「Life」を求めて

「Life」を求めて

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2006.01.08
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カテゴリ: 哲学について
俺はお前だ。

というわけで、昨日のコメントの返事書いてたら長くなってしまったので、日記として主題化してしまいます。
(私的な日記なので普通の読者の方々には失礼します)


人生に「戯れ言」を入れる必要は一般的に考えて、
ない。

ただその生(ナマではない)の現場にのみ徹すればいい、という極めて刹那的な生き方がある。
そしてそれは、仕事の現場なんかに行くと、そのような「気分」を醸して生きている人がほとんどであるということを思い知らされる。
戯れ言を挟む余地さえない。

そんな間隙のない事業、そして人生。
それはそれで充分な生(ナマではない)なのかもしれない。
まあもちろんオレも、仕事や弓の現場では「戯れ言」は言わない。それは、その現場に徹しきることができなくなるから。

でも、オレの生(ナマではない)は、一つの現場だけじゃだめで。
「何かに徹したい」という欲求と、
「何かに埋没して自己を見失いたくない」
という矛盾した想いが常にある生(ナマではない)で、その後者の立場が「戯れ言」を言わせる。

「戯れ言」の立場とは、自己反省の立場であり、自己反省の立場とは、現場を脱却した観点に立つということであるが、それもまた新たな現場の一つではある。
「現場を主題化する現場」ともいうべきような現場か。
そしてその「戯れ言」の現場、上にあげたような刹那的現場第一主義者達にとっては割と非現実的内容ではある。

でもげーでる君の言う通りで、(私の)人生には「戯れ言」という再契機(remind)が必要不可欠で、その「戯れ言」をたれる現場において、さらにその(仕事や弓の)現場を止揚し徹しきるための再構築が必ず要求されると思う。


一見この
・現場
・戯れ言(現場を主題化する現場)
・哲学的自己反省
という三段構えの生(ナマではない)は非現実的なのかもしれない。

この3段構えの生(ナマではない)は、その三つの契機の内、どれからもそのリアリティを失ってしまってはいけないんだと思います。
「三位一体」みたいな構造?

んで、昨日の日記におけるオレの戯れ言は、最初の「現場」という契機の比率が最近軽いなと思って出てきたようで、
まさにげーでる君指摘の通り

>「緊張感、使命感、重圧」を直接的に感じられなくなったため

なんですよ。それは外から得ようとするのではなく、現場において内から「直接」接しなければ得られるものではないことはよくわかってます。
だから「戯れ言」いう前にそれをやれということなんです。
だから、とりあえずは「自力」的にそれをやってみて、そこからまた新たに戯れ言たれたいと思います。

というわけでげーでる君、今年も戯れ言にお付き合い下さいますよう、宜しく御願い申し上げます。





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Last updated  2006.01.10 07:45:54
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