シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2012年03月06日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
つづき。()内は私見。
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教育は、価値観を決める

 人には、価値観というものがある。女性は洋服や宝石を欲しいと思う。男性はスポーツカーや、メカニズムに魅力を感じる。これは、男女で生まれつき価値観が違うからだろう。

 さて、日本の若者が学校で教わる価値観といえば、ひとえに「無個性」である。人と同じように行動する事・・・全教科が人並みにできる事・・・はみ出してはならない事・・・二宮尊徳のように、理想像を「ひとつだけ」与えられる場合もある。

 (日本の唯一の問題点は、信仰心は画一的でもいいが、価値観を画一的にしてしまうところにある。宗教と、生活とを混同するところにある。)

 問題は、子供は感化されやすいという事だ。ものの考え方までが、型にはめられてしまう。学校で学んだ数学や歴史は大部分忘れてしまうが、型にはめられた価値観は、大人になっても残っている。このために、自分で自分をコントロールできない人も生じてくる。

 (子供から学ぶことを忘れている大人も多い。弱者を助けることで、自分の問題解決能力が高まり、親として成長することも忘れている。)

 例え話をしよう。ある社会人は、すばらしい絵の才能があるのに、下手なセールス業務で苦労している。この人は、お世辞にもセールスのセンスがあるとは言えない。それでも苦労を重ね、ある程度まで成果を上げた。美しい姿だろうか?



 しかしもし、その人がデザインなど絵のセンスが必要な道に進めば、独創的な分野を次々と切り開いたかもしれない。それも鼻歌まじりで・・・

 ところがその人は、自分が苦手な仕事になぜか情熱を燃やしてしまう。彼は、死ぬまで気付かないかもしれない。自分は「選択」を誤っているのだと・・・

 彼は、「苦手」が先に来て、「得意」は後回しになった人生を歩んでいるのだ。

 これは、自分で自分を導けない社会人の一例だ。この人物の、「苦手克服」という心情は学校時代に培われた。なにしろ、一科目でも落第点を取れば卒業できなかったからだ。

 「できる事」は放っておいて、苦手な分野を集中努力する・・・こんな癖が付いている。彼は、「得意分野を極める」という楽しみを忘れてしまった。

 幼い時代はそうではなかった。自分の好きな事に、熱中する子供だった。絵が好きだったので、毎日絵を画いていた。そうしていればご機嫌だった。しかしある時母親が来て、クレヨンを持ったその子の手をたたいた。

 「なぜ絵ばかり画いてるの!
 勉強しなさい!」

 その子の心に、罪悪感が生まれる。
 好きな絵を画くという「悪事」への・・・

 こうしてその子は、「嫌いで不得手」な事を重視するようになった。義務教育の年代になると、さらにこの傾向は強まった。


 「苦手を持たない人こそ、理想だから・・・」

 そうした考えが、自然と身に付いていった。この価値観は大人になっても続く。恐怖心にも似た観念が、彼を追い立てる。

 現代の教育が、こうした価値観によって子供の可能性を閉ざしてきたという事は重大な問題である。特に「根性主義」の親の子供は、決して自分を開放できない。

 残りの人生の全てを、「苦手克服」に費やしてしまう。しかも、そんな自分に気付かない・・・

 近代の日本の教育は、こうした社会人を量産してきた。彼らは、自分の「真の能力」にいつまでも気付く事がない。そうした隠れた人材が数多く埋もれることは国家の損失だが、それは国家自身が招いたことなのだ。

偏った人間評価

 現在、全教科に秀でた人と呼ばれるには、記憶力さえ高ければいい。数学も歴史も、地理も化学も、丸暗記でかなりの線まで行くからだ。この場合、体育は別問題。

 彼は、非常に優秀な生徒となる。また、忘れっぽい生徒は、鈍才だとされる。しかしこれは、生徒の能力への偏った評価だ。

 記憶力は個人差が有る。生まれつきそれが優れていれば「楽」、劣る人は、「苦」の学生生活である。何という不公平だろうか?こんな教育が、変質的国家を作り、子供達の可能性を踏みつぶしている事実は否めない。

 社会は、何でもできる人が構成するのではない。何かひとつできる人が、集まって構成するものだ。現代教育は、この点を勘違いしている。学校には、もう一つの弊害もある。

なまくらの量産

 学生を、社会に出てから鍛え直す必要は多くの企業が感じている。それは、学校時代に実践教育を怠ってきたからだろう。

 接客の仕方がまずい。
 挨拶さえできない。
 常識に分別が無い。
 礼儀が重要だという事は、
 頭で知っているだけである・・・

 原因は、受けた教育の中で非常識がまかり通っていたからだ。変調した教育がこんな社会人を産んだ。

 (お笑い番組は非常識さを売りにしているが、その分別がつかない。)

 学校は、道具箱から出せば、すぐ使える工具のような社会人を育てているはずだ。しかし実際には、もう一度溶かして打ち直すべき「なまくら」を量産している。

温室ではもやしが育つ

 全く特殊な環境である学校は、社会の常識から隔離されている。そこは温室のようで風は吹き込まず、子供達はもやしのようにふやけている。原因は、「義務」教育制度にある。

 校内暴力で手の付けられなかった生徒が、社会に出てもまれると、急に平凡になってしまう・・・こんな風景は数多い。

 社会では甘えは通じない。常識が支配している。彼らは、この事実を肌で感じるからだろう。

 一方、学校はどんな無礼もまかり通る。簡単には首にならない。大人達が、ちやほや世話してくれるのだ。しかし結局、彼らは卒業してから苦労するだろう。

 今の学校教育は、正しいのだろうか? 子供達は、社会に出てから戸惑い、あれこれやり直さねばならない。こんな教育が、企業や親に喜ばれるだろうか?学生自身は、当然反発し、突っ張っているのだが・・・

