シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2018年02月02日
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カテゴリ: 神秘体験空間
この世の地獄



 ドーリルのヨガの書によると、そのような神を気取った愚か者に遥か昔のシーザーがいたそうで、このバカは自分を神と崇めるように人々に強要したらしいが、アポロニウスが、拒否したので、呼び出されたが、シーザーの目の前で、お前は神でもなんでもない、単なるバカな人間の1人にすぎない、と言ったので、シーザーはアポロニウスを処刑しようとしたが、アポロニウスは姿を消して、他の場に逃れたそうである。

 つまり瞬間移動したというのである。唯物論信仰の現代人には理解不可能な話だが、キリストがエーテル体で蘇ったように、シーザーに幻想を見させるのは当時の霊能者なら可能な芸当にみえる。

 この国の政治は地獄行きの連中たちが好き放題して、もはや死に体を呈しているが、政治は死んでも、教育だけは教訓として、なんとか残さないと、この国の滅亡も浮かばれないだろう。

 そもそも国とは助け合いのためにあるのだから、助け合いの精神が失われ、他国と競い、戦争ばかりするような世も末状態になってしまったら、地獄に堕ちてやり直すしかなく、おしまいである。

 そういう国は地獄に沢山あるから、もはや国の体ではなく、悪事を見て見ぬふりどころか、それに加担するジミンのような堕落腐敗悪党集団だが、さっさと地獄に堕ちればいいのだが、改心させる機会を与えている神様は流石に慈悲深いが、ときがきたら一斉に厳密に徹頭徹尾に処罰する方針なのだろう。神様は全てお見通しで死後の最後の審判で処罰されてしまうのである。

 神様は全てお見通しなので、我々が処罰せずとも、果断に処罰されてしまうので、我々ができる事は、悪事をこれ以上拡げない教育しかない。善と悪の区別を明確にする事である。

 そこで、教育、つまり勉強は何のためにあるのかを明快にしておく必要がある。

 教育や勉強は知識の獲得のためにあるとされるが、それだけでは駄目である。ドーリルのヨガの書を読んでわかった事だが、知識は実践して初めて意味を持つので、実践しない知識などは死んだも同然の宝の持ち腐れで、実践できない知識は知識とはいえない。



 本物の知識、つまり叡智とは、それを受けるに相応しい努力を行った者に与えられる。だから叡智とは代わりにトイレにいってもらえないのと同じく、他の者に与えられないものなのである。

 叡智を受けるには、それに見合った努力が必要なのである。

 叡智とは、宇宙を一つにまとめているものなので、神の存在ともいえる。だから、叡智を受けるには、神の存在、つまりそれに相応しい能力をもたなければいけない。ただひたすら努力するしかない。

 教育者や教師は、努力の必要性を説き、ただ手助けや支援しかできない。本人が努力して獲得するしかない。

 神が依怙贔屓するわけもなく、万人に公平無私で、その人のためを思ってあたられるのだから、悪い事をすれば、罰を、善い事をすれば、叡智が授けられるわけで、誰彼を特別扱いする事はない。ただ、教えを受けたい者に、その方向性を示すだけである。

 神社に行ってお参りし、御神籤をひくのは、吉凶によって、その方向性を示すにすぎない。願いを叶えるのは本人の努力次第である。神様は全てお見通しなので、方向性を教えるだけである。努力しても叶わないのは努力が足りないか、方向性が間違っているかである。

 だから、教育や勉強とは、叡智を受けるのに必要不可欠な努力といえる。

 教育や勉強は俗にいわれるように、知識を獲得させ、当人を出世させたり、栄達させたり、金持ちにさせたりするものではなく、宇宙全てを一つにまとめられる公平無私な能力をつけさせるものなのである。

 だから、ドーリルのヨガの書では、「満足」を戒めている。「満足」は所詮、自己の満足に過ぎず、宇宙全体を観ようとしない井の中の蛙だからである。「満足」は自己を限定してしまうもので、自己の本質である無限なる神の創造を制限してしまうからである。不断の努力をないがしろにする。

 ここでいう努力とは、人生一度限りの努力ではなく、これまでの前世の努力全てを含んでいる。

 つまり、「満足」は、自己のなかに障壁をつくり、ソクラテス風にいうなら、「神との対話」をやめてしまうからである。自己に拘るあまりに、自己の可能性を閉ざしてしまうのである。



 なかには肉体1つもろくにまとめられない人もいるが、まとめられる範囲を肉体を超えて拡げていくためには、まとめた領域を一度手放す必要がある。

 それが肉体の死なのである。肉体は満足を得る道具にすぎない。確かに満足は心地いいが、その満足に居座っていては進歩はない。というのも宇宙全体は常に変化し進化していくからである。

 東洋哲学には、小我と大我の概念がある。大我を悟りともいうが、悟りを得るには、小我を捨て去る必要がある。俗にいうエゴである。

 小我は容易に得られる。例えば、外に敵をつくればよい、地獄行きの独裁者の遣り口である。このようなアホバカ小我の持ち主は、常に外に敵をつくり、競争状態にして、成功すれば自分の働き、失敗すれば他者のせいにする。アホ総理とバカ大統領をみればわかる。小我故に、洗脳する。

 キリストが、一方のほほをうたれたら他方を差し出しなさい、といったのは、小我の洗脳にのってはいけませんよ、と言ったのである。小さな世界に囚われて、無限の可能性を失ってしまうからである。



 肉体を失うよりも、魂を洗脳される方が遥かに恐ろしいのを知らない。本当の地獄よりも、小さな仮想の現在の地獄を選択してしまう。悪魔に人間の霊魂を殺す権限はない。死だって悪魔のものではない。生や死を司るのは神だからである。

 人間1人1人が神の子であり、宇宙全てを総べる能力を持ち得るのである。この世の一領域に拘るのはなぜなのか? それは死と共にやがて必ず失われるのに!

 本当の自分は、自分を超えたところにある。

 悪魔は死を使って人を洗脳するだけなのだ!

 あなたを誘惑し誑かすのである。この地を支配させよう、あなたをこの地の支配者にしようと。

 しかし、それは実はあなたが支配されるのである。金持ちが金に支配されるように。

 悪魔に魂を売るかどうかは、あなた次第なのである。

 神の国を求め、努力せよ! 悪を成すな、善を成せ、さすれば与えられる。

 というわけで、人智学的医術の紹介を続ける。

  ★       ★       ★

ルドルフ・シュタイナー
「人智学と医学」第14講
1920年 4月3日   ドルナハ


 この連続講演の中盤に当然生じることを、今回は、少ない時間で出来る限り述べるが、実は、次の事を述べるべきか、否か、長い間考え続けていた。たとえ誤解が多いと、改めて認識させられても、やはり述べたい。

 というのも、人智学で話されている事が、出鱈目と指摘しようと、長期間にわたって苦心し、攻撃してきた人々がいるからで、また現在(1920年)、次のような意見も出始めている。

 「人智学が語るような事は、現代ではもはや不可能なのに、与える印象から、どう見ても古代の秘儀を研究して後から得られる知見と一致しているようである。」

 そして、また別に、「秘密を暴露する背徳者」という非難がつくり出される。このような批判は、一方的で、それらしく公然化する可能性を見つけ出し、人智学の内容が出鱈目だ、と言えなくなると、今度は相応しくない、と主張する。

 さて、今回、はじめに述べるのは、次の事である。

 「人体を、単なる物質として観察するだけでは、一部しかみていないばかりか、次のような理由から、霊魂を認識する必要があるのを、はっきりと理解すべきである。」

 「人間には、物質体だけでなく、エーテル体、アストラル体、自我があり、これらが絶えず、物質体に働きかけ、絶え間なく生命活動を続けているが、当然、これら霊体は物質ではないので、認識を完全に拒む。」

 だからといって、霊魂を認識する霊視を獲得できるように、良心で、自らを教育する可能性がなくなるわけではない。はっきりと実際にイメージで観るような霊視に到達できなくても、少なくとも霊視に近い直観力が得られる。

 さて、以下を熟考する必要がある。

 現在の進化段階にある人間の自我は、物質体にのみ働きかけている。今日の人類は、エーテル体を支配する能力を、比較的僅かしかもっていない。エーテル体は、幼児期にだけ比較的、まだボンヤリとした無(潜在)意識下で、自我に支配されている。成長するにつれ、この能力はなくなる。

 ただし、成長してからも、子供の頃の、強烈なファンタジーの感覚を維持しているのなら、自我のエーテル体に対する強い影響も残存している。

 しかし、一般的に、今日の教育を受け、分別をもち、無味乾燥な知性偏重主義になっているのなら、自我が、物質体に強い影響力を持ってはいても、エーテル体への影響力は弱い。

 物質体への自我の影響を、霊視すれば、次のような事実が想定できる。

 「自我は、物質体に沿って働き、骨格のようなものを拡げている。」

 物質(肉)体には、自我による精妙な骨格が組み込まれている。この精妙な骨格は、物質体に組み込まれ、霊視すると、ファントム=幽体のようにみえる。自我が認識した精妙な骨格を、物質体の周囲に纏い、エーテル体が、それを物質体へと組み込む。

 しかし、人生が進むに従って、このファントム=幽体を組み込む意識力を徐々に失っていき、最終的には、ファンタジーに満ちた想像のような、意識半ばの夢のような状態で残るだけとなる。

 さて、この自我による骨格の本質は、物質体にとっては、幾分異物である、のが霊視で容易にわかる。この骨格は、物質体には幾らか異物なのである。物質体は、この骨格に抵抗する傾向をもっている。つまり、物質体は、睡眠中に、この骨格の破壊に努めている。

 このような骨格は、日常生活では見えなくても、やはり忘れてならないのは、この骨格は、物質体のなかで、崩壊して飛び散る傾向を絶えずもつので、炎症の隠れた病因となっている、という事である。

 実際、自我はファントム(幽体)を作り出し、物質体は、これを異物とみて抵抗するため、この骨格が、物質体のなかで崩壊し、散乱して、抜け落ちる傾向(アポトーシス細胞死の現象)をもつ、のに注目するのは非常に大切である。

 さて、人間の眼による視覚を、心理-生理学で研究するだけで、上述の骨格について、物質での認識と一致した見方ができる。というのも、視覚を通じて、霊魂と外界の間で演じられている相互作用が、この骨格の確立を、正真正銘、とでも呼びたいほど、明示しているからである。

 しかも、両者の関係、つまり自我がつくる本当の-骨格と、視覚を通じて、外界との相互作用から成立した骨格との関係については、眼がみえない人で研究してきた関係が優位に現れる。

 この研究から、視覚が正常なファントム=幽体、つまり、視覚を通じてできるファントム=幽体と、自我-活動の結果のみからできるファントム=幽体との相互関係が良く比較できる。

 以上を図で表現すると、次のような結論に至る。





 視覚を通じて、自我による骨格とはまた別のファントム=幽体の骨格が組み込まれる。この骨格よりも、自我の骨格の方が、内側の少し深くにある(図参照、黒;視覚、黄;自我)。

 この内側の骨格は、物質体の輪郭を、明確に描いている。この骨格は、自我が物質体に組み込んだファントム=幽体(図の黄点線)で、実際の骨格である。

 ところが、視覚による骨格(図の黒点線)は、まだエーテル体である。だから、次のように考えると興味深い事がわかる。

 「近視の人は、この両者が互いに接近し、図に描いた黒点線と、黄点線が接近している。遠視の人は、黒点線の骨格が、外側にズレて拡がる。」

 視覚の骨格を探求すると、エーテル体をイメージできるようになる。エーテル体を、図に描いた骨格によく似たものとして理解できる。視覚以外に、エーテル体を多少とも把握できるようになる方法はない。

 自我による骨格は物質体に組み込まれる。近視か遠視か、に注意を払いながら、視覚によるエーテル体の骨格から、自我により物質体に組み込まれた骨格を把握する習慣を身につけたなら、エーテル体を知覚する感覚が育てられる。

 加えて瞑想を行えば、視覚による骨格の観察から、エーテル体の霊的な観察へと上昇するのが、それほど困難ではなくなるだろう。

 さて、続いて次のような事が確認できる。

 自我による骨格が拡大し、視覚の骨格=黒点線とダブって現れる場合がある。だから、このファントム=幽体の骨格が視覚によるエーテル体なら、正常だが、自我による物質体なら、異常で、炎症を誘因する。

 従って、次のような結論に至る。

 「自我による物質体の骨格が拡がり、視覚によるエーテル体の骨格に似てくると、炎症を誘因する。」

 そこで、例えば、アリから蟻酸を抽出し、薬として、外から適用すると、ボンヤリとエーテル体の骨格のようにみえ、拡がった自我の骨格を、正常に戻すように、多少とも強化する援助となるだろう。次のようにすれば、この蟻酸の適用を良く研究できる。

 「蟻酸を薄く希釈した液体に入浴すると、自我による骨格を元に戻し、強固にする(図参照)。」

 つまり、非常に薄い蟻酸に入浴すると、拡がった自我の骨格を元に戻し、強固にできる。蟻酸を用いる事で、拡がった骨格に自我が浸透し、元の骨格に戻し、制御可能にする。だから、この治療法によって、炎症が抑えられる。

 (自我の骨格が本来の位置にない事を、蟻酸が自我に知らせる役目をする。)

 というのも、自我と、自我によりつくられる骨格は互いに補完し合っているので、この骨格が拡がり、炎症しながら、崩壊する傾向を持つのは、この骨格がしっかりと自我に浸透されず、制御できない状態にあるからである。

 蟻酸の入浴を通じて、両者を結びつける事ができる。ただし、究めて薄くした状態でなければならない。非常に希釈してはじめて、自我は、蟻酸を認識できるからである。

 さて、この治療法には、体型や体質を加味しなくてはならない。つまり、炎症を発症した人が、肥満の傾向をもつのか、も観察しなければならない。というのも、炎症と肥満の両方をもつ場合、蟻酸入浴によって、良い成果が得られるからである。

 自我による骨格が崩壊している、という根拠に基づく診断が可能なとき、これから挙げていく別の症状からも引き出せるが、かなり肥満の傾向をもつ場合、上述の希釈した蟻酸が良い成果を与える。なので、この治療法の場合、肥満の傾向を是非とも考慮すべきである。

 というのも、人智学は、現代人にショックを与えるような事実を知っている、からである。

 「人間の現進化段階で、眼を発生させた活動とは、絶えず正常へと誘導され、発症しない炎症活動である。」

 炎症活動を抑え、遅くし、集約すると、眼をつくる活動が現れる。だから、眼を見れば、炎症の傾向をもつかどうか、のイメージが得られる。

 エーテル体の霊視を修得していけば、眼から炎症の傾向を読み取れる。視覚は、エーテル体の観察と密接に関わっている。エーテル体を実際にみるには、瞑想により、霊視へと通じる内観法がある。

 (エーテル体と物質体の均衡が破れると、炎症が起こる。)

 しかし、外観からも、霊視を獲得できる。自然の活動を霊的に観察するように努力し、認識を高める事で、霊視を獲得できる。

 霊視を司る感覚器(心眼)は、アストラル体につくる必要があるが、その代わりとなる霊の認識は、外界を手懸かりに養成できる。外界にアプローチして、霊の認識を養成するのと、瞑想による内観から、霊視の感覚器を養成するのとは、内と外の違いこそあれ、同じ活動なのである。

 さて、次のような疑問が浮かぶのも当然だろう。

 「霊視の獲得は、動物にも起こらないのか?」

 さて、人間の霊視獲得が、動物にも起こる、と考えるのは、間違いである。この事は公開講演でも、よく強調してきたが、厳しく強調しておきたい。現代人は次のように考えがちである。

 「人間の眼は、動物の眼であり、人間の臓器も動物の臓器であり、人間の肺は動物の肺であり、人間の肝臓は動物の肝臓で、人間も動物も同じである。」

 しかし、これは間違いである。人間の眼は、動物の目のようにみえるが、人間には自我が組み込まれ、制御されている。

 そして、人間の眼は、自我に浸透される事で、炎症の誘因とならずに、正常へと誘導され、進化において究めて重大な役割を演じているので、動物の、自我に浸透されていない目とは異なる。

 以上が考慮される事はほとんどなく、現代人は、相変わらず次のような認識をやめない。

 「いま2つのナイフがある。どこにでもある形状のナイフである。両手にもつと、左手のを、右手ので説明できる。」

 しかし、一方がテーブルナイフで、他方が髭剃りナイフなら、同じナイフとはいえない。人間の眼と動物の目が同じというのは、これと同じである。外見から、説明するのは無意味である。外見だけに基づく研究なら、何も真実をもたらさないだろう。

 動物に基づく研究は、人体を正確に研究するのを妨げる。というのも、人体を正しく研究するには、人体の周辺にある器官=臓器は、自我に浸透され制御されている、という理解が必要だからである。

