シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2008年02月19日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 前回までに、人間探求には以下の2つの道があることを述べた。

 人間は、自分自身を外から眺めて、神に意志された本性の中に、素晴らしい祝福の感覚を体験する。

人間は、自分自身を内から眺めて、神に疎外された自らの魂に対する圧倒的な悔恨の感覚を体験する。

 しかし、健全な心の状態にあるならば、これら2つの道に関して、次のような結論に必然的に至るだろう、

「人間を、いわば濃縮された宇宙の抽出物として、世界の中心に置いた神的な力の源泉と、全く同じ源泉から、自分の心に、刻印される、道徳的理想が、湧き出してくる」、と。

 どうして、これら2つの道は、お互いに、(人間を通じて)こんなにもかけ離れてしまったのか?

 実際、この疑問こそが人間存在の大いなる謎である。

 本当のことを言えば、もし、この自責の念が、人間の魂の中に生じなかったなら、もし、これまで述べてきたような、この不調和が、ボンヤリとしたものであろうが、明白に組織化された知覚であろうが、多少とも、意識的に感じられなかったなら、神智学、もしくは哲学さえも、存在することはなかった。

 というのも、深い考えや思索、探求といった全ては、魂の、この不調和の経験から湧き出してきたものだからである。

「神に意志された人間と、神に疎外された人間の間に、何が必要なのか?」

 この問いが、全ての哲学の基本的な問いである。この問いは、無数の形式で定式化され、規定されてきたが、全ての人間の思考の根底に横たわるものである。一体、人間が、疑いもなく祝福された、この外的本性の様相と、同じく、この疑いもなく、妨害的な魂の様相との間に、橋を架ける可能性を見いだす道というものはあるのだろうか?

 人間の魂が、価値ある形式で、偉大で崇高な存在の問いに関し、考察できる処まで上昇する為に、取ることが可能な道に関して、ここで語るべきであろう。

 というのも、この道を辿ることにより、多くの誤謬の源泉を発見できるようになるからである。

 我々の周囲の世界では、外(唯物)的科学が支配的であるために、人々が知識について語るとき、常に次のように言うのを聞く、

「勿論、我々は正しい思考を働かせ、正しく判断を行うときに、知識へと至る」、と。

 この正しく論理的な判断を行えば間違いなく真実に至るという、この仮定には、いかに大きな誤りがあるかを示すために、非常に簡単な例を紹介する。

 論理の正確さが、必然的に真実に導くわけではないことを示す為に、次のような話を、ここに再度、行いたい。

 かつてある村に、小さな少年がいた。彼の両親は、いつも彼にパンを買ってくる、お使いをさせていた。彼は必ず10クロイツ持って行って、6個のパンを買って帰ってきた。そのパン1個は2クロイツで売られていた。しかし、彼はいつも必ず10クロイツで6個のパンを買って帰った。その少年は算数が特に得意というわけでもなく、自分がいつも10クロイツ持って行き、つまり、パン1個2クロイツなのに、10クロイツで6個のパンを家に持って帰ることができることを、わざわざ解明しようとは思わなかった。

 ある日、一人の少年が別の地方から里子としてその家に連れてこられた。彼は少年とほぼ同年齢だったが、里子の少年は、計算のできる子だった。彼は、彼の義兄弟が10クロイツ持ってパン屋に行く様子を見ていた。そして彼は、パン1個が2クロイツであることを知っていたので、彼は義兄弟に言った。「君は(本当は)5個のパンを家に持って帰らなくちゃいけないよ。」

 確かに彼の計算は正しく、彼の論理は完全に正確である。パン1個は2クロイツである(と彼は筋道たてて考えた)、「あいつは10クロイツ持って行ったのだから、確かにパン5個を持って帰るはずだ。ところが見ろよ、6個持って来たじゃないか。」

