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今年最後の日記でございます。依然としてハワイレポートが続いてしまいました。ネタ過剰ですねえ。さて、前回の続きでございます。今回は航海艦橋と司令塔の様子をレポートいたします。司令塔の手前の見張り台です。航行中や戦闘中はここに見張りが立って魚雷が近づいたりしたら報告していたのでしょう。見張り台の伝声管です。なんか、交換できそうなつくりですね。航海艦橋に入って参ります。これが司令塔です。主砲砲戦の際に艦隊指揮官や艦長などがここに入ります。大体自分の主砲の直撃を喰ってもやられない強度を確保します。扉が分厚いでしょう。司令塔の内部です。舵輪などの操艦設備や指揮通信設備が見えます。扉に寄って撮影してみました。厚さは30センチくらいありそうです。司令塔ののぞき窓です。一旦扉を閉鎖してしまうと視界は随分悪くなりそうでした。司令塔の外側は普通の船のブリッジに近いつくりです。ブリッジの機器類です。こういうところは青函連絡船とあまり変わりありませんですね。外に出てブリッジを撮影してみました。いろいろな記号と言うか模様が書かれています。この船の履歴というか戦歴を示しているようです。
2005/12/31
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本日が今年の最終出勤です。明日からは休みですが、近隣の実家に帰省するだけで遠出は致しません。さて、続きです。今度は艦橋に上がりました。第二砲塔の脇から階段を上がって参ります。信号旗艦橋から艦首方向を見下ろしてみました。これが信号旗艦橋ですね。たくさんの種類の信号旗を仕舞う棚と提示するためのロープが垂れ下がっていました。我が国海軍だと、ゼット旗なんぞが有名でございますね。マストを見上げてみました。現代軍艦として使われましたので、アンテナがたくさんついております。もちろんフェイズドアレイアンテナは在りません。角度を変えてもう一枚です。アンテナが「宇宙戦艦大和チック」な形をしておりました。こんな可愛いアンテナもございます。釣り舟なんかにも最近はついている水上レーダーでしょうか。 今度は前から撮影してみました。かなり高いところまで来たので、砲塔を見下ろせます。俯角で撮影してみました。こんな感じです。就役中の艦長はこんな感じの光景を眼にしていたのでしょう。海軍の水兵さんも見学に来ていました。次回はブリッジの内部と司令塔をレポートいたします。【昨日の成果】ローソン(JCB) 4×1.5倍=6マイル(NH)朝食(SUICA) 4マイル(JL)アマゾン(JCB) 12×1.5倍=18マイル(NH)楽天ブックス(JCB) 20×1.5倍=30マイル(NH)楽天ブックス(SP) 10マイル(NH)
2005/12/30
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続きでございます。居住区を出ると、前部甲板でございました。今回は前の方をレポートします。艦首でございます。ぶっとい鎖は錨を繋ぐ鎖です。手前の丸いものが揚鎖器でございますね。振り返ってさらに撮影を行いました。一目でわかりますが露出をオーバー方向に補正しています。第一砲塔と第二砲塔、艦橋、マストが見えます。今度は少し斜めから…。人が砲塔の前に写っています。戦艦の主砲塔の大きさがイメージできますでしょうか…。とにかくでかいし、重そうです。B737よりも重そうな砲塔でございました。主砲塔の入り口です。強度確保のためか、こんな場所に出入口が作ってありました。他にもいくつか砲塔を撮影したので下にご紹介します。と、しつこく主砲塔をご紹介してきましたが、この主砲はある意味では役立たずでございました。ミズーリが就役した1944年には太平洋では戦艦同士の殴り合いは既に時代遅れのものになっておりました。水上攻撃兵力の中核は空母機動部隊でございました(ちなみのこの「機動部隊」という表現はtask forceの訳語ではございません。日本人が独力で世界で最初に作り出した概念であります)。