 さて、人間の耳は、眼とは全く異なった形でつくられる。

 現代の物質的な認識でもわかる、眼の視覚による骨格の理解を習得し、更に、エーテル体の霊視へとアプローチできるが、同じように耳も理解でき、同じ方法で、聴覚の理解も習得できる。

 人間は、動物と同じような耳をもつが、人間の耳は、自我に浸透されている、のが認識できるように、自分で教育できる。耳の発生を研究していくと、視覚によるエーテル体が、肉体の周囲と関係するのと類似して、聴覚が、肉体の内側と関係するのがわかる。

 霊聴で、耳の発生を聴くと、自我が、眼の発生と関わるのと同じように、耳の発生にも関わる、のがわかる。また、自我は、眼の骨格とは、別の骨格を物質体に組み込む。

 この自我により別に組み込まれる骨格と親和性をもつのは、耳をつくる基礎と成す骨格である。従って、自我による骨格をもう一つ描く必要があり、この骨格を青点線(下図)で描く。

 この骨格は眼の骨格よりも、内側にあり、四肢の中にはあまり拡がらず、もし、この骨格を取り出せたなら、腕も脚もない切り株のような形となる。





 つまり、この骨格の形成は、幼児期の段階で終わった、と言ってよい。この骨格は、他の骨格よりも、頭部に向かってあまり発達していない。とはいっても、この骨格は耳の発生と関わり、聴覚を基にする骨格が対応している、のがわかる。

この聴覚による骨格を、視覚の黒色に対比して、菫(スミレ)色で描く(上図参照)。この骨格も、ある特性を持っている。自我が内側に過密に働くと、この聴覚の骨格に重なり、異常になる。先に扱ったのは、自我が、外に向けあまりに強く働き、視覚の骨格と重なる場合だった。

 以上を正確に研究するには、次のような事を助けとすればよい。体型や体質を加味し、痩せる傾向にあるか、もしくは痩せる傾向にないが、肥満の傾向もない人の場合、自我が内側に向けあまりにも強く働き、この骨格を硬くしている、のがわかる。

 けれども、この骨格は、先に述べた眼の骨格とは別の特性を持っている。それは、内側に増殖する特性である。最初の眼の骨格が崩壊し、散乱する傾向を持つのに対し、この耳の骨格は、過密になり、内側に増殖する傾向を持っている。

だから、自我の骨格は内外の2つの方向に沿って学ぶ必要がある。この耳と関係する自我の骨格=青点線は、自我の発達で増殖するのではない。というのも、崩壊、増殖のいずれにしても、自我が適切な位置に骨格を占めずに、逸脱し制御を失って起こるからである。

自我が内側に逸脱し、制御を失っても、物質体に骨格を維持できるほど充分強ければ、その逸脱によるアストラル体や物質体への影響が現われ、つまり、ヒポコンデリーや便秘などに類似した異常な症状が現れる。

『ヒポコンデリー:心気症。自分の身体の調子や健康状態について異常に心配する症状。』

(病気ではないが、健康ではない。漢方の未病)

 以上が、1つの側面である。しかしまた、自我が内側に逸脱し、制御を失ったときに、自我を維持するにはあまりに弱すぎる場合がある。自我が壊れてしまう。つまり骨格が崩壊するのではなく、自我が崩壊する。

このとき、どの様な独特の現象が起こるのか、を考えてみる。自我があまりに弱すぎて、壊れ、自我の破片が物質体内に付着する。自我が弱い為に壊れ、その破片が付着する、のである。

 自我の破片が肉体に付着するのは、眠るとき、自我は肉体を離れ、霊界に入るが、自我の破片を、一緒に連れていけないからである。この自我の破片は、肉体に残り、(自我の制御を失った)アストラル体として増殖する。

 睡眠中に特によく起こる、このような自我の破片がアストラル体となって、増殖する傾向にある肉体が、腫瘍の傾向をもつのである。この事から重要な事実がわかる。腫瘍をつくる傾向とは、眠る際に、肉体のなかに、自我の破片が残っている為に、適切に眠れない事なのである。

 (堕天使=悪魔も、進化から逸脱し、地上で増殖傾向にあり、天界には帰れない存在で、腫瘍と同じである。)

