シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2007年01月11日
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カテゴリ: 人間は芸術である
 柳生宗矩といえば、忍者で有名である。戦国時代、忍者といえば、「斥候」、「物見」或いは「間者」と呼ばれたらしいので、忍者という言葉が何処からきたのかよくわからないが、柳生宗矩の場合は、何故だか、忍(しのび)という漢字がぴったりくるような気がする。

 忍とは、心に刃で表されるが、柳生宗矩の説く、「活人剣」は、正しく、心のなかに常に刃物を置くような、「悪を斬ることで人を生かす」という心の剣を思わせるのである。

 幕末の剣士男谷精一郎も、「剣の道は、心を斬る」というようなことをいっているらしい。

 江戸時代の狂歌にもあるが、美女は刃物を使わなくても、目で殺すというようなものがある。名前は忘れたが、古代ギリシア神話の女悪魔の目をみると、蛇に睨まれた蛙のように、固まってしまうというようなもので、一種の極意なのであろう。

 人間の心の欲望を上手く捉えた表現だと思われる。

 柳生の説く、活人剣とは、恐らく、この心の欲望に常に刃物を向けるように注意深く対応するということなのであろう。そして、そのような欲望を常に削いでいくのである。刃を磨くとは、正に、そのような欲望を常に統御していくことに他ならないのであろう。

 そのような剣、つまり忍の美学が、柳生の剣、無刃流の真髄なのだろう。無刃というのは、見えない心の刃という意味であろう。物質的な刃物は要らないという意味だろう。

 柳生宗矩のこの極意は、沢庵和尚から学んだらしい。

 あるとき、宗矩は、幕府の命令から、いわば、騙された形で、無二の友を裏切る結果となり、失意のうちにいたときに、沢庵和尚から、十人の敵が一度に襲ってきたときに破る方法があることを教えられたという。



 心は常に動くものであり、不動心とは、また矛盾そのものである。

 心とは、ころころ変わるから、こころと呼ばれるが、常に動くもので、動かさないとは、全く相反するのではないかと思われるだろうが、ここに仏教、特に禅の美学があるように思われる。

 世は無常である。全ては移り変わり、常にそのままであるものはない。諸行無常である。

 しかし、人間のなかには、昨日の自分と今日の自分が同じであるものと認識できる、私(わたし)という存在がある。これは常であろう。常だからこそ、私と同一化できるのである。この認識こそ、無常を超え、不滅であり、永遠へと明日をつくる極意なのである。

 いいえて妙だが、自然のままに移り変わるようにして、自らも自然の流れにまかせて、移り変わるのである。波乗りの極意とでもいうべきかもしれない。ただし、常に自分を忘れてはいないのである。これはただ主体性を無くし、周囲に流されるのではなく、自らが主体性をもって飛び込むところに、独自の発見がある。

 ただ周囲のままに流されていたら、自分が一体何であるかわからなくなるが、自分が主体性をもちながら、あえて流されているのなら、そこに自由度がうまれ、自分の空間の余地が生まれるのであろう。少なくとも、いままでの自分と、新たな自分の相違、成長がわかるのである。

 楠木正成だったかが、あるとき、我が者顔で寺にいったとき禅僧に出会い、禅僧に「お前は誰だ」と問われ、「いかにも楠木正成である」と偉そうな態度で名乗ったので、「さて、楠木正成とは、いかなる者であるか」と再度問われ、嗜められた逸話がある。

 問題は、心のなかにある自負心、エゴ、執着心にあるということなのだろう。

 心が動くとは、勝負に勝とうとする欲、生きたいという欲等の諸々のエゴのことを指すのである。煎じ詰めれば、自分だけ得をしたいというような幼稚なエゴからきていることをいう。幼児がダダをこねるのとさして変わりがなかろう。ただ、見栄えが大きな身体の大人がいっているから、さも、外見が正当のようにみえるだけなのである。

 身体を度外視して、心(魂)でみれば、獣と変わりがないのである。獣がやっていることといえば、親分にゴマをすり、自分だけが得することなのである。動物は必ず群れ、ボスがいるからである。しかし動物は自然と共に滅び行く運命にあり、自然の一部なのである。つまり、「わたし」という常なる自覚や不動心がないのである。

 人間と動物の違いはここからくる。人間は自然から独立し、生きることができるが、動物は自然のなかに常に流され、漂う運命しかない。だから動物には、法がないのである。



 人間は違う。人間は法を感じる常なる「わたし」という自覚がある。そして、運命を変えていく力がある。一見、外見からみれば、動物も人間も自然の法に従って生きているようにみえるが、人間のなかでは、心が成長しているのである。

 人間には人間そのものを超えた存在を発見できるのである。なにより、無常のなかの常を感じられる意識があり、人間同士の相手の気持ちをお互い推し量る不動心がある。

 これがイメージ力を形成するのである。常なる自覚から、イメージ力が生まれ、法となって顕れるのである。

 それを示したのが、空海であろう。動物は法に従うしかないが、人間は法を司り、真実へと進むことができる。

 だから、空海は真言宗を説いた。



 法を言とし、宗(存在)を顕すのである。真実の法を目指し、運命を自ら切り開きなさいと人間に、空海は説くのである。

 それは、欲望(エゴ)を捨て、万人の幸せ、平和を目指す心を、一人一人の人生のなかから、つくりあげなさいということでもある。

 そして、空海は模範として高野山に理想郷を開いたのだろう。皆、ここにきて平和をみなさい、欲望を捨て、万人の幸せを願い生きる美しい心をみなさい、と。

 「心を斬る」とは、外見的にみると、諦め、断念のようにみえるが、その実、悪というエゴ(欲望)を斬るのであるから、実は、全体として万人が平和、幸せに生きる法なのである。

 実は、神々のこの諦め、断念により、自由という悪が生まれ、水という物質が生まれたのだが、それは、神々が、人間がこの悪を自らの自由性でもって断念できるのを、同時に願う、慈悲心でもある。

 空海という言葉からもわかるように、空(自由)の海(魂)を願うことが人間に、いま課されていることなのであろう。

 いま、日本人にはなにより、忍(しのび)が求められるときなのだろう。





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Last updated  2007年01月11日 16時22分03秒
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