ミズーリは、非常に強力な対空砲火を備えた戦艦であり、かつ、速力が大きかったために、空母に随伴航行できました(大和級は速力が空母より遅く空母護衛艦としては使用しにくいのです)。海戦においては空母機動部隊の護衛艦として使われました。この主砲は敵艦に対して使われたことは少なく、多くの場合は敵陸上兵力(日本軍を敵と表記するのは抵抗あるなあ)への艦砲射撃に使用されたのでした。沖縄や朝鮮半島では大活躍をしたそうです。マイティモーという名前も、陸軍兵士がつけたのかもしれません。1986年の現役復帰後も主砲は活躍するチャンスは殆ど無かったようで、長射程のミサイルがこの艦の主たる兵装となりました。次回は、現代軍艦としての主兵装と、艦橋内部をレポートいたします。
2005/12/29
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さて、前回の続きです。後部甲板から艦内に入って参りました。兵員室でございますね。結構いい暮らしです。前にご紹介した潜水艦バウフィンの兵員室とは大違いです。厨房でございます。これまた潜水艦とは規模が違います。パンも艦内で焼きます。流石だなあ…。大艦らしい設備ですが、郵便ポストでございます。この艦の乗員数は2000名弱にも上ります。こんなものまで在るんですね…。ちなみに現在の海上自衛隊でも、インド洋など遠隔地に出動する場合は艦内に簡易郵便局が開局される事が多いようです。ちょっとだけ外を通りました。両用砲塔が見えますね。偉い人の私室みたいです。見るのも辛いのですが、我が国の降伏調印式の記念室がございました。こんな部屋も展示されておりました。ダメコン用具室でございます。米軍の艦艇は砲弾や魚雷を受けても中々沈みません。ダメージコントロールの思想が徹底していて、次々に応急補修班が編成されて消火作業や修理作業に当たっていくからです。建艦にあたっても被弾時の対応を予め織り込んで行きますので、日本軍の艦艇に比べ断然沈みにくいのです。士官室がもう一室開示されておりました。艦長じゃないようです。袖線が三本ですから…。今回はこの辺で。【昨日の成果】足つぼマッサージ(JCB) 33×1.5倍≒約49マイル(NH)朝食(SUICA) 4マイル(JL)
2005/12/28
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さて、続きでございます。改札口を通ってミズーリに進んで参ります。色々な部隊の旗が飾られておりました。入り口から見えるミズーリの姿です。やはり大きいですね。記念撮影用の海軍の制帽の類です。内火艇でしょうか。ミズーリの砲弾です。口径は16インチです。結構大きいです。私の背よりも若干低い位でしょうか…。乗艦タラップ近くの売店です。乗艦タラップです。艦番はBB63でございます。BBは戦艦を示します。63は米軍で63番目の戦艦であることを示します。就役した米軍の戦艦は64まで(建造に着手した戦艦は66まで)で終わりになりました。殆ど最後の戦艦であると言うわけです。タラップから艦首方向を撮影してみました。近代化改装を受けているせいか、第二次大戦中の艦というよりも現代軍艦にようなイメージでした。左舷両用砲です。日本海軍であれば副砲という感じになりますが、米軍の場合は、対艦砲と対空砲を兼ねさせるので両用砲となります。建造時は10機の砲塔があったそうですが、近代化改装時に4機に減らされています。先ず艦尾の方に周りました。第三砲塔です。当たり前ですがでかい。でかすぎて中々ファインダーに収まりません。艦尾方向から見た中央構造物です。中央構造物は、81年の複役時に徹底的に改造されているので、このショットに入っている部分は現代軍艦そのものです。トマホークのランチャーとハーブーンのランチャーが見えます。複役以降のミズーリの主兵装は主砲ではなく、各種ミサイル群でございました。さて、この後に艦内へ進んで参りますが、続きは次回にさせていただきます。【昨日の成果】ローソン(JCB) 4×1.5倍≒6マイル(NH)本屋(JCB) 6×1.5倍≒9マイル(NH)E電乗車(SUICA) 3マイル(JL)
2005/12/27
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うー、寒い。マジで寒いっす。これでは眠れない…。さて、続きでございます。前回まででバウフィンパークのレポートが終わり、今回から記念艦ミズーリ(以下戦艦ミズーリ)のレポートに入ります。ミズーリが係留されている場所は、現在でも海軍基地として機能しているフォード島の中にあります。アリゾナメモリアルみたいに、主要幹線道路沿いにある訳ではなく、移動手段はこの路面電車みたいな専用バスとなります。この専用バス乗り場はバウフィンパークの真正面にあり、結構便利でございました。入場券もバウフィンとミズーリがセットの割引チケットが売られておりました。まあ、セットで観光して頂戴、というイメージでしょうか。日本人観光客対策か、車内の注意告知も英語と日本語でございます。多分このトロリーはワイキキトロリーと車輌を共用しているのではないかしら…。運転席はこんな感じです。流石に路面電車風なのは外観だけで、運転席は普通のバス仕様でございました。ミズーリの表札でございます。チケットブースと改札口でございます。チケットブースにはこんな表示もございました。記念撮影用のミニブリッジが用意されておりました。ちょっと長くなったので、今回はここで切ります。次回から、ミズーリ艦内の様子をレポートいたします。【資料[引用]】パンフレットに記載されているミズーリの歴史ミズーリは、「マイティモー」の愛称で米国民に親しまれている、米国最後の戦艦である。昭和16年1月6日に、ニューヨーク州ブルックリンにある、ニューヨーク海軍造船所で着工された。3年後の昭和19年1月29日に進水式を迎え、その際命名者となったのが、当時、ミズーリ州選出の国会議員であったハリー・トルーマン氏の愛娘マーガレット・トルーマンであった。同年の昭和19年に就役した後、第二次世界大戦中は主に太平洋を中心に活動。昭和19年12月24日にパールハーバーに寄航し、昭和20年に空母レキシントン率いる艦隊に加わり、同年2月19日に硫黄島上陸作戦に参加。また3月には沖縄での攻撃作戦、4月の沖縄上陸作戦に海上から艦砲射撃を行う。4月11日、初めて特攻隊戦闘機(1機)の攻撃を受け、右舷甲板後部(フレーム165)付近に破損を生じた。昭和20年8月29日、戦艦ミズーリは東京湾に入り、直ちに降伏文書調印式の準備に取りかかる。同年9月2日、午前9時2分、連合軍艦隊が見守る中、マッカーサー元帥率いる連合軍側と重光葵全権率いる日本政府代表との間で調印式が行われた。昭和25年8月、朝鮮戦争に出動、同年9月仁川(韓国ソウル近くの港)に到着する。翌年の昭和26年任務を終え本国へ帰国。昭和30年2月26日、最初の退役を迎える。いわゆるモスボール(休息)状態となるのだが、その後、昭和61年再度の復役を迎えるまで、水面下での同艦獲得競争がワシントン州、ハワイ州、カリフォルニア州、ニューヨーク州などとの間で始まる。昭和61年に、推定約470億円をかけて搭載した最新兵器/設備を備えた新生ミズーリは、平成3年湾岸戦争に出動。同年1月17日、最初のトマホークミサイルを発射。同年3月21日にペルシャ湾での活動を終え本国へ戻る。平成4年3月31日、再度の退役を迎え、ワシントン州プレマートン海軍基地に係留される。平成8年、海軍はUSSミズーリ保存協会への同艦の寄付を決定、パールハーバー内フォードアイランドに係留されることとなった。平成19年6月22日、パールハーバーへ到着。平成11年1月29日、戦艦歴史博物館として一般公開された。
2005/12/26
