シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2015年04月06日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 歴史は割と好きなほうなんで、毎週火曜深夜にやっていた某有名塾講師の偉人伝番組を結構みていたが、先日最終回を迎え、「河井継之助」を人選していたのには驚いた。新潟出身でなければ、ある程度マニアックな歴史好きでないとこの人物を知る人は少ないだろう。

 なんでもその某講師曰く、自分と生き方が似ているそうである。「河井継之助」を簡単にいえば、幕末の戊辰戦争で中立を保とうとして失敗した悲劇の人物というイメージである。その悲劇も自分で蒔いた種というよりも、運命の悪戯的な要素が大きいところが、尚更一層、悲劇を醸し出している。

 前回、坂本龍馬の幻想を紹介し、偉人伝のほとんどが脚色、創作であることがわかったと思うが、偉人伝は、理想を描く若者の教育には良い面もあるが、なかには勘違いして天狗になる輩を輩出することもあるので、やはり正確に人物像を描出するのが重要なので、偉人も一般人もそんなに変わらない脱偉人伝的な話をそのうち紹介していきたいと思う。

 どんな人物もこの世にこの時代に生まれてくることに意味があり、偉人といわれた人は時代の流れ、特に転換期などに、目立った働き、役割が与えられたと考えればよい。

 「河井継之助」の人物像をみていると、頭脳は明晰だが、逆に行動力に欠けているところがある。簡単にいえば、馬鹿ができない性分である。世の中とは頭で考えるようにはいかないことが多いので、そういうときは馬鹿な振りをするのがよいことがあるからである。

 明治の元勲といわれた人物たちを詳細に調べると案外馬鹿な奴が多いからである。「河井継之助」は恐らく、いかに天才の頭をもってしても、世の中は思い通りには進まないことを実際に体験するために生まれてきたようにみえる。

 そこでいまなぜ「河井継之助」なのかを改めて考えると、幕末当時の長岡藩は、米軍基地問題で揺れているいまの沖縄と似たような立場にあったことがわかる。

 当時の薩長がいまの露中、当時の幕府がいまの米国で会津藩が日本という感じである。幕府は2度ほど無謀な長州征伐をしたが、戦費が底をつき、ナポレオンのフランスにまでカネをかりようとして、大政奉還をして時間稼ぎにでるが、後にナポレオンに余裕がなくなり、当てが外れて、結局失敗に終わる。薩長は英国にかりている。

 当時の幕府はいまの米国によく似ていて、その幕府にひきづられる会津藩はいまの日本によく似ているわけである。すると徳川慶喜がオバカ、松平容保がアホということになり、薩摩の西郷が、いまのロシアのプーチンで、中国の習が長州の桂辺りとなるわけである。 



 また更に先日のアジアインフラ投資銀行は、幕末の藩主議会に似ている。あくまで幕府中心とする慶喜は覇権を諦めない米国に似ている。

 さて、長岡藩はというと、幕府が大政奉還して江戸城を薩長に渡してしまったので、薩長の会津攻めの通り道となってしまった。会津にとってみれば長岡は防御の要なんで、死守したいところだろう。薩長にしてみても、通り抜けできた後に裏切られて挟み撃ちにされたらたまらないから、かといって小藩なんで味方にしてもそれほど利点がなく、目の上のタンコブである。

 つまり、完全な板挟みになったのである。しかも悪いことに、河井継之助が、アームストロング砲とガトリング砲とイギリス製の2,000挺のエンフィールド銃・スナイドル銃などの最新兵器を購入し、軍備拡張をしていたので、長岡藩を侮る薩長と一戦交える覚悟ができていたことにある。

 武士として戦う覚悟が充分にあったため、武士の戦に巻き込まれた一般民はたまったもんではない。この点で、河合継之助の後世の評価は二分し、つまり武士としては評価できるかもしれないが、政治家としては評価できないこととなる。

 要するに頭が良すぎて馬鹿ということである。武器で人を殺せば、自分もやがて殺される。孫子の兵法の戦わずして勝つことを優先すべきである。

 しかし、長州のように、一般民を徴兵し士分にとりたててどんどん前線につぎ込み殺されるよりはまだマシかもしれない。大村なんぞは医者の出なのに殺人する単なる藪医者で、山縣などは高杉の付き人のようなもんが、大量殺戮をして大臣などになったからである。

 政治家としての河井継之助は、長岡藩を中立の立場に置くことに苦心するが、薩長には目障りな存在とされ、会津には防御の要として、薩長、会津共に猜疑心が強く相手側につくのではと認めず、薩長への中立交渉は失敗に終わる。似たような状況で、慶喜は大阪で兵を置いて江戸に逃げ帰ったが、そのため幕府内での信用を失墜する。

 薩長との交渉で侮辱された河井継之助は、会津につくことになり、薩長と激戦となる。結局、戊辰戦争で漁夫の利を得たのは誰かというと、実は当時の武器商人たちで、米国なんである。

 その話を以下に紹介する。

 ★          ★           ★ 

【日本南北戦争】
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/meijiishin.htm

 幕末戦というのは、当初は被圧迫階級の神の民(原住民)が、その蓄積した金融資本によって政治体系を変革する目的で始めたものが、終局において西南勢力と東北勢力の武力衝突になった。

そしてこの原因はアメリカだとも言える。

 「アメリカ建国史」によると、

 「1865年つまり慶応元年、米国内の南北戦争が終了すると、北軍は押収した南軍の武器弾薬が密売商人の手によってインデアン居住区域に流れ込み、アパッチ族始め各地で反乱事件が勃発するのに手を焼き、慶応二年にアーノルド・ジョンソン大統領はこれを国外へ払い下げ輸出する断固たる政策を採った。 そこでこの夥しい南軍の銃器が東は上海、西はポートサイドに野天同様に山積される状態を呈した 」

この英人のグラバーこそが米国払い下げの上海の南軍の銃を、長州や薩州に売りつけて儲けた元凶なのである 。

 さてその英国が1815年のウイーン会議で、占領したケープ地帯から追われ、トランスバール共和国に移った和蘭人の中に、エドワード・スネルという男が居た。

 当時の日本駐在公使だった『ファン・ボルスブック回顧録』によると、反英精神に凝り固まった彼スネルは「南阿の恨みを日本で」と考えたのか、ポートサイド方面に積んであったアメリカ南軍の銃器を薩長とは反対に幕府に売った。

 大倉喜八郎が神田泉橋で開いた店も、スネルの南軍の銃を仕入れて売っていた。やがて スネルは、長岡藩の河井継之助のために汽船をチャーターして新潟へ行き、そこから会津、仙台へと武器を輸出した 。

双方にアメリカ南軍の廃銃が行き渡り、それまでは徳川家だけが独占輸入していた火薬もグラバーやスネルの双によって入ってきたから、ここに日本列島も南北戦争を始めた 。

 だが、本家のアメリカでは北軍が勝ったが、日本では反対に薩長の南軍が勝った。この結果、 スネルは当時のアメリカ大統領グラントに、この責任をとり、カリフォルニアに広大な土地を払い下げさせ、そこへ会津の婦女子を送り込んだのが、「ワカマツ・コロニー」と呼ばれ明治の末まで在った 。

 (恐らく、リトルトーキョーの原型となったのだろう。スネルの反英の精神は引き継がれているのだろうか?)

 アメリカが南北戦争をしなかったら、日本列島はその廃物利用の銃器を押しつけられることもなく、従って幕末戦争の惨禍はなかったのである。

 想えばまことに恨めしい話である。

 ★          ★           ★

 南北戦争をはじめたのはリンカーンだから、リンカーンがいなければ明治維新もなかったことになる。米国は日本にとって厄介者である。現代の河井継之助には民衆の生命を守る側に立った判断を三度目の正直でしてほしいものである。 





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Last updated  2015年04月07日 10時02分34秒
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