シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2010年07月08日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 「シュタイナーのからだの不思議を語る」という本はお勧めである。

 その本のなかの、「病気とはなにか、死とはなにか」の章は必読である。その本のなかで、現在、パニック症候群と呼ばれているなかの一つの「広場恐怖症」の要因は、子供のときの教育を通して植えつけられたケースがあると述べている。

 この広場恐怖症は、心魂のなかの重荷を、告白や懺悔により取り除かれると、治癒にむかう、と書かれている。

 要するに、人間の身体は、精神からつくられることを、シュタイナーは力説している。

 さて、「死とはなにか」であるが、シュタイナーは、聖書にあるパウロの言葉を用いて、簡潔に説いている。

 パウロの「死は罪の報いである。」の罪とは、現代人が考える意味の「罪」ではないという。神学が唯物論者に捻じ曲げられて解釈されてしまったので、本来の「罪」の意味が現代人には通じないようになったというのである。

 で、シュタイナー曰く、本来の「罪」とは、「利己心、我欲から発するもの」のことであるという。

 生命の進化目的の頂点に、個別意識の獲得がある、ということを、古代の賢者たちは生命や動物を洞察して、その結論を得た。

 つまり、霊魂が、個別意識を獲得するためには、全体から、何かしらを分離しなければならない。



 暗闇に、ローソクの火を点すと、ローソクの火から、灯りが確保でき、周囲と差別化され、個別的意識が浮かびあがる。

 しかし、ローソクの火を点すには、火となるローソクが必要で、ローソクは火を点すために、その犠牲となる。

 従って、個別意識の獲得、つまり、この本のこの章にある「個的な生は土台を消耗する」ということに気づかされる。

 パウロの「死は、個別意識の報いである。」となる。

 人間が、利己心、我欲から発するものを、獲得するために、死が必要なのである。

 それはすなわち、霊魂が、個別意識から、私的な経験を得るためには、死が必要なのである。

 人生を味わい尽くすには、死がなければならない。私なりのこの書のこの章を読んだ後の結論である。

 少々わかりにくいかもしれないが、別の角度から、説明する。

 創造には、産みの苦しみが伴う。全体を発展させるには、先んずるものが必要で、特定部分を自由に多様的に、解放的に、いわば個別的に発展させなければならない。

 つまり、拡大する前に一度、縮退しないといけない。ジャンプするには、身を屈める必要があるように、壁を突破するには、縮退してエネルギーを貯めないといけない。

 この動作から考えれば、縮退に当たるのが、個別意識の獲得であり、それに伴う、死であり生である。つまり、利己心や我欲という悪を、善に転じるプロセスが死なのである。



 逆説的にいえば、死があるからこそ、どんな悪人にもなれるともいえる。

 さて、今度は、病である。病とは何か?

 人間の個別的生は、自然や宇宙を縮退したものである、というのが、死の結論である。

 人間のなかには、自然が詰まっている。

 従って、人間の病気には、自然と人間との関係がどこかギクシャクしていることが挙げられる。



 この本のこの章には、生命の大原則が書かれている。

 「生命プロセスが下降から上昇に転じるときに毒を受け取ると、その毒は身体に組み込まれる。」

 この言葉だけではわかりにくいので、この例を、犬の免疫で解説している。

 アフリカには、毒をもつハエがいるので、妊娠した犬を連れて行き、そのハエに刺させ、その犬が出産後に死ぬようにすると、その母犬からうまれた子犬は、毒に対する免疫をもつようになる。

 古代の医師は、例えば、自己犠牲的に蛇の毒を摂取し、自分の唾液を蛇にかまれたときの薬としたというように、このような原理を自己犠牲的に活用し、毒に対する免疫を獲得してきたという。

 つまり、自分の身体のなかに、悪を取り込んで、悪を浄化し、善に転じる作用、抵抗力、免疫力、自然治癒力をつくるわけである。

 このような方法から、人間は強靭な肉体をつくっていったようである。

 現代とはまるで逆の発想である。現代では、悪を避ける傾向にあるが、古代では悪を取り込み、味方にする傾向にある。逆転の発想といってよい。

 従って、シュタイナーは、人間が健康であろうとするのなら、病気を避けてはいけない、と説く。

 病気は、人間を健康にするための、手段であり、条件であるという。

 病気の結果、人間は強くなる。

 病気を与えられて悔やむなかれ! 病気を与えられて喜ぶべきなのだ!!

 この本を読んでいるときに、TVでは、事故で頭部以外不随になった教師の話をやっていた。

 その教師は、どうしても教え子と一緒に卒業式をやりたいために、不随の身体を精神力で、歩行可能な位まで回復させたという話である。

 精神に不可能なものはない。なぜなら身体は精神からつくられるからである。

 フィヒテは、「人間は、あるべきものになれる。私にはできない、と言うとき、その人は、欲していないのだ!」と言っている。

 ゲーテは、「自然は、多くの生命を有するために、死を発明したのだ。」

 「力強い健康を生み出すために、自然は病気を作り上げた。」と言っている。

 死や病気は、人間の進化のための必須の神器なのだろう。 

 しかし、現状を見る限り、人間は、神に向かうよりも、益々奴隷のごとく、獣になっているように思える。悪に怯えるばかりである。それでは益々悪が増えるだけである。

 コンピューターの奴隷になっている人間のいかに多いことか?

 コンピューターがなくても、人間は生きていけるのに、いまや、ないと生きていけない人間ばかりである。コンピューターに、現代人は精神を売ってしまった奴隷なのではないのか?

 少なくともコンピュータぐらい自分で使いこなせなくてどうするのだろうか?

 と思う日々である。





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Last updated  2010年07月08日 23時49分01秒
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