シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2014年10月21日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 前回の続き。

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 (前回の紹介の最後)

 聖書の中にははっきりと偶像を作って拝むなと書かれてあるのに、カトリックの教会に行けば、必ずイエスやマリアの像があって、それを拝むようになっている。

 あんな像をわざわざ造る方が大変だと思うのですが、わざわざそれを作って拝ませるというのは実におかしな話で、私はずっとカトリックは変だな、と大きな疑念を抱いていたのですが、バチカンに多くの悪魔崇拝者が集い、悪魔を拝んでいると知って、「やはりそうか」と思わず納得してしまいました。

 聖書にもはっきりとそう書かれてあります。

 (以下、旧約聖書エゼキエル書18章より転載)

 主の言葉が私に臨んだ、「あなたがたがイスラエルの地について、このことわざを用い、『父たちが、酢いぶどうを食べたので子供たちの歯がうく』というのはどんなわけか。 主なる神は言われる、わたしは生きている、あなたがたは再びイスラエルでこのことわざを用いることはない。見よ、すべての魂はわたしのものである。父の魂も子の魂もわたしのものである。罪を犯した魂は必ず死ぬ。

 人がもし正しくあって、公道と正義とを行い、 山の上で食事をせず、また目をあげてイスラエルの家の偶像を仰がず、隣り人の妻を犯さず、汚れの時にある女に近づかず、 だれをもしえたげず、質物を返し、決して奪わず、食物を飢えた者に与え、裸の者に衣服を着せ、 利息や高利をとって貸さず、手をひいて悪を行わず、人と人との間に真実のさばきを行い、 わたしの定めに歩み、わたしのおきてを忠実に守るならば、彼は正しい人である。彼は必ず生きることができると、主なる神は言われる。



 しかし彼が子を生み、その子が父の行ったすべての罪を見て、恐れ、そのようなことを行わず、 山の上で食事せず、目をあげてイスラエルの家の偶像を仰がず、隣り人の妻を犯さず、 だれをもしえたげず、質物をひき留めず、物を奪わず、かえって自分の食物を飢えた者に与え、裸の者に衣服を着せ、その手をひいて悪を行わず、利息や高利をとらず、わたしのおきてを行い、わたしの定めに歩むならば、彼はその父の悪のために死なず、必ず生きる。 しかしその父は人をかすめ、その兄弟の物を奪い、その民の中で良くない事を行ったゆえ、見よ、彼はその悪のために死ぬ。

 しかしあなたがたは、『なぜ、子は父の悪を負わないのか』と言う。子は公道と正義とを行い、わたしのすべての定めを守っておこなったので、必ず生きるのである。罪を犯す魂は死ぬ。子は父の悪を負わない。父は子の悪を負わない。義人の義はその人に帰し、悪人の悪はその人に帰する。

 しかし、悪人がもしその行ったもろもろの罪を離れ、わたしのすべての定めを守り、公道と正義とを行うならば、彼は必ず生きる。死ぬことはない。その犯したもろもろのとがは、彼に対して覚えられない。彼はそのなした正しい事のために生きる。主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。しかし義人がもしその義を離れて悪を行い、悪人のなすもろもろの憎むべき事を行うならば、生きるであろうか。彼が行ったもろもろの正しい事は覚えられない。彼はその犯したとがと、その犯した罪とのために死ぬ。

 (転載ここまで)

 この文章を書いたのはエゼキエルという預言者です。彼は「バビロン捕囚」の時代に現れました。そして、先ほども書いた通り、この時代には父親が子供を食べたり、子供が父親を食べたり、といったとてつもない悪事が平気で行われていました。

 このエゼキエル書にもそういったことが詳しく書かれてあります。それだけイスラエル民族に悪魔崇拝者たちが混じっていたという証拠です。

 にもかかわらず、神様はエゼキエルを通してこう言ったわけです。「子供が正しいことを行うなら、父の悪行の責任は問われない」と。つまり、人間の値打ちは父親(先祖)がどんな人間だったかで決まるわけではないということです。ただ本人がどんな行いをするかで本人の値打ちが決まるのです。

 したがって、 「日ユ同祖論」が本当であれ嘘であれ、そんなことは我々には全く何の関係もないことです

 ちなみに、お隣の韓国ではバビロン捕囚よりもずっと前の時代(サムソンという人が現れた時代)に「ダン」という一部族がイスラエルから朝鮮半島にまで渡ってきたという説もあるようです。聖書学的に見ると、この説の信憑性もかなり高そうです。というのも、この「ダン」という部族は、聖書から途中で全く登場しなくなってしまうからです。日本ではこの説は余り話題にされていないようですが……。

 しかし、もしこの「ダン」が日本にまで渡ってきたというのなら、日本人にもきわめて純粋なユダヤの血が流れているということになります。



あくまで先祖は先祖。自分は自分なのです

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 日本人といっても、八切史観からわかるように、多民族なんで、日本のなかに、ユダヤ、つまりアブラハムを先祖にもつ末裔もいるというだけにすぎない。だからといってその一部の人たちが優れているわけでもない。

 それにキリストが2000年前にきて、人類の血を悪魔たちに抵抗できるように、白紙(免疫化)したわけで、聖書が物質的意味を述べているのではないことは明らかである。



 霊能力を遺伝的に子供に継がせたいので、霊能力の高い同族と結婚させたわけなんで、同族婚が原則だったわけである。つまり、古代の秘儀参入者の家系と結婚すれば、霊能力を遺伝的に継承できるわけである。神がみえる霊能力を獲得するということは、神に選ばれた民ということになる。

 しかし、人類が闘争や競争の挙句の戦争などで、異民族と異族婚をするにつれ、だんだんと霊能力を失っていったから、つまり悪魔の誘惑に負けたので、もはや神をみることができなくなった。悪魔の支配下に拘束されるようになっていって、神をみれずに、霊界を知らず、あの世の記憶を含む過去の記憶を失うようになり、「死ぬ」という現象が生じるようになったわけである。

 「死ぬ」ということは物質は必ず滅ぶという意味でもある。

 だから、人間が死ぬということは、もはや神の選民でなくなったことを意味するから、神に救いを求めても無意味になるわけである。

 つまり、人間からみれば「神は死んだ」ことになる。

 だから、太陽霊キリストがやってきて、再び人間のなかに神性を植え付けて、自分で自分を救うことができるように、つまり、再び霊能力を自分で獲得できるように、死を乗り越えることができるように、イエスに受肉し、3年間の教え、つまり霊能力の再獲得の方法を教えたのである。

 だからモーゼの説いた十戒を守らないユダヤ人など存在しないし、キリストの説いた教えを実践しないキリスト教徒などは存在しない。ましてや無神論者などは人間として存在しないはずである。

 誤った教えを説く者は必ず死に地獄に堕ちるので覚悟するがいい。神がみれないからである。神がみれないから、神を語るのである。

 エゼキエル書の説く「子供が正しいことを行うなら、父の悪行の責任は問われない」は、父が神を見失い、霊能力を失っても、子供が再び獲得し、神とつながればよい、という意味をもつ。

 だから宗教とは神とのつながりをみつける方法なんである。そのために、この世のあらゆる神の創造を経験しないといけない。あらゆる艱難辛苦を味わい、創造の痛みを知らないといけない。

 この物質界に快適に安住しようとするほど、全てを失い、死ぬことになるのだ! それがエゼキエル書の説く「血」の意味である。悪魔の誘惑に負け、「血」を物質化する者は、その「血」と共に滅ぶということである。





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Last updated  2014年10月21日 13時53分46秒
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