シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2007年01月10日
XML
カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 ふとTVをつけたら、NHKで、科学論文の捏造の話しをやっていた。科学実験等の予算を配布する役人がコメンテイターで応えていたが、全く的外れな専門的意見に終始していた。終いには、科学とは何なのか?と疑問を大衆に投げかける姿勢で終わったのだった。

 そして、当事者2人は、解雇という形で、捏造の真相は闇に葬られたのである。

 このようなことは、氷山の一角だろう。大体が、論文を掲載する雑誌の数が五万とあり、それに関わる学会や集会等、いかに研究者が多くとも、その需要を満たすほど、斬新的な研究成果など、土台量的、更には質的に無理なお話なのである。

 数年そこらで、慎重に吟味、審査された画期的な研究成果の論文など、捏造可能な流行作家といえど、不可能だろう。逆説的にいえば、数年そこらで、画期的な研究論文を書ける方がその分野の質の低さを物語るだろう。どんなに偉大な科学者であっても、生涯に数本の画期的な論文しか書いていないのである。それも単独で書いたものなどほとんどなく、連名なわけである。しかし、市場はそれを見込んで投資しているので、矢鱈滅多らと商品を生産せずにはいられず、品質は次第に低下せざるをえないといえるだろう。

 あまりに期待が大きすぎ、それに見合う予算を大きく見積もるから、当初の見込み違いが生じてくるのである。

 とどのつまり、統計学や確率論のようなギャンブル性の、ある意味張ったり、騙しの技術だけが向上するだけの話しである。

 このことは物質世界では、一種の限界であり、臨界点に達していることを意味するだろう。

 総じていえば、研究の分業体制の限界が露呈してきているのである。



 至高の目標が堕落したら、手段もまた堕落せざるをえない。全ては目に見える結果、大衆にわかりやすい効果、作用、堕落した宣伝効果が成せる業なのである。

 では、ここで生じた捏造の詳細を絞って考えてみると、実験者と発表者が異なるのが一番の盲点であろう。ここに人間社会の作為が生じる要因がある。

 研究が高度に複雑になると、分業体制になり、高度に機密、秘密性を帯び進展していく。分業に伴って権利意識が生じるからである。実験結果は、実験者の権利でもあり、発表者は、実験者の権利を保証する義務が生じる。更に特許権が関わると経済化、社会問題化してくる。

 数年前のある著名な発明研究者の特許権に関わる賃金問題等の闘争は世間を賑わした。更に著名な賞授与による、国家間の政治闘争の道具にされることもありえる。

 話しを根本に返すとまた、研究者の昇進制度に問題がある。ここの捏造にあるように、教授が、助手である部下の実験を知らないというのは致命的であるといえる。しかし、世間に知られていないが現状は、このようなことが普通なのである。

 だが根本に返って第一、現代の教授というのは一体いかなる存在なのだろうか、何を教えているのかわからず、この捏造の場合、実験の大まかなプランや方向性を練るのが役割としても、実験の込み入った事情や細部を、呼吸のごとくつかみ、体験として同一視できるまでわからずして、プラン全体がいかに成立するのか不思議でもある。それで成り立つとしたら、砂上の楼閣であろう。

 要するに、旗振り役といっていいだろう。船頭多くして舟渡れずというのが関の山といえる。ポストばかり目立ち、肝心な部分は、猫の手でも借りるというのが真相だろう。

 逆説的にいえば、再現性のある実験ならば、誰がやっても同じ結果にならなければおかしいのであるが、実際は違う。そのために、研究の分業制が確立されたからである。つまり、僅かな条件によって、ここでいう普遍性などモノの数分も役に立たない。

 では、そのような僅かで微妙な条件に揺らされる実験の再現性とは、真の普遍性といえるものかどうかという疑問が持ち上がるであろう。更にいえば、観測、測定者の評価技術にも依存するといえるだろう。

 得てして、科学といわれる真実への最も近道であるとされる、その現状は、上述のこの国の最高学府の捏造事件と変わりなく、見せ掛けの何大出身とか、米国に留学してハクがついた等の肩書き権威主義がいまだに罷り通っているのである。



 でなければ、捏造を未然に防ぐ科学を編み出すしかないだろう。

 つまり、科学は、いま反科学を生み出さざるをえない宿命を負ったのである。

 このような立場から遠ざかり別の立場からみれば、科学は、真実を探る一手段でしかないといえるだろう。科学は一手段であり、目的は真実に達することなのである。科学を正当化するために、科学があるのではない。

 いま、この国の政治家が、自分たちの地位や財産、欲望を守るために、国民や国家を犠牲にしているように。自らの欲望から生まれた政治モドキをやるために政治をやっているのである。

 そこには、国民のため、国家のためという至高の理想などない。ただ、現状一点張りである。将来性ある若者に、至高の人類を見せられず、ただ、現状の若者に迎合するのならば、このような民族に未来などはない。



 とどのつまりは、現世御利益主義でしかない。

 本来、真実を究めるならば、その方法、手段は問わないものであろう。科学は、ただ人類にとって、その一手段にしかすぎないのである。真実の探求のために科学があるのであり、科学があるから、真実があるのではない。

 これは、宗教においては、神のために人間があるのであり、人間のために神があるのではないのである。

 だから、人間は真実を探求せねばいけない存在であり、神の存在に少しでも近づく努力をなすべきなのである。

 捏造を責めるのではなく、捏造から学ぶべきなのである。もはや、科学は真実を探求するものではなく、カネや名誉、果ては欲望を追求する堕落した手段に成り下がっただけであろう。

 人類の進化として、現状の科学といわれるものは捨て去るべきなのである。

 しかし、科学で唯一証明できたこととは、実験において、実験者のウデが、現象という実験結果を左右しうる最たる要因であるように、この世の物質現象の背後に、実験者と同じなんらかの存在があるということを立証したことなのである。

 つまり、捏造をも含む科学が、その行為により、この世の現象を説明できるということは、その行為を成した者の存在が、同等に、この物質世界の背後に隠れているということなのである。

 つまり、科学的にいうならば、バックミンスターフラーがいったように、この世界と我々人類は、いわば、神々の実験動物の1つなのである。

 実験がプロトコールと呼ばれるプロセスで記述された記録からなるように、見えるものは、見えないものから生じるといえるだろう。科学であれ、宗教であれ、我々の現在のみえない思いが、目にみえる未来を切り開くことに違いはないのである。それは人類の真剣な態度の問題である。

 我々人類は、先祖や先輩のパクリから生まれ、そのパクリを辿って遡っていけば、我々は神々のパクリそのものなのである。人類は何1つとして、自ら生み出したものはない。ただ、パクリ続けただけである。人類の所産といえるものは何1つない。だから我々は無から生まれ、無に還るだろう。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2007年01月11日 00時14分20秒
コメント(8) | コメントを書く
[軟弱日本を斬る!] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: