シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2011年02月10日
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カテゴリ: 神秘体験空間


 「生命の樹(セフィロト)」について(前半)


 古代のユダヤの問題についていえば、いまだ究極の問いが残されている。すなわち「セフィロト(生命)の樹」に関するものである。古代ユダヤ人は、このセフィロトの樹の中に究極の叡智を組み込んだ。

 その叡智は人間と宇宙との関係を示していた。これまでも述べてきたように、人間は、眼に見える存在だけから成立しているのではなく、エーテル体、アストラル体、自我という眼には見えない超感覚的存在からも成立している。

 古代人は本能(生まれもった霊能力)から、既に上記の事実を知っていた。しかし、その古代の知識は、現在は完全に失われてしまっている。従って、現代人は、ユダヤ的な生命の樹ともいえるセフィロトの樹を、空想の産物にすぎないと思いこんでいる。

 この認識は大きな間違いである。

 そこで今回、古代ユダヤ人が、このセフィロトの樹を本質的にはどのように考えていたのか、を明らかにしたい。

 古代のユダヤ人は次のように考えていた。

「人間は宇宙の中に立っている。宇宙の様々な力が周囲の至る処から人間に働きかけている。第1に3つの力が人間の頭に働きかけ、第2に、3つの力が人間の中央部、つまり胸部及びその血液循環に働きかけ、なお第3に、3つの力が人間の下半身や四肢の手足に働きかけ、最後に10番目の力が大地から人間に働きかけている。」

 以上のように古代のユダヤ人は、10の力が外から人間に働きかけているように考えていた。

 でははじめに、宇宙の最も遠い場所からきて、人間の頭部に働きかけ、球形の宇宙と同じように、人間の頭部を丸く形作っている3つの力を考察してみる。



 (人間の脳は天空の模造「複製」であると、シュタイナーは説いている。脳のスパーク「ニューロンの情報伝達は、天空の星々の輝きと同一視されるという。)

 さて、すぐに、古代ユダヤの概念を紹介するが、ただ提示するだけでは、理解できないような概念である。実際 古代ユダヤ人の叡智の結晶ともいえる、このセフィロトの10の概念のうち、第1のセフィロトの概念(ケテル)が、後世恐ろしく乱用され、悪用されてしまった。

 当時、権力を手に入れた人間が、その権力の象徴を、いわゆる権力を表現する言葉を、権力機構の中に取り込んでしまった。民族を支配する権力を獲得し、権力を自分の子孫に委ねた人間は「王冠(ケテル)」の所有者だった。

 王冠(ケテル)という言葉は、古代では、人間の霊性に贈られる至高の存在の表現にだけ用いられた。王冠を被ることを許された者は、秘儀に参入して、至高の叡智を獲得した人間に限られた。王冠は至高の叡智の象徴だった。

 霊界から人間の中に降りてきた全ての超人間的な働きを示す総括概念だった。王たちが好んで王冠を戴いたのは、当然だった。勿論、全ての王たちが賢明だったわけでも、天上からの至高の贈りもの(叡智)を身につけていたわけではない。

 にも関わらず、どの王も、この象徴を頭に戴いた。従って、本来の意味と、後に乱用された結果とを、一緒くたにすることは許されない。

 この王冠、人間の頭上に降りてくる至高の霊の贈りものを、古代のユダヤ人は、「ケテル」(王冠)と呼んだ。

 (「鳩」や鳥類で現すこともある。神道では3本足の八咫烏で表すようである。烏帽子がその象徴である。神社「神殿」という、神々との交信の秘儀参入の場に入るときには、烏帽子を被るのは、古代の風習が形骸化したものだろう。)

 人間の頭部は、王冠(ケテル)の他に、2つの別な力も必要とした。この2つは、右と左からやってきた。右の耳を通して入ってくるものは、「コクマー」(叡智)と呼ばれ、もう一方の側(左)からくる力は、「ビナー」(知性)と呼ばれた。

 古代のユダヤ人は、叡智と知性を区別した。現代人は、知性的な人なら全て賢い、と思っているが、古代では異なった。

 知性の持ち主でも、この上なく馬鹿げた、愚かなことを考える人もいるわけで、この上ない愚かさを非常に知的な形で考え出すこともある。



 以上の考え方は、古代のユダヤ人が人間を全宇宙の一分肢であると強く意識していた事実を示している。

 でなければ、セフィロトのような教えは創られなかっただろう。人体においても、肝臓が血液の循環から脈管を、つまり人体環境から自らの力を得ているように、人間全体も宇宙環境から自らの力を得ている、と考えた。

 (八咫烏を表す烏帽子は、目にはみえない「黒の」3つの力を表現したものと考えられる。古代では、神殿は秘儀参入の場であるので、参入者は、3つの力を獲得したので、それが後に形骸化し、烏帽子のような表現形態となったわけである。日本文化を研究すると、古代ユダヤの思想がみえてくる。)

 さて人間の中央部に働きかける3つの力を考えてみる。中央への力は、上から降りてくるのではなく、環境の中で共に生きている。

 中央への力は、太陽の輝きの中で、風や雷雨の中で生きている。古代のユダヤ人は、中央への3つの力を「ケセド、ゲブラー、ティファレト」と名づけた。今日の表現に置き換えれば、ケセドは「自由」、ゲブラーは「力」、ティファレトは「美」といえる。



 従って、古代ユダヤ人によれば、人間が呼吸をし、空気が心臓の中に流れてくるとき、外から空気の物質力が入ってくるだけでなく、霊的な力のゲブラーも入ってくると考えられた。

 現代人の言葉でいえば、ゲブラーとは生命力を意味する。ゲブラーと並んで人間の自由であるケセドも中央では生き、また一方では、人間の形姿を通して地上で最も美しい力のティファレトが現れている。

 古代のユダヤ人は次のように考えた。

 「心臓の鼓動を聞けば、人間の中に入ってくる生命力(グブラー)が感じられる。右手を伸ばすと、自分が自由(ケセド)な存在だと感じられる。筋肉を伸ばす度に、自由(ケセド)の力が入ってくるように感じられる。右手より優しく動かすことのできる左手は、人間が美(ティファレト)の実現を可能にする。」

 従って、上記の3つの力、ケセド(自由)、ゲブラー(生命力)、ティファレト(美)は、人体における呼吸、血液循環、繰り返される運動に関わる全てに対応する。睡眠と覚醒の交互の転換もティファレトに属する。睡眠-覚醒も運動である。人間は、昼と夜との相互運動を意識と共にしている。

 さて、人間は植物のように一箇所に止まることなく、場所を移動できる。動物とも共有する、この移動力を、古代ユダヤ人は「ネツァク」と呼んだ。ネツァクは大地に固定された立場の克服を意味する。ネツァクは「克服」である。

 さて、人間の重心は人体の中心にある。人体を一点で支えられる場所は、覚醒時はやや上方に、睡眠時はやや下方にあるが、この人体の中心は、人間の場合、生殖活動も生じさせる。この生殖活動に関わる部分を、古代ユダヤ人は「ホド」と呼んだ。

 いまホドを「共感」と呼ぶ。

 以上のように、セフィロトの順番が進むにつれ、その意味を表す言葉は、次第に人間的になってくる。

 ネツァクは外的な運動、空間内の運動や空間の克服を意味するが、ホドは内的な感情、内的な運動を意味する。外界に対する内なる共感は、全てホドである。

 次に九番目の「イェソド」だが、これは本質的に人間が立っている場所を意味する。従ってイェソドは「土台」なのである。人間に土台があるのは、外からやってくる力のお陰である。

 人間は外からくる力のお陰で、大地と結びついた自分を感じる。人間が大地に立てる力がイェソドであり、土台の意味である。

 最後に大地の力が人間に働きかける。周囲を取り巻く力(エーテル力)ではなく、大地そのものの力(物質力)は「マルクト」と呼ばれた。つまり人間が働く場、または外なる地上界の力である。マルクトは「場」である。

 しかしマルクトにぴったり当てはまる表現を見つけるのは困難である。「国」とか「領域」とか、でもよいが、これらの言葉は全て乱用されているので、古代のユダヤ人が感じたマルクト、つまり、人間に対する大地の本質的な働きを、現代語に置き換えることはできない。

 そこで次のように考察してみる。人間の中心から下に大腿骨が左右についている。大腿骨が膝までくると、膝蓋骨がある。以上の骨には、ネツァク、ホド、イェソドの力全てが働いているが、骨が空洞になっているのは、大地の力のマルクトが作用しているからである。

 この骨を空洞にする力が、古代のユダヤ人の言うマルクトなのである。

 以上のように、セフィロトの樹について語るなら、人間という存在に到達する。上記の力全て、つまりケテル、コクマー、ビナー、ケセド、ゲブラー、ティファレト、ネツァク、ホド、イェソド、マルクトを、古代ユダヤ人は10のセフィロトと呼んだ。

 人間は、上記の10のセフィロトにより、高次の霊界と結びついている。ただ10番目のマルクトだけは、大地に沈んでいる。従って、マルクトは、肉体をもった人間の生きる場所である。

 そして、人間の周囲を霊的な人間が取り巻いている。下では大地の力(マルクト)として、次いで大地に近い周囲から働きかけてくるネツァク、ホド、イェソドが霊的な人間(作用)である。次いで血液の循環や呼吸に働きかける力のケセド、ゲブラー、ティファレト、そして、頭部に働きかける最も高貴な力のケテル、コクマー、ビナーがある。

 以上のように、古代ユダヤ人の考える人間は、全側面において宇宙と結びついている。人間の超感覚的な成分である霊的な人間を、以上のように考えてきた。

 では、改めて、次のような問いを考える。

 以上のように、宇宙との関係が明らかになった場合、古代ユダヤ人は、この10個のセフィロトで本質的に一体どんな目標に到達しようとしたのか?

 実際、古代ユダヤの学徒なら誰でも10のセフィロトを学習しなければならなかったが、ただ10のセフィロトを数えあげ覚えただけではない。もし数えあげ覚えただけだと考えるのなら、間違ってしまう。

 以上のように述べてきた10のセフィロトを数え上げ覚えることが、重要な内容だったわけではない。セフィロトの樹とは何か、という問いに、以上のような回答で答えるのなら、幼児にも簡単に謎が解けてしまう。

 現代人はセフィロトの樹とは何か、と問うことだけで満足している。その場合、上記に説明したような事柄が含まれていれば満足する。もしそれだけなら、人間との関係が無視されてしまい、ただ10個の言葉と色々な空想的な解釈とがつけ加えられるだけとなる。

 古代ユダヤの学園では、上記で終わりではなく、当時の意味での学問を古代ユダヤの学徒と同様に学ぶには、上記より遙かに多くを更に学ぶ必要がある。





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Last updated  2011年02月12日 13時08分33秒
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