シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年03月15日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 よくよく考えてみれば、戦のなかった江戸時代に武士道が生まれた、ということは勝海舟も述べているが、とどのつまり、武士道がないものねだりの妄想であることがわかる。せめて、本多忠勝のような戦国時代に生きた武士の証言集とか、そういうものを残すべきだろう。

 だから武士道に関しては、いまの中国のパクリ製品を笑ってはいられない。武士道は、妄想が一人歩きしたものと考えてよいだろう。多くの庶民を戦地に送り、その犠牲により利益を独り占めしてきた連中の、庶民を洗脳するツール(道具)だったのである。

 だからこそ、事情を知る一部の連中のなかには、明治天皇崩御に殉死する乃木大将を、馬鹿馬鹿しく、白けた感じで思っていた話も残っている。

 武士道の話を調べると、日本の軍部の国民総奴隷化の愚民政策ぶりがよくわかるので、続けて、八切止夫作品集から抜粋紹介する。

 ☆  ☆  ☆

葉隠武士道

 後世で誤読されるようなものを書き残しておくと、古本屋に嫌われ「つぶし」にされてしまうのが助かりその本も残るらしいから、「武士道は昭和の世にもいきていて、汚職事件がおきると、日大の富沢のように古田会頭を守って行方不明になるものや、官庁でも課長補佐という人は、忠義とは死ぬこととみつけたりとみな自決して、伝統精神を守って死んでいった」といったものを書いてみようかと、愚かな私ゆえ、時には誘惑をも感ずることもある。

 なにしろ、そういう内容のものを書くようにと、私など依頼され要求されるからである。

 しかし、もの書きというものは、本質として泣く代り喚く代りに文字を書くのだから、癪にさわって立腹しないことには筆はとれない。



 なのに前述の東大助教授一人だけでなく、これまでの葉隠の解説者は、みな故意か偶然かこれを誤読して、おおいに武士道精神を押しつけようとする。だからして、もう今後はそういう間違いのないようにと、改めて、『葉隠』そのものを根本的に解明すると、この言葉が佐賀で初見されるのは、『竜造寺文書』あたりであろう。

 もともと鍋島家というのは、『史徴墨宝考証』によると、「鍋島氏の祖は詳かならず」とあるし、『九州治乱記』には、「本名を隠し、佐賀郡鍋島村にありしゆえ、それを姓となす」といった家柄で、竜造寺隆信の時代には、野武士のようなものだった。

 ところが、いつの時代にも、良い女は得をするが、良い男っぷりも儲かるもので、弘治二年(1556)竜造寺隆信の母が、鍋島清房に、よき後添えを世話してやるといったが、他に適当なのがいなかったのか白むくをきて、「嫁入りよう」の行列に自分がおもむいた。

 この四十六歳の花嫁に清房も困ったろう。だが鍋島の伜共は、おかげで当主竜造寺隆信の兄弟ということになってしまい、それから、それぞれ重く用いられることとなった。

 さて天正十二年のこと、島原半島で薩摩の島津勢と、竜造寺勢が戦うことになった。

 『ルイス・フロイス書簡』によると、竜造寺軍は長銃、長槍、長刀、弓矢の部隊二万五千で大砲隊もあったという。これに対する島津勢は有馬勢と共で計一万だったが背水の陣をしいて、これを迎えうった。島津勢は誘きよせ作戦をたて、故意に敗走し竜造寺勢を深田に誘きよせ落しこみ、身動きできぬようにさせ弓と鉄砲でうちとった。

 五島二州の太守と仰がれた竜造寺隆信も、ついに薩摩の川上左京亮に首をとられた。

 さて、このとき、鍋島の伜は、「ご思慮深ければ、葉隠れなされ進みたまわず、よって敵の奇計にあわず無事めでたく生還遊す」と、大将の隆信は首にされたが、そちらは『葉隠』したおかげで生きて戻った。

 すると四十六歳で鍋島へ再婚した寧子が、「隆信公御年譜」によると、「いまは鍋島清房の伜どもの飛騨守ならでは、天下に御奉公を申しあげ家を存続すべき者はなし、討死せし隆信と兄弟の首尾なれば」といいだし、隆信には伜の政家がいたが、孫よりも惚れた男の息子の飛騨守の方がよいと、ついに十九代まで続いた竜造寺家をつぶしてしまい、佐賀一国三十五万七千石の家を、鍋島飛騨守直茂のものとしてしまい、竜造寺政家の子の長法師は、これを直茂の養子にした。

