シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2007年03月22日
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カテゴリ: 映画をノベル
 最近、映画を見まくっていたせいで、ブログが疎かになってしまった! 映画を見まくったといっても、私の場合は、DVDレンタルで、せいぜい5本位なので、見まくるという表現もワザとらしいが、多少ハマったという感じでもある。

 見た映画は、相変わらず、邦画ばかりで、「UDON」、「雪に願いを」、「この胸いっぱいの愛を」、「デスノート2」、「男はつらいよ(マドンナ吉永小百合のやつ)」といったレパートリーである。

 今回は、どの作品も非常によく、甲乙つけがたいものだった。では、毎度のことながら端的に映画評を述べてみたい。

「UDON」は途中間延びした感も無きにしもあらずだったが、UDONバブルが終焉を迎えた後半は、父と子のやりとりがなかなかよかった。主人公は世界一のコメディアンを目指してニューヨークへと旅立つが、夢破れて帰ってきて、田舎のうどん文化に触れ、慰められ、再挑戦へと旅立つという安直なストーリーである。ストーリーはともかく、とにかく、うどんが食べたくなる映画である。

 「雪に願いを」は、ばんえい競馬を主題にしたもんで、バブルの夢破れ、破産借金塗れの主人公が、故郷を捨て、親や兄を裏切ったにも関わらす、身を隠すために、田舎に戻り、ばんえい競馬を通じて、調教師の兄との人間関係を修復し、再び、勇気づけられ生きていくというストーリーである。

 「この胸いっぱいの愛を」は、「黄泉がえり」のスタッフがつくったということで、みたものだが、内容は、こちらの方がよかったように思う。どちらも、この世での限られた恋愛を描いているが、「黄泉がえり」よりも、「この胸いっぱいの愛を」の方が、男女が契ることに囚われない愛を感じさせる。

 タイトルの「この胸いっぱいの愛を」は、レッドツェッペリンのWhole Lotta Loveの邦題「胸いっぱいの愛を!」を、私にはなにやら思い出させるが、タイトルの「この」というのが邪魔だと思う。ストーリーは、人生において遣り残した償いというべきものをタイムスリップして行うものである。

 「デスノート2」は、なかなか人気で、ようやくレンタできたといった感じだが、それだけの価値は十分あると思う。主人公ライトとその仇役とでもいうべきエルとの死を通じての知性の闘いは、なかなか「面白ろ」かったが、私には古畑任三郎の現代版とでもいうべきものに感じた! 

 古畑対古畑という感じだが、ただし、今泉のような存在はいなかったのが、残念といえば、残念か? あるいは、デスノートの主(死神)が今泉なのかもしれない?



 そして「男はつらいよ」だが、これは語るまでもなく、日本人なら一度はみている有名な失恋話である。

 改めて、これら5つの映画を振り返ってみると、どの5つの作品も人間関係の修復、とくに愛情を描いているように思われる。なので、今回の映画評のタイトルは、人間関係の修復における愛とは何かというべきものだろう。

 そこで、この5つの映画における、「不信(裏切り)と愛(償い)」の描き方を考察する。

「UDON」では、主人公は、父のうどん屋や田舎の雰囲気が嫌で、今流行の世界的なコメディアンの自分の夢を目指すが、現実の厳しさを痛感し、挫折し、戻る。帰ってみると、父とは関係修復不能な状態だったが、友人たちのタウン誌から、うどんの文化を再発見し、うどんを通じて、改めて父の存在を再発見する。主人公が、父の偉大さを感じ、自分も、うどん屋を志そうとしたときに、父は亡くなってしまう。

「UDON」では、主人公への現世での父への関係修復はならなかったが、父亡き49日に、父のうどんを再現することで、主人公の父への感謝の愛を表現する。そのことで、主人公は、父が言った「俺にはうどんしかなかったから、ただうどんを真面目にコツコツつくっただけだ」というセリフと、父が息子である主人公に「ありがとう」といった感謝に、勇気を得て、再び自分追求の夢の旅に出る。

「雪に願いを」では、主人公は、兄には内緒で、母親から大金を借り、都会で一旗挙げ、社長となるが、バブルが弾け、破産し、借金を背負い、どこにもいくところがなく、兄の厩舎に駆け込む、兄とは犬猿の仲だったが、見かねた兄は、弟主人公を厩務員にする。

主人公は、兄の厩舎の馬肉にされそうな老いた馬の再生に最後の望みを賭け、真剣に世話をはじめ、それが生命あるものへの愛情として結実する。老馬は、主人公の望みに応え、見違えるように再生し、現役馬になる。兄との仲も解消に向かったとき、老人ホームの母に会いにいくが、母は既に昔の記憶を失っていた。主人公には、そこに温もりを感じさせる逃げ道はなかった。そして、弟は、真剣に一から再出発する決意を固める。

