or.jp/~lions/benron01/t01-06.html

 つまり、負けることの効用性を説いたもので、良い意味で、平和という主目的を大前提として、枝葉末節的な個人の我儘を抑制していくことの重要性を表現したものと受け取られる。

 昔ながらの日本のこの精神と比べ、昨今の、日本の現象をみると、高齢化社会のせいか、社会全体の進歩がみられず、かえって閉塞感が益し、減退しているのではないのか?と思わせる事件ばかりが起こる。

 一昔前ならば、ある一定の社会的な立場に立つと、「後進の育成に力を入れ、自らは退いて後輩に道を譲る」という発言が社会的重要人物のなかで、普通にみられた。節度というものがあった。日本社会にとって、晩節を汚すことのない隠居制度は、その実社会活力源になっていたのである。

 現代では、実力本位のスポーツ界で、わずかにみられるだけで、日本人は、昔より真の仕事ができなくなったともいえる。時間は待ってはくれない。社会は常に前に進んでいるのである。

 いつまでも、靖国問題に関わっている余裕など本来はないのである。

 靖国問題にかまけているせいで、それより大きな太平洋戦争の総括、日本人の思想、宗教心、現代エネルギー問題、経済戦争、核兵器問題について、全く日本の立場は不明確で、無知蒙昧に近い。つまり、日本人の教養の無さが露呈してきているといえるだろう。

 靖国参拝しては、周囲の国に叱られ、意地になってそれを繰り返す。戦中も通用しないことがわかっていて、突撃した日本兵、確かに勇ましくはあるが、単純そのものといえるだろう。浪速節が通用するのは、小説やフィクションという非現実であることを考えるべきである。

 現実はただただ悲劇だけである。これを美化というのだろう。自らの行為に酔っているピエロを演じているだけなのである。

 マッカーサーが、日本人は精神年齢が幼いといったことが、いまでも通用しているかのようである。

 一体あの戦争は何だったのだろうか?

 あの戦争の意見を色々なブログに探すうちに以下のようなものをみつけた。

 確実に迫り来る自分たちの死に、それなりの意義が欲しいと願う青年たちの激論は、艦内で殴り合いの喧嘩にまで発展し、それを収拾したのは、哨戒長臼淵大尉の次のような言葉だったという。

 「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。俺達はその先駆けとなるのだ」

 果たして、いまの日本人は目覚めて進歩しているのだろうか?

 進歩というのはどういうことか? 

 反省し、改めるということだと思う。誤りを認め、改善することの積み重ねだと思う。

 時代の価値観は移り変わっていく。価値観の変化のなかに、普遍的意味をもとめるには、哲学性と宗教性が重要になってくる。日本人はこれを整理できないでいる。

 靖国問題は、実は日本人の無宗教性にあるといえる。日本人は本来、無宗教ではない。なぜなら、神社や寺、亡くなった故人を奉り参る行為は、科学からでは説明できないからである。こういう感情的、情緒的問題は、宗教や哲学、それを培った信念を持ち出さないと、説明できない。 

 科学的に論理的に無宗教であるなら、そのような行為に意味をもたせることはなく、その行為の意味をいちいち立証してから行うべきであろう。

 人間は、無宗教で生きることはできない。つまり、人間はすでに何らかの信仰心を持っているのであり、それを基準にして生きているのである。それは宗教というような大げさなものではなく、親の教えであったり、自らの尊敬する教師の教えであったり、自分でみつけた信念であったりするのである。ただ、それをいかに説明し、表明するかにあるだろう。

 だから、特定の宗教など信じる必要はないが、自らの信念は明らかにしなければならない。だから、哲学や思想のような教養が必要とされるのである。

 私は、靖国神社に科学的に英霊が奉られていることなど信じられないので、参拝とは思わない。たとえ昭和天皇が、当時、神的な権威的な人格存在だったとして、その者が、参拝していない理由として、A級戦犯にあるというメモがあったのだから、神道という宗教的意味からも、参拝に値しないだろう。

 何のためにやっているのか不思議である。平和のためというのなら、真事に不可思議な行為といわざるをえない。ただし、自己正当化の事実つくりという面でなら説明できる。しかし、これは偽造工作と同じで、無いところにウソをつくるようなものだろう。こんな偽装をしているようでは、いつまでも真の仕事なぞできはしない。 

 昔と同じように、突撃ではなく、自殺という形で、尊い命が、無駄に捨てられていくだけである。我々は、過去に生きるのではなくて、いまを生きているのである。そのことに目覚めるべきである。いまこのときにも、経済戦争に敗れ、死んでいく人がいるのである。その人たちは、奉られたりはしない。

 いまの政治家がやっていることは、過去の敗者に同情した姿勢をみせて、現代の社会的弱者、敗者を切り捨てているだけなのである。自分たちは贅沢しておいて、庶民に過度な税金をかける。これが現代版の経済のA級戦犯でなくて、何であろうか?






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Last updated  2006年08月13日 10時05分05秒コメント(0) | コメントを書く
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