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姫路城:1945年7月に 焼夷弾
が大天守を直撃していた
1945年7月の米軍による 姫路空襲
で、焼夷弾が姫路城大天守を直撃したものの不発で炎上を免れていたことが分かった。
当時姫路中部第四十六部隊見習士官で不発弾処理の専門将校だった 鈴木頼恭 さん(81、岐阜市在住)の手記によると、空襲翌日のお昼頃に姫路城内に入ると、大天守最上階に焼夷弾の不発弾が横たわっていた。
処理方法が分からなかったために、城外に運び出して処理した。
空襲下の姫路城が生き残った理由については米軍が意図的に攻撃対象から外したとの憶測もあるが、空襲に参加した米軍機長は回避との命令は受けておらず、残ったのは偶然と証言している。
現在、江戸期のいわゆる現存天守はわずか12城ですが、戦前まではほぼこれの倍くらい残っていました。
代表的なところでは 名古屋城 、 広島城 、 福山城 、 和歌山城 や 大垣城 で、大変に残念なことです。
今回の エピソード で、 姫路城 についても危機一髪といった状況だったわけで、現在の姫路城天守を見ることが出来るのはこの鈴木さんの勇気ある行動のおかげと言っても過言ではないですね。
新しい史実?の発見ですか。焼夷弾が爆発していれば、今の姫路城はなくなっいてたのですから・・・・(G-g)
姫路城天守閣に焼夷弾が直撃、不発 1945年7月
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000075765.shtml
2006/07/23
一九四五年七月の 姫路空襲 で、姫路城天守閣に焼夷(しょうい)弾が直撃したものの、不発だったために、炎上を免れていたとみられることが二十二日、当時、不発弾処理にあたった元士官の証言で明らかになった。天守閣の戦災被害は記録にはないが、元士官から手記の寄贈を受けた姫路市平和資料館は「これまで知られていなかった逸話」として、関心を寄せている。
姫路市は同年 七月三日深夜から四日未明にかけ、姫路城の南東部を中心とした半径約一・二キロが焼夷弾攻撃にさらされた。焼失家屋は総戸数の約40%に達したが、姫路城は奇跡的に残った。
当時、姫路中部第四十六部隊見習士官で、不発弾処理の専門将校だった鈴木頼恭(よりやす)さん(81)=岐阜市=の手記によると、空襲翌日昼ごろ、部隊本部の指令で姫路城内に入ったところ、 大天守最上階南側の床板に焼夷弾の不発弾が横たわっていた。
爆発すると、着火した油脂が炸裂(さくれつ)して火災を引き起こすM47百ポンド焼夷弾で、 屋根の軒瓦四枚を吹き飛ばし、窓から斜めに突っ込んだ様子だったという。 信管が通常の型と異なっており、処理の方法が分からず、城外に運び出して爆破した。
空襲下の姫路城が生き残った理由については「米軍が意図的に攻撃対象から外したのでは」との推測もあるが、空襲に参加した元米軍機長は「回避せよという命令はなく、残ったのは全くの偶然」と証言している。
姫路城の被災は、西の丸が焼夷弾を受けたほか、三の丸にあった鷺城中学校が被弾・炎上した記録があるが、天守閣の被害は、修理記録も含めて記録にはない。
姫路市立城郭研究室は「焼夷弾は空中で散らばるので、西の丸が被弾している以上、天守に落ちていてもおかしくない。当時の記録がないのも、混乱の中でやむを得なかったのかも」とみる。
姫路市平和資料館の加古雄三館長は「奇跡といわれた姫路城残存の陰で、そうした逸話があったということは大変興味深い」と話している。(森本尚樹)
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