シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年10月16日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 大人と子供の試合のようなサッカーのブラジル戦をみて、この国の教育の弊害が、暗記一点張りの奴隷教育にあることがわかった。ブラジル戦から、ブラジル選手は運動量では日本選手より少ないが遥かに得点能力が高いことがわかった。つまり効率よく得点をとっているのである。

 これはどういうことかといえば、得点に絡まない無駄な動きが少ないことになる。それには無駄かどうかを考えてプレーしなければならない。考えてプレーするようになるから思考力がつく。

 外国の一流選手からよく指摘されるのは、「日本の選手は無駄な動きが多い」である。そして結論として、経験の少なさを指摘される。

 つまり、海外の人がよくいう「日本人は無駄な仕事が多い。非効率である」と被るのである。

 だから、日本のコーチは、考えながらプレーしろ、とよくいうのだが、前回紹介したシュタイナーの話からもわかるように「考えながらプレーする」のは非現実的である。つまり、プレー中に考えるのは困難なんで、プレーしていないときに考えないといけないわけである。

 だから、日本人選手はボールをもたないときに考えてないのである。ボールをもっているのは1人だから、現場では10人の他の選手が考えていないことになる。ブラジル選手はボールをもたなくても、考えているわけである。

 勿論、考えた通りにいかないことが多いが、少なくとも自分が行ったプレーが良かったのかどうかを吟味できる。

 日本と海外の大きな違いは休息の取り方にある。海外は休息中に自分のプレーや仕事を客観的に考える。仕事やプレーに夢中になっている日本人にはこの発想が欠けている。休息を粗末に扱っている。だからまた、海外では、自分で納得しない仕事はしないのが基本であるし、評価されないと転職も厭わない。

 日本という狭い社会では、がむしゃらに働けばそれなりの地位につけるかもしれないが、海外では、ただがむしゃらに働くのは奴隷と同じとみなされるだけである。それに日本には依怙贔屓の癒着や権力の太鼓持ちなどの不正行為でそれなりの地位につくアホバカもいるので、このがむしゃら馬鹿の一つ覚えの奴隷突撃行為が奨励されてしまう。過労死するのはほぼ日本人だけである。



 そのため、海外の選手は、例えば、得点圏内に侵入したのに、パスをくれないとボールをもつ選手に「俺の動きを無駄にしやがって!」と文句をいうのである。日本の選手は正確でなくても、ボールをもつ選手が自分の方にパスをくれたことに満足する。

 海外の選手はボールをもつもたないに関係なく平等で、日本はボールをもつ選手が権利を握っている。つまり海外ではボールに囚われず自由に動け、日本ではボールに囚われ不自由になっている。だから日本はボールの支配率は高くても、得点効率が悪いのでゲームには勝てない。ボールを持っている時間が長ければいいと思い込んでいる。

 このような思考力よりも暗記や自殺行為の馬鹿の一つ覚えというのを重視するのが日本の奴隷教育の特徴である。

 つまり思考力に重点を置いた教育が皆無で、だから自由な行為や発想が出てこない。だから学校で教育を受けなかった人の方がむしろ自由で、柔軟で、個性的なんである。

 一般的に高校の教育までは日本人は国際的に優秀といわれる。しかし単純にいって、高校までに習うものは誰かが発見したものや方法で、つまりそれらを覚え真似るだけの、換言すれば、暗記だけで済むのである。

 高校から先の大学になると、応用力がある程度必要になるので、暗記だけで解決してきた問題以外に遭遇するため、頭打ちになる。しかも日本の大学は入ったらおしまいのエスカレータ式で、研究意欲に極めて乏しいレベルにある。いまだに入学時の偏差値でランキングしている位である。

 つまり教科書馬鹿を養成しているだけなんである。ただ暗記するだけで、自分の頭で考えようとしないから、どれもこれも論語読みの論語知らずとなる。これは学生や生徒だけの問題でなく、教え方にも問題がある。

 教科書を書き換えるのには勿論、教科書を覚えることを否定するわけではない。しかし、ただ覚えただけではダメで、覚えた内容がどういう意味をもつのかを考えないと何もはじまらないというわけである。

 そのような教科書馬鹿、教科書を沢山覚えた自慢アホバカにならないために、シュタイナーの自由の哲学の紹介を続ける。

 ★       ★       ★

 前回に続き、「思考」の重要性についての基礎を述べるので、少し難しいところもあるが、少し詳しく見ていく。



 概念や理念は思考からはじめて獲得される。それらは思考を前提にしている。従って、思考は自身を基礎にし、他の何者からも規定されない本質をもつので、思考を概念に当てはまることはできない。(P74)

 例えば、木を観察する。思考が、木という観察の対象に、観念上の対応物を結びつける。思考の後で、その対象が目の前から消えても、その観念上の対応物は残る。それが、対象の「概念」である。

 もちろん、そうした「概念」は、その他諸々の「概念」と「法則的な形で全体のなかに互いに関係づけられる」。しかし、そうした概念は思考からはじめて獲得される。

 また、次のことも重要である。

 概念を観察の中から取り出すことはできない。(P74)



