シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2012年09月07日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 幕末の裏事情みたいなことを紹介してきて、明治維新が私利私欲に満ちていたことで意気消沈させてもいけないので、せめてもの救いとして、明治維新で、武士階級がなくなってはじめて武士道が生まれたわけで、武士道で代表的な山岡鉄舟を挙げておきたい。

 山岡鉄舟は、暗黒の熱射病のなかの一服の清涼剤ともいえる。

 鉄舟は、維新後、明治天皇の教育係となるが、大室明治天皇のことについて知っていたかどうかは謎だが、恐らく、晩年になって知ったと思われるような節がある。

 そのことはともかく、山岡鉄舟の説く武士道とは、海舟も語っているが、山岡の武士道は、禅である、という。

 山岡の武士道を知るのによい話が、以下のサイトに載っているので、拝借し抜粋する。

http://1767blog.digbook.jp/archives/116

     ☆   ☆   ☆

剣豪・山岡鉄舟 ~剣禅一如を達成~

 山岡鉄舟は、北辰一刀流の四天王の一人であり、剣の達人であった。また、山岡鉄舟は「講武所」の剣術師範でもあった。「講武所」とは、13代将軍・徳川家定が黒船来航を機に建てた、いわば、武力部隊養成所のようなものである。



 最初に浅利又七郎と勝負したのは、道場ではなく、町の中であった。いわゆる、喧嘩である。その日、山岡鉄舟は、女遊びをした帰りで、夜も遅くなっていた。電気のない時代の夜は暗黒そのものである。暗黒の中、橋を渡りかけようとした山岡鉄舟は、誰かにぶつかった。

 と、その刹那、今まで味わったこともない殺気を感じた。そこで、山岡鉄舟は刀に手をかけた。しかし、それよりも早く山岡鉄舟の喉に相手の刀が突き刺し、寸前のところで止まった。

 「な、なんてことだ!俺よりも早く刀を抜ける奴がいたとは…」

 「おい!お前、鬼鉄だな!」

 「な、なに!誰だ、貴様は!」

 「ははははっ、ただの町の老いぼれ剣士だ!その老いぼれのスピードについて来れないのだから、お前も大した腕ではないな!」

 「なにを!」

 しかし、この老いぼれには全く隙がなかった。

 「おい、鬼!お前は剣術だけしか修行していないようだな!剣術だけでは限界がある。剣術から剣道に変容させることだ!魂と心と体の三位一体を体得しないかぎり、お前はいずれ命を落とすだろう!だから、今日のところは命は勘弁してやる。」

 のちに、この老人が剣豪・浅利又七郎だと判明し、弟子入りしたのである。だが、この浅利又七郎に何度挑戦しても勝てなかった。そこで、山岡鉄舟は、剣術だけでは浅利には勝てないことを痛感し、禅の門をたたいたのである。

 というのも、浅利は剣術の達人に加えて、人格者であったからだ。



 そういう思案した結果、山岡鉄舟は「心」に差があると自覚したのであった。

 山岡鉄舟が入門した禅は、臨済禅であった。

 臨済禅とは、「公案」と呼ばれる難問を与え、その答えを禅によって見出そうという、独特の修行で悟りに導くものである。例えば、両手で「パンッ!」と柏手を打ち、「さぁ、音のなった手はどっちの手だ?」という演題を弟子に与える。

 弟子が「両手です!」と言うと、師は「まだ、ダメだな!」と答える。弟子が「右手です」と言っても、師は「まだ、ダメだな!」と答える。「左手です」と言っても、師は「まだ、ダメだな!」と答える。

 つまり、何を言っても、「ダメだ!」と言われるのである。



 そして、思考のない静寂がやってくる。

 その時、師は「それでいい!」と言うのである。

 すなわち、「答えのないことが答え」なのである。

 思考が出来なくなるまで徹底的に頭を使い果たし、その結果、無思考となり、悟りがやってくるのである。

 山岡鉄舟も、「自分が生まれる前の顔とは何だ?」という演題を与えられ、それに悪戦苦闘していた。

 「生まれる前の顔とは、これですか?」

 「ダメだ!」

 こんなやり取りが何年間も続いていた。

 そして、とうとう、何の答えも見出せなくなってしまった。

 考えつくことは、すべて考えたのだ。もう限界であった。山岡鉄舟は、初めて何の答えもないまま、師の前に来たのだ。

 「では、聞くぞ! 生まれる前の顔とは何だ?」

 「……」

 何も答えがないので、山岡鉄舟はその場で瞑目した。

 そして、思考が止まった。

 静寂の間がしばらく続くと、師は言った。

 「それだ! それが答えだ!」

 はっ、と我に返った山岡鉄舟。

 「そうか、そうっだのか! 無心の状態こそ生まれる前の顔だったのか!」

 「鉄舟! 悟ったようだな!」

 「はい、わかりました!」

 「では、その状態にいつでも入れるよう坐禅に精進せよ!」

 それから、山岡鉄舟は坐り続けた。そして、とうとう山岡鉄舟は、瞬時に「無心」になることが出来るようになった。そこで、山岡鉄舟は、浅利又七郎のところへ向かったのである。
悲願達成の日は近づいていた。

 「先生!浅利先生!」

 「おう、鉄!ずいぶん長い間顔を出さないと思っていたが、とうとう来たか!」

 「はい、先生、一手ご教授お願いします。」

 「うむ、では道場へ参れ!」

 浅利又七郎が正眼の構えになると、山岡鉄舟も正眼に構えた。そして、山岡鉄舟は、体は構えのまま、心で剣を捨て、「無心」の境地に入った。

 その時、浅利又七郎が言った。

 「ま、待て、鉄! お前、悟ったな! 今のお前は勝ち負けを超越している。」

 「はい、先生!悟りました!先生と同じ心境になることが出来ました!」

 浅利又七郎は、その場に剣を置くと、山岡鉄舟を抱きしめた。浅利の眼からは涙がこぼれていた。

 「先生、ありがとうございます。先生と出会えなければ、今の私はなかったのです!」
そして、山岡鉄舟の眼からも涙がこぼれていた。ついに、剣禅一如が成就した。

 剣豪・山岡鉄舟の誕生である。時は、すでに明治の世であった。

     ☆   ☆   ☆

 以上が抜粋だが、この話は恐らく創作だろうが、浅利又七郎と鉄舟の師弟関係を巧く表現しているように思える。

 また、以下のサイトにも、似たようなことが書いてあるが、その部分を抜粋する。

山岡鉄舟『剣禅話』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0385.html

    ☆   ☆   ☆

 20歳で願翁禅師の門下に入り、「本来無一物」の公案をもらってまったく手が出なかったが、焦らない。そのまま公案をぶらさげて進んだ。手にした問題を捨てないのである。ついで天龍寺の滴水和尚からは「無字の公案」を投げつけられたが、これもひたすら受け止めて、そのまま体にかぶったままになった。

 さらに滴水は「両刃の公案」を与えた。「両刃、鋒を交えて避くるを須(もち)いず、好手還りて火裏の蓮に同じ。宛然おのずから衝天の気あり」というものである。これも鉄舟は抱えた。そして、45歳でようやく大悟した。そこから悠々と禅の本来に入っていった。

 剣も似たようなもので、明治に入って多くの武士が刀の使いようもなくなり、多くの士族が拗ねていたか、挫けていたにもかかわらず、鉄舟はそんなことはおかまいなしに独座独考して、奥義を極めようとした。

 そうなったのには、大きな契機があった。有名な話だが、浅利又七郎と手合わせをしてまったく勝てなかった。浅利は伊藤一刀斎の剣法を継承する明眼の達人で、鉄舟はその浅利に何度手合わせしても自分の未熟を知るだけだった。完敗なのである。

 それからというもの、寝ても覚めても浅利の姿が消えなかったというのは大袈裟であろうが、ある日、豪商の商売の話をゆっくり聞いているうちに何かの気合を会得し、道場に出て瞑想をしてみたところ、ついに浅利の幻影が消えていた。

 さっそく門人の篭手田安定を呼んで手合わせをしてみると、「参りました」という。「これまでの先生とちがいます。まったくスキがないんです。驚きました」という。鉄舟もそれを実感できた。そこで浅利又七郎に頼んで角技を申し込み、剣を構えあったのだが、浅利はたちまち一礼をして「余、及ぶところにあらず」と兜を脱いだ。それが明治13年3月30日のことだと鉄舟は『剣法と禅理』に記している。

  鉄舟は幕臣で御蔵奉行をしていた小野朝右衛門の四男として生まれて、9歳には久須美閑適斎の神陰流を習うのだが、父が飛騨高山の郡代になったので、高山で北辰一刀流の井上清虎にを学びなおした。ここで岩佐一亭について書も学ぶ。

 父の死で江戸に戻ると、安政2年に幕府の講武所に入って、千葉周作らの指南を受けた。ついで若死にした槍の山岡静山の家を継いだとき、静山の弟の高橋泥舟と親交を結ぶ。さらに清河八郎と攘夷党をつくり、さらに幕府が募集した浪士組の取締役となって近藤勇らを引きつれることになって、このあたりで大活躍をしそうだったのだが、浪士組がすぐに分裂して江戸に戻った。

 このころはかなり血気も盛んであったはずで、そのまま腕を磨いて自信をもてばよいものを、ここで先にも書いたように浅利又右衛門に完敗して、そのまま沈思して修養に入ってしまった。

 そしてひたすら武士道だけを考えた。武士道を心身に起こしきることを願った。

 鉄舟が安政5年に綴った「修心要領」は、鉄舟が考えた武士道が敵を討つためのものではないことが明白に述べられている。

 「世人剣法を修むるの要は、恐らくは敵を切らんが為めの思ひなるべし。余の剣法を修むるや然らず。余は此法の呼吸に於て神妙の理に悟入せんと欲するにあり」。

 世の中で剣法といえばおそらく大半が敵を倒しこれを切るためのものであろうが、自分の剣法は人を切るためではなく、呼吸の神秘を会得するためだというのである。これは剣法が自分の大悟のためだけにあることを意味した。すなわち無敵、なのである。武士道に敵はないという主旨だった。鉄舟の剣法が「無敵の剣法」といわれたゆえんだ。

 ところで、鉄舟は書人でもある。その書はその武道に似て、いかにも独断自在に富んでいる。明治18年の「書法に就て」を読むと、鉄舟自身が剣と書とを同一視していたことも伝わってくる。

 「書法に就て」には、鉄舟がその書を拓くにあたっては音羽護国寺の堂内に掛かっていた空海の書に強烈な衝撃をうけたことも明示されている。鉄舟はその空海の"字体脱俗"の書風に憧れて、書を独自のものとしていった。

 その書もまた武士道だった。

     ☆   ☆   ☆

 また、以下のサイトでは、山岡鉄舟が、自分の剣について端的に語っていることが書かれている。

山岡鉄舟の剣
http://www.aikido-yawatahama.jp/newpage31.htm

  以下は抜粋。

   ☆   ☆   ☆

 「人は道によっておこなうときは、勇気が出るが、わずかでも私心があり、術策をめぐらす気があらわれると、身に隙が生じるものである。」

   ☆   ☆   ☆

 上記の鉄舟の言葉は、武士道の極意を巧く表現しているようにみえる。

 「作為をなくせ」という意味にきこえる。この内容から連想するのは、老子である。

 特に老子の第55章である。その解説は、次回に譲る。 





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Last updated  2012年09月07日 16時28分09秒
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