シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2008年10月06日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 狭い意味での本来のヒステリー現象は、実際、この不規則な新陳代謝(前回の新陳代謝内に独立傾向を生じるプロセス)が頂点にまで達した状態に他ならない。

 事実、性的症候にまで至る「ヒステリー」のプロセスにおいて、本質的に存在するのは、本来、人間の生体組織の中に存在すべきでない、外界のプロセスの本質をもつような、不規則な新陳代謝に他ならない。

 このような下部の独立志向のプロセスに対して、上部はそれを克服するには、あまりに弱すぎることがわかる。これが一方の極である。

 下部の「ヒステリー」の特徴と同時に、上部の弱い現象が現れてくるとき、生体組織の下位では、人間の、本来、外界に存在すべき活動が強くなりすぎた状態といえる。しかし、また、上部のプロセスが正しく経過せず、つまり上部のプロセスが上部組織を酷使し過ぎることによっても、同様の不規則な相互作用が生じる。

『ヒステリー;本来生体外にあるプロセスが、下部の新陳代謝に存在し、独立性を強くし、上部との調和を不規則にさせること。』

 上部が衰弱することは、下部の増強とは反対のプロセスで、いわば下部のプロセスのネガであり、上部のプロセスを、過剰に酷使することに相当する。この(上部の過剰な)プロセスはいわば、心臓によって下部組織に中継される前に終結してしまう。つまりこのプロセスは、あまりに強く霊的であり、いわゆる、器官的にあまりに知的すぎるといえる。

 このように、変則性の他方の極の、「神経衰弱」が現れてくる。人間の生体構造の機能性のなかに潜んでいる、これら二つの変則性に注目すべきである。

 それらは、いわば上部で表現され、下部で表現される欠如だからである。そして人間の生体構造における、この両極性が、何らかの欠如の元になっているということを、次第に理解するようになるべきである。

『神経衰弱;上部プロセスを酷使しすぎ、上部器官を消耗してしまうこと。』



 ここからわかることは、実際、欠陥を生じた器官の実見よりも、遥かに重要であり、病気の実像の、包括的形状に関する観察(観相学)の重要性である。

 なぜなら欠陥を生じた器官が示すのは、単にその帰結としての現象にすぎないからである。重要なことは、病気の全体像、形状に注目することである。この病気の観相学は常に、ある種の形に、一方の極か、もしくは他方への極への傾向を持つ、つまり、神経衰弱的変則性か、ヒステリー的変則性への傾向を持つ実像を提示してくれる。勿論、このような表現を、通常用語の使用に向け、拡大する必要がある。

 さて、この上部と下部の相互作用について満足のいく実像が得られたなら、そこから出発して徐々に、次のようなことが認識される。

「最初は単に機能的に存在する変則性、つまり、人智学者が言う、エーテル体で起こっている変化が、いわば、その力を凝集することで、器官的-物質的存在をとらえていき、最初は『ヒステリー』の徴候としてだけ存在した変則性が、様々な下腹部の疾患のなかに、いわば、その物質的形態を取ることで、また他面において『神経衰弱』が、喉の病気、頭部の病気のなかに器質的形態を取ることで、その両極性について語ることができる。」

 当初は機能的な変則性だった、「神経衰弱」的な変則性と「ヒステリー」的な変則性に、これらの物質的現象が刻印されるということの研究こそ、将来の医学にとって重要な事となるだろう。

 器質的となった「ヒステリー」の結果として、消化プロセス全体、下腹部の、あらゆる経過に不規則が生じる。けれども、このように1つの組織で起こることは、更に組織全体にも作用を及ぼす。一部の組織で生じている不規則が、更に組織全体にも作用を及ぼすということを見過ごしてはならない。

 さて、その最初期において、機能性のなかに観察できる、端的な「ヒステリー」現象が、機能的には表立って全く現れてこない場合を考えてみる。

 言葉の上では矛盾しているが、確かに、このようなことが起こる。機能的に表面に現れることなく、エーテル体が即座に、「ヒステリー」現象を物質(肉)体に押しつける。

 それは下腹部の器官においては、どのような形であれ、明らかな疾患としては現れてこないが、内部には存在している。つまり下腹部の器官には、いわば「ヒステリー」の刻印を押されたものがある。これは、物質的な器官に自らを押しつけたことで、「ヒステリー」現象として、心的に前面に現れることはないが、かといって、厄介な病気、物質的な病気として現れるには、まだ充分強くない。

 しかし、強くないといっても、生体組織全体に働きかけるには充分な強さを持っている。そのとき、病気と健康の間を漂っているというか、そういうものが、下から上へと作用を及ぼし、上部に反映し、上部にいわば伝染して、そのネガのなかに現れる、特殊な現象が起こる。

 上部が一面的になったり、或いは不規則になったりすると、普通は「神経衰弱」を引き起こす素となる領域に、「ヒステリー」の、いわば最初の物質的結果の状態が作用して、上部に現れる現象が、結核への素因をもたらす。

結核への素因;下部の「ヒステリー」が、上部の「神経衰弱」に呼応し、「ヒステリー」が上部にもたらされる。

 この事は興味深い関係である。結核に罹りやすい素因は、ただ今述べた、下部活動の上部への反映なのである。このように完全に終わりきらないプロセスが上部に反映することにより生じる、この全く独特な相互作用が結核への素因をもたらす。

 この人間の生体組織の原-素因とでもいうべき状態まで遡らないと、合理的に結核を扱う術を見つけることはできない。というのも、寄生生物(細菌、ウイルスを含む)が人間の生体組織に蔓延るということは、たった今述べた原-素因の結果生じる現象にすぎないからである。

 これは、必要な条件が揃えば、結核のような病気は伝染する、という事実に矛盾するものではない。勿論、そのために必要な条件が整う必要がある。しかし、この下部の器官活動の優勢は、残念ながら今日(1920年)の人類の極めて大多数に現れているので、結核になりやすい素質は、実際恐るべき範囲に広がっている。

 とはいえ、伝染というのは、この領域において、やはり有効な概念である。かなりな程度に結核を病んでいる人は、周囲の人々に作用を及ぼすからである。結核患者の生活に、内面(霊性)から、曝されていると、通常は、単なる作用にすぎないものが、今度は原因となることが生じるからである。

 私(シュタイナー)は常に、1つの喩えによって、この病気の第一次発生(原発)と伝染との間の関係を明確に説明しようとしているが、例えば次のような喩えを用いる。



 私は、彼に出会い、彼が自分の悲しみを告げることで、私も彼と一緒に悲しくなる(もらい泣きのようなもの)。彼は直接の原因によるが、私はその悲しみの伝染によって悲しくなるわけである。この場合確かなことは、この伝染の条件は、彼と私とのお互いの関係にある。」


 (この話は、いまでも、動物の死体をみて、かわいそうと同情すると、その動物にとりつかれるというような風評に見受けられる。このような例で重要なことは、聖書にあるキリストの態度である。

 あるとき、キリストが、弟子たちと道を歩いていると、犬の死体に出くわした。弟子たちは思わず目をそむけたが、キリストだけは見つめ、「この犬の歯は綺麗だ!」と言ったという。

 つまり、このキリストの態度は、通常、人が嫌悪する、どんなに醜悪な状況でも、そこに美をみつける態度であるという風に解釈されている。キリストは否定の言葉は使わない。どんな状況でも、悪魔でさえも、その存在を肯定的に捉えるのである。

 なぜなら、この世を司っている神に、全幅の信頼を寄せているからで、神が起こす全ての出来事に、善を見い出す姿勢を、信仰に見い出しているからである。

 この態度でいえば、例えば、病人をみて、その悲惨さに同情するのではなく、病気と闘う精神の勇気に感動するような態度といえるだろう。病人に学ぶ姿勢が大切なのである。

 同様に、キリスト教のよくモチーフにされる十字架にかかったキリスト像は、悲しい目や罪悪感で、みるのではなく、キリストが、十字架にまでかかっても、人類のために、自己犠牲を捧げた愛こそ、その精神こそ大切なものだと問いかけているのである。

 しかし、この真意をわからない偽善的なキリスト教徒に限って、その像を人間の目でみつめ、悲惨なもの、或いは、穢れた、醜悪なものとしてみている人が意外に多い。

 つい最近も、日常の場面で、あの像は、綺麗なインテリアには似つかわしくないという議論が、キリスト教徒のなかであったが、世も末だなと思った。まぁ、キリスト教は一回滅んだ方がよいと私は思ってもいる。偽善者があまりに多すぎるからである。

 このような人たちは、聖書を語れどその真意はつかめないであろう。宗教が闘争の種となるなら、宗教こそ無くすべきだろう。しかし、どんなものも肯定的に捉えるには、彼らをある意味反面教師として捉えることも必要である。

 そのような人には、「キリストを頼ってはならない。ましてやキリスト教は、キリスト信者がつくった幻想であるから、なおさら、頼りにはならない。日々起こる問題の解決こそ、あなたが頼るべき道なのである。キリストでさえ、頼りにならないのに、他者にすがってはならない。自分で見い出せ。」と言うことにしている。

 それでも、納得しない人には、天は自ら助ける人のみを救うと言い、自立せよと説く。)

 従って、第一次発生(原発)と伝染、という概念は、どちらも全く正当であり、特に結核においては極めて正当である。ただ、合理的意味において、これらの概念を正当に用いなければならない。結核療養施設が他ならぬ人工結核孵化場となっていることが少なくない。

 結核患者を結核療養施設に詰め込むと、この施設をできる限り何度も繰り返し取り壊して、別の施設に作り替える必要があり、結局、一定間隔毎に、結核療養施設を、古いものから、順に遠ざける必要があるだろう。なぜなら奇妙なことに、結核患者自身が極めて感染させられやすい素質をもち、症状の重い結核患者の近くにいると、もし、患者が近くにいなければ、好転している病気が、恐らく一層悪くなるからである。

 (病気に罹るのは、精神的に何処かに依存心があるようだ。勿論、同情心は必要だが、依存心は必要ない。同情心とは、本来、ポジティブで、肯定的な共感といえ、依存心とは、その同情心とは逆の、ネガティブで、否定的な共感といえる。

 病気に罹っている人は、外界のプロセスを体内に取り入れる傾向があるから、つまり依存心が過多になるのである。依存心を増強させることなく、同情心を高めることが肝要といえる。)

 さて、とりあえず、結核の本質を指摘するだけのつもりだったが、この結核を一つの例として、人間の生体組織における、様々なプロセスが、いかにお互い密接に関連し合っているかが理解できるだろう。

 これらのプロセスは、想像すればわかるが、お互いに、ポジ(陽)の像とネガ(陰)の像が相対するように対応する、上部組織と下部組織があるという事実に常に影響を受けざるを得ない。

 今述べたような生体組織の構造の存在によって結核が準備されるという、いわば極めて特異な現象を手懸かりにして、その経過(プロセス)のなかで更に、病気の本質を、原点から見る手法を研究できる。





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Last updated  2008年10月06日 21時15分01秒
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