 そうした「思考」と「観察」を結びつけるのは、人間の「意識」という場である。

 概念と観察とが出会い、互いに結び合うのは人間の意識という舞台である。人間の意識を特徴づけるには、次のように考えるとよい。

 「意識とは、思考と観察の仲介者である。」

 対象を観察するだけなら、対象は外から人間にただ与えられたものとして現われるが、その対象を思考する場合、人間は、その対象を内に取り込み、自分を能動的な存在にする。対象を客観化し、自分を主観化する。

 つまり、思考を観察の対象に向け、対象に意識を向ける一方で、思考を自分にも向け、自分についての意識も持つ。つまり対象についての意識と同時に自己の意識を持つようになる。

 人間の意識は思考する意識なので、必然的に自己の意識にもなる。なぜなら思考を自身の活動に向けるとき、思考は自らの固有の本性である主観を、客観として扱うからである。しかも、人間は、思考の助けをかりて自分を主観に設定し、自分と対象とを対置する。

 だから単純に思考を主観の働きと解するのは間違いである。思考は主観と客観の彼方にあり、この二つの概念を他の全ての概念と同じように作り上げる存在である。(P76-77)

 思考は、主観と客観という両概念を超えるものである。

 思考が外の対象に向けられれば「客観」と呼ばれ、内の自分の意識に向けられれば「主観」と呼ばれる。思考により、人間の「二重の本性」が生まれる。これについては、後に詳細に見ていく。このような視点から「思考」を検討していくことで、最初の疑問の一つである「認識の限界」の問題に迫っていく。

 人間の二重の本性は次の点に基づいている。第一に思考により自分と外界を包摂する。第二に思考により自分を外界の事物と向き合う個体にする。(P77)

 そこで次のような疑問が生じる。

 「では一体、思考により意識のなかに持ち込まれた、これまで観察の対象と名付けてきたものは、どのような形で意識のなかに入ってきたのか?」

 この疑問に答えるには、観察のなかから思考により意識のなかに持ち込まれたもの全てを取り除く必要がある。というのも、その時々に意識のなかに持ち込まれたものが、多様極まりない形で概念と絡み合っているからである。

 そこで次のような光景を描いてみる。完璧な知性をもつ人間が、無から生じて、いきなり今、外界と向き合う光景を考察する。そのような人間が、思考する前に行うものが、純粋な観察であろう。

 その純粋な観察から、外界は、この人間に対して、色、音、圧力、熱、味、匂い等が互いに関連を持たない、単なるガラクタの寄せ集めでしかない知覚しか与えないだろう。それに対して、快、不快の感情も働くかもしれない。

 このようなガラクタの寄せ集めが、何の思考も得ない純粋な観察の内容である。このような観察の内容に対して、思考は、はじめる切欠を見つけ次第、活動を開始しようと待ちかまえている。そして、その切欠の見つけ方を経験が教えてくれる。

 思考はある観察の対象から別の観察の対象へと糸を張り巡らす。そして観察の対象に対応する概念を結びつけ、それらをある関係下におく。(P77-78)

 そこで、これから私(シュタイナー)は1つの言葉を用いるが、この言葉は色々な意味に使われているので、読者との合意を得ておくのがよいだろう。上述の、思考を得ずに、直接知覚した対象を「知覚内容」と名づける。

 これは意識のなかの主観が、観察を通して、対象についての情報を得るときの言葉である。従って、観察の対象に対して名づけるものである。(P78-79)

 ★       ★       ★

 というように、非常に難解な話である。簡単にいえば、人間が見る景色はその人の思考に依存する、ということなのだろう。思考が不自由ならば、景色もどこか不自由にしかみえないわけで、行動の選択肢も限られてしまう。

 例えば、ボールをもっている選手しかみていなければ、ボールに囚われた動きしかできなくなる。攻めの形や守りの形をつくってから、ボールを回すということができないのである。俊敏に体制をつくってから、正確にボールを回すという自由な発想もなく、行き当たりばったり、ボールに向かって突進するだけになる。

 ボールのない場所での動き、傍からみれば休んでいるようにみえて、実は頭のなかではあらゆる可能な想定を考え、何倍も働いているのが一流選手というわけなんである。ボールに向かってただ突進するのでは展開を予測するのが苦手になってしまう。

 例えば、学校で演劇をやるのに、主人公ばかりを演じたがる小学生や幼稚園児を生み出すのも暗記教育の愚かさにある。演劇では確かに主人公は設定されているが、現実の社会では誰もが主人公で、シナリオは決まっていない。決められた主人公になって何が面白いのだろうか、親馬鹿である。

 決められたレールを歩くのはレールの奴隷でしかない。小さいうちからレールを歩かせるのは自由を奪う愚の骨頂である。親が子どもの人生を決めるのでは親の奴隷である。日本では人間をペットにする教育が平然と行われているのが現実である。





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Last updated  2014年10月16日 16時42分47秒
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