シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2007年06月28日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 これは前回の質問に対するシュタイナーの答えの続きである。

 人間には特有の大きさがある。今、我々の通常の宇宙に非常に小さな人間が存在すると仮定する。人間以外の他全ての目的にとって、人間以外の他の対象物と比較したときの人間の大きさは、重要ではない。ところが、人間にとっては、人間の一般(典型)的な大きさが重要である。

 何故なら、その大きさは人間本来のもので、これが重要な点である。人間をより大きなものとして、或いは、より小さなものとして勝手に想像することは全宇宙に対して罪を犯すことになる。

 例えば、どこかの科学的思考家が、我々の太陽系よりも遙かに大きな、或いは遙かに小さな太陽系にはどのような生命がいるだろうか?と想像する。このような疑問はナンセンスで、我々が現実に出会う実在がどれほど大きいか、そしてその寿命はどれほどか、というのは内的な必然性の(個別的)問題に帰されるからだといえる。 

 ここで、1つの全体として考え得る、いかなる実体もそれ自身の時間を、その内部に担っている、ということを述べねばならない。一片の無機的な物体は、他のいかなるものからも独立しているものとして、見ることができるが、一枚の葉については、その持続する(生命)存在が木に依存するので、そのような見方はできない。

 なので、考えるべきことは、観察している実在が1つの全体、総体、或いは自己充足した系であるかどうか?ということである。とはいえ、観察する、いかなる全体的なものも、1つの内在する要素として時間を取り込んでいるので、それぞれの物体や事象に本来備わった時間に加えて、物事の外部に抽象的な時間が存在する、という概念については、我々人間はあまり考慮しない。

 時間を始まりから終わりへと過ぎ去るものとして見るのは、個々の馬に基づいて、「馬」という抽象的な概念を発達させるのによく似ている。個々の馬は空間という外的な現実のなかに存在するが、「馬」の(包括的な)概念というものは、それ以上のものを要求する。

 時間に関しても同じことが言え、時間というものは本来変化するものなのか、という質問は本質的に意味がない。何故なら、それぞれの全体システムは、それ自身の内在のなかに、自身の時間と速度をもっているからで、いかなる無機的、或いは生命的な過程の速度も、この内在する時間というものを遡って指し示しているといえる。 

 1つの慣性(軸座標)系を、別の系に関連づけるのが常に可能である、と仮定する相対性理論ではなく、全体としての有機体に向かうのと、同じ方法で対処できるような全体(包括的)システムは、どこに見出されるかを明らかにするには、むしろ絶対性理論を確立したいと、私(シュタイナー)が思うのは以上の理由からである。



 現代人は、地質学的な年代を、まるで現実の状況であったかのように、他の年代から独立して記述するが、本来これは間違いで、1つの年代とは、丁度、生きた有機体が、そこからは、何も差し引くことができないような、1つの現実であるように、地球進化全体との関連において、1つの現実でなければならない。

 経過(プロセス)を座標軸に関連づけるのではなく、過程(プロセス)を、自身の本質的な現実に関連づけることにより、その全体システム、或いはその総体を見ることが可能になる方が遥かに適切であり、その時点で、ある種の単子論(モナド)に立ち返る必要があるといえる。我々は、相対性理論を克服し、絶対性理論に到達することになるだろう。 

 そのとき、アインシュタインの理論は抽象化に向けた努力の最後の表現ということが明らかとなる。アインシュタインの理論は抽象性のなかで機能するが、彼の抽象化は、彼の仮定が非常に基本的な事柄に適用されるとき、ときとして耐え難いものになる。

 例えば、人間自身が音速で移動するときには、音はどのような働きを及ぼすか?

 もし、音速で移動する場合、勿論、音は聞こえないだろう。何故なら、音は、音速で動く人物と共に移動することになるからで、現実の言葉で、つまり全体性において(包括的に)考える人にとっては、そのような概念を用いることは不可能となる。

 何故なら、音を聞けるいかなる存在も、音速で(空気中を)移動したら、バラバラになってしまうからであり、そのような概念は現実の世界における観察に基づいたものではない。 

 時間とは本来変化するものなのか、と問うときも同じである。勿論、抽象的な時間、或いは絶対的な時間においてでも、時間の何らかの変化を確認することはできない。それは「先験的」に想像される必要があるが、我々が時間の変化に関して語るには、時間の現実(真実)を把握する必要があるが、それは、一時的経過が世界のなかに存在する全体系に本来どのように結びついているのかの考慮なしには、不可能である。

 注釈;シュタイナーは、有機体、つまり自己完結(現代用語でいう自己組織化)している 体系に対して、一部を取り出して、議論することは無意味であるという立場をとる。なぜなら、そのような包括的体系から、一部を取り出した時点で、いわば、全体で生き機能している生命体が死んでしまうからである。

 これと同様に、死体を解剖して調べても、病気の原因は特定できないとしている。死体になった時点で、もはや生命体ではなく、故に病気に罹る要因も生命と共に消えてしまうからである。だから、組織の一部を取り出して、顕微鏡等で観察しても、人間という全体性(包括性)をもつ生命体の機能を知ることはできないといっている。いかに、実験室を生体に近づけようと、全体から切り離した時点で、既に意味を失うからである。

 このようなことをわかりやすく説明するために、シュタイナーは次のような例をよく用いる。近代医学では、病因を、死体解剖後のウイルスや細菌等に求めるが、それはナイフで殺された殺人事件で、犯人をナイフと特定するようなものである。殺人事件では、犯人の動機が問題とされ、探索されるように、感染原因を探るのがより病因の真相に近いといえるだろう。

 しかし、近代医学の治療では、ワクチンで、免疫力を高めるというような対処療法が用いられるが、これはナイフで殺されないように、身体を鍛えようというようなものと同じだといえる。或いは、ウイルスや細菌を全て殺菌し、環境破壊を行うが、これはナイフは危ないから、ナイフを使わせないというようなものである。つまり、ウクチン療法や殺菌は科学的といいながら、全く非科学的なのである。





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Last updated  2007年06月29日 00時02分18秒
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