シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2007年09月27日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 先日、BSで「小説吉田学校」という映画をやっていた。非常にタイムリーなので、みてみたら、なんと、いまの政治と全く変わりがない、国民そっちのけの権力闘争の構図そのままであったことに驚き仰天だった。

 つまるところ、戦後60年過ぎても、相変わらず政治はそっくりそのままなのである。

 敗戦時の日米関係が、米への主従関係であったことが、この映画から浮かび上がる。そこには、勿論、日本は、米国の世界戦略の単なる一駒であったことは、疑いのないところだろう。

 それに比べ、ただ、日本側は、主従関係をどうにかして、対等な同盟関係にもっていこうという近視眼的な視野しかなかった。要するに、それだけ日本は徹底的に負けたということであり、戦前から、負けることなど頭にもなかった指導部の稚拙さに、いまからみれば驚きを隠せないところというべきなのだろう。

 「最悪の状況を考慮しつつ、前進するべし。」という格言があるが、日本には、この最悪の状況を考慮する余裕さえなかったといえる。その挙句が、せめてもの主従から、対等な同盟関係への転換、しいては不平等条約の改定なのである。

 しかし、このような状況は、実は、敗戦時に始まったわけではなく、黒船来襲時にも、ペリーにより、同様な不平等条約が締結されたのである。明治維新や、明治政府は、この不平等条約を対等にもっていくために、明治維新の勝者たる岩倉-大久保-欧米使節団が結成されたわけである。

 結局は、この使節団は全くの失敗に終わり、その非常なる屈辱的なコンプレックスのせいか、いつの間にやら、西郷にいわせれば、欧米列強の物真似集団に変節してしまったのである。そして、欧米の植民地統治による帝国主義をマネた、要するにパクリ国家に豹変するのである。そのとき、国民の統一心情の代表であった天皇の地位は、単なる物質的権力の地位に堕ちたともいえるだろう。

 天皇は、為政者の玉という統治の道具のモノになってしまった。岩倉は晩年懺悔し、キリスト教に改心したらしいが、当然というべきものなのだろう。権力亡者の行き着く先は、歴史が何年にもわたり証明するところである。

 つまり、その心情を問えば、日本は、押し付けられた主従関係を克服するために、絶えず強がってみせて、相手側の外見をそっくり物真似して、取り繕って、どうですか、見てくださいといわんがばかりなのである。その顕著な例が鹿鳴館であり、当時流行の軍隊を輸入し、富国強兵に勤しむ国民性を形成したといえるだろう。



 前坊ちゃん政権は、この日米の主従関係を、戦後レジームと呼んでいたようである。なぜ、レジームだけが、フランス語なのかは、非常に意味不明で、教育改革で、日本語の重要性を説く立場を考慮すれば、全くの野蛮というか、恥知らず、或いは表現が古いが、ハレンチな造語といえるべきものだろう。

 そして、その克服法には、憲法改正による日本の再軍備化を掲げるところが、いかにも、米国のシナリオ通りの、飛んで火に入る夏の虫坊ちゃんという感が、ありありと浮かび上がるだろう。米国が、そもそも世界戦略の一齣にすぎない日本を対等に扱うこと自体が、夢見る少年の浅はかさといえるだろう。これは米国の力の外交戦略と歴史の浅さを考慮すれば一目瞭然である。

 それに、かつてのローマ帝国をみれば、ローマ帝国の周辺国をローマがいかに扱ったかだけからでも、想像は容易だろう。現代のローマは米国であり、ギリシャは大英帝国なのである。

 日本の政治家は、権力闘争に明け暮れた為、選挙の勘定ばかりで、歴史勉強を怠ってきたツケともいえるだろう。ある意味、せめて、日本人とは何かという文化遺産の武士道を残した江戸幕府の方がまだマシだったともいえる。

 さて、吉田茂であるが、吉田茂は、再軍備化などという馬鹿な失敗は二度と起こさないように考えた点だけは、その後の政治家とは、わずかばかりだが、異なっていたといえる。それは、吉田茂のケンカ上手と闘争心にあるのだろう。

 マッカーサーに、ジョークで取り入るシーンは、吉田茂の本性が滲み出ているように思えた。

 力に力で対抗するのは、愚の骨頂である。柔よく剛を制す。米国の力にはない、文化の力である。人間は、進化すると、剣をペンにかえる。闘争から議論になる。これは歴史をみれば一目瞭然であろう。

 面白い狂歌がある。武士は刀で殺すが、お茶屋の娘は目で殺す。というような。人間は洗練化されると、闘争を好まず、相手を受け入れる度量を養うのである。臆病な犬ほど、よく吼えるし、不安定で臆病な国こそ、武力で威嚇するものである。

 米国ほど、不安定な国家はないだろう。なにしろ、母国語さえ、確立されていないのである。英語は植民地語であり、だから、対外的に戦っていないと、協調性がとれず、絶えず上司が目を光らせていないと統制がとれない。日本で言えば、長野県の風土が是に近い。統制がとれないので、県歌を奨励しているようで、協調、調和の為の教育水準も高いのである。

 米国ほど、教育が奨励される国家もないだろうし、外国人にも学びやすいように英語も非常に簡略化されているのである。母国語なら、ありえない話だし、例えば、関西弁のような訛であれば、すぐに、お里が知れるものでなければならない。英語(米語)にも訛はあるが、それは英国ほどのものではないという。また、英国人は英語を話すのに誇りをもっているようであり、米国人にはそれはないという。英国人の場合、英語の訛は階級を表す場合もある。

 つまり、言語ほど、民族を表すものはないのである。言語ほど、民族の精神を表すものもないだろう。

 しかるに、いまほど日本語が日本人を表明しない時代はないといえるだろう。日本人とは何なのか、話される言葉だけでなく、その間を読める日本人が少なくなっているのである。これは職場にいけば、若者ほど顕著に現れている現象である。

 日本語のなかに、培われてきた民族の誇りがある。それは同等に、在日外国人には、母国語に自然に感じられるものと同じだが、日本人はあまりにも、軽薄である。

 母国語、つまり日本語に特に拘りはないが、日本語を通しての、母国語への愛情表現が感じられないのが残念なのである。日本の長年の歴史により話されたきた、愛を語られてきた言葉は、当然、赤ん坊のときの親や周囲の愛情と共に学ぶものであるが、その温もりを忘れた軽薄さが感じられる。灯台下暗しである。

 日本の風土を学び、日本の言語を洗練化し、日本の愛情を発露させることが、日本人の世界に対する心構えであり、決して、他国語の流行の物真似をすることではないだろう。

 それでは、対等どころか、他国語により、母国語を破壊されることになるだろう。



 「チョイ悪オヤジ」で有名になったイタリア人のジローラモ氏が、TVで面白いことを言っていた。

 この間、イタリアに帰って、確かピッツァのマルガリータを頼んだら、バジリコの葉がのってなかったので、文句をいったら、この季節にバジリコは取れないよ。お前は本当にイタリア人か!といわれたという。

 日本人は自問自答すべきである。

 お前は、本当に日本人なのか? 日本人の顔をした時代に流された獣なのではないだろうか?





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Last updated  2007年09月28日 00時52分26秒
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