シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2015年04月07日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 米国戦争屋の犬のアホがAIIBに参加しないと大見得を切ったために、日本経済はほぼ終わりの様相を呈してきている。AIIBは失敗するとネガキャンに大忙しの米国戦争屋だが、中国の強みは米国債をいつでも売れ、ドルを終焉させることができることで、生かすも殺すも胸三寸にある。

 米国を無暗に追い込んで窮鼠猫を噛まれてはたまらないので、ジワジワ小出しに追い込んで米国から譲歩を引き出すのが狙いだろう。要するに兵糧攻めの段階にあるといえよう。

 とにかく米国戦争屋がお陀仏となってくれるのは人類にとっては幸運の一歩手前である。アジア混乱の責任は米国戦争屋にあるのだから。

 そういうわけで、米国が参加する譲歩の条件は、お馴染みのネットゲリラさんの次のパロディが的確に表現している。

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ネットゲリラ
http://my.shadowcity.jp/2015/04/post-6821.html#comments

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 日本は、幕末の幕府に捨てられた会津藩といったところである。なぜ、そこまでして会津が反薩長に拘ったのかというと、これは八切史観によらなければわからない謎であろう。



 八切史観によれば、会津の土地は昔多賀城があった近くで、中国からきた朝廷とは親近感があったという話である。だから、幕府よりも朝廷に親密感をもっていても不思議ではない。

 また反幕の権化の御水尾帝の末子の後西帝が「京こそ体制側であり、江戸は反体制である」と反対立証するため、宮中に散逸していた勧学院派の日本書紀の断片を集め、改めて、巻子本五十巻に纏めたのが、後年の日本書記となっているそうである。

 水戸藩もそうだが、会津も、幕府よりは朝廷主義というところがある。正史でもそのことがわかるが、ではなぜ会津が公武合体派の幕府側の最後の砦となったのかは、正史からはわからない。

 その答えは、孝明帝は北朝系なので、薩長が立てる明治帝が南朝系というのが会津には気にくわなかったと考えられる。そうするとネットではお馴染みの孝明帝暗殺が信憑性を帯びてくる。幕府江戸本家と会津藩の俗にいわれる公武合体派が北朝系で、薩長と水戸藩が南朝である。

 水戸藩は、家康の遺言により北朝系の帝で反幕のときに密かに南朝系の帝をたてろといわれていたそうである。その遺言に従って、水戸の斉昭は南朝帝の下で自らが将軍になろうとし、息子の慶喜にも指南した。

 このように考えると、戊辰戦争は南北朝の戦いであることがわかる。つまり米国の南北戦争が伝染し、遅れて行われ、武器商人が暗躍したことがわかる。要するに武器商人の金儲けの道具にされたのである。

 慶喜がはじめから南朝だとわかれば、大政奉還も江戸無血開城もヤラセの可能性が高く、ババをひいたのが会津であることも、孝明帝が暗殺された時点で明らかである。慶喜にとっては南朝帝の下で薩長と水戸のどちらが主導権をとるかだから、慶喜が賊軍とされたことには肝を冷やしただろう。

 さて、明治維新の意味は、身分制度が形だけでもなくなり、それまで蔑まされていたエタと呼ばれた部落民が、一般民となったことにある。西郷により人身売買は禁止されたが、大村により代わりに徴兵制度ができ、官軍から薩摩色を除くために、西郷は主流派から外れ、征韓論の濡れ衣と共に下野に追いやられた。

 政治というのは所詮権力闘争にすぎない。

 さて、庶民に関わるのは生活であり、その大部分は経済である。経済についても戦争は滅茶苦茶なことをやらかし、新たな身分制度をつくる話を以下に紹介する。

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【贋金戦争】
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/meijiishin.htm

 維新の戦乱というと、上野戦争の天野八郎、会津の白虎隊、天童藩のからす組細谷十太夫といったように個人的武勇談ばかりが、現在の時点では流布されているが、この日本南北戦争の実相は、これまで公表されてこなかったが 「贋金造りの戦争」 だったのである。

 何しろ今日なら、かってのベトナム戦争でも、南ベトナム政府軍に米軍が武器を供給するのも無料なら、北ベトナム軍に中共やソ連が兵器を送ったのも贈与援助だったろうが、幕末の日本は違っていた。

 (無料ではないと思うが…)



 つまり 廃物を押しつけて日本からゼニを取るのはアメリカの伝統商売らしい。

 さて、この結果正金をアメリカの南軍廃銃に吸い取られ、金欠病となった日本列島の両軍は何をしたかというとまず『会津事情』掲載の、

 「会津宰相にあげたき物は、白木三方に九寸五分」という東北の俚謡を紹介する。

 「朝敵となって錦旗に敵対した罪を、東北人は恐れおののき、その主君松平容保の自決まで求めたものである」などと、この本の筆者は調子の良い注釈をつけているが『会津戊辰戦争』によって調べてみると、「松平容保は鳥羽伏見の敗戦にて江戸へ戻ると、江戸金座銀座の職方を纏めて会津へ伴い、若松城西出丸に製造所を設置して、従来の一分銀を打延ばして三等分し、これを二分金の鋳型にいれて金メッキをなした。

 だから一分銀が六倍の一両二分になり制作費は一個九百文の割合で職方に出来高払いをした。なお私に製造したいと出願する者には、一割の運上金をとって、これを公許した。

このため会津領を始め東北地方は物価が六倍から十倍になり、住民は塗炭の苦渋を味わわされた 」とある。 責任をとって腹を切れと、東北人が激怒したのが本当の話らしい 。

 (この話を戦意高揚などの美談にしたのが糞ダマスゴミの連中)

 これに対して日本南軍はどうしたかというと、長州閥は京阪の鹿嶋屋や鴻池から調達したが、 薩摩は堂々と偽貨をこしらえ『官武通紀』第八巻にも、「薩摩鹿児島にて(琉球通宝)なる新鋳の物を製造し、中川宮、近衛家をもって京摂地にも流通さすべく禁裏へ預り出づ」と出ている。薩摩製でありながら(琉球)と逃げているあたりは、南軍の方が知慧者揃いのようである。

 さて、後のベトナム戦争のように米国製とソ連製、中共製の武器を持って戦ったのなら、多少の差は在ったかも知れないが、この維新戦争は両軍共に、落つれば同じ谷川の水ともいうべき米国払下げ南軍廃銃で撃ち合ったのだから、今日の維新史家が説くように、武器の格差は考えられない。

 上野の彰義隊を攻撃する時、南軍はアームストロング砲などを持ち出してきて江戸人に誇示しているので、さぞかし武器が優っていたように今では思われているが、その アームストロング砲たるや鍋島家からの借り物だったにすぎない 。

 つまり、この戦争の実相たるやグレシャムの法則により勝敗がついたのである。というのは、南軍は琉球通宝どころか『維新史料』によると、三岡公正の献策とことわって引換一切これなく候と、堂々と明記した紙幣を四千八百九十七万三千九百余両もこしらえ、これをばらまいた。

 北軍の会津ではお城の櫓でトッテンカンと一分銀を叩き延ばしてから、切断して四っに分け一つずつ巴焼を焼くように金を被せて、これを油で揚げて固めた。

 だから明治大正まで「金メッキ」のことを「てんぷら」といった。

しかしなにしろこの「てんぷら」の方は四個作って一両なのに、南軍では紙切れ一枚が一両である 。まるで贋金づくりのスケールが違いすぎる。

 それにどっちも贋金とはいえ、銀の入っている天ぷら金より紙切れ一枚の方が悪貨に決まっている。そこで、「悪貨は良貨を駆逐する」のグレシャムの定義によって、金メッキよりも始末の悪い紙の偽札の方がこの戦争の帰趨を決定してしまったのである。

 これによって 国民の蒙った惨状は全く「悲しき哉」の一語に尽きる 。

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 現代もこの会津の贋金つくりと同じような国債発行、つまりQE(量的金融緩和政策)をやっているのが日銀で、また米連銀というのは歴史は繰り返すというわけですな。

 米連銀の詐欺師たちが詐欺にひっかかるなというのは笑止千万で、詐欺としても経済成長乏しい米国が経済成長著しい中国に負けるのは、贋金戦争からも明らかですな。

 自衛隊が白虎隊にならないように願うばかりですな。アホがアホノミクスの責任で腹を切るのは大歓迎ですがね。





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Last updated  2015年04月07日 14時24分51秒
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