シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2024年02月06日
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カテゴリ: 神秘体験空間
放送大学の講義をみるのにハマってしまい、ブログの更新がイマイチなのであしからず。巷は相変わらずコンプライアンスで話題だが、逆説的にいえば、それだけ、地上波TVの情報についての信頼度が高まっている証拠ともいえるかもしれない。半世紀前の子どものときの、TVについては、当たらない天気予報と同じで、「TVの言う事なんて噓八百で当てにならない」というような暗黙の了解があったような気がする。当時は、TVの言う事など話半分に聞き流していたもので、どこか浮世の話で、自分とは無関係とタカをくくっていたのもあるかもしれない。

八切史観でもわかるが、芸能界は河原者の活動域で、TVもそのような集合体とみられ、どこか差別され、ニュース以外は視聴禁止の厳しい家庭もあったし、TVをみるのは不真面目で、モラルハザードの元凶という説もあったぐらいで、有名な謀略論の、GHQの3S政策の洗脳マシンと考える評論家もいたほどである。

先日、水曜日のダウンタウンという番組で、ビートルズの初来日に対して、当時のマスコミの一部が、「きちがい音楽と罵る評論家を報道していたのを、みたが、過激な言論と共に、TV自体が、日常生活とはかけ離れた虚像の道化師のような役割を果たしていたようにも思われる。

その番組のテーマは、ビートルズ初来日で失神者を探す企画だったのだが、意外にも、失神者は皆無で、今日のイメージとは大きく異なり、当時のビートルズの音楽を理解する人も少なく、ルックスだけで若者にウケていたようで、逆に大人たちから不道徳と敵対視されていたのがわかった。

私はどちらかといえば、ストーンズ派なんで、個人的にはビートルズがなぜ人気なのか?理解できない。恐らく当時の邦楽界の状況を、現代で譬えるなら、ヒップホップのランDMC(古いかも?)か、エミネムの来日みたいなものかもしれない。ヒップホップを理解する高齢者は少ないだろうが、多様性が進んだ令和の日本の音楽界ではそれほど大騒ぎにもならないが、逆にいえば、昭和の音楽が画一的で保守的だったのがわかる。

河原者 - Wikipedia

水曜日のダウンタウン - Wikipedia

【不適切発言】水ダウ :4 文字の放送禁止用語は何て言った ? | 道楽日記 (mybouzu.info)

ビートルズ - Wikipedia

3S 政策 - Wikipedia

Run-D.M.C. - Wikipedia

エミネム - Wikipedia


当時の大人が大人げない態度で、パンク音楽の前触れかと思われるぐらいのNGワードで罵るぐらいの、ビートルズの来日騒動から、その前のGHQのマッカーサー来日騒動、更には幕末の黒船騒動が連想されるぐらいの混乱ぶりで、令和の今から考えれば、コンプライアンスどころか、カオスそのものだったわけで、芸能界や、それを映すTVの世界はいわば無秩序な幻想の非現実な世界なんで、特に子どもには視聴制限を設ける家庭が多く、中学受験や勉強を勧める家庭ではTV視聴は厳禁だったので、いまのスマホやゲームの扱いと似ていたかもしれない。

TV自体も、「TVばっかりみていると、いまに尻尾が生えてくる」というようなCMを流したりして、自己防衛を図っていたようにもみえるぐらい、昭和の当時のTVの言うことはインチキ臭く、話題にはなるが、現在の都市伝説のように、マトモに信じるのは、どこか頭がおかしい人というような印象を与えていたものである。

昭和のTVは猥雑で、猥雑な世界から、自分のお気に入りのコレクションをしていたような感じで、子どもには、パンドラの箱ともいえたかもしれない。だから、現実逃避には持って来いの、非現実の世界で、現実には使えないガラクタの道具箱ともいえたかもしれない。実際にTVは暇人の道具ともいわれていたし、今日のように、TVが語る事をマトモに受け取る人はほとんどいなかったので、コンプライアンスなどが問題になることもほとんどなかったわけなんである。

つまり、日本史でいうならば、TVは河原者のように暗黙糧に差別されていた、といえるかもしれない。



松本人志さんの “ 罪 ” を考察したブログに反響広がる「ぐうの音も出ない」「完璧すぎる論破」(ダイヤモンド・オンライン) - Yahoo! ニュース


明治維新で法制上は四民平等になったが、現代でも、上級国民と下級国民という言葉に変わって残っているように、江戸時代の河原者の流れを受け継ぐ芸能界には、江戸の庶民の風習が文化として残っているのが、このような一件からわかる。TVで流されるものをマトモに取り合うことは昭和にはなく、だからヤラセもある程度ゆるされていたともいえるかもしれない。TVのやることを大目にみていたともいえる。つまり、芸能人と、一般人の境界や縄張りがはっきりしていたともいえるかもしれない。

翻って、現代をみれば、巷に、インターネットが浸透してきて、TVの代わりにユーチューブなどのネット動画が、昔のTVのような如何わしさを担っていくようになり、TVの地上波が、ネットがフェイクの嘘塗れだと糾弾するようになってから、地上波こそ多数な情報で、正統派を主張するようになったので、コンプライアンスが求められるようになったともいえるかもしれない。

昔のTVもネット以上にヤラセやガセネタが横行していたのを知っている視聴者にとっては、TVも、如何わしさにおいては、ネットとどっこいどっこいで、TVの過去のアナログ映像をみれば一目瞭然で、改めて映像を流すには、差別的表現がみられる云々の注意書きが必要なので明らかである。

昭和の天気予報は競馬予想と同じ位当たらなかったが、スパコンを導入してから、少しづつ統計データから、恐らく、天気予報が当たるようになってきて、スポーツの実況中継と共に、ネットよりも、情報を得るための正統性の主張が認められるようになってきたのかもしれない。

しかし、TVやネットにしろ、正当性を主張しようとも、その情報は、発信者により恣意的に切り取られ、加工されたもので、大自然の物質的領域のなかでの、特定の一部でしかなく、その情報を鵜呑みにするのは、非常にリスクを負う羽目に陥りやすい。だから情報リテラシーが叫ばれ、詐欺の横行に注意を払う世の中の、人間社会になってきたわけである。

情報リテラシー - Wikipedia


TVやネットで流される情報のどれがフェイクなのかはなかなか見分けがつかないばかりか、現代人の知識は、唯物論に洗脳されているので、情報を覆いつくす物質的なベールを剥がすのがほとんど不可能になっているからである。むしろ、昔のように、全てをフェイクだと思った方がリスクを冒さずに済むかもしれない。

さて、人智学的栄養学の紹介が一段落し、今度は、シュタイナーの人智学的リズム学を紹介していくつもりなのだが、それによると、人類は段々と愚かになってきている、というわけなんである。というのは、現代人が、知識は与えてもらうものと錯覚しているからで、実際、人間の脳を、知識を汲み上げるバケツにすぎなくさせているからでもある。

人間は、脳を唯物論から唯物的につくりあげるパズルにしているだけなんである。だから、人間は、死を理解できなくさせているわけで、唯脳論が罷り通るようにさせてしまっているわけで、もはや脳をTVと同じような文明の利器とでも思って、洗脳されているわけなんである。

確かに、知識とは、感覚から学んで、つくりあげるものなのだが、唯物論で作り上げるのなら、それはいずれ物質界のように、砂上の楼閣で、死によって無になるしかないわけなんである。

だから、知識を永遠の、不死のものにするのには、死を乗り越えた宇宙のもの、つまり、宇宙の精神に則り、つくりあげないといけないわけで、だから、知識には、宇宙の法則のモラルが不可欠なんである。

物質界というのは、死ねば去らなければいけない領域で、時空間なんで、そのような場にいかに頑丈な建物を建てようと、地球上にピラミッドのような完成度が高い図書館をつくりあげようと、地球にある限りは、いずれ環境破壊と共に滅亡してしまうわけなんである。



ソクラテスの無知の知ではないが、この無知の知さえも、現代人は唯物的に解釈して誤っているが、人間の死を超える本当の知識を、古代人は、知っていたわけで、その古代叡智が、創造の知識といわれる生きた知識なんである。

この生きた知識とは、物質欲に目覚めた西洋にはないもので、現在のキリストの顕教にはない、というのも現代のキリスト教はルシファー教なので、だから、人類を宗教論争などから、戦争などに追い込んでいるのがその証拠でもある。これは霊能者の多くが述べているキリスト教の現実でもある。

その証拠に、現在のキリスト教は人間の輪廻転生を認めていないが、キリストこそ、神そのものでその使者というのなら、輪廻転生をつくった神そのものであるから、輪廻転生を否定するのは、神を否定することになってしまうわけなんである。輪廻転生を否定するのは、あの世を否定することなんである。天国も地獄もないという、唯物論と同じで、それなら、なぜ人間の死があるのか、解き明かせなくなる。

死んで終わりなら、死の否定とともに、生の否定でもあり、生きること自体が、物質界自体が無意味であるのを示すことになるし、キリストが死んだのなら、甦れるはずがないわけなんである。つまり、キリスト教は物質界でも論理的矛盾を犯しているわけなんである。

人間の死がなぜあるのか?この質問に応えられない限りは、宗教は絵に描いた餅にすぎない。



現代人が、再び古代人のように自らの精神の働きから、生きた知識をつくりだして、賢くなり、霊能力を獲得できたら、死を乗り越え、前世がみれるようになる、とシュタイナーは述べている。

死者の書 ( 古代エジプト ) - Wikipedia


現代人は、唯物論で、悪い事をしても、死ねば、その罪は全て消えると思い込んでいるが、むしろ、罪は死んでも消えないどころか、永遠と付きまとう、いわば借金のような負債となるのである。だから、現代人の多くは自分に付きまとう過去の罪を思い出したくないので、死んだら全てなくなると思い込んでいるだけなんである。キリスト教徒などは、キリストに、自分の罪などの全ての罪を背負いさせて、キリストの死で解消したと思い込んでいるだけなんである。

キリストが人類全ての罪を背負って死んだお蔭で、人類は過去の罪を背負った前世を記憶から消すことで、いま唯物的に物欲で生きられるが、キリストが、罪を背負ったのは、人類が進化するための猶予期間を与えただけで、いずれは、最後の審判が下るまでには、自分で物質界で生きるうちに、その罪を解消しないといけないわけで、いわば執行猶予にすぎないわけなんである。

キリストは、人類の罪を、執行猶予付きで許しただけなんである。だから、生まれ変わるうちに、自分で罪を償い、カルマを解消していかなければならず、加害者は、次回に被害者の人生を送らないといけないわけなんである。

だから、無知に甘んじることなく、ソクラテスの説くように、無知の知を実行しないといけないわけで、輪廻転生の意味を知らないと、永遠の知を知らないといけないわけなんである。

東洋には、古代アジアを通じて、輪廻転生が伝承されてきたので、この世よりも大切な、あの世の生が説かれ、この世の儚さを、詩にした、敦盛などの、「人間50年下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり、ひとたび生をうけ、滅せぬもののあるなきか、これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。」というわけなんである。

この詩の解釈が物質界からのものばかりなんで、あの世から解釈すれば、次のようになるだろう。

この世に50年生きるとはいっても、あの世に比べれば儚き幻のようなもので、生まれては死んでいく世界であるから、その生の行いを、死後に、後悔しないようにしないと、永遠と罪を背負うようなことになっては、いけないぞ、という戒めでもある。キリストを差別し、見放した、永遠に彷徨えるユダヤ人になってはダメだぞ!という詩なんである。

敦盛 ( 幸若舞 ) - Wikipedia


つまり、この世の生とは、前世の失敗を成功に転換するためにあるわけで、前世の罪の執行猶予期間でもある。だから、夢の、仮の姿にすぎないというわけなんである。特に「これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。」の訳が重要で、仏様になるように、せっかくやり直しの人生が与えられたのだから、無駄な人生を送っては後悔しては後の祭りだよ、というわけなんである。

この古代叡智の前世からの知識、つまり輪廻転生の思想は、仏教にはまだいくらか残っているが、キリスト教が唯物論でルシファー化され、現代仏教も、糞坊主ばかりになって金儲け主義に走ったせいで、ほとんどみなが死後地獄に堕ちて後悔先に立たずで、執行猶予のやり直しの人生を送る羽目になり、だんだんと愚かで馬鹿で、頭空っぽな論争、闘争、戦争をするような肉食獣の動物になってしまっているので、人生の落第者だらけの地球は滅亡に向かっていくのだろうね。

戦争の大罪を知らない偽善者たちや、金儲けの虚しさや、同じ穴の貉同士の中身が空っぽのTVとネットのやりあいや、この国の裏金政治家たちをみれば、死んで全てがチャラになるとでも思っているのか、世も末だよなぁ。

死後に、自分の人生を後悔しても手遅れなのを知るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。

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 さて、もし、古「土星」存在から古「太陽」存在へと突き進むのなら、現在の太陽ではなく、古い「太陽」のイメージをつくるための、その基礎づけが必要となる。これについても、「神秘学概論」で提示したのは、その外(物質)的な表現に過ぎなかった。

 古「太陽」は、空気と光が、熱に加わり、熱を高めたが、「意志の霊」からもたらされた犠牲の輝きを、知覚するのに、熱を超える存在を探求したように、古「太陽」上で、熱に加わった空気と光を理解するなら、空気と光にもまた、その道徳的な存在を探さないといけない。

 古「太陽」上での空気と光についての思考や表現、更には感情に至るには、霊的な方法で、自我の内面を経験し、探求するしかない。

 このような感情は、霊魂の経験として次のように記述できる。本当の犠牲行為を霊的な観察で想像する。つまり、前回の講義で述べたように、トローネが、ケルビムに、供儀を捧げるイメージが、深い感動を生み、無上の喜びによって、霊魂を輝かせるのが想像できる。

 この犠牲を捧げる存在、つまり、霊魂を目覚めさせ、活性化させるイメージを想像すれば、人間の魂は、何を感じるのか?

 生命に満ちる感情を持つ魂なら、犠牲行為のなかに感じる喜びを前に、無関心ではいられず、この犠牲行為を目の当たりにすれば、深い目覚めを経験するだろう。この犠牲から生じる無上の喜びを見守れば、それが至上の美しい行為で、至上の美しい経験であるのを、魂は感じるはずである!

 しかしそれとはまた別の経験も生じ得る。それは完全に自己に身を委ね、無関心でいる態度である。実際、もし、この献身からなる犠牲行為を見守る、という憧れを、魂に生じさせなければ、その自己犠牲の美徳をもたらさなければ、人間は魂をもたない、一片の木のような固い物質になってしまうだろう。

 自己犠牲、つまり未熟な自己を諦める、無我の境地について考えてみる。自己を諦める行為は、自己犠牲が変化した行為ともいえる。そして、能動的で、意識的な自己犠牲を深く考えれば、自分を諦め、自己を無くし、自己を忘れるなどについての、親密なイメージを沸き立たせる。

 このような親密感、少なくとも自己犠牲についての示唆、もしくは残響が感知できなければ、自己犠牲についての霊的な理解には至れない。

 実際、「自己を諦める」への親密感を、魂のなかに感知できれば、高次の認識が、現代人に与える霊的なイメージへと到達できる。自己犠牲の精神を創造できない人は、高次の認識にも到達できない。この自己犠牲という態度と正反対となるのは何か?

 それは自己保身である。自分の思考の中に、自己を無くすこと、そして、その反対側にある、自己を権威化し、保身すること、つまり、これらが魂のなかの2つの対極で、これが魂のなかの大いなる対極である。

 もし、精神的な、真の認識を獲得し、自我を叡智で満たしたいのなら、自己犠牲の対極にある、この自己保身は致命的なものとなる。日常生活において、自己保身は、頑固、頑迷、偏屈な我儘として知られている。そして、この偏屈な我儘は、高次の洞察を絶えず破壊する。

 実際、自己犠牲への能力として表現できる行為を、思考の中で叡智にまで促進する必要があるが、それは、自己犠牲の促進された無我の感覚のみによって、人間は高次の世界に向けて、進化できるからである。

 高次の世界では、自分を捨てる能力、少なくとも、その魂的な無我の境地を経験できなければならない。もし、物質科学的知識や日常的な唯物的思考だけでやっていくなら、高次の認識の獲得は不可能となるのを強調しておきたい。





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Last updated  2024年02月06日 17時47分58秒
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