最近、こんな文章に出会い、感銘を受けました。
「先日、アラスカの川をゴムボートで下っている時のことだった。川の流れに身を任せながら、ふと前方を見ると、川岸のポプラの木に一羽のハクトウワシが止まっている。急流はゴムボートをどんどんと木の下へと近付づけ、ハクトウワシもじっとぼくを見下ろしていた。飛び立ってしまうのか、それとも通り過ぎさせてくれるのか、ぼくはただぼんやりとハクトウワシを見つめていた。それはぴんと張りつめた息詰まるような時間でもあった。ぼくを見つめているハクトウワシには、過去も未来も存在せず、まさにこの一瞬、一瞬を生きている。そしてぼくもまた、遠い昔の子供の日々のように、今この瞬間だけを見つめている。一羽のワシと自分が分かち合う奇跡のような時間。過ぎ去っていく今がもつ永遠性。その何でもないことの深遠さに魅せられていた。川の流れはぼくをポプラのすぐ下をすり抜けさせ、ハクトウワシは飛び立たなかった。
日々の暮らしのなかで、"今、この瞬間"とは何なのだろう。ふと考えると、自分にとって、それは"自然"という言葉に行き着いてゆく。目に見える世界だけではない。"内なる自然"との出会いである。何も生み出すことのない、ただ流れてゆく時を、取り戻すということである。」(P13)

野暮な解説は必要ないですね、
アンドロメダさん、つまりはこうゆうことですね。 (2006.01.13 01:29:51)

「Life」を求めて

「Life」を求めて

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2006.01.10
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カテゴリ: 哲学について
この日記はアンドロメダ6594さんに触発されて書きました^^;
『スピリチュアルな人々』(2006/01/10)
僕も、「星野道夫の世界展」には何度か足を運びました。

僕は彼の写真に出会うまで写真という表現が嫌いでした。それは当時僕が写真というものを理解していなかったからなのですが。。。

中学生の頃ある写真を見ました。
アジアのどこかの戦地で、裸の少女が泣きながら逃げまどう写真(詳しい戦地・カメラマンが誰かは忘れてしまいましたが・・)僕はそれを撮った写真家に何かいい知れぬ嫌悪感を感じました。目の前の少女を助けようとせず、写真を撮るということに、、カメラマンの非常さを感じたからです。

まあ、今考えれば、戦場でカメラマンが銃を持ったり、医療行為をするより、写真を撮って世界に知らしめる方がよほど大きな行為になるということなんですけど、でも、その写真を見てから、写真家という職業に対して疑念を抱くようになりました。

目の前の少女を助けるよりも、ジャーナリズムや世界の眼というファインダーを通して、現実の外から写真を撮るということが興味本意に行われて、ある種のエンターテイメント的なものとして撮られているのではないかと。。。当時はなんだかむしゃくしゃしました^^;(日本のお昼の奥様向けワイドショー番組の悪い影響で、ジャーナリズムそのものを誤解したということもその原因の一つなのですが)

そんな時に、「星野道夫の世界展」をたまたま見に行ったのです。
「どーせ写真家なんて」と思いながら・・


テレビの向こうの刺激を求める興味本意の人々の為に写真を撮っているのではない。
「それ」と一つになるためにこの人は写真を撮っているのだなと直観しました。そして、この人の意識は、現代の流行思想とか、ジャーナリズムとかそんなものに基いて行為しているのではないことがよくわかりました。
流行思想やジャーナリズムという意識ではなくて、自然を自然の内から、自らも自然と一致して自然そのものをとらえているのです。

自然の外からでなく、内において、です。

素人の勝手な考えですが、写真家の極意とするところは、いかに対象との一致を果すのかに尽きるのだと思います。
「作品」というものが人々に感動や、驚きや、現実の深淵を伝えきるためには作品そのものから、製作者とObjectとの直接の一致が、鑑賞者に垣間見えなければいけないと思うんです。
でなければ作品と鑑賞者の一致もまたあり得ません。

裸で逃げ惑う少女のどうしようもない悲哀を共に味わうことなしに、戦争の現実は理解できないし、それが理解できないジャーナリズムも意味をなさない。
カメラマンがその現実の悲哀を味わい尽くし、どうしようもなく立ちすくんでしまった時が、本当にシャッターを切るべき瞬間なんだ。
ま、カメラマンによりどう行為するかは異なるかもしれないけど、でもそこで現実の「深淵」を見据える覚悟がなければ写真なんかは撮ってはいけないんだと思う。(これは倫理)

自然と向き合い、自然と一つに近付こうとした星野。

氷の世界で出会うだろう。
そのとき、おまえがいのちを落としても
わたしがいのちを落としても
どちらでもよいのだ」
このような気概があって初めて現実そのものを、自然そのものを「外から」ではなく「内から」そのままに作品にできるんだと思う。


この、自然に向き合い当然のように抱く死への覚悟と、その予感、それも含めて彼の写真であり、彼のエッセイなんだと思います。
いや、
彼の場合、写真も、エッセイも、それが「自然」そのものになってるんですよね。





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Last updated  2006.01.10 19:40:36
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Re:写真家について(01/10)  
>彼の場合、写真も、エッセイも、それが「自然」そのものになってるんですよね

そうですね。その通りだと思います。
わざわざ、リンクしていただいて、ありがとうございました。
トラックバックもさせていただきました。

>自然を自然の内から、自らも自然と一致して自然そのものをとらえているのです。

わたしも、そういう生き方ができたらと思うのですが、現実には、なかなか難しいですね。だから、よけいに星野さんに憧れるのでしょうか?
(2006.01.13 00:05:17)

『長い旅の途上』(星野道夫 文藝春秋)より  
エイジ@  さん

野暮な話です。  
通りすがりの者 さん
まだ自分が高校生だった頃、部活が終わって帰る電車の窓から夕日を見て泣きたくなる衝動に駆られて困った時期がありました。
あの時期はいろいろと精神的に辛かったですから。
夕日が心に染み入ると実感しました。 (2006.01.14 11:03:10)

Re:『長い旅の途上』(星野道夫 文藝春秋)より(01/10)  
わからないけど・・・何だか涙がこぼれました。彼の文章は心を癒してくれる。彼の言葉に触れるだけで深淵が見えてくるのです。彼の言葉のフィルターを通して見えてくるもの、すべてを愛しく感じます。ありがとう。
(2006.01.15 00:45:10)

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