シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2012年03月21日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
以下は引用のつづきである。
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イエス以前と以後では180度違う

 黙示録(啓示の書)はイエスの直接語った言葉ではない。それは老年のヨハネにもたらされた幻だ。神の民イスラエルが滅んでしまった後、遠い未来に焦点を当てた幻である。現代の解読としても、まだまだ修正が繰り返されている。

 また、ヨシュアやダビデの軍が保護されたのは、神がイスラエルを自分の腕として使っていた時代の話であり、それは他民族の悪事をいさめる必要が神にあったからだ。イスラエルは、実際に武装して戦っていた。現代の状況とは比較できない。

 ソロモン以後は、イスラエルが武力で他民族を圧倒する事は少なくなった。それは、純粋だったイスラエルが、長い間に逸れて行き、腐敗して多くの罪を犯したからである。それで、ダビデの時代のような形での、はっきりとした神の保護は期待薄だ。

 それに代わって、「逃げろ」という個人への警告がある。集団としての保護より個人を退避させて命を救うのが現代の神の保護政策になっている。いつの時代も、危険が迫った時は、預言者が遣わされ、民の悪事をいさめていた。しかし、イエスは預言者のしんがりであり、全ての予言を終結させる存在だ。それゆえ、イエスからの警告は、最終的、絶対的なものである。それ以前の遠い時代とイエス以後を比較する事自体間違っている。
現代までに何度も成就したイエスの警告と、黙示録(啓示の書)の現段階の解釈とは同列に置けない。この時代の人々は、どちらを優先させるべきなのだろうか?当然イエスの言葉である。

 西暦70年の滅亡当時、イエスの追随者全てがエルサレムの町から逃れたのではなく、避難した組と、居残った組とに別れた。この事実は、イエスの例え話の中のこの言葉から理解できる。「一方は、連れて行かれ、他方は捨てられる」・・・当時イエスの話を喜んで聞いていた人々の中からも、滅びる人々が出たのは、避けられなかった。



 当時の宗教指導者たちの態度は、どうだったろう。彼らは、そうした緊急時に心を鈍くし、民を誤導していた。エゼキエル書にはこう書かれている。「我々は、この広口の料理鍋の中の、肉のように安全である・・・」

 こうして、手遅れとなってもはや誰一人出られなくなるまで、民の行動をなだめていた。エゼキエルの予言書の記述は、後代の教訓とされるべきものであるから、西暦70年の滅びの時代から、現代の大成就の時代にまで当てはまる。(指導者はいつの時代も鈍いという点で)

 現代の、宗教指導者達は、これと違った態度をとっているだろうか?いや、今でも同じだ。こう話している。「組織から出てはならない、この中が一番安全なのだ・・・」と。

 仮にもし、「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」が実際に国連であるならば、それは既に神の民を滅ぼしていなければならない。しかし、そうでないならば、何か別の者が間もなく確実な絶滅をもたらすだろう。高慢な宗教指導者を盲信し、最重要な「イエスの言葉」を理解できなかった、「善良だが心の鈍い」民とともに。

 このように、荒廃をもたらすものに対する解釈には信者の命が掛かっている。安易な間違いは許されない。組織に頼れないなら、信者自身でそれを察知し、分析して時を知らねばならない。人は、組織ではなく神に仕えている・・・神の子キリストが語ったこれらの言葉は、個人に向けてのメッセージなのだ。

⇒自分で考えよ!、 逃げる時と、とどまる時

試みの神

人間を試みるのは誰か?

 神の試練という言葉がある。しかし、いかにも意地の悪いこの行為は、本当に神の行いなのだろうか?実はそうではないらしい。ルカの聖句に注目してみよう。

ルカ 4:9
 また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。
ルカ 4:10
 『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。』とも、
ルカ 4:11
 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。』とも書いてあるからです。」
ルカ 4:12
 するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神であるヤーを試みてはならない。』と言われている。」



黙示録 12:9
 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。
黙示録 12:10
 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

 12章9節から、投げ落とされたのがサタンであると判るが、続く10節からは彼が、告発者と呼ばれている事も判る。つまりサタンは事ある毎に誰かに目を付け、「あいつは悪い!こいつはおかしい!」とそしり続けていたわけだ。それが人間である場合、義人とされる人々を見ると、「疑え!試せ!」と言うのは当然だろう。この記述の喜び方から見て、天の組識でもサタンの性悪さには相当悩んでいたらしい。

犠牲者ヨブ

 聖書の中で有名な試みの記述はヨブ記だろう。神が善良なヨブを、サタンの突き上げで試みる事になったという記述である。この頃サタンは、神の組識の中の重要な地位に就いていたようだ。それで、神の代理としてその名前を代表して語る事も人間を試す事も許されていたようである。ヨブ記の神の言動に、冷たさや辛辣さが見え隠れするのはこのためだ。以下はヨブ記の一部である。

ヨブ記 1:6
 ある日、神の子らがヤーの前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。
ヨブ記 1:7
 ヤーはサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンはヤーに答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」
ヨブ記 1:8
 ヤーはサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」
ヨブ記 1:9
 サタンはヤーに答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
ヨブ記 1:10
 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。
ヨブ記 1:11
 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」
ヨブ記 1:12
 ヤーはサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンはヤーの前から出て行った。
・・・この後、ヨブには次々と不幸が襲うのだ。最後には耐え忍んだため、神から祝福を受けるが、こんな経験を誰も喜ばないはずだ。試練を与えた(許可した)神でさえ喜ばず、喜んだのは実際サタンだけだろう。(神は試さずに見通す力もある)

イエスの代弁する神の気持ち

 イエスが祈りの方法を弟子達に教えた記述を見ると、「試みに合わせないよう祈れ」とある。-11章4節

ルカ 11:1
 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
ルカ 11:2
 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。
ルカ 11:3
 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
ルカ 11:4
 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに
負いめのある者をみな赦します。
私たちを試みに会わせないでください。』」

 これも実際、サタンの存在抜きにはまともに解釈できない。試練に遭わせようが遭わせまいが神の自由だとすれば、自分の子供のように信者を思いやる神がどうして試練を加えて苦しめる気持ちを起こすのか?

 しかし実際は、これはサタンの試練から守って欲しいという祈りなのだ。神が人間をそのように意地悪く試すはずがない。

 宗教組識の中には、試みをあまんじて受けるように奨め「試練を喜べ」と教える所がある。しかし、当のイエスが試みを避けられるように祈れと教えている。「人間達、試みを喜べ」というのはサタンの理論であり、神の意図ではない。自虐的クリスチャンが試みの経験を喜び、それを求める光景もよく見かけるが、それが本当の神の意志に沿っていないのは明らかだろう。神は、「信者達を守りたい」と考える存在だからだ。イエスはそれをよく知っていたため、祈りの中に試練を避ける内容を含めたのだ。つまり、試練「難儀」を信者から遠ざけるのは、神自身の意志なのである。

子供達よ

 イエスから見た弟子達

 イエスは、弟子に対して「子供」という表現を使うことが多かった。

ヨハネ 21:5
 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
・・・
 では、「子供達よ」とはどんな意味で告げられた言葉なのだろうか?

 この意味を解明してみよう。

1.知識の差

 イエスは、創造主から遣わされた「創造主の子」である。

マルコ 1:9
 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
マルコ 1:10
 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
マルコ 1:11
 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
・・・
 この瞬間、人間イエスの心に、天で暮らしていた頃の記憶が移った。

 名実共に、イエスは創造主の子供となって活動を始めた。

 救世主誕生である。

 天での彼は、もちろん「イエス」という名前ではなかった。おそらく「言葉」という名前だった。彼は創造主の手伝いを常としていた。それで、彼の手を通してあらゆる物質が創造された。

ヨハネ 1:1
 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
ヨハネ 1:2
 この方は、初めに神とともにおられた。
ヨハネ 1:3
 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
・・・
 この意味で、彼の知識は我々と桁違いのものである。

イザヤ書 55:9
 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
・・・
 弟子達は、イエスから見て確かに子供のような状態だった。イエスは自分の知識のレベルを下げ、子供に教えるようにしてつきあっていたことになる。





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Last updated  2012年03月22日 09時14分36秒
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