シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年01月28日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回は、日本人の弱点ともいえる集団催眠や洗脳に罹りやすい古代の集合自我の名残についてのシュタイナーの話について紹介した。日本人位、「日本人」を持ち出す人が多いのに、そのことがわかる。実はこの話自体も…。

 日本には様々な宗教が到来しているのにも関わらずに、皆同じ考えをもっているかのように語るのはおかしい。俗に島国根性といわれるが、何も日本だけが島国ではない。フィリピンだって、マレーシアだって島国だが、島国根性がいわれることはあまり聞かないし、東南アジアには島国が多い。

 どうも、日本にはいまだ江戸時代、特に中世以来の集団意識が残っていて、明治維新は表側の看板だけ付け替えたように思えてならない。戦後に至っては、戦時中に前線に送られた者と送った者とが、同じ日本人犠牲者として語られているのは、日本古来の曖昧な自我(集合自我)の認識からくるものと思われてしかたがない。

 そういうわけで、洗脳の対象となる集合意識を自らで克服するために、必要な話をシュタイナーの話から抜粋紹介する。

 ☆  ☆  ☆

カイン(神殿伝説)とアベル(黄金伝説)の統合へ(改変)

 祭祀の原理の根本は、事実を自ら究明しようとせず、他の誰かに与えられた理由なるものをそのまま受け取り、それに満足する態度にある。

 (このアベルの意識は、古代の人間の集合自我「自己意識」のことである。)

 人間の能力を超え、人間に与えられた贈り物という言葉の本当の意味は、人間に生殖を可能にした生命の創造力である。



 (略)

 では、カイン(個人的な自我)は神に何を捧げたか?

 彼は、(地球の)土地を耕しながら、自ら働いて得たもの(知識)、畑の作物として収穫したもの(芸術)を、神に犠牲として捧げた。彼は人間の技術、知識、叡智を必要とした贈り物を犠牲として捧げた。

 その贈り物は、人間が明確に見通せるもので、人間自らで創出したもの、精神の自由と自覚とを基礎にしたものである。

 しかし人間は、この贈り物を神に犠牲として捧げるには、自然を破壊すること、つまり罪を犯すことでしか達成できない。

 (造物主の神が造り賜った生命を壊すことでしか、人は神に贈り物ができない。)

 すなわち、自然、もしくは神々の本当の創造力により与えられた生命を、カイン(個人的な自我)が、アベル(集合的な自我)を殺したのと同じように、殺すという罪を犯すことでしか、人間は神々に贈り物ができない。しかし、反面、人間は罪を犯すことで、自由への道にも到達できる。

 (神々の贈り物を殺す「拒否する」ことでしか、神々に贈り物ができない。とどのつまり、集合意識を拒否することで、自己意識に目覚めることができる。)

 神々により予め宇宙の中に造り出されている全て〔せいぜい後から人間が手を加えることしかできないもの〕や、神々が人間に与えた全てや、人間のたゆまぬ努力で創られたのではないものは、人間自らの意志(自由意志)で支配できない自然界である。

 また人間は、植物界、動物界のどれをも、人工的に創り出せない。つまり、生殖力(自己認識力)は、自然により人間に与えられた。

 我々人間が、生命あるものを自分たちのために利用し、生命あるものから造られた地球環境を我々の居住地とする限りは、アベル(古代人の集合自我)が自分たちに与えられた獣(精神的な幻想)を犠牲として捧げたように、我々現代人たちも与えられた獣(物質的な幻想)を犠牲として捧げているのに代わりはない。



 〔シュタイナー「新しい形式の帝王術」-「神殿伝説と黄金伝説」所収/国書刊行会/P280-281〕

 ☆  ☆  ☆

 与えられた自己を自己として認識しているようなら、与えられた自己に埋没しているだけで、それでは自己の奴隷で、没個性になってしまう。人間には、自由な、自分で創り出す真の生殖力、つまり自己開発力が眠っている。これが、キリスト原理の再来、再生、つまり蘇りである。

 このことは、サッカーなどの組織的スポーツのなかでよく語られる。日本人選手にチームプレーというと、チームのために自己犠牲になると考える人が多い。代表に選抜された選手にもこのような馬鹿げたことを言う人がいる。

 それでは、チームのために犠牲になるような没個性の選手を代表に呼ぶのがおかしいといわれてしまう。チームと個性が戦いの場となり内紛の場となってしまう。こういうチームでは、失敗の度に、誰かを犠牲にしないとすまなくなり、終始、批判合戦になり、プレーが消極的になり、冒険を犯さなくなり、プレーを楽しめなくなってしまう。



 本当の個性とは、環境が変わっても出てくるものである。むしろ、環境が変わるほど、個性が生きてくるはずである。強いチームとは個性の集まり、それも相乗効果を発揮するものである。個性がチームで生きるから、チームが強くなるのである。

 個性がチ-ムに染まるのではなく、個性がチームを染めるのでなければ、見ている側だって楽しめるものではない。

 とどのつまり、日本では、以前紹介した「カオナシ君」にしばしば遭遇する。議論にしても、なんだか評論家のような上から目線の意見が多く、個性的な意見はほとんどない。TVでやっている議論などは、聞いている自分が恥ずかしく思うことがよくある。自分の人生を生きていない連中が多い。

 またスポーツ選手を題材に出して申し訳ないが、日本の選手は、どこぞの優秀な選手になりたいとよく語るが、将来を夢見る子供ならわかるが、外国の選手はまずそういうことはほとんどいわないことだけでも個性が感じられる。

 例えば、メッシはマラドーナとよく比較されるが、その発言をみると、自分はマラドーナではない、とはっきりと応えている。ジーコもペレと比較されると、ペレではないと迷惑そうに応えていたそうである。

 日本人選手は、逆に自分から有名選手に準えるのを好むから、没個性である。

 日本にはいまだに中世の仲間意識のような集団自我が残っているような気がする。それはイチローがメジャーで活躍しているときは、日本人の代表という仲間意識をもっていたようだが、活躍しなくなると、仲間意識にあまり触れないように無視する姿勢をとるようなもので、日本のマスゴミの態度にはっきり現われている。

 良いときは日本人、悪いときは日本人離れしていると差別するのである。

 この差別の裏にあるマスゴミの姿勢は、人気で儲かればよいし、かといって損はしたくない無責任な物欲が実体なのである。

 この株のように上がったり下がったりするような、どうでもいい仲間意識を克服すべき時代に日本がきていることだけは確かである。

 この集団催眠や洗脳で、都市や国家の命運を決めてしまうほど没個性で、馬鹿げたことはないだろう。中世の国々が滅んだのは物質的というよりも、この精神性に負うところが大であるように思えるからである。





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Last updated  2014年01月29日 15時04分43秒
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