 ただここで、「がんじがらめ」の教育は求めない。教育管理者の良識を求めているだけだ。目上の者を敬うのは「常識」であり、常識に強制は必要無い。社会を見れば解る。

 会社で、上司に礼儀を怠ればクビが待っている。天につばを吐けば、当然自分にかかるのだ。どんなに礼儀を怠っても、クビにならない学校の制度「義務教育」の方がおかしいのである。

 (モンスターペアレンツ等を考えると、最近は、親への義務教育の必要性も感じる。自分の価値観の押し付けが多い。)

 私個人としては、教育に「義務」の必要を感じない。全員が行きたいならそれは自由だ。しかし、「義務」という一言は必要無いと思っている。

 (権利の獲得には、義務を果たすことが前提なので、社会人として独立して生活する権利をもつには、義務教育を果たす、つまり修めるという意味なのだろう。)

義務教育は利用された

 義務教育は、戦前の兵士育成のプログラムの一環だった。国民全体を政府の管理下に置く、いわば「国の必要」から生じたものだ。

 (義務というより、常識教育というべきだろう。社会規則教育でもいい。話し合い、相手の考えを理解するためには、常識の理解とある程度の教養が必要である。)

 日本の学生服は、諸外国の軍服を手本にしていた。学校制度と軍隊は一対であった。しかし、問題が増加したのは「大正」から「昭和」であり、明治の政府は、教育に対してバランスの取れた見方をしていた。

 「もし、学校以外に教育を受ける場があれば、それを教育とみなす」

 という考えだった。しかし、軍事色の強い戦前の政府は、国民学校令においてその条項を削除してしまった。国民は、一人残らず政府の認める学校しか選択肢が無くなったのだ。どんな意図が含まれていたかは、推して知るべしだろう。国民を子供の時代から、政府の管理下に置くという政策である。その名残りは戦後も続いて来た。

 黒一色に統一された学生服が象徴するのは、「統率」の精神である。統率は個性を殺し、子供達の多様な可能性を摘み取ってしまう。

 余談だが、無個性の軍隊は弱い。一糸乱れぬマスゲームや軍事パレードは勇ましく、いかにも強そうに見える。「統率された行動が、威圧感を生む」という法則を、軍は大いに利用している。しかし個性まで奪い去れば、兵の力は削がれてしまう。実戦では意外と粘らず、犬死にが多い。兵力は容易に底を突く。

 (1種のパフォーマンスにすぎない。信長が、戦国時代を統一したときの、御所前でやった閲兵式と同じである。山内一豊が閲兵式のためにわざわざ馬を買ったように、戦場での働きとは全く別である。)

 一方、各個人が個性で動く奇襲部隊は逆である。コマンドーや各地のゲリラ軍がそうだ。私は戦争を好む人種ではないが、こうした考察を通して、人々の個性を削れば、自滅が待っている事は理解している。

 (集団スポーツからもわかる。個性のないチームは弱い。単純な喩えだが、サッカーのリフティングが上手くても、試合で良いプレーヤーになれるわけではない。守備に強い選手もいれば、攻撃に強い選手もいて、要するにバランスがとれているのがよい。バランスは、画一とは全く逆である。)

 日本の現代にも、学生服に「統率の精神」が生きている。坊主頭もその一つ。兵士を象徴する髪型が坊主である。なぜ、こうしたものを残してきたのだろうか?「国民を、もう一度号令一つで動員するためだ」と言う人もいる。

 確かに、一番影響を受けやすい学生時代に、国民全体にタガを掛けておけば統率には都合が良い。私が独裁者ならそうするだろう。義務教育制度には、「国民の教養向上のためだ」という大義名分もある。

 従って、この制度から「義務」という文字をはずしてしまえば、この意味で損をするのは国民ではなく施政者だ。国民を、管理統制する術「すべ」を失ってしまうからである。

 国民の教育熱が冷める事を心配する意見もあるだろうが、義務ではない大学教育にはあれほどの人々が殺到する。この現状を見れば、「義務」教育廃止後の状況は心配するほどではない。

 助成金の心配をする人が、いるだろうか。しかし、義務の文字をはずす条件として、補助金を国家が打ち切る理由は無い。学校制度が、「希望者」の受け入れシステムに変われば、校内暴力などは瞬時に消える。この場合、社会と同じ面接入学である。

 辞める事や、辞めさせられる事も当然存在する。不幸にして文盲の人も現れるだろう。それは「流れ」の結果として、ゼロにはならない。しかしやる気さえあれば、大人になってから学ぶ道がある。

 このような思い切った方針を打ち出しても、個性を無視した詰め込みの教育システムを変更しなければ、何の意味も無い。

個性を伸ばす教育

 生徒はそれぞれ、入学してから好きな分野の素質を伸ばす必要がある。苦手な教科の強制もしてはならない。荒療治だと思われるかもしれないが、今までの制度の方がよっぽど荒療治だったのだ。学生達の「悲鳴」が、それを物語っている。

 教育の中で、個性を無視しているために、日本はずいぶん損をした。

 (日本のサッカーをみているとよくわかる。)





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Last updated  2012年03月07日 10時24分54秒
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