シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2011年10月13日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 これまでの講義での、色々込み入った考察の末に、物質をどのように図式化すべきか、また、物質をどのようなものとして考えるべきか、ということに対して、1つの概念を得た。物質とは、分解し、バラバラに崩壊した精神(霊)的な形態としてイメージすべきものである、ということを発見した。

 続けて、人間が、いかに物質の存在性の中に囚われているか、つまり、分解し、分散した精神(霊)的な形態が、地上の人間の中に浸透し、人間の本性の霊的存在を満たした背景について語り、また全ての物質的な存在に関する究極的で本質的な事実、つまり、「楽園からの追放」として美しく表現されてきた事実について更なる考察を進めるように促した。

 すなわち、「楽園からの追放」という事実により、人間が地上の物質に浸透されるようになったプロセスについて考察した。前回述べた事実を、単なる人間の思考や概念から辿るのではなく、少しでも、深い意味に立ち入りながら辿るなら、「人間とは、本当は、ある種の二重の存在である」、という考えを持つはずである。

 以前、ルシファーの影響を通して、感覚による知覚が人間のなかに挿入された事実を、つまり、感覚からの様々な知覚を、地上の人間が受け取った事実を述べたときに指摘した事実を思い出して欲しい。

 当初人間のために神々が意図した知覚は、本質的には、ルシファーの影響からの地球に属する感覚による知覚ではなく、そのなかに隠れている「支配する意志」との一種の密接な共生であった事実や、今日のような耳で聞き、目で見る等の感覚器官で知覚する過程が、ルシファーの直接的な影響によるものである、という事実を示した。

 それから、もっと内面的なプロセス、例えば、腺組織からの分泌過程として、肉体の中に現れる涙等の排泄物質が、先に述べた人間の4つの構成体の間に見られる不整合を通じて生じた事実について示した。

 そして最後に、栄養摂取や消化という人体における通常の日常の活動の起源を、エーテル体の活動に対するアストラル体の活動の卓越性(この卓越性もルシファーの影響によるが)に関連づけた。

 以前の考察では、以上のような結論が得られた。

 人間の中で生起する粗雑な物質過程(栄養摂取と消化、腺組織からの分泌、感覚による知覚)全てが、ルシファーの影響に帰す事実を見てきた。前回は、別の観点から、神経物質と呼べる霊の崩壊が、そして、筋肉の物質や骨の物質も、ルシファーの影響によるものである事実を示した。



 (陽と陰で、陽が物質、陰が霊といえる。)

 これまで、感覚による知覚、腺組織の活動、そして有機的な新陳代謝過程全体が、ルシファーの影響による一方の作用であり、そしてまた、人間の神経や筋肉・骨格システムの存在そのものが同じくルシファーの影響による他方の作用である事実を見てきた。

 以上の2つの作用をうける人間、つまり、感覚、腺、消化過程という一方の作用をもつ人間と、神経、筋肉、骨という他方の作用をもつ人間との間には、どのような関係があるのか?

 人間の本性と密接に組み合わされ存在している、上記の2つの作用をうける人間には、いかなる宇宙的な使命が想定されているのか?

 今、上記の疑問について熟考するなら、容易に(それほど神秘主義でなくとも)、次のような結論に到達するだろう。

 すなわち「感覚や腺組織の活動、もしくは新陳代謝システムに関係する全作用が、常に変容し、過ぎ去った過去に属する」という結論である。

 上記の作用を、ただ表面的に見るだけでも、それらの活動が、人間の中で演じられた後、消え去ってしまうものである、という事実を理解できる。感覚や腺組織、新陳代謝活動全ては、人間が過去として置き去りにしていく活動である。

 上記の事実を心の中にはっきりと思い描いてみる。上述の有機的な活動が演じられる際に、永続的で、永遠の目的が達成されるわけではない。上述の過程が、人間を、人生の中に(物質的に)閉じこめているという事実に気づくには、周囲を少し見廻して、科学や毎日の生活が教える知識を学ぶだけでよい。

 上述の観点から言えば、人間は栄養摂取や消化等のための単なる装置にすぎない。人間は、いつまでも変わることなく、ひたすら回転する車輪のようなものである。

 様々な特別な食べ物や飲み物に対する繊細な感覚を、毎年、毎度、機会ある度に発達させることが、人間の本性を特別に一歩前進させる、というようにでも考えない限り、「食べて、消化する」という、いつまでも続く単調な作業が、人間の進化にわずかでも貢献するようにはとても思えない、という主張を認めるしかない。

 栄養摂取や消化等の活動は、同じ方法で何度も繰り返される。人間である限り、栄養摂取と消化活動を繰り返し遂行しなければならないが、だからといって、そのために何か永遠に価値あるもの、そのような永遠の価値を夢想するような思想家をも想像することさえ困難である。



 また、感覚による知覚も同じである。何故なら、感覚の印象とは、やって来て、去って行くからである。ほんの2、3日前に受け取った感覚の印象が、いかに微かでぼんやりとしたものになっているかを、つまり、記憶が、現在の感覚による知覚の完全さと斬新さとは全く異なっているのを考えてみればよい。

 感覚による知覚とは、それを直接経験し、観察するときには、しばしば非常に美しく、人生に喜びをもたらすこともあるが、永遠の価値を持つものではない、という事実を確かに認めざるを得ない。

 恐らく、幼少期に受け取った感覚、もしくは、もう少し大きくなった子供のときに受け取った感覚の印象のなかで、そのときからそっくりそのまま失われずに継続して、いまでも同等の価値をもつものがあるだろうか?

 当時、目や耳に入ってきた光景や音全ては、今どこにあるのか?

 記憶とは本当に微かなものである!



 これらの活動の中に、崩壊した(霊的)形態が噴霧されるとき、つまり、粉砕された(霊的)形態、すなわち物質が、肉体の中に打ち込まれるとき、感覚による活動や腺分泌、すなわち新陳代謝活動が生じる。

 このような事実から明らかなのは、これらの新陳代謝活動を通じて、崩壊し、分解する(霊的)形態、すなわち粉々に分解する霊的な形態が、新陳代謝活動と関係する、ということである。





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Last updated  2011年10月14日 10時47分00秒
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