シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2013年08月23日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。

 ☆  ☆  ☆

時間は瞬間が連続したものではない と、今ここではっきりと申しあげておきます。

 椅子やテーブルが空間を占めているように、貴方が話す台詞や、演技は、時間の枠内で展開しているように見えます。しかし、そう見えるのは、貴方自身によって「前もって」設定したシナリオのせいなのです。しかも貴方はその芝居の間、それらを実在する本物として受け入れねばなりません。

 例えば、「午後4時」という時間の指定は大変便利です。友達に「それじゃあ、あの場所(レストラン)に午後4時にね」と指定できます。そうすれば、飲みにいくにしても、話をするにしても、食事をするにしても、友達はいつどこで貴方を見つければよいのかを正確に知ることができます。

 「午後4時」それ自体に意味がなくても、合意が成立している、という理由で、便利さが生じます。その「合意」を厳かに「紳士淑女協定」に置き換えてもかまいません。

 さて、貴方が演じるために、午後9時に舞台へ行ったとしましょう。しかし、芝居の場面は朝であり、登場人物たちが朝食をとっている場面だとします。貴方はそのとき、芝居で設定された時間を受け入れます。貴方も、実際に朝であるかのように感じるのです。

 貴方がた一人一人が、舞台よりも遥かに大規模な芝居の制作に関わっています。そこでは、芝居を成立させる枠組みとなる基本的な前提に合意しています。



 貴方がたが同様な理由で受け入れている基本的前提には更に、知覚全ては、体の感覚器官を通してなされること、言い換えれば、情報は全て自己の外側からくるのであって、内側から得られることはない、という概念も含まれます。

 こうしたことからもわかるように、貴方がたは当の芝居の演技に極力集中することを余儀なくされているのです。さて、それら変化に富んだ芝居、すなわち時間進行による創造性豊かなドラマは、貴方がたの言う「輪廻(りんね)転生」を表わします。

 それぞれの転生は、基本的に同時に存在します。「輪廻の存在たち」と題されるような極めて複雑に感情の交差するドラマという集中講義に、いつまでも拘っている人々にとっては、その転生の向こう側を見ることは困難なのです。

 なかには、いわば芝居と芝居の狭間にあっても未だに芝居を演じるものたちと意思疎通を図ろうとする存在もいます。しかしそうした存在たち自身とて、舞台の袖にいるだけで、そこから眺めているだけにすぎません。

 こうしたものとの意思疎通において、1つの芝居の前にまた別の芝居があった、というように見えるため、時間とは瞬間が繋がったものであり、思いがけない始まりから同様に予期できない終わりまでの一直線に沿って経過してゆく、といった誤った概念を強めてしまうようです。

 このことは貴方がたを、個人的にも人類全体としても、極めて制限された進化論(ダーウィンの進化論)に基づいた思考をするように導くことになります。貴方がたのなかで、これまでに輪廻転生を探求の対象にしたことのある人々でさえ、「中世と比べて、人類は確実に進歩していなければおかしい。」と考えます。

 しかし本心は、実際は進歩していないのかもしれない、という危惧を抱いています。あるいは技術の進歩のみに注目して、「我々は少なくとも、科学技術の面では、かなりの進歩を遂げていますよ」と言います。

 おそらく貴方がたは嘲笑して、例えば古代ローマの元老院議員が、マイク片手に群衆に話をしているところや、その子供が父親の演説をテレビで観ているところなどを想像するのはほとんど不可能と考えるでしょう。

 しかしこうした憶測全ては、貴方がたを誤った方向へと導きます。進歩は時間と同様に、貴方がたが考えるような視点で起きるものではないからです。

 それぞれの芝居には、個人レベルでも全体レベルでも、異なる問題が設定されています。進化が起きたかどうかは、そうした問題が解決されたか否かによって、特定の方法にもとづいて判断されます。

 いくつかの時代において、特筆すべき大進化が起きました。貴方がたの見地からは進化とは見なされない可能性もありますが、重要な人物の出現も、その1つの例なのです。



 私は芝居という比喩を用いていますが、ここで言う「芝居」とは、役者たちが芝居という枠組みのなかに限っては、全くの自由が許されるという、極めて自発的なドラマを言います。そして、既に述べた基本的前提を認めることと引き換えに、リハーサル抜きの上演が行われるのです。

 この書でも後で明らかになりますが、それらの芝居には観客もいます。傑作と言われる作品がいずれもそうであるように、それぞれの芝居には、全体の主題(テーマ)が存在します。

 例えば、偉大な芸術家たちがある特定の時代に輩出した理由は、ただ単にその人たちがその時代に生まれただけであるとか、好都合な条件が整っていたからというわけではないのです。

 (著者の注釈〔セスによれば、私たちは、自身の輪廻全ての「転生」において、生きる時代や場所を自分で決めているという。〕)

 その偉大な芸術家を輩出した時代(ルネッサンス)の芝居で重要だったのは、直感的な真実を、強烈かつ圧倒的な存在のなかにある創造性をもって、貴方がたが芸術と呼ぶ形へと具現化させることでした。このことによって、それぞれの役者の隠された能力の覚醒を助け、行動の規範となることができたのです。



