シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2007年01月10日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 大いなる幻想から、真なる自己認識がほとんど不可能であるということが意味するものを偏見なく眺めてみると、唯物論者は、ダーウィン、ハクスレー、スペンサーその他の人々による科学上の発見に対して、精神世界に関する洞察をもつ人が感じるほどの深い賞賛と尊敬の念を感じることはできないという。つまり、これらの人々やジョルダーノ・ブルーノ以降その他の人々は、古代の神秘家たちがマーヤの世界と考えたものに関する洞察を得るために惜しみない努力を行ったという。

 だからといって、ダーウィン、ハクスレー、スペンサー、コペルニクス、ガリレオ他の人々によって持ち出される理論を受け入れる必要はなく、彼らの説いた宇宙論をそのままにして、彼らの議論に引き込まれる必要はないという。だが、これらの人々が示した人間、動物、そして植物の中に見出される特定の器官や鉱物界に関する特別な事項に関する詳細で事実に即した探求への衝動を認めないわけにはいかないという。

 彼らの刺激的な探求の結果、腺組織、神経、脳、肺、肝臓等々について、近年多くのことが知られるようになり、確かに彼らは最高度の尊敬と賞賛に値すものであるという。とはいえ、実生活において、これらの知識はただある一定の水準に連れて行くに過ぎず、これらの知識がいかなるものかを示す三つの例を以下に挙げてみる。

 例えば、これらの知識から、人間の最初の卵細胞が胎児へと徐々にどのように発達していくか、いかに様々の器官が段階を追って展開するか、そしてどのように周辺部の小さな器官から複雑な心臓や循環システムが構築されるか等を、どこまでも詳細に追っていき、示すことができるだろう。

 また植物の有機的な発達を根から花、そして種へと追っていくことができ、そしてこの事実に基づいた知識という情報から全宇宙に適用される宇宙理論を構築することもできるという。

 天文学者や宇宙物理学者たちは既にこのことを行い、自律的発生可能な星雲系が、段階を追って明確な形態を取ることによって、宇宙という世界がいかに現れるかを示す宇宙理論を打ち立てたという。しかし、この宇宙体系全般に対する理論形成にも関わらず、人間の本質的な存在に対して、「汝自身を知れ」という定言に対していかに応えるか、という問題に、結局は再び直面することになるという。

 もし、ただ、これらの鉱物、植物、動物、人間の腺組織や循環系に関する知識に限定される自分のみを知るだけであれば、人間が誕生に際して入り、死に際して離れる世界だけを知ることに限られることになる。しかし、結局のところ、人間は、自分は一時的な世界に限定されてはいない、と感じているのである。

 だから、外界に関する知識が壮大さと完成度をもって産出する全般を前にして、人間はその存在の根本から、この外界全般は誕生から死までの間に限って肯定することができる、と答えざるを得ないことになるだろう。

 人間は、生きるという存在をもってして、外界に関する全ての存在を立証するのみである。



 「汝自身を知れ、汝何処より来たりて、何処へと去るか、汝の最奥の存在において知るべきである」という定言、この認識の問題に対しては、宗教との関連が持ち出される瞬間、限定的な理解度、つまり知識をもってしては答えることができないだろう。

 弟子が秘儀の学院に入るに際して確信させられたのは、宗教が問題になるときには、感覚的な観察を通して多くのことをいかに学ぼうとも、その情報は人間の本性に関する大いなる謎に対し、いかなる答えも与えはしない、ということだったという。

 更に言えば、人間の頭部の構造、人間の腕や手の特徴的な動き、人間の立ち居振る舞いに関して、いかに正確な知識を有していたとしても、もしくは、動物や植物の形態に関しては、感覚的な観察を通してのみ知ることが可能なことから、それほど敏感には反応することはできないとはいえ、これらの知識情報に対して芸術的な表現を与えようとする瞬間、再び答えることのできない問題に直面することになるだろう。

 これまで人間は世界に関する知識を、いかに芸術を通して表現してきたか?といえば、人間はインスピレーションを通じて、秘儀の教えに負ってきたという。自然や様々の側面に関する知識は、その時々の理解の水準に関係していましたが、同時に精神的な洞察によって豊かなものにされてきたという。

 このことは古代ギリシアを振り返ってみるだけで分かるという、今日では、彫刻家や画家はモデルを使って仕事をし、少なくとも近年までは、モデルのコピー或いは模倣に取りかかるが、ギリシア芸術家たちは、このようなことをしなかったという。

 ギリシアの芸術家は、外にモデルを用いるのではなく、むしろ精神的な人間の形態を自分の内に感じ取ったという。彫刻において、もし彼が腕の動きを表現したいと思ったなら、外界は精神的な内容によって満たされており、あらゆる物質的対象物は精神から創造されたということを知っており、彼の作品の中で精神を再構築しようと努めたという。

 つまり、ギリシアの芸術家は、作品を精神の舞台、一種の道場としていたのである。

 ルネッサンスの時代に至ってさえも、画家はモデルを使わなかったという。モデルは単に刺激を与える為にだけ奉仕したという。彼らは何が腕や手を動かすのかを先験的に知っていたという。彼らが示す動きの表現に、このことが見て取れるという。

 単に外見やマーヤの世界を皮相的に表現しても、我々の理解を前進させることはできず。我々現代人は外見やマーヤの世界によって深く人間を見るのではなく、単に外見に拘り、そして、人間という存在の外にいる傍観者の立場に留まるという。

 芸術の観点から言えば、もしマーヤの世界を超越することに失敗するならば、我々は人間本性に関する恐るべき問題に直面し、我々現代人にはいかなる答えも与えられないだろう。

 そしてここでも、古い秘儀に参入しようとする弟子に対し、参入に際して、「もしお前がマーヤの世界の中に留まるならば、お前は人間やその他のいかなる自然領域の本質的な存在にも貫き至ることはできず、お前は芸術家になることはできない、」ということが明らかにされたという。芸術の領域においては、「汝自身を知れ」という明確な定言を弟子に思い起こさせ、その後で精神的な知識の必要性を感じ始めさせる必要があることが知られていたという。



 ギリシアの芸術家たちのこの方法は、武道に類似しているといえる。武道のカタが、一種のモデルで、そこから、自らの動きの根本、精神を再構築するといえるからである。

 では、ギリシアの芸術家たちは一体どこから彼らの認識を導き出してきたのか?この能力が芸術家自身から来るのではないということに、気づかないという。彼らは自分たちより前の芸術家たちに認識を負っていたのだが、彼らの先輩の芸術家たちもまた、その先駆者たちから認識を受け継いだという。





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Last updated  2007年01月10日 20時22分55秒
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