「Life」を求めて

「Life」を求めて

PR

×
2006.01.10
XML
カテゴリ: 哲学について
この日記はアンドロメダ6594さんに触発されて書きました^^;
『スピリチュアルな人々』(2006/01/10)
僕も、「星野道夫の世界展」には何度か足を運びました。

僕は彼の写真に出会うまで写真という表現が嫌いでした。それは当時僕が写真というものを理解していなかったからなのですが。。。

中学生の頃ある写真を見ました。
アジアのどこかの戦地で、裸の少女が泣きながら逃げまどう写真(詳しい戦地・カメラマンが誰かは忘れてしまいましたが・・)僕はそれを撮った写真家に何かいい知れぬ嫌悪感を感じました。目の前の少女を助けようとせず、写真を撮るということに、、カメラマンの非常さを感じたからです。

まあ、今考えれば、戦場でカメラマンが銃を持ったり、医療行為をするより、写真を撮って世界に知らしめる方がよほど大きな行為になるということなんですけど、でも、その写真を見てから、写真家という職業に対して疑念を抱くようになりました。

目の前の少女を助けるよりも、ジャーナリズムや世界の眼というファインダーを通して、現実の外から写真を撮るということが興味本意に行われて、ある種のエンターテイメント的なものとして撮られているのではないかと。。。当時はなんだかむしゃくしゃしました^^;(日本のお昼の奥様向けワイドショー番組の悪い影響で、ジャーナリズムそのものを誤解したということもその原因の一つなのですが)

そんな時に、「星野道夫の世界展」をたまたま見に行ったのです。
「どーせ写真家なんて」と思いながら・・


テレビの向こうの刺激を求める興味本意の人々の為に写真を撮っているのではない。
「それ」と一つになるためにこの人は写真を撮っているのだなと直観しました。そして、この人の意識は、現代の流行思想とか、ジャーナリズムとかそんなものに基いて行為しているのではないことがよくわかりました。
流行思想やジャーナリズムという意識ではなくて、自然を自然の内から、自らも自然と一致して自然そのものをとらえているのです。

自然の外からでなく、内において、です。

素人の勝手な考えですが、写真家の極意とするところは、いかに対象との一致を果すのかに尽きるのだと思います。
「作品」というものが人々に感動や、驚きや、現実の深淵を伝えきるためには作品そのものから、製作者とObjectとの直接の一致が、鑑賞者に垣間見えなければいけないと思うんです。
でなければ作品と鑑賞者の一致もまたあり得ません。

裸で逃げ惑う少女のどうしようもない悲哀を共に味わうことなしに、戦争の現実は理解できないし、それが理解できないジャーナリズムも意味をなさない。
カメラマンがその現実の悲哀を味わい尽くし、どうしようもなく立ちすくんでしまった時が、本当にシャッターを切るべき瞬間なんだ。
ま、カメラマンによりどう行為するかは異なるかもしれないけど、でもそこで現実の「深淵」を見据える覚悟がなければ写真なんかは撮ってはいけないんだと思う。(これは倫理)

自然と向き合い、自然と一つに近付こうとした星野。

氷の世界で出会うだろう。
そのとき、おまえがいのちを落としても
わたしがいのちを落としても
どちらでもよいのだ」
このような気概があって初めて現実そのものを、自然そのものを「外から」ではなく「内から」そのままに作品にできるんだと思う。


この、自然に向き合い当然のように抱く死への覚悟と、その予感、それも含めて彼の写真であり、彼のエッセイなんだと思います。
いや、
彼の場合、写真も、エッセイも、それが「自然」そのものになってるんですよね。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2006.01.10 19:40:36
コメント(4) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: