シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2020年03月03日
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カテゴリ: 神秘体験空間
忙しいなか、巷のコロナ騒動を無視するわけにもいかず、続けてドーリルの話を抜粋しようと思ったのだが、なかなか難解で、話も長いのでどう書いてよいのか、まるでコロナ対策のように迷走してしまったので、とりあえず要点だけ先に書いて、気が向いたら、抜粋します。

その前に、アホ総理は相変わらずアホなので東京オリンピックのことしか頭にないようだが、オリンピックは既に始まっている。

感染防疫オリンピックである。

オリンピックがスポーツ競技になったのは近代からで、古代ギリシアでは哲学、いまでいうならその発表の場だった。

だからして必ずしもスポーツ競技である必要がない。医学、つまり感染を予防し、治療するオリンピックでもいいではないだろうか。

感染予防法と治療法を発見した国、できるだけ感染させずに、感染させてもすみやかに健康体に回復させる治療法を開発した国に、スポーツ競技の開催権を与えるのも一考ではないだろうか。

さて、それはさておき、ドリールの話を簡単に掻い摘んで紹介する。

簡単にいえば、この世は幻ということである。ソクラテスが言ったように、「この世の知識をいくら集めても、叡智に達することはできない、」のである。というのは、この世自体が幻であるから、幻をいくら集めても幻でしかないからである。

これがソクラテスの「無知の知」の真意である。この世は有限の概念でできている。それはもはや無限ではないからである。



あらゆる宗教の教義が示しているように、この世の幻を剥ぎ取りなさい、というのが重要である。幻を集めるな、ということである。幻は集めるほど益々集めたくなる。だから幻なのである。

幻に価値を与えているのは、幻をありたがっている当人にある。何に価値を与えるかは本来は人の自由だが、その自由を奪っているのは、幻に価値を与えている人の考えにある。

価値というのは相対的である。この相対的なのは幻を追うからで、絶対的な真実に価値を与えるのなら、幻ではなく、人の自由に与えるべきであろう。

だからトイレットペーパーがなくなったり、カップ麺が少なくなったり、巷は情報に右往左往している。なんだか新コロナウイルス教という宗教が流行っているように滑稽でもある。

この際、何が健康で、何を生活の基本にすべきか、根本から正し、考え直す良い機会ではないか。免疫が健全であれば、消化の良い食べモノをとり、数日間寝ればどんなウイルスも駆逐できる。

清潔で、規則正しい、自然と調和する生活をしていれば、病気など恐れるに足らない。肉体を縦横無尽に操れる能力を身に着ければ、病気などに罹ることはない。それは伝統の生活様式として各国で、宗教などの儀式で伝えられてきているはずなのである。

そこで、ドーリルの著「ヨガの真義」から抜粋し、要約する。

叡智の探究者がまず最初に知るべき法則の1つは、この物質(感覚)界には、個人の自我が感じ、認め、記憶する以外は何も存在しえない(この事実は、量子力学からも説明できる)。つまり、個人が、それに力を貸さない限りは、それに縛られることもない。それを欲しない限りは、それに囚われることもない。

聖書から1つの例を挙げる。

イエスのところへ、富裕な青年がきて、弟子入りを求めた話がある。「あなたは戒律を守っていますか」と問われた青年は、「若い時から守ってます。」と答えた。

するとイエスは、その青年を眺めて「帰ってあなたの持ち物全てを売り払って貧しい人に分け与えなさい。それから私のところに来なさい。」と言った。



この話はよく、この世の金持ちが叡智の探究者になるのが困難な例として語り継がれている。この話の真相は、この青年がイエスの弟子になれなかったのは、財産を多く所有していたからではない。

それは彼が財産を所有していたからではなく、財産が彼を所有していたからである。彼は、自分の富をこの世での最も重要なものとしていたから、その青年は、自分の富に束縛されていたから、イエスは、「それらを売り払いなさい」と命じたのである。

要するに、財産のウイルスに取りつかれていたのである。それに取りつかれると、死を信じ、恐れる。永遠の生命である叡智には辿りつけない。

我々を叡智へと導く、最初の原則は、自分の持っているもの、自分にやってくるものは、自分の自我を高次に導くように使うためにあると悟って、その所有意識から解脱することなのである。

それらは自分自身のものではないのである。



モノを所有する、という言い方は間違いで、モノに所有されている、というのが真意である。

その状態を心地よく感じるために、心がそれに囚われてしまうのである。

同じように、この世が全てではないから、死も存在しない。それはこの世の概念に囚われた幻にすぎない。

人間は知っているものしか記憶できず、それも馴染みのものしか印象にもたない。未知のモノは通り過ぎても気づかない。脳の働きが弱まるほど、この世の概念が通用しなくなるので、多くのものが通り過ぎても気にも留めなくなっていく。そして死という概念が訪れる。

しかし、その死は各個人で異なるのである。それはその人の人生の生き方による。

死を無という概念で記憶する人の自我には無が訪れるだろう。死を無として所有しているからである。つまり死がその人を所有しているのである。

自由に目覚めよう。

とりあえずはこの辺で、続きは時間がきたら書きます。





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Last updated  2020年03月03日 22時38分08秒
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