シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2008年03月13日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 前回の内容から、人間の肉体と、感覚世界との間に関連があることが分かるだろう。我々は、人間の物質(肉)体が、外に広がる感覚世界のなかに発見できる実質、つまり、前回述べた、「意志」の性質を持つ存在として認識した実質と同じことを理解した。

 外にある感覚世界にも、人間の物質体の中にも、「活動し、支配する意志」を発見できる。だから、この意志を見通す霊的感覚の限りにおいて、人間の肉体は外的な感覚世界の一部であると言ってよいだろう。

 そして、感覚世界の背後に、いかに生成し、消滅する世界が横たわるか、その世界の中には、いかに叡智、つまり、その真の形態を「活動し、支配する叡智」として描写できるものが、発見されるが、人間のエーテル体と呼ぶものは、本当は叡智の実質からなっているという事について述べた。

 さて、人間のエーテル体と肉体には、更にアストラル体と自我が組み込まれている。つまり、我々が地上で出会うような人間は、肉体、エーテル体、アストラル体、及び自我の連結点であるといえる。

 さて、ここで、多分、少し困難だが、一度把握すれば、世界について、特に人間自身の本性について、理解する上で大いに役立つ事を考察する。肉体、エーテル体、アストラル体、及び自我が、ある時点で合流し、1つの全体へと統合されたという仮定に関しては、これまで述べてきた事柄から受け入れる準備ができているだろう。

 ところが今、超感覚的認識能力を獲得した人が、人間本性の、その四つの構成体が、どのように組み合わされているかを観察するとき、それらが不規則な形で統合されているという印象を(後で、何故、この印象についての考察が重要なのかが分かる)持つという事実がある。

 それら四つの体が、現在の人間の中では、ある不整合、或いは不規則性が、何処かの時点で入り込んだとしかいいようがないような形で、組み合わされているのを発見する。このように、人間存在の四つの構成体についての探求が、当初予定されたような形(在り方)では、相互に組み込まれず、ある時点で乱れが生じたという結論を導くのは、注目すべき事実である。そのような印象から、その乱れが与えられる。

 さて、ここでもまた、第一級の宗教的真実の中に、もし正しく理解すれば、いかに深い意味が込められているかを見る機会を得る。というのも、その不整合としての表現が、聖書の中に、ルシファーが人間を誘惑しようとして、人間に話しかける言葉として、素晴らしい形で記述されているのが発見できるからである。

ルシファーは言う。「お前たちの目は開かれ、お前たちは善悪を区別するであろう。」



「お前たちの全ての感覚は、もしお前たちが私(ルシファー)ではなく、神たちに従うとすれば、予定されていた方法とは異なる形で働くようになるであろう。」

 ルシファーの影響により、感覚は、その影響がなければ、取りえた形態とは異なる形態を取るようになった(つまりルシファーの影響により、現在の感覚形態となった)。

 今日の人間にとって、感覚がどのように働いているかを思い描くのは極めて困難である。なので、ここで、ルシファーを通して、人間本性の四つの構成体の間に不整合が入り込まなかったならば、感覚の働きがどのようなものであったかを明らかにするために述べることを、馬鹿げた事のように思うだろう。

 それは、馬鹿げた事のように捉えられるものである。何故なら、感覚の本来の正しい活動とは、いま現在、我々が体験しているようなものではない、ということを信じることは、ほとんど不可能だからである。

「人間の目は、本当は何のためにあるのか?」と問われたとき、

「何だって、勿論見るためだろう。」という以上に、自然で明白な答えがあるか。そういう意味で、目は見るためにあるのではないなどと言う人間を馬鹿呼ばわりするのは、尤もな事だろう。

 しかし、現実に、地球進化の初期に遡れば、人間の目が、見る能力に属するものではないこと、そして、現在目が見るものになっているのは、ルシファーの誘惑によるものである事がわかるだろう。

 それはつまり、次のような事である。人間がもつ視覚能力というものは、目を通って外へと押し出され、いわゆる物にまで到達するようには、当初、(神々に)意図されてはいなかった。

 神々の元来の目的に合致した形で、全てが進行していたとすれば、見るとは自分の目を意識することであり、人間は外的な事物を見るのではなく、人間自身の目を体験し、感じるはずのものだった。

つまり、人間は、目自体の活動を意識するようになる予定だったのである。

 しかし、今日のあり方では、人間は目自体の意識をもっていない。人間は、ただ目の活動により引き起こされる視覚について、つまり、人間が向き合っている外的な(外界の)事物に関してだけ意識している。



 目の場合、そのような体験をもつことは、特別秘教的な発達を遂げた人でなければ、今日では、ほとんど不可能だが、手に関しては可能である。

 人は、少なくとも、何か、手で掴んで、或いは、単に手が、特に目的もなく、自由に動いているかどうかで、(周囲)を区別できる。後者の場合、手自体の実際の動作だけを意識している。

 けれど、今日では、人は、視覚力を目そのものに向けても、何も見ることがない。これが今日の人間の有様である。

 しかし、最初から、そのように意図されていたわけではない。(神々に)意図されていたのは、人間が、目や耳、或いは、いずれかの感覚器官に注意を向けたとき、先に述べた「支配する意志」を知覚し、そして実際に、「支配する意志」の中を泳ぎながら、耳その他の感覚器官への特別な影響のあり方に従って、その事実を認識するということだった。

 このように、人間の目に関する経験は、あらゆる点で、手に関する経験に似たものになるはずだった。何かモノを掴んだとき、力の入れ方と、そのへこみ具合によって、それが硬いか柔らかいかを知る。実際、いつでも手で何をしているかについての意識がある。目に関しても、この手のようであるはずだったのである。



 しかしながら、エーテル体は肉体に正しく適合していない。我々は、この重要な事実に気が付かなければならない。ただ、これは人間の中に見られる不適合の1つの例に過ぎない。人間本性の、どの構成体も他の構成体に正しく適合せず、どれも不整合なのである。





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Last updated  2008年03月13日 21時00分30秒
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