「この胸いっぱいの愛を」では、主人公が幼いときに好きだった、近所のおねえさんの脳腫瘍麻痺を、一流バイオリニストになれないという理由で、手術せずにおねえさんが病死してしまった出来事をやり直させるように愛情を捧ぐ、「バックトゥザフーチャー」みたいなストーリーだが、何処か、カルマのようでもある。そして、死者になった主人公が、麻痺が残る恋人に対して厳しい人生を、生き抜く支援をする。それはどこか「ゴースト」をも彷彿とさせる。

秘教によると、人間は死後、自らの人生のなかでの、悔いの残るような出来事を振り返り、今度生まれる来世では、それを解消するような自分の存在を選択するという。悔いの残る出来事とは、自分の行いが、何らかの他者に損害や、愛情のないものを与えた場合のことを指すという。そのような行為を生んだ魂は、自分を不完全な存在だと自覚するようになるという。魂は、その不完全さを償いたいと思い、来世に生まれることを熱望するという。

このような魂の償いの行為を、「この胸いっぱいの愛を」はよく表現できていたといえる。黒澤明の「生きる」の主人公が最後に涙ながらに歌った「命短し、恋せよ乙女」が思い浮かぶ。



ブッシュは、米国が、世界の新秩序構築国となり、自らが神に君臨すると、キリスト教原理主義にまで、媚を売って、悪魔の国家を断定し、アフガンやイラクに進行し、イスラム過激派から怒りを買い、テロを激化させ、挙句の果てには、かつての悪魔国の北朝鮮にまで、好きなように悪態をつかれる体たらくの昨今である。核削減を謳い文句にしながら、かえって核拡散を生んでしまっているのだから、まるでお話にならない。

ブッシュ政権はまるで馬鹿であるか、或いは悪魔であるかどちらかであろう。このようなお粗末な結果がわかっていたら、ブッシュなど誰が大統領にしたであろうか?米国人の不見識さの何者でもない!

話が逸れてしまったが、いかなる人間も、神の名において、犯罪者を裁くということはできないのである。これこそが、神に対する背徳であろう。「デスノート2」では、主人公は、最後、悪魔に魂を刈り取られたしまったのである。秘教では、死神は、神ではない。死神とは、神の死体であり、神というより、悪魔に近い存在なのである。それは月と書いてライトと呼ぶ主人公の名にあるように思える。月光は、誘惑の欲望の光である。

確かに、エルも、死刑人を沢山囮にしていたが、殺したのはライトである。そして、エルとライトの大きな違いは、理性の違いにある。知性を自らの欲望に使うか、それとも、人間に与えられた社会構築上の役割に使うかでは大きな相違がある。主人公の父親がそれを見事に表現していたように思える。

そして、エルは、最後に、「あなたは良き父親ですね」と死んでいった。人間社会全体の平和のため、理性のためには、父と子の関係に束縛されないというのは重要なことだと教える映画でもある。勿論、作者にその意図はないだろうが、作品が世にでるプロセスのなかには、みえないものも含まれるのである。



我々人間は、生きている間にこそ、デスノートに名を書ける存在なのである。生きている間こそ、命をもって、愛を輝かせることができる。それは長いか短いかの知性的な問題ではなく、真剣か真剣でないかの理性的な問題であろう。

秘教では、人間はカルマをもって生まれ、カルマから自らを遺伝的につくりあげるという。それは他者への奉仕のための遺伝であって、自らのためではない。だから、遺伝には束縛されない選択権が隠されているのである。つまり、自らチョイスして自分という存在を選んできたのである。他者に貢献できる存在を選んで自分として生まれてくるのである。愛を表現するのに、一番有効な選択を、自分の存在として自主的に与えられてくるのである。

束の間の欲望からの愛ではなく、永遠に捧げ変容する、愛であるべきである。

この5作からわかることは、誰かに憧れ、誰かになろうとするのではなく、ただ、自分にあるもの、自分に真剣に徹すれば結果は自ずとついてくるということだと思う。とくに、「雪に願いを」の兄と弟のやりとりで、弟が「世間を見返したいんだ!」というセリフに、兄は「見返す必要なんかない!」と受け応えるシーンがそれを物語っている。

秘教では、光は外を照らすためにあるのではなく、内を照らし、外に通じるためにあるという。内面を照らす、だから「灯台元暗し」という言葉もある。確かに、灯台は目立つが、それだけの代物でしかない。それは有名選手だって同じで、誰か同じ有名選手と比較されるのが一番嫌なはずである、それがたとえ一流選手でもであろう。ジーコは白いペレと呼ばれるのを嫌がったという。ペレはペレであり、ジーコはジーコだといったようだ。 

最後に「男はつらいよ」を忘れていたことに気がついたが、結ばれるだけが愛ではないってことだよね?やはり、寅さんは自由の身だからこそ、多くの女性と恋愛ができるわけで、妻帯者だったら、不倫なわけだよね。まあ、所詮、フィクションですが。最後にリリィと結婚しなかったってことは、次回作を考えていたってことだろう。だから、次回作期待しちゃうんですが…。やはり、渥美清の寅さんじゃないとダメなのかな?

それをいっちゃ、おしめいよで!





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Last updated  2007年03月22日 23時03分21秒
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