シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年03月13日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 八切止夫作品集を読むと、悪法と名高い、生類憐れみの令に対する民衆の怨念が、水戸光圀を水戸黄門に仕立て上げたことがわかる。

 やがて、水戸黄門の評判は、幕末に、水戸烈公と被るようになり、水戸藩は、世直しを求める、尊皇攘夷運動の中心となっていく。

 戦国時代と幕末がいまでも人気があるのは、立身出世物語として語られやすいからで、民衆の間に溜まってきた怨念が、英雄待望説へと価値転換されやすいからである。

 価値転換といえば、経済である。価値がないものを価値のある世界にもっていくことで、利益があがるわけで、江戸時代と比べて、現代は経済社会といわれるが、価値転換の面で、果たして進んでいるのだろうか?

 さて、江戸時代までの経済といえば、主に宗教が役割を担っていたようである。

 八切止夫作品集によれば、戦国時代の愛宕山が金貸しの窓口だったように、仏教や神道が金融機関だったそうだ。愛宕山の歌詠みも、金が工面される間の暇つぶしだったそうで、千の利休で有名な、茶道も、お茶の味を当てる賭博だったそうだ。

 カネがなければ生きられないように、思想的な面ばかりが美化されて語り継がれてきているが、その内実は、カネ儲けでしかなかった。

 茶道のワビサビは、あからさまのカネ儲けを隠すための方便だったようで、だから、秀吉の豪勢な茶道は、信長以来の利休のワビサビの茶道と衝突し、利休は切腹させられたようである。

 なにしろ、利休の言い値で、茶器は評価が決まるわけで、まるで新興宗教の教祖である。売りはしないが、キリスト教の聖杯だって、単なる土くれの道具にすぎないものを偶像崇拝しているわけである。偶像崇拝を戒めているのに、この有様だ!



 前回の中元の話を知れば、茶道の胡散臭さもよくわかる。だから、ある意味、文化とは、価値転換を図るもので、そのまま経済のカネを生む道具でもある。

 そこで、別の面から、例えば、江戸時代といえば、数年前に、現代の医者が幕末にタイムスリップするドラマが流行したが、では、医療はどうだったのかを、再考するために、八切止夫作品集から、有名な平賀源内の話を抜粋紹介する。

 ☆  ☆  ☆

平賀源内と人蔘

 よくテレビや映画で、病人がでると町医が診察にきて、これは朝鮮人蔘を服用せねば助からぬといわれ、やむなく娘が身売りしたり、病人の夫の浪人者が殺し屋に傭われてゆく‥‥といった設定が時々みうけられる。

 しかし、あれは嘘である。幕末の御典医で、明治新政府の軍医総監となった松本良順の、『懐古録』の中にもはっきりと、「府内(江戸市中)にて町医とし門戸をはる者は富士三哲を初め五指にたらず」とある。

 つまり当時人口が何百万もいた江戸でさえも、それ位のものだったから街道すじの宿場になど、めったに町医がいるわけはない。

 もしいるとすれば千葉周作の父のような馬医者が、博労の多い所に住みついていたくらいのものである。ではいつ頃から町医が増えたかといえば、御一新後のことである。明治六年から七年にかけ扶禄公債を当てがわれ放り出された侍は、士族の商法で失敗したのが多かったが、中には文字が読めて、『傷寒論』一冊ぐらいをテキストに開業した俄か医者もあった。

 まあこれなら威張って頭を下げなくとも出来るというので真似する者が激増し、雨後の筍のごとく輩出した。

 それに武家屋敷は慎(たし)なみとして弓に用いる矢竹用の薮を必らずもっていたので、「筍医者」とか「薮医者」の呼称はそこから出たのだが、維新前は病気だといえば、「拝み屋」なる者が御幣を担いで飛んできてお祓いをし、ご加持祈祷とよんでいた。

 (家康の父も、この拝み屋の類だったそうだ)



 そして病人に部屋を閉めきり、香炉で煙らせ嗅がせていたから、七転八倒して苦しがっているのでも、今でいうマリファナ幻覚作用でモルヒネを注射したような鎮痛効果が現れ、すこし暴れてもすぐ落着いたものらしい。

 話は脱線するが、道中師とよばれた連中はその粉を煙草に混ぜて、金の有りそうなのに吸わせ、暴れだしたりすると、「狐つきだ」といって騒ぎたて、混乱にまぎれて胴巻きを掻払って逃げてしまうが、後に残されるのは燃えかすの灰だけだから、「護摩の灰」とよぶのだと、二鐘亭半山の旅日記にもでている。

 さて、話は戻るが、江戸時代にあっては、高麗人蔘とよばれたそれは大変貴重なもので、江戸では吹上御苑内と小石川の御薬草園で栽培されていたが、町医の手に安易に入るような存在ではなかった。

 なにしろ御三家の水戸でさえ、光圀が特に乞うて将軍家より苗木を分譲して貰ったが、それでも遠慮して、「お花畑」と栽培地を称していた程である。ここは元治元年の戦で焼払われてしまったが、今でも町名としては残っている。

 さて水戸光圀は、その長男松平頼常が高松十二万石をつぐ時に、内密に朱色高麗人蔘の根株を分け与えて持たせてやった。



 さて、水戸藩祖頼房の曾孫にあたる奥州守山二万石松平頼貞の三男頼恭(よりたか)が、元文四年九月に高松第五代の城主とし養子に入ってきた。

 「光圀公の御計いで密(ひそか)に分苗して貰った紅人蔘なるものが、栽培されているやにきくが、百聞は一見にしかず是非みたいものである」と二十九歳の頼恭は御林の中へ検分に行ったところ、水利の便がよくないのか気候の関係のせいか、あまり芳しくなかったらしい。

 「紅人蔘というは高麗にても珍しい品種ものといわれ、本邦にては一般には御止め薬にて将軍家のみ用いられ、その効き目で男女合せて五十名余の子宝さえ、上さまは千代田城でもうけていなさる。何もそれにあやかりたくて申すのではないが、枯死させるような事があっては大変であるぞよ‥‥」

 頼恭は厳しく家臣共にいいつけた。この結果、御典医池田玄丈が、「御林掛り」を兼務するよう命じられた。玄丈は四国では本草学の大家とされていた男だが、将軍家しか口にできぬような高貴薬の栽培改良には手をやいてしまった。

 すると、去度浦の海防用の番船などを蔵っておく倉番の者で、きわめて有能な若者がいることを耳にした。そこで玄丈が引見すると、一人扶持つまり一日米三合だけの給与しかない小者にしては、学もあり弁もたつ。

 そこで玄丈は、殿に願い出て、「四人扶持、お薬坊主」と破格な四倍の立身をさせてから、己れの助手にして御林の高麗人蔘の栽培に当てさせた。これが、「非常の人」とよばれた平賀源内である。

 さて、これは天下の秘薬であって煎じて服用すれば、あの方も将軍さまのように強くなるが、頭の方もよくなると聞かされて、「そうか、馬鹿につける薬はない、とよくいうが、馬鹿でないのが呑めばもっと賢うなるのかも知れん」と源内は、己れが服用したいばっかりに、御林の中の小屋へ詰めきって、一心不乱に丹精こめ栽育をした。

 テレビの「天下御免」ではザラメ砂糖を作りあげ、その褒美で長崎へゆくようになっているが、高松で精糖が成功するのはまだこれから一世紀も後の話で、ザラメのごときは明治の産物である。

 では、何故に長崎へやって貰えたかといえば、高麗人蔘栽培成功のせいである。しかし、藩主頼恭の思惑は長崎でより良質の人蔘をというのであったろうが、それは無駄だったようである。その代り、源内は本草学の田村藍水の門に学ぶことができた。

 当時は、支那本草学より脱却して、日本独特の本草学を開拓しようと、小野蘭山が、『本草網目啓蒙』四十八巻及び『本草記聞』十五巻を刊行していた頃である。

 高麗人蔘を栽培中密かに自分も服用し、もって頭脳明晰になったと自認する源内は、「百嘗社」とよぶ山野の草木から鉱石まで研究する、尾張御典医水谷社中の荒井佐十郎の力をかり、彼なりに高麗紅人蔘の分析や、その実験に出精をしたものらしい。

 が封建時代にあっては、将軍家だけのものとされ御三家の水戸や親藩十二万石の高松でさえ、内密にしていた紅人蔘を、源内ごとき民間人が研究するのは違法だったらしい。

 「門弟の一人と殺傷沙汰を起こした」といわれるが、判然としない理由で投獄され、安永八年十二月十八日牢内で一服もられ殺されてしまった。

 杉田玄白はその死を、「ああ非常の人非常の事を好む行いこれ非常なり、何ぞ非常に死せるや」と悲しみ、彼の友荒井佐十郎は「人蔘のため延命する者はあるが彼のごとくその為に死すは珍事」といっている。

 まあ、この源内の実像にふれたかったら『源内捕物帖』でも読むのが手取り早いかも知れない。

 ☆  ☆  ☆

 というように、とても医療と呼べるようなものはなかったようで、しいて言えば健康法が医療、それも予防学となっていたようである。江戸時代は人身売買が行われていたので、医療などという概念もなかったのだろう。

 戦国時代といえば、輪廻転生が信じられていたので、坊主にお布施をすることが、いつの間にやら、薬師寺系の坊主に祈祷願いをし、拝んでもらうことが、医療行為とされていたようである。





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Last updated  2013年03月14日 08時58分59秒
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