 だから、この計算の達者な少年は言った。「だって、それでは全く変だよ。パン1個2クロイツするんだぜ。君は10クロイツ持って行っただろ。10割る2は5だよ。6個持って帰れるはずはないだろう。何か間違ったんじゃないか、それとも1個くすねたか・・・」



 もう分かるだろう、その地方では、パン5個を買うと1個おまけに付けてくれるという習慣があったのである。だから、5個分のお金で6個のパンを受け取ることになる。それは、家庭で5個のパンを必要とした人には、大変結構な習慣であった。

 この計算の達者な少年は、全く正しく、筋道をたてて考えた。彼の考えに間違いはなかった。しかし、この正しい思考は現実とは一致しなかった。つまり正しい思考が現実に至らない例外を認めざるを得ない。何故ならば、現実は正しい思考に自分を合わせたりしないからである。

 この例から、最も意識的で最も良く考えられた論理的思考をもってすれば、正しい結論には至るかもしれないが、その結論を、現実に照らし合わせたとき、完全な間違いになることを、非常に明白に理解できる。このような事は常に起こり得る。結局、純粋に思考を通して得られた証明というのは、決して現実を測る物差しにはならず、決して論理通りに物事は進行しないのである。

 人は、例えば、外的な世界に関して原因と結果を結びつけようとして、トンでもない間違いを犯す可能性をもつ。また1つ例をあげる。

 川の土手を誰かが歩いているとする。その人がある地点で、土手の縁を越えて、水の中へと落ちるのを、遠くの方から誰かが目撃する。その目撃者は、水におちたその人を助けようとして、そこへ急ぐが、その人が水から引き上げられたときには、既に死んでいた。



 その男が川の土手に行ったとき、そこにあった石に躓き、水の中に落ち、そして死んで引き上げられる。なので、溺れ死んだと考えるわけである。この種の思考では別の可能性はあり得ないだろう。

 さて、正に、このケースにおいて、必ずしも溺れ死とは限らない場合が存在する。目撃者が、この場合のような原因と結果のつながりに捉われないとき、この男が水に落ちたときには、既に心臓発作に襲われていたこと、その結果、たまたま川の縁を歩いていたので落ちたということを発見できる。

 彼は、落ちたときには既に死んでいたので、たとえ、彼が(心臓発作に襲われずに)生きたまま、川に落ち、彼の身に起こった全てが、全く同様に生じたとしても同じである。このように、一連の外的な出来事から、問題の男が躓いて水の中に落ちて溺れたという(論理的な)結論に至るとき、その結論は全く間違いで、現実とは一致しないことが分かる。

 何故なら、彼は死んだから落ちたのであり、落ちて死んだわけではないからである。このように、捻じ曲げられた結論というものは、今日の科学文献の方々に見出される。ただ、それらは気づかれず、この例でも、誰かが態々、この出来事を細心に調査しなければ気づけないほどのものである。

 このような失敗は、原因と結果の最もデリケートで微妙な関連において、絶えず繰り返されている。以上のように述べることで、我々の思考が、実際、現実に関しての何らかの決定を下すには全く無能ということを示唆したつもりである。

 さて、では、もしこのような思考の間違いが頻繁に生じるようなら、つまり、もし我々の思考が、確かな導き手でないとすれば、一体、どうやって、我々が、疑念と無知の中に沈み込んでいくのを救うことができるだろうか?

 というのも、事実、このような事柄について経験を積み、思考について深い関心を持つ人は誰でも、どんなことでも証明も反証もできるということを知っているからである。なので、証明も反証もできる、その思考においては、いかに洞察力のある哲学でも、そこから先の問題を提示することはできない。

 何故ならば、彼は、その正反対の方向で、知的に理論立てを行おうと思えば問題なくできることを知っているからである。このことは証明も反証もできる全てに当てはまる。このような関連において、人はよく、極めて興味深い観察を、日常生活において行うことがある。





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Last updated  2008年02月20日 22時15分10秒
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