シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2012年10月16日
XML
カテゴリ: 神秘体験空間
 この間、TVで、ゆとり教育について議論していた。大学生が大学で分数を習っていることが例として出されていた。

 非常に疑問に思うのは、大学にもいって、分数を学ぶ必要があるのか、ということだ。大学入試に分数がなかったから、大学生になってしまったのだろうが、それでも、高校では、分数を勉強しなかったのか、の疑問が残る。

 何よりも不思議なのは、大学生にもなって、分数を教えてもらわなければいけないほどの学習能力のなさである。分数は小学校の低学年で習うはずだから、厳密にいえば、小学校の段階で、進級不可なはずである。

 それで進級するのは、一種のズルであって、本来、恥ずかしいわけだから、嫌でも、最低限、自分で学ぶ位の責任感があってほしいものだが、なぜ、自分で勉強しようとしないのか、その無気力さに嫌悪感を覚える。

 なによりも問題に思うのは、大学生にもなって、教えてもらわないと学ばない他力本願の姿勢にある。大学入試を通過儀礼にしているのは、そういう大学生の姿勢にある。だから、大学が研究の場から遠のいてしまうわけだ。

 教育とは、本質的に、自己教育しかないと、私は思っている。他人から教えてもらうのは、ある意味で、自己怠慢である。自主的にやらなければ、身につくはずもなく、第一、学ぶ楽しさがない。

 勉強は嫌だからといって逃げていたのでは、世の中、好きなことの方が少ないので、いつまでたっても幸福にはなれない。誰もが好きなことは、それだけ競争が激しくなるということでもある。競争の波にのまれると好きなものも嫌いになっていくのが普通だ。

 第一、嫌いなことを好きになることが成長といってよいし、幸福を掴む秘訣だと思う。

 逆説的にいえば、分数が出来なくても、他に能力が優れていれば、問題はない。ゆとり教育の目的とは、知識詰め込み型の画一的な人物を育成するのではなく、創造力豊かな個性的な人物を育成することだったはずであるから、分数ができなくても、それに代わり得る他の能力が優れていれば問題とはならないはずである。



 しかし、残念ながら、大学の場で、補習ともいうべき、高校レベル、中学レベル、小学レベルの課題をやっているのが現状だから、ゆとり教育の失敗が問題とされるわけである。

 このような現状をみていると、ゆとり教育は、自主性を創出するどころか、逆に自主性を奪っていくような気がしてならない。

 つまり、大学で研究目的を除いて、教育として分数をやるのは本来は論外なはずで、大学が死んだように思える。本来、大学とは、その分野において、最先端の課題を探求する場であるはずだ。補習をやっている暇などないはずだ。

 探求姿勢や研究姿勢に乏しい学生は、社会にでて痛い目に遭うべきだろう。そのような学生にかまっていれば、大学が潰れるだろう。社会に出れば、嫌が応にも、特定の能力を開発しなければ生きていけないからである。

 とどのつまり、ゆとり教育の失敗というよりも、大学をつくりすぎた問題に思えてくる。

 教育に対する持論を展開するのは控えたかったが、教育の基本は、勉強の面白さや楽しさがわかるようになり、自分の能力や、成長力が手にとるようにわかるようになることだと思う。

 自主性を身に着けるかどうかは、家庭の躾に負うところが大きいように思える。特に親がなるべく自力で行うことを心がけている家庭は、父親が尊敬されているものである。3、4年前に話題になった「がばいばあちゃん」や、明治期の偉人伝などをみると、子どものときの貧しさにより、かえって創意工夫が身についていることに気がつかされる。

 人生の前半に楽をすると、後半に苦労を背負うことになる。だから、子どものときになるべく苦労をさせるべきである。「かわいい子には旅をさせろ」、というわけである。特に、挫折を自力で克服する経験をさせるべきである。真剣にやりさえすれば、なんとかなるはずである。

 孔子は、「学びて時にこれを習ふ、亦説ばしからずや」と論語で述べているが、勉強を真剣にやれば、自分の能力がわかり、成長力が手にとるようにわかるから、楽しくて仕方がないと、悦びを表現している。