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今日で連休もお終いですね。東京は偉く寒いです。郊外の実家に居たのですが、バケツの水が凍っておりました…。さて続きでございます。このバウフィン号の艦内を見学した後に、バウフィン号に隣接して建設されている潜水艦博物館に参りました。潜水艦と言うのは、何とも禍禍しいものでございますねえ。空母や戦艦のようにプレゼンスで勝負するということも出来ず、ひたすら戦闘に使用するしかございません。その上、第二次大戦期の空母は、商船攻撃にしか使えませんでした(対軍艦の戦闘に使用するのは難しかったのです。割と簡単に返り討ちにあってしまうのです)。民間人攻撃専用兵器みたいな性格でして、私的にはとても悪役イメージが強いわけです。バウフィン号を退艦する際に、アリゾナに行ったときに見えた空母が正に出航するところに出くわしました。既に岸壁から離れており、舫綱はもうありません。さて、潜水艦博物館の中に入って参ります。一般民間人向けの潜水艦博物館というのも結構珍しいものでございます。館内は日章旗ばかりです。つまり米国潜水艦は我が国商船の破壊でもっとも成果を挙げたのでした。バウフィン号のカットモデルもありました。米国製らしい堅実な船体でございます。バウフィン号のインシニグアの実物でございます。我が国の商船を二十数隻、及び軍艦四隻を沈めたことを表しております。ここから先は潜水艦乗組員の訓練設備の展示が続きます。航空機搭乗員の教育みたいな感じでシミュレータ教育を徹底的に行ったようです。こういうところも、水上艦艇と違うところでございます。潜水艦は操艦ミス一発で石のように沈みます。あっという間に佐久間艇長になってしまいます。実地訓練の前にシミュレータで徹底的に訓練しないと行けない訳でございます。出口のところにポラリスミサイルの実物がございました。結構大きい…。もう少し小型化できなかったのかしら…。潜水艦に積むには大きすぎるような感じがしますです。こんな感じでバウフィンパーク見学はお終いになりました。この次は、いよいよ記念館ミズーリに向かいます。日本の学校教科書に登場する唯一の米国戦艦でございます。余りにも有名なこの写真の舞台が戦艦ミズーリでございます。昭和20年9月2日の我が国の降伏文書調印式でございます。【本日の成果】昼食(JCB) 33×1.5倍≒約49マイル(NH)
2005/12/25
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うー、東京は本格的に寒いっす。暖かいハワイやアルゼンチンが懐かしいです。ところでmitosigaさんからBBSに下のようなコメントを頂きました。 >絶対、後ろ向けの魚雷発射管、 >有効だったと思いますよ。 >駆逐艦から逃げながら撃てるって >良いと思うな。まさに、ご卓見です。潜水艦に攻撃を仕掛けてくる駆逐艦に魚雷を発射すれば、駆逐艦は回避行動を取らざるを得ず、適切な爆雷投下位置を占めることができなくなる可能性もあります。大変有効な配置ですね。さて、続きです。後部魚雷室から再び甲板に上がりました。甲板最後部から前の方を写したものです。潜水艦でも一応艦砲があった時代なんですね。殆ど使う場面が無かったと思われます(単独航行の商船を攻撃するくらいしか使い道が無さそうです)。現代の潜水艦はもう砲は積んでいません。砲尾です。今度はマストに登ってみました。機関銃(砲)が付いています。マストにあるハッチです。ここから艦内に出入りしていたようです。ペリスコープを見上げてみました。やはり背が高いです。マストから甲板を見下ろした図です。向こうに見えるのはフォード島ですね。マストに描かれた日章旗と旭日旗です。日章旗は商船の撃沈数、旭日旗は軍艦の撃沈数を表しているそうです。マスト上の機関銃(砲)を下から撮影してみました。こうしてバウフィン号見学を終えたのでした。とにかく、何でも磨き上げられているのが印象に残りました。ここまでピカピカにしてあるものは米国国内でも珍しい…。大したものでした。
2005/12/24
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いやあ、ニューヨークも寒かったですが、東京も寒いですねえ。うんうん。さて、淡々とハワイ関係を続けて参ります。潜水艦バウフィン号の通信室までレポートいたしました。今回は潜水艦バウフィン号の後部をご紹介いたします。厨房でございます。潜水艦とは言え、飯を作る厨房が在ってここでみんