シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2015年05月15日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
 ひょっとすると黒のスーツだらけというのは、この国の葬式を意味するのではないかと思うほど、この国はおかしくなっている。簡単にいうと欧米化され、昔有り触れた日本的なものが失われていっているようなのである。

 面白いのは、表面上は欧米化しているが、政治などの中身は逆に古い体制の帝国主義に似てきている。これは憲法が無視されていることでもわかる。

 最近「日本人なら〇〇である。」というヘンテコな概念が一人歩きしているのを前回紹介したように、畳など日本文化とされている多くが消滅の危機に瀕しているので、逆に希少価値が上がってきているようにみえる。

 日本人一括り論と共に白米や手作り味噌なども巷で議論沸騰であることが、次の話よりわかるので転載紹介する。

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文化のバックラッシュに乗せられる日本人はキモい
http://gudachan.hatenablog.com/entry/2015/05/15/141345

 日本人の文化のバックラッシュをめぐる騒動が相次いでいる。

 このところ、マスメディアやネットで物議になることといえば、大概は 時代錯誤の伝統賛美

 私はよくわからないのだが「はなちゃんの味噌汁」という物語については、医学的観点から疑問があるとしてネット上では反発の声一色に染まっているようだ。しかし、こうした物語を好みたがる日本人は、一杯のかけそば的感覚でこの味噌汁を通じた愛の物語に感動してしまうようだ。

 科学より感情を優先するなんて、日本人的といよりはむしろペイリンを支持するような愚かなアメリカ人にソックリである。

 現代の先進国での日常風景とか、人類普遍的な理念に照らし合わせるとメチャクチャなトンデモだろうが、「 三丁目の夕日的な昭和賛美 」の感覚の文化的バックラッシュの文脈に載せるとそれだけで全肯定できてしまう脳みその日本人はキモすぎる。

 しかし残念ながら、その存在は一定数に上るわけで、私はこれが今の日本の課題だと思う。味噌汁=国民全員の体験と言う幻想には無理がありすぎだろう。

本来「手作り味噌汁」の文化は古臭く、恥ずかしいものである 。1974年にインスタント味噌汁が発売されているし、この頃には食生活の欧米化もあった。朝食が米と味噌汁ではなくパンとコーヒー主流になっていったわけである。

 1980年代にもなれば、この多忙な現代社会に朝から米を炊いて手作り味噌汁を食べているのは後進的な田舎の人間くらいだという常識が当たり前になったはずで、それをバブルから30年経ったいま時にいちいち美化するのは私には「お里の知れたヤセガマン」に見える。

 ついでにいえば 米が日本の伝統と言うのも大きな嘘だ 。第二次世界大戦以降のことであり、農業発展でコメが大量生産できるようになった頃には、パン食が広まっていたのだ。

 文化のバックラッシュは極めて田舎者的な概念で、東京の平均的な人間には通用しないようなものだ。新宿のビル街や世田谷区の閑静な住宅街を想像してほしい、こんな現代都市空間において誰もが当たり前のものとして「味噌汁信仰」を持ち出すような人間がいれば、明らかに平均的な感覚から浮いていて、絶対に浮いているはずだ。私ならゲラゲラ笑ってしまうよ。



高度な都市社会もなければ、日本本来の伝統もない。ただ古臭いだけで低迷する地方都市の人間がこのような現象を起こしているんじゃないかと思う 。

 人気モデルの畳に土足炎上騒動とかもそうで、東京の普通の人間の感覚なら「ファッションモデルが何してもどうでもいいだろ」というものである。街中は彼女を起用した広告看板がやたらあったりして、人気度が高い。

 古臭い人間がバカなネトウヨと束になっていくらネガキャンを言いふらそうが、彼女の名声を打ち消すことは絶対にできない。安藤美姫といい、都会的なセンスを持ったタレントほど燃えるのも、結局は国道4号線沿いの文化的程度の連中が反発しているだけだろう。

 「文化のバックラッシュ」までひっくるめたアメリカ化なのである。



 どこもかしこも、モータリゼーションでインターステート沿いにウォルマートとかがあって人生すべてが全国チェーン店で完結するような残念な無機物没個性地帯が氾濫するようになった結果、住民たちはトンデモ系のバックラッシュに走るようになった。

 それと同じことが起きているというだけである。

 私はただの首都圏在住者ではなく、東北地方や東海地方に詳しい。

 秋田県にも静岡県にも何度も旅行に行っており、行く度に壊れていく景観に気づかされる。みんなどこもイオンとかブックオフとかすき家とかエネオスの林立するチェーン店沿いになり、自然とミスマッチな建売住宅や大東建託アパートが田んぼ沿いにあったりして、それはそれは「現代的」ではあるが、湘南とか横浜の平均基準からして果てしなくレベルが低くてつまらないのである。

 もはやこっちの方が、若者でもお神輿を担いだり、お寺でバザーを開くような「生きた伝統文化」が目立つくらいだ。

 首都圏以下の「過剰すぎる現代無機空間」で精神的空洞性を起こした人間が、それを埋める極端な拠り所として文化的バックラッシュに載せられるのなら、それはバイブルベルトであっても国道4号線沿いであっても有害極まりないことだ。

 私はアメリカのカントリー・ウエスタンも大好きだし、富田勲の「新日本紀行」のBGMが似合うような東京からは見えない日本古来の悠久なる伝統風景にはその次くらいに心躍るものがあるのだが、そういうものを軽視したダメな人間たちがいる現実には吐き気しかない。

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 間違った幻想による集団催眠的な懐古主義に陥っている。どうもこの国では奴隷制度が隅々まで行き渡っていたために、個人的自我への目覚めに乏しい感じをうける。表面的な個性、欧米のモノマネへの個性、つまり単なる幻想を求めている。それがブランド志向などのモノ的差別に陥っている。

 どんな文化も精神が重要で、物質性は副次的なものなんである。

 というわけで、シュタイナーのバガヴァット・ギーターの話から集合魂と個人的魂の違いを紹介する。

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民族魂と自我

・・・なぜアルジュナには骨肉の争いに関わる出来事が強く影響するのか?

 古代の霊能力は血(血縁)と結び付いていた。同じ血が一族の血管のなかを流れること(血縁)が、古代には神聖で崇拝すべきことだった。霊能力、つまり古代の集団魂の知覚は純血に結び付いていた。

 古代の血縁からなる人々は、現代のような個人の自我をまだもたず、集合意識しかもたなかった。太古の人々が今日の人間が感じるような個人的な自我を感じず、血の共同体(血縁)のなかにいたのが霊視できる。

 では、今日の人間には民族魂・集合魂は何を意味するのか?

 今日でも確かに民族はしばしば熱狂の対象になる。しかし、人智学から「民族魂・集合魂は個人的な自我に太刀打ちできない」ことがわかっている。これは酷な表現だが事実である。

 古代の人間は自分を「私」と呼ばず、自分の種族・民族を「私」と呼んでいた。

 (日本人がよく、自分の家や会社を「うち」と呼ぶのと似ている。)

 この集団魂への感情がまだアルジュナのなかに生きており、彼は周囲の骨肉の争いを見る。彼は自分を「私」とは呼べず、「私」をまだ理解していなかった。

 彼は同じ民族の魂のなかに現れる集団の自我をよく感じていたために、周囲で行われている荒々しい戦いに恐怖した。

 このアルジュナの身になってみると、彼の心のなかには同族を殺すことへの恐怖が感じられる。・・・まるで一つの魂に属する身体の各部が切り刻まれるように感じた。・・・兄弟同士の戦いが右手と左手の戦いのように感じるとき、彼の本心は何を感じているか、を考えてみる。

 そうすると「バガヴァット・ギーター」の冒頭の内容がわかる。アルジュナは、まだ個人的な自我を把握できない。戦いのときに不自然に現れる集団の自我しか把握できない。このような気分のなかで、偉大な師クリシュナが彼の前に現れる。

 偉大な比類なき芸術のように、神聖な神クリシュナがアルジュナに対面する。人間が正しい意味で進化・浄化するなら捨て去るべき集合魂を、彼はアルジュナに教える。

 クリシュナの教えを追っていく。彼は何を教えたのか?

 彼は何を教えたのか?

 個人的な自我について教えたのだ。日常の個人的自我について教えた。

 「私は大地のなかにいる。私は水のなかにいる。私は空気のなかにいる。私は火のなかにいる。私はあらゆる心のなかにいる。私は神聖な「あうん;阿吽」(梵語)のなかにいる。

 (阿吽は宇宙の始まりと終わりも表す。)

 私は森を吹く風である。私は至上の山である。私は至上の川である。私は至上の人間である。私は聖者のなかの聖者、古の霊能者カピラ(仙人の1人)である。」

カピラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%94%E3%83%A9

 クリシュナは「私は個人的な自我以外は認知しない。私は世界を私である個人的な自我でのみ認める。」と語った。クリシュナの教えから個人的な自我以外は語られない。

 アルジュナはまだ個人的な自我が把握できない。アルジュナが個人的自我を把握できるために、まるで全宇宙的な利己主義者のような、自分自身しか認めない神が現れる。この神は、他の者たちにも彼以外には何も認めないよう要求する。

 土・水・火・空気のなかや地上に生きるもの全てのなか、三界(物質界、アストラル界、神界)に生きる全てのなかに、彼しか見ないことを要求する。

 自分のみを認識するよう要求する存在が人類と対面する。真理の光のなかで「バガヴァット・ギーター」を読めばクリシュナが人類に認識させようとしている個人的自我が、どのような言葉で表現されているかがわかる。

 クリシュナは(集合自我を超える)全宇宙的な自我を語る。崇高な「バガヴァット・ギーター」から霊聴に聞こえてくる音は「人間たちよ、全てを包括する私という全自我を君たちが認めるなら、君たちには(個人として)救いがある」というリフレインが響いてくる。

 人間の霊魂の発展は大きな謎を提供する。大きな謎が人間に与えられるのを認めたときにだけ、正しい光の下で霊魂の進化を認めることができる。

 最も崇高な教えが全宇宙的自我と結び付くのを把握するという課題の前に立てば、解くのが困難な謎が与えられたようにみえる。論理ではなく、生命のなかに大きな矛盾を見ることで神秘が明らかになる。

 幻想を超えて真理に到達するのも人類の課題である。マーヤー(幻想)のなかに「全宇宙的自我」と名づけられるものが本当は何なのかを認識できなくてはならない。

 この謎を通して、マーヤーから真実の光に到達しなければならない。

 「シュタイナー古代秘教講義」p43

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 真実は自分でみつけてはじめて意味を持つ。





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Last updated  2015年05月18日 12時28分43秒
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