 このような自我の破片が、悪性腫瘍の病因となり、上述した視聴覚の骨格や体型などと関係する。実際、ヒポコンデリーや便秘になる事で、自我を防御できないと、自我が壊れ、肉体内で増殖し、悪性の腫瘍ができる。この事は、もっと述べていく必要があるが、今は、この原則だけに注目する。

 以前述べた事実を別の形で考察する事で、上述の事実を物質的にも確認できる。以前、蟻酸を非常に薄めて入浴する事で炎症を治療できる、と述べた。

 今度は、蟻酸を、体内奥深くまでに充分に浸透するように、適切に調合して、内服すると、特に痩せた人には、腫瘍をつくる傾向を抑えるのが観察できる。

 以上は、肉眼で是非とも観察すべきものだが、肉眼でみれば、霊視を獲得するには何が必要なのがわかる。また、以上は、体質や体格や、人体の考察、更に、病気を治療する為の物差しとなる。

 この物差しにより、内服、もしくは体外から、どのように投薬し、人体に作用をもたらすかの、正しい見方が得られる。薬の作用を、内外から追求していくと、究めてよく理解できる。人智学は、人間の耳についても、次のような衝撃的な事実を知っている。

 その事実とは、耳の発生に関わる活動を放置しすぎると、すなわち、耳をつくる活動が強すぎると、最終的に、腫瘍をつくるようになる。というのも、耳をつくる活動は、腫瘍をつくる活動を、正しい位置に抑制し、正常化したものだからである。

 だから、耳は、腫瘍なのである。ただし、耳は、正常化した腫瘍なのである。つまり、眼をつくる活動は炎症、耳をつくる活動は腫瘍と親和性をもつ。

 健康も、病気も、本質的には同じ活動が関わり、その活動が正しく進行するか、間違って進行するか、の違いである、のは、健康と病気との驚くべき関係といえる。

 自然から炎症活動をなくせば、どんな存在もみえなくなる。端的にいえば、自然のなかに炎症活動が挿入される事で、どんな存在も眼にみえるようになる。しかし、炎症活動には適切な進行がある。この活動が誤って進行したら、人体の炎症になる。

 同様に、腫瘍の増殖活動も、適切に進行するなら、自然を豊かにする。この活動をなくせば、どんな存在も聞こえなくなる。この活動が誤って進むと、筋腫、癌腫[Myom]、肉腫[Sarkom]などが出現する。この事は、更に述べていくつもりである。

 どんな病気であれ、その活動の対極、つまり適切な進行の健康のなかから、誤った進行である病因を探し出せなければ、病気となる誤った活動を、適切な進行に戻せない。

 というのも、人体構築の基礎となるのは、自然全体のなかで、外の末端へと拡大していく活動が、内の中心へと縮小していく逆転に他ならないからである。

 現代の生理学で恭しく言われている知識の代わりに、上述の事に注目すべきである。確かに、当今の生理学でもそれなりに注目されているかもしれないが、上述の事が大きな意味を持つのに気づいていない。

 例えば、肉眼で、上述の事が、人体において明白に追求できる。

 皮膚が体表に拡がる様子を追求すると、皮膚の表面は至る処で内側に陥入し、その延長の内に向いた処は内張りされている。この皮膚の逆転、つまり例えば、顔の表面の頬から、唇を経て、口で反転し、口内に向かうように、外では拡大している皮膚が、口内では、反転し、内張りされているように、この皮膚の逆転は、究めて大きな意味を持つ。

 実際、この皮膚に沿って人体をみれば、胎生学で追求すべき主題に遭遇する。この主題の本質は、皮膚が、外に袋状に拡がるのを裏返しにするのに基づいている、のがわかる。これらは胎生学のなかで探究すべき課題である。

 そして、以上のような表と裏の両極性の追求から、蟻酸を外側の皮膚に用いる場合と内部の粘膜に用いる場合の、反応の違いを研究し、出現する微妙な差異に注目すれば、究めて興味深い知見が得られる。

 というのも、これまで提示してきた事例全ては、いま最後に述べたような形で、基本的に出現するのを示す、充分な例となるだろう。

 このように研究していくと、外に向かって拡大していく物質の活動と、裏返して内に向かって縮小していくエーテルの活動との違いから、互いに対極的に位置づけられる活動に直面するだろう。

さらにこういう研究をしていくと、人間の生体機構の、外に向かってエーテル的にも裏返しになるものと、人間の生体機構の内に向かって中心化するものとの違い、互いに対極的に位置づけられるこの違いに直面することでしょう。

 さて、この事は以下においても観察できる。また、第2のファントム=幽体;青点線の骨格は、一体なんのか、と疑問をもつなら、次のように答えられる。

 「青点線で描いたファントム=幽体は、物質体の骨格で、専ら増殖の傾向を持つ(図参照)。」

 この骨格が正常なら、耳の発生に関わる。また、耳の観察から学ぶ形で、つまり、耳の内への収縮化の活動に注目し、同時に、前に述べた視覚にも注目すれば、霊能力獲得のために、自己教育できる。

 というのも、視覚はエーテル(光)を通じて、聴覚は空気中を通じて活動しているからである。この違いは大きい。

 不可視の霊界から、可視の物質界へと下方に向かうアストラルの活動は、人体では、内の中心に向かう活動と関係する。対して、エーテルの活動は、外の周辺=末梢に向かう活動と関係する。

 菫色で描いた骨格(図参照)は、アストラル体を暗示する。人体の観察や認識を、耳を手懸かりに、自己教育すれば、アストラル体を霊聴できるようになる。

 視覚の観察術を学べば、エーテル体の霊視が、聴覚の観察術を学べば、アストラル体の霊聴が養われる。

 耳が聞こえなくなった、もしくは、生まれつき耳が聞こえない人に注目すると、非常に興味深い観察ができ、自然と人体との隠れた深い関係が明らかになる。生まれつき耳が聞こえない人を観察すると、もし耳が聞こえていたら、子供のときから究めて腫瘍をつくりやすい傾向をもった事がわかる。

 だから、生まれつき耳が聞こえないのは、自然の、いわば救済処置だが、その原因は、今生ではなく、前世、もしくはその前の転生のなかで理解できるもので、今生ではじめて前世からの調停が図られるからだが、このような輪廻転生にも通じないといけない。

 このような現象を、ある程度まで追究すると、繰り返される地上生活=輪廻転生を把握する際に到達する、ある観点に通じていく。

 物質体=肉体の周辺を刺激すれば、視覚と自我の骨格=幽体との関係を通じて、自我を強められる。自我を強めるには、教育でもできるが、治療もできる。

 炎症の傾向が観察できたら、自我を強め、自我によるファントム=幽体=骨格を、自我が制御可能な本来の位置にあるようにしないといけない。自我が正しい位置にあれば、骨格は崩壊しないからである。

 さて、この骨格のなかによく浸透し、自我-活動を強めるには、例えば、非常に薄くしたローズマリー液、つまりローズマリーの葉から採った液に入浴するとよい。

 『ローズマリー:Rosmarinus officinalis
和名マンネンロウ。シソ科。ハーブ療法、アロマテラピーなどでよく用いられる。中枢神経系機能亢進、血液循環促進と血管壁強化、肝臓・胆のう・腸の機能亢進、抗酸化、老化防止などの作用があるとされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC』

 ローズマリー液を通じて、物質体の周辺から刺激が与えられ、その刺激を通じて、非常に奇妙にも、自我が働くようになる。

 眼が、どのように物質体に組み込まれているか、を観察すると、視覚の本質は、物質体から逐次取り出された像=イメージに、自我が浸透できる事に基づいている、のがわかる。

 人間の眼は、動物の目とは異なり、動物の目は、アストラル体のなかに埋没し、人間の視覚は、自我が、動物にはない像=イメージなどの知能に浸透し、内ばかりでなく、外のものにも浸透できる事に基づいている。

 自我が筋肉に浸透したなら、物質体を同一視する事になるが、眼に浸透したなら、結局、外界を同一視する事になる。だから、以前、まるで外界の海が陸地の物質体に入り込んでいるようにみえるので、眼を、「湾」と呼んだ。眼は、外界の一部が物質体に入り込んでいる、まるで湾のようである。

 現代の生理学が、上述のようなのを全く考慮しないのは、致命的な誤謬である。というのも、その為に、主観などを持ち込んで、愚かしい作り話を成立させてしまうからである。眼のなかに、外界が客観として入り込み、この客観のなかで、自我が外界の活動の一部と相互作用する事などが全く考慮されていない。

 ここ数世紀、少なくともここ一世紀半以来=19世紀以来、様々な生理学が主観の上に構築された。外界が、眼という湾に進入してきて、人間は、視覚を通じて外界に参加している事を全く考えない。

 この事を正しく理解するなら、外界の微粒子等の微細な刺激の影響も、正しく理解できるだろう。物質体には毛孔を備えた皮膚があり(下図参照)、ローズマリー溶液に入浴した場合、その微粒子と、皮膚との間で相互作用が成立し、皮膚の感覚を通じて、自我の強化が生じる。





 この皮膚上で活性化した感覚が、自我に影響した結果、骨格が正しく組み込まれる。自我が正しく強化されると、例えば、このローズマリー溶液中の微粒子により、皮膚の感覚を活性化するように、頭皮を保護すれば、ただし、手遅れでは駄目で、適切な段階で行う必要があるが、脱毛をおさえられる。

 ただし、正しい方法で実施する必要がある。つまり、このように物質体の表面において、自我が働いている。

 さてでは、自我と物質体との秩序正しい相互作用が破られた場合を考えてみる。自我は、単純な「点」ではなく、自らの周囲に作用を及ぼす「点」である。この周囲に作用する、という本質は、自我が、人体全体に拡がり、全てに浸透している、のを意味する。

 さて、物質体の何処か、ある箇所に外傷が起こると、この箇所に、アストラル体を呼ぶ必要が出てくる。アストラル体は、自我よりも一段下位の霊体で、物質体の損傷箇所に浸透し、自我がもつ治癒力を発揮させるのを容易にする。

 いま特徴を述べたような物質体の外傷には、ファントム=幽体の内にあるアストラル体に、「ちょっと助けに来てくれ、君の救助が必要だ!」と語りかけるためには、ローズマリーの入浴ではなく、今度は、アルニカを、小さなウールの布きれに塗り込み、湿布として貼るのがよい。

 捻挫などの外傷があると、自我が弱められるが、外傷箇所に、このアルニカ湿布を貼る事で、アストラル体を、次のように呼びだせる、

 「ちょっと来て、自我を助けてくれ。」

 すると、物質体の表面に沿って、外からバランス=均衡をとるように、自我が強められる。

 『アルニカ:Arnica montana
 キク科アルニカ属の多年草。夏秋に黄色い花が咲く。乾燥させた花を薬用とし、打撲傷や捻挫、筋肉痛などによく外用される。ホメオパシーでは、外用のほか、内服としても用いられる。
1)http://www.weleda.jp/herb/17.shtml
2)http://www.greenflask.com/lab/labmono/mono05.html 』

 このような、様々な物質の、外界での実際の振る舞い、を観察する事で、自我との相互作用を比較する基礎が与えられる。

 実際、外界のもつ治癒力を、様々な物質で比較する基礎を与えてくれる。

 つまり、外界に容易に拡がっていく傾向をもつ物質が、どこまで拡がり、皮膚を通じて、自我を助けられるのか、この拡がる物質を、自我の強化に用いるには、皮膚を刺激するために、非常に薄めて、入浴するのが望ましい。

 また、特にアルニカが属するような植物では、アストラル体をどの程度まで呼びだし、アストラル体の側から間接的に自我を助けるのに用いるべきかを、比較する基礎が与えられる。

 自我とアストラル体に助けを求める事から、このような物質の作用に到達できる。この事は、病気に対する内外からの治療理論の第一の基礎となり得る。 

1-14

 人体への内と外の作用の相違から、人体と外界との相互作用を、次第に見通せるようになる。自我が、人体の末端の、四肢や腹部の新陳代謝で働くときは、シリカの活動は、最高度の霊作用で、自我に相対するのがわかるようになる。

 シリカの活動による物質作用は、頭で強く、霊作用は、頭では弱いので、自我をそれほど助けられない、のがわかれば、人体で、自我が、いかに様々な度合いで働いているのか、を見通せるようになる。

 さて、四肢-代謝系での自我の働きに注目すると、エゴイズムの本質が、この関係にあるのがわかる。生殖系も、このエゴイズム(利己主義)に含まれる。

 そして、自我は、この生殖系という迂回路を通じて、シリカの活動の最高度の霊作用で、エゴイズム(利己主義)を浸透させる。





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Last updated  2018年02月02日 07時13分02秒
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