 芝居ごとに挑戦課題や努力目標はまちまちでありましょうが、偉大な主題(テーマ)は全ての意識にとって光明となり、また模範(モデル)として貢献するのです。

 進化は、時間とは一切無関係に起こります。おわかりになりますか。しかし、進化は精神、もしくは霊的な焦点に関係して起こってきます。それぞれの芝居は、それ以外の芝居とは全く別物です。

 従って、今回の転生での貴方の行動が、その前の転生(前世)に起因しているとか、過去世(前世)で罪を犯したために今世でその報いや罰を受けることになるとする推測は正しくありません。すべての転生は同時進行しているのです。

 貴方自身の多次元的人格は、体験の場数を踏みながらも自分という存在を維持できる資質を賦与されています。その存在が、出演している様々な芝居によって影響を受けていることは言うまでもありません。

 そうしたなかには、瞬時のコミュニケーションと、望めば瞬時のフィードバックが得られるシステムが存在しているのです。

 芝居は無目的に上演されることはまずありません。多次元的人格は、芝居のなかで自らの演技を通して学びます。行動パターン、姿勢、態度などの点で、際限のない試みがなされ、その「結果」、他者を変化させる可能性もあります。

 この「結果」という言葉には、その前に原因がある、というような、自動的に因果関係を仄めかす性質があります。これは、現存する真実の歪曲の堅固さを示すもので、また、常に直線的な表現が要求される、という言語に従う思考に特有の障壁の小さな一例にすぎません。

 (時系列ではなく、結果=原因ということもある。)

 貴方がたはいわば、こうした激しい感情を伴う宇宙規模の芝居を創作し、それらに自分が出演するという、幾つもの配役をもった多次元的自己に他ならないのです。貴方が現在の役柄を、自己の完全な表出である、と見なしているのは、貴方自身が、その特定の役柄に焦点を合わせているだけにすぎません。

 貴方には理由あって、自分自身にそうしたルールをあてがっています。意識は、常に「何かになろうとしている状態」にあります。ですから、私がお話している多次元的自己にしても、すべきことがもはや何もない完成した精神というわけではないのです。多次元的自己も「何かになろうとしている状態」にあります。

 それは「何かになろうとする」、つまり実現化という技芸を学んでいるのです。多次元的自己はそのなかに、無限の創造性の源と際限のない進化の可能性を秘めているのですが、具現化の方法をまだまだこれからも習得していかねばならず、明かされていない被造物を実在へと導く方法を、自分自身の中に見出さなければなりません。

 多次元的自己は、自ら、そのなかで動き変化していくための、変化に富んだ状況をそうした理由で創作するのですが、そのときに己に課する努力目標をも盛り込むのです。なかには、貴方がたの見地からすれば、少なくとも当初は失敗と見なされる運命にある努力目標もあります。

 こうした試行錯誤は、多次元的自己が、新規の被造物を生むことのできる状況を、予め創り出す必要があるためになされるのです。そして、こうした全ては真の自発性と無限の喜びのなかで行われます。

 (失敗は成功の素。)

 従って、貴方がたは自覚しているより、遥かに多数の「環境」を創り出しているのです。さて、現在ある役柄を担って芝居に専念している個々の役者には、それぞれに内なる指針というものがあります。

 よって、芝居が自作であることを忘れてしまっていても、誰も置き去りにされたり、見捨てられたりすることはありません。それは役者の誰もが、私が「内なる知覚」と呼ぶものを通してもたらされる知識や情報を持ち合わせているからです。

 それゆえ、役者たちは作品という枠内で、厳格なる統制のもとに与えられる情報以外にも、さらに別の情報源をもっていることになります。それぞれの役者はそのことを本能的に知っています。そして芝居自体にも、役者たちが元気を回復したり充電したりするために、休むことが許される期間が設けられています。

 そうした休息期間のあいだには、内なる知覚を通じて別の役柄についての情報ももたらされますが、いずれの芝居のなかの自分と比較しても、今の自分がずっと自分らしさを演じられると感じるのがこの期間なのです。

 その期間にあれば、誰もが芝居の脚本が自作であることが理解でき、芝居のなかでの活動に積極的に関わる間に自分を拘束していた基本的前提からも自由になれます。そうした期間は言うまでもなく、貴方がたの睡眠や夢見の状況とも符合するものです。

 また、それとは別に、役者の一人一人が芝居の設定に従っていることも非常にはっきり自覚でき、自分の視覚が広がり、現実と見えていた作品(芝居)を突如として突き抜ける時があります。

 (芝居の役を演じきっているときよりも、演じきれていないときのほうが、芝居全体を見通すことができる。)

 これは芝居が現実ではないとか芝居を真剣に捉える必要がない、という意味ではありません。芝居の意義は、役柄を演じるところにあります。それも重要な役柄を、です。

 しかし個々の役者は、芝居の作品や、そこでの自己の役柄の本質を自覚しなければなりません。そのうえで芝居の一場面という三次元的な範疇を超えて、自らを具現化しなければならないのです。

 それほどにゆゆしき作品の背後には、壮大な援助と協力が控えています。そして、それぞれの役者は自分の役柄を演じるなかで、まずは三次元の枠内でみずからを具現化します。多次元的自己は、自らの一部を三次元で物質化するまでは、三次元的現実のなかでは活動できないのです。

 ☆  ☆  ☆

 次回に続く。





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Last updated  2013年08月23日 15時01分26秒
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