「Life」を求めて

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2006.02.18
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カテゴリ: 哲学について
なるたけ日記を更新したかったので、ネタが無いけど書きます。


自覚についてが最近の主題。

自覚とは「私は○○である」という自己反省的な意識のことだ。
その自己反省はの意識は、直観的な場所の把握によって生じる。

自覚は場所によってその内容(述語)が変わる。
会社にいれば「私は部長である」とか、
家庭に帰れば「私は父である」とか、

そして


何の偶然か、狼に育てられる子供と言うのがまれにいる。
その子供の意識は狼そのものであるのだろう。
狼と同じものを食べ、狼と同じように走り、狼のように遠吠えをし。

狼であるのか、会社の部長であるのか、
自分が何者であるのか、ということは意識においてはそれほど違いのあることではないのかもしれない。
部長と狼の違いの場合、その意識内容が人格的か狼格的(?)かの違いであって、そこに意識活動があり、そこから世界を表象しているということには違いない。
「私は狼である」というような反省的意識を狼はもたない。しかし自分が狼であることは知っている。間違って仲間を獲物として食べたりしないから。
敵と見方とを判断することもできる。
同様に人間の場合も、自分が人間であることは「私は人間である」と思惟する前から知っていることだ。
意識があり、世界を表象しているという点に関しては、その内容が人間であろうと狼であろうと、大きな違いは見とめられない。
だから人間である自分が狼であることを想像可能であるのだろう。


でも現実にはその無限の選択肢の内の一つが私に与えられている。

では、
場所を貫いて、
述語の変化を貫いて
同一性の認められるように思える主語(私は)のほうとは何だろうか?

永井均はそれを世界の開闢の主体として〈私〉と表記した。
西田幾多郎は。。。まだ勉強中であったりするのでまた今度^^;

しかし、自分が持つ問いとはそんなことだ。
述語に限定されることでのみ主題化される主語とは何だろうか。
反省的意識とは、ある一つの述語によって主語を主題化することでもあると思う。
自覚というものが本来無限定なものであるとして、そこに限定‐無限定の程度の差を認めるのであれば、
それ(反省的意識)は限定の極にある自覚である。無限定な自己を、「私は○○である」と定立することで、その述語「○○」になりきることができる。
それによって生命はよりその限定された述語的限定的生命自身に徹することができるのであろうか。

まだまだ要検討。今日はここまで。





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Last updated  2006.02.18 18:45:12
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