シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年05月13日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。戦国時代を扱った出鱈目ドラマで出鱈目な代表例は、男が強く、女がか弱いように描かれていることである。以前紹介したが、「家康に過ぎたるもの2つあり、鹿の角と本多平八」と謳われた徳川四天王の一人本多忠勝が、当時の女性の強さを説いている位だから、近年の価値観が通用しないのは言うまでもない。

 例えば、出鱈目ドラマではよく秀吉が信長に「サル」と呼ばれるシーンがあるが、秀吉はサル顔ではない。以前紹介したが八切史観では、以下の話がある。

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秀吉は猿顔ではない

 信長は秀吉を「猿女(さるめ)」と呼んでいたのだ。猿女とは元は反体制派の部族の名で女上位だった。なので、幕末までカカア天下のことを猿女と言っていた。

日本原住民系は女尊男卑、千代の名の由来

 男が強かったのは南北朝時代の一時期のみ。千代は江戸時代まで男の名。
 由来は女から犬みたいに「チョっ」「チョっ」と舌打ちして呼び付けられていたから。
 俘囚の裔の武家に松千代とか竹千代とかいう幼名が多いのはそのせい。



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 というように、太閤まで上り詰めた秀吉が正室ねねに頭が上がらなかったのは、ねねの浅野家が織田家の軍事を担っていたことと、秀吉が女性上位の社会に生まれ育ったことにあることを八切史観は説いている。それは信長も同じであったことがわかる。信長が織田家の家督を継げたのは、舅の斎藤道三の美濃の勢力が大きい故であるそうだ。

 尾張勢力は弟信行についたが、信長の正室の奇蝶が道三に知らせて、安藤伊賀の軍勢の支援を受けて、信長が織田家の後継者になったことを、八切史観は説いている。

 信長は奇蝶を中心とする美濃勢力の御蔭で織田家の勢力を拡大できたが、尾張勢力ばかりを優遇し、美濃勢力を使い捨て同然にしたので、奇蝶の怒りを買って、本能寺の変を招いたということも八切史観では説かれている。

 つまり、戦国時代では、女性上位だったことがわかるので、前回に続けて、その八切史観を紹介する。

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赤だし謙信(改変)

 かつて『信長殺し、光秀ではない』を発表したときは、故日本歴史学会会長高柳光寿先生も「家康が光秀遺愛の槍を家臣の水野勝成にわたすとき、汝も光秀にあやかれといっている程だから、当時としては信長殺しは明智光秀ということはなかったようである」と裏付けしてくれて、他の歴史畑の人も何もいえずじまいだったが、さて、「謙信は男か」を連載小説とし読売新聞夕刊にかきだしたときは大変だった。

 「これが男かああアア(男っぷりの良さ?)」といった演歌調に早とちりした方が多かったらしく、「謙信公博覧会開催の講演に来い」などと地元からいってきて断っているうちに、あっという間に謙信ブームになった。

 ところが私の解明した事実とは「吉良上野の伜が上杉家へ養子に入ったところ、赤穂浪士が本所松坂町へ乱入したあおりをくって、十五万石に減封されたので、なんとか会津百万石の頃の半分もしくは三分の一にでも戻してほしいと、江戸時代に高野山へ祈願をたてる時に想像で書かせた(お馴染みの)画の無精髯のおっさんの謙信」ではなかったのである。



 十六、七歳から四十二歳までの間は、いくら激戦中でも毎月十日になると、「腹がやむ」「馬にのれぬ」と停戦し、静かにひきこもってしまった一人の人間である。

 現行の太陽暦と違って昔の太陰暦は一月が同じで、うるうもかためて一月にしていた。だから、ぴったり毎月十日からはそれにひっかかった。つまり世にいう永承四年九月十日の川中島合戦を「血ぞめ合戦」と特にいうのも、その血に意味があるからである。

 武田信玄が、やがて謙信が腹痛だ馬からおりたい、といいだすだろうと見当をつけ、前半は悪戦したが持ちこたえ、後半において盛り返して勝ったのである。

 その証拠に上杉史料では(アンネのため甲斐勢に裏をかかれ、せっかく信玄の弟をうちとり、信玄やその長子まで傷つけした大勝を無にされた)とは書きにくいから、この大激戦は「川中島五度戦記」からも削除され、無かったことになっている。これは周知の事実である。

 さて、昔は回虫が多く体内から出る長虫をみて、「生きとる、動いとる」とびっくりした人たちは、それが寄生虫とは思わず、人間を操るエンジンとでも考えたらしい。そこで、「腹の虫がおさまらぬ」とか「虫が好かぬ」から始まって、ついに子供のひきつけを「小虫」とよび、女性のあれは「大虫」の仕業ときめつけた。



 さて大虫とはアンネ、つまり「赤」という連想から、ショウユを紫というごとく、「赤ミソを大虫」といういいかたもある。

 式亭三馬の「浮世床」にも、「おめえんちの雑煮は大虫かい」などとでている。今では、「赤だし」と、そのものずばりに大虫をよぶからして、知らずに呑んでいる男が多いようだ。

 だから、伊勢亀山城主松平忠明のつけていたという当時の日記の「当代記」にも、越後景虎つまり後にいう謙信は「大虫で死んだ」つまり婦人病で死んだのだと明記されている。

 常識で考えても、男が婦人病で死ぬのは変だからと「謙信は男か」を書いたのだが、それがブームになると、「なんで石原祐次郎や石坂浩二の謙信が女なのか」、「NHKのテレビをよくみろ」といった文句がまいこんできて、本当に泣かされてしまった。

 (大河ドラマのほうが出鱈目!)