 ところが不思議なことに、その長法師は慶長十二年九月六日。自殺か他殺か不明だが江戸づめで上京中。その妻と共に、なぜか夫婦で心中をしてしまうことになった。

 よって、ここにめでたく佐賀一国は、鍋島から竜造寺家へ戻すことなく、直茂の子孫があいついで、それが明治までつづいた。



 このため本物の猫族がどれ程の迷惑をこうむったか計り知れない。さて、話は前へ戻るが、この佐賀弁でいう、「ええことし」の鍋島直茂の伜の光茂に、山本常朝は仕えていたのだから、(自分も巧くやって、ええことしよう)と家老になろうとしたところ、その光茂から、「慰め方に使っている其方ごときに加増は遠慮ゆえ、志までに呉れてやる。年より(老臣)どもへの礼はいらぬ」と夜具だけ貰えた。

 そして、その後は期待したが何の音沙汰もなく、ついに光茂に死なれてしまい、新しい主君の替わったから追放同然となった。

 だから山本常朝の、『葉隠』の中の、「あわれ昔ならば、この蒲団をしき夜具をかぶって追腹仕るべきもの」といった心境は、本当は和辻哲郎や古川哲史の、ご都合主義の解釈とは違い、それは、(口惜しさ)の発露でなくてなんであろう。なにしろ夜具を一組あてがわれて死にたくなる話は、『廓物語』にでてくる江戸時代の、吉原へ初めて女郎に売られてきた十六歳のたねとよぶ少女が、最初の客をとらされたあと、首を吊る哀話と同じでしかない。

 さて、黒土原へひっこんだ山本常朝は、「もはや俺は人生の落伍者だから、この葉隠れに埋まってゆけばいいんだ‥‥」といった自嘲精神で、その表題につけたのか。

 それとも佐賀では(藩祖直茂公が竜造寺の三十五万石を、めでたくそっくり頂戴できた由縁にもとずく)と、『葉隠』とは結構な言葉なりと題名にしたか、そこまでは判らない。



 「葉隠れ武士道」などというのは、歴史的にはナンセンスでしかないことになる。日本には松下村塾で吉田松陰が用いていた、立派な武士道精神を伝える各書があるのを、どうして史家は勉強しないのだろう。戦国確定史料『当代記』でさえ読んでない老人の歴史家もいるから無理かも知れぬが「奴隷の思想」の押売りは困りものである。

 が盗作というのは何も今始まったものではない。佐々木味津三でさえ「改造」に書いた歴史創作物を、事実のごとくとられ、一年後のS誌で、Kに盗用されたのを難じたあとに続け、世にいわれる歴史なるものの大半は、(この場合のごとく作り話を他人が失敬してこしらえた)嘘と出鱈目ではなかろうか。

 古事記の稗田阿礼でさえ一個の物語作家だったろうし、歴史はくり返すというが、もっともらしい嘘や出鱈目が盗用され、やがては<正史>になってゆくのだろう」と、今から四十四年前にすでに「歴史の虚妄性」をといている。

 つまり佐々木味津三がいいたかったのは、「盗作はもってのほかだが、こと歴史関係に関しては、嘘や出鱈目も読みとれず盗用する輩が、正史さえ誤る者だ」の意であろう。

 さて、半世紀後の現代。堂々とテレビ放映で、「盗作だァ」とブラウン管に写された歴史屋さんがいる。彼の著の『埋蔵金』の本に対し、畠山晴行氏が自作の『埋蔵金物語』の原著と風呂敷包み二つの資料をもって対決し、「あなたが、その中で失敬しているのは、私が面白くご愛嬌に作った話だ。それをそのまま引き写しでは‥‥こりゃオール盗作だ」

 笑いながら繰り返しヤユされ、相手は無言のまま顔を伏せてしまった一場面がある。

 畠山氏が流行作家なら新聞種になったろう。が歴史屋さんの方が売れている人なので、このハプニングはそのままで終ったが、同氏の本の広告はそれっきり出なくなった。

 さてこれは埋蔵金の話だから、畠山氏が昔かいたのを古本で見つけてきて盗作しても、たいして一般的には害はないかも知れぬが、この先生は大学で歴史を教えているし、「歴史」種の刊行物が多いから、こときわめて厄介である。なにしろ日本には事大主義というのがあって、大学の教授だの文学博士だというのが権威をもち、一個二、三百円の土碗でもそういう人が箱書をすると十万円にもなり、また、その著の中で片っ端から、「名物」といったリストへ色んな名称を並べ列記。

 それに合わせたものは数百万円にさえ土碗がなり、古道具屋さんが儲かるという。こうなると盗作だけでなく、ジイドの小説の題名みたいなことにもなりかねない。

 ☆  ☆  ☆

 つまり、葉隠れ武士道とは、戦場に行かずに、主家を乗っ取ることで、ゴマすりの書である。実際の戦場の話よりも、このような妄想の話が一人歩きするのは、歴史家が権威に胡坐をかき、いかに怠慢であるかが伺える。





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Last updated  2013年03月15日 12時09分38秒
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