 つまり、自主的に真剣にやればなんでも楽しい、はずである。勉強が嫌いになるのは、「つまらない」という先入観があるせいに思える。遊ぶのが楽しいのは、自主的に真剣にやるからである。

 遊びだって、競争になれば、過酷な練習をしなければならず、技能により自然と上下関係ができ、勝負事になれば、経験の豊富な人の命令に従わざるを得なくなり、反強制になるから、遊ぶこと自体よりも、人間関係の方が重要になっていくわけで、結局、経験の豊富な人の意見に従う勉強になる。



 本来、独学でできる人は、大学に行く必要もないが、独学だと独善に陥る恐れと、世間離れしてしまう過ちに陥るので、自分の進む方向性が間違っていないかの確認のために、大学に行く必要がある。

 どうも昨今の大学生や若者をみていると、真剣さに欠け、食わず嫌いで、すぐに楽しようとする傾向にある気がしてならない。草食系というレッテルが貼られているが、恋愛だけでなく、学習態度にも、はじめる前から結果を求めすぎ、シュミレーションばかりして、情報過多に陥り、食わず嫌いに陥っている気がしてならない。

 確かに背伸びや高望みはよくないが、若者なのだから、一度、痛い目に遭わないと、自分の能力や成長もわからないはずである。失敗を異様に恐れているような感じをうける。

 手前味噌で悪いが、私は、高校では、理系科目が不得意だった。英語はそれなりにできたが、物理と数学は、ゼロ点を取るくらい酷かった。進学校だったので、ゼロ点をとるのは、非常に屈辱的である。特に数学はチンプンカンプンだった。

 そういう自分が情けなかったこともあるが、数学ができることに同時に一種の憧れが生じた。だから、高校で、文系、理系に進路を決めるときに、あえて理系進学を選択した。数学、理科の成績が悪ければ、当然、文系を薦められるわけだから、物理、数学とは、嫌いでも、好きにならざるを得ない。



 しかし、逆に、イメージさえできていれば、文系の科目、特に英単語のように、なんでもかんでも全て覚える必要はない(勿論、英単語にも語源を探れば法則性はあるが、そうやって覚える人は少数派だろう)。

 そこで、「大は小を兼ねる」という諺から、大学の物理と数学を勉強すれば、高校の物理や数学など簡単に解けるのではないか、というような、自分の能力を度外視した安易な発想が浮かんだ。当時でも、大学レベルの本とはいえ、易しく書かれていた本は沢山出回っていたから、高校生でもわかるような本を選んで読んでみたら、目から鱗だった。

 無機的な高校の物理や数学とは全く違う、有機的な生きたニュアンスが伝わってきたからである。

 高校の物理や数学は、当時の自分には、どうも権威的で、機械的で、どこか冷たさを感じさせたが、大学の物理や数学は、当時は内容はわからなかったが、どことなく自由な発想や伸び伸びさを感じさせたのである。

 そのときから、高校で習う物理や数学は、いわば仮面のようなもので、本当の顔をみるには、大学にいってから学ぶ必要がある、という認識が強くなった。

 後に、大学に入ってから感じたことは、高校の物理や数学は、確かに基礎で必須なのだが、勉強の目的が入試なので、どこか、型を教え込むようなもので、マニアックさもあり、味気のなさを感じさせるほど、高校と大学では、全く異なる。

 高校で習った物理や数学は、大学一年の4月で終わってしまう。実際に、物理、数学を暗記科目だと捉えている人は多く、それだと自分で開発し、積み上げていくことはできない。一種の通過儀礼で終わってしまう。

 大学で教わる物理や数学は、高校など比べ物にならないほどハイレベルで、高校の物理や数学が、幼稚なのがわかるのだが、その幼稚なレベルでゼロ点をとっている自分が、過去にいたわけだから、成長力の凄さを感じさせるわけである。

 後半は手前味噌な話で恐縮せざるを得ないが、教育についての話を、老子は、第73章で説いているが、その紹介は、次回に譲る。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2012年10月16日 13時22分16秒
コメント(0) | コメントを書く
[神秘体験空間] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: