「Life」を求めて

「Life」を求めて

PR

×
2006.01.17
XML
カテゴリ: 哲学について
興味のある方だけ読んでえくださいな。。。。

>1日は24時間しかないので、1時間悩み苦しむ事は1時間それ以外に使うことを放棄することである。
>これはトレードオフの関係であるから、悩み苦しむ以外の選択肢として、確かな満足感を得るためにも、
>とりあえず、何かハンバーグとか美味しい物を食べに行こうとか・・・
(^_^;)
>人生そんなに複雑じゃないかも。
>お腹イッパイなら悩み無しかもしれません・・・
>でも虚しいなぁ~
>ただブクブク太るだけだしなぁ~



現実というのは、そのような恣意的・不定的自由意志のみで成立しているのではないと思うよ。
話が複雑になるのは、現実が恣意的・不定的自由意志のみで成立すると考えるからで、それだとどこまでも選択肢が拡散していってしまう。
でも、現実に我々には多数に在る選択可能な選択肢の一つを常に選択している。

現実というものを考える時、二通りの見かたができると思う。
一つは、客観的な現実の見かた。
もう一つは、主観的な現実の見かた。

客観に徹した見かたをすれば、現実というのは、複数の選択肢の内の一つでしかない。現実はどこまでも選択肢として拡散し、どこまでも比較され、対象化され得る現実となる。
その現実は、つまりは偶然的現実である。数ある選択肢がある中でなぜだかその現実が選択されているのである。
現実を時間という単位で区切り、悩み苦しむことや、美味しいハンバーグを食べる喜びを1時間という抽象的な数字に変換させるものの見かたである。
そうすることで感情や感覚などの本来交換不可能と考えられる経験の総体であるところの現実は、概念化することで交換可能にもなる。そんな時、なぜこの私はあっちの「彼」の経験ではなく、こっちの、この「私」の経験を所有しているのか?というような問いも起きてくるし、デカルトの「悪霊」も想定可能になる。

一方

悩み苦しむ現場において現実は、悩み苦しみそれ以外ではあり得ない。美味しいハンバーグを食べた時、現実は、やわらかなハンバーグのしたたる肉汁に舌鼓を打つ喜びそのものになる。
現実を現実そのものとして直面し、それを直に生き切る時、そこに選択の余地は生まれない。
もしあなたの大切な人が理不尽な死に方をした時、その悲哀の感情を、それとは別の感情に取り換えることはでるだろうか。ある程度時間が経てばそれは可能かもしれない。ただ、その悲しみの現場においては悲哀に身を浸す以外にどうしようもない。それ以外の可能性が絶たれてしまう。涙を流さざるを得ない、立ちすくまざるを得ない状況というのがある。
私が、この人生の苦しみを背負い切ることができないからといって、私であることをやめて、あっちにいる彼の人生を生きることはできない。
どうしようもなくこの私であるという、この直接の実存的経験こそが、選択肢を収束させる。


現実は、数ある可能性の中の一選択肢が偶然実現してしまっているという、偶然的現実の側面と、
数ある選択肢が極所的に収束し、そこからどうしようもなく開けているような現実、すなわち必然的現実の側面がある。


まあ長くなったけど、 『地球交響曲第三番』日記の話は、その現実へのピントの合わせ方が様々あるって話だったんだよ。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2006.01.18 00:11:25
コメント(7) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: