シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2007年05月01日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 映画「硫黄島からの手紙」をみた。「男たちの大和」よりは、よかったように思える。戦争映画が流行の日本だが、恐らく戦争を美化できるほど、日本が平和ボケしているせいなのかもしれない。

 勝海舟は、歴史とは難しく厄介なものといっている。なぜなら、当時、歴史的な出来事を体験し、生き残った者が、記録を綴るにしろ、そこには、どうしても、記録者の思い込みが入ってしまうからである。

 戦争は生き残った者が綴るから、あながち美化されやすい。勝自身も、戊辰戦争を生き残れたのは、自らのズルイ性格と、所詮、生きるのは面倒で、常に死ぬ覚悟で開き直っていたので、かえって生き残ったと言っている。言葉を返せば、いつ死んでもおかしくなかったわけで、戦争自体無駄という風である(だからこその無血開城の立役者となれた)。

 主観を除いた、百パーセントの客観的立場など有り得ないことは、マックスウエーバーも言っているところである。第一、問題とする歴史的出来事と関わっている時点で、完全な客観性など、存立しないし、問題とする出来事となんらかの接点が無い限り、外野席で、無責任な評論を行うしかないのである。

 つまり、歴史とは、ほとんどが生き残った者の思い込みから綴られるものといえるだろう。また、後世の価値観から、あれこれと改められるので、錯誤が錯誤を生んでいるといえる。

 実は、このような歴史的史実を記録的な歴史書のみから、体系づけようとする唯物的価値観こそが、間違いの何者でもないと、秘教は説くのである。

 秘教では、真実は1つである。しかし、真実が1つであることを認識できるには、高次元の認識を獲得し、神界にあるアカシャ年代紀に、アクセスできなければならないという。

 そこまでいかなくとも、カルマを知ることにより、自ら為したことが、自らに返ってくるので、原因が結果となり、その結果が、原因となるので、何もアカシャ年代紀にアクセスするまでもなく、輪廻転生により、因果律を自らの体験から自然と充分に学ぶことになるという。

 例えば、前世で、戦地に人を送った場合、今度は、今生で、送られる側になるという感じで、魂の不完全性を補う代償行為となる。



 それでも、戦争が重要であるというならば、まずは、戦地に赴き、最前線を経験すべきであろう。最前線が非常に危険で、指導者の命が保てないというのならば、その戦争は絶対に回避すべきだろう。

 もし、その戦争肯定者が、優秀な指導者足る資質を有するならば、どんなに危険な地であろうと、その指導者から、民族霊が、命を奪うはずはないだろう。つまり、戦場で死ぬのならば、それまでの俗物的指導者といえるだろう。

 もし、1人でいくのが現実的でないとするならば、そのような指導者の身代わりになって、いつでも命を投げ出せる心酔者が側近に数百人ほどいなければ、そのような指導者が起こす戦争など、国民に対する単なる拷問にすぎないものとなるだろう。

 どうも、現代には、自分が神にでもなったような勘違いの輩が跋扈しているといえる。

 私は、福沢諭吉は嫌いだが、「天は人の上に人をつくらず」といったこと自体は、真実だと思う。

 自分の行いは、必ず、自らに返ってくるのである。それはどんな魂も平等に完全体になろうとしているからであり、もし、魂が、今生において、他人の不幸を誘発するような行為を働いたとしたなら、魂は、それだけ、不完全になり、次の転生に、その行為の補完、償い、つまり代償行為をとろうとするので、転生時に、他人に成り代わり、自らが体験し、前世で行った自らの行為を誤りとして再認識しようとするからである。

 つまり、自らの行為は、他者が知らなくとも、我が知り、天が知り、そして地が知りうるものとなるのである。

 熱情に浮かれて、現世において、戦争賛美をするなかれ、その報いは、未来永劫、自らにかえってくるのである。熱情性、利己的低次の自我に埋没するなかれ、誰のなかにも、高次の自我がある。

 所詮フィクションでしかない戦争映画なんかでお茶を濁すのではなく、本当の銃弾が飛び交う戦地にいってみてから、発言すべきである。戦争がなくならないのは、結局、指導者がなんだかんだ理由をつけて、自分が戦地に行かなくてすむからだろう。

 しかし、今生で行かなくて済んだとしても、来世で行かなくてはならないだろう。そのとき、戦争なんか無くしておくべきだったと悔いてももはや後の祭りである。せっかくの指導者足る地位、戦争を無くし、決断できる立場にいながら、それを放棄したのだから。

 戦場に送った者は、送られた者の気持ちを理解しなければならない。前者が主体で、後者が客体である。主体は、客体に負う。これがカルマである。





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Last updated  2007年05月01日 23時13分24秒
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Re:戦争を美化する者は最前線の戦地にいってみるべきである。(05/01)  
道学者  さん
タイトルに、まったく同感です。
「戦争が重要であるというならば、まずは、戦地に赴き、最前線を経験すべきであろう」とありますが、ほんとですね。戦争を美化する今の政治家に、まずは戦争に行ってもらいたいと思います。 (2007年05月02日 22時27分37秒)

Re[1]:戦争を美化する者は最前線の戦地にいってみるべきである。(05/01)  
5dolphin  さん
どうも、お久しぶりです、道学者さま
 道学者さまの御高名は、かねて孔明さまのブログより聞いておりました。御同感痛み入ります。道学者さまも、日頃御苦労の人生なのでしょう。
 御存知のように、これは、職場においても、最前線に立ってみれば一目瞭然の真実です。現場に立たされてみなければ、後付けの批評は幾らでもできるでしょう。戦場では、現場に立たされた者は、全て責任を背負い死んでいくのでしょう。更に戦争の場合、後戻りができません。
 簡単に戦争といっても、戦争をやり、戦地に人を送る側と、戦争に巻き込まれ、戦場へと送られる側では、180度立場が異なるでしょう。
 戦争によって、一時的に功名を得る者、その陰に隠れ、命を失い、死んで行く者、愛すべき対象を失う者では、人生に対する真剣さが自ずと問われるところですね。
 しかし、最終的には、戦争は破壊と怨念しかもたらさないでしょう。これは歴然とした事実といえるでしょう。ご存知のように孫子の兵法にさえ、中世の戦死者が少ない場合においても、戦はやらないに超したことはないと説かれています。人類は、反面教師として、戦争の苦しみを知るまで、忍耐の限界として戦争の機会を与えられているといえるでしょう。
 戦争により、戦時に面目(メンツ)を一時的に保てたとしても、所詮、人気だけで、人気は上がった途端に下るものです。そして、最後には、人気と引き換えに国家を失うことになります。
 ともかくも、戦争を軽々しく語るような、為政者だけは、御免被りたいものです。戦争を起こした時点で、全てが敗北者と化すでしょう。戦争を選択した途端、愛を失い、人間が、非人情と化したマシンとなる間違いの選択を行ったときなのです。 (2007年05月03日 00時00分41秒)

Re[2]:戦争を美化する者は最前線の戦地にいってみるべきである。(05/01)  
5dolphin  さん
 汝の敵を愛し、隣人を愛する。なぜ、このような明快な目的に人類は背くのか、人類にエゴがある証拠なのでしょう。この世は、まるで生き地獄といえるでしょう。
 怒りにより振り下ろした拳の下ろす先を探す前に、拳を上げないことが肝要だと思います。
 それは嘘を突き通すために、嘘の上塗りをするのによく似ています。 (2007年05月03日 00時01分39秒)

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