 ・・というのは、いつかは自分の誰かにテストされ試されるであろうかと山周理論の考察で心配のあまり、私はくる手紙や葉書に対して、忙しい時は口授筆記にしているが、神経質になって全部返事をだすたてまえをとっていたので、忍術(八切史観では創作)と謙信の二つでカナエの軽重をとわれて、どんどん投書を貰うと、この返事におわれ小説をかいている暇がなくなったのである。

 がこの頃の世の中は慌しく、テレビの放映が終ると、もう上杉謙信のことも忘れられてしまう。だから謙信女人説も消え去ってしまいそうなので、私の打ち明け話をつけ加えておく。

 これに(謙信が女だと)気づいたのはスペインへ行き、マドリッドの先のトレドへ行った時、そこのスペイン革命時代に城砦になっていた司書館の中の十五世紀から十六世紀の舟乗りや宣教師の報告書の綴りの中に、「上杉景勝の伯母」として政虎のことが、佐渡金山に関して書かれているのに目がつき、後述するが「政虎=伯母」とは、世に伝えられる上杉謙信は女人ではなかったかと驚き、それからせっせと裏付けをとって調べたところ、明治二十二年からの史学会雑誌が入手できたり、越後長岡の「山本ごい文書」が見つかって、はっきり女人だったと判ったからであるが、そん
なことにせっせと骨を折っても誰からも賞められはしない。かえって眉ツバ視され、「彼奴はバカだ」の一言で片づけられるような羽目にもなった。

 つまり賢い人間のやることではないのを、せっせとスペインまで往復してやるごときは「われ愚かなりせば」の一言しかないようである。

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 謙信については、以下の八切史観の話もある。

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 「白山神信仰」のオシラ様の御神体が男女一対となっているのも、なんとかして原住民どうしの男と女が一緒に暮せる世の中が来るようにというので、その悲願を込めて祀ったもの。

 ところが、「白山島」と幕末まで呼ばれた今の新潟では「白」を上につける神社や御堂のみな古いものは毘を旗にしたイワカメシイ女武者である。

 江戸期のものは黄と黒の楯縞を着た女人が馬の背に跨るもので、明治からの義務教育で「韓信の股くぐり」が修身の教科書で教えこまれたので、上杉於虎が父の名を継ぎ景虎、将軍家の名を貰って輝虎となった。

 その死後には、姉阿亀の子の喜平次景勝が跡目を継ぎ、男系相続の徳川期では「兼信」と男女兼用の戒名をつけ、それを甲陽軍鑑の今の講談師のはしりが、武田信虎をやはり戒名の信玄で、張扇を叩いたから、それへの対抗上か、語り口を合わせるために、もっともらしく「謙信」にしてしまったのが本当のところである。

 が、学校で「韓信」を教えこまれ、明治三十年代に頭山満指導の桃中軒雲右衛門の「銘々伝」に「神崎与五郎の馬方の股くぐり」が広まったので、謙信と韓信がごっちゃになってしまい、「股くぐり姫」などと新潟は御神体を呼ぶ。

 死せる子はみめよかりきで、女は死ぬと美人にしたがるが、おそらく於虎はブスな大女でアバタだらけゆえ、いつも頭巾をしていたのだろうが、加賀の一向宗道場の坊主の率いる軍勢にいつも苛められていたから、女将として対抗したのは、現世では人外の者でも仏果によって来世は常人となると原住民を煽動して攻め込んで来る彼らに、女上位の体制を示して畏怖させねば、とても打ち払う事ができなかったからだろう。

 サンカ集団として春日山の鉢形城で天下に怖れられた上杉於虎は、上京のたびに時の将軍足利公方の奥方の許に滞在している。

 もし通俗歴史でいうごとく男だったら、足利将軍家が、女は他にいくらでもいるからと、御台所を滞在中は提供していた事になるが、まさか戦国時代の初めでも、室町御所の権威というか見得がある。将軍家が妻御台所を在京中は貸している筈はない。

 ということは、紛れもなくケンシンと俗称される者は女体だったせいだろう。

 富士山頂に木花咲耶姫を祀ったり、裏日本ではきわめて女上位であったのは、今もモンゴルでは、長男が嫁取りすれば、弟共は我慢ならぬ時に御裾分けしてもらっていて、よって女に対しては頭の上がらなかった慣習が裏日本へ入ってきたモンゴール系の慣習であったからである。

 それゆえ表日本の静岡あたりには、「姫街道」といって娘達を集団で連続的に市場へ運ぶ名称が今も残っているが、裏日本には全くそうした地名は残っていない。男共がみな必死になって女人を守ってきたからである。

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 女性上位社会が、男性上位になったのは、八切史観によれば、大奥の権威を畏れた柳沢吉保の陰謀で、江戸元禄期からだそうである。





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Last updated  2014年05月13日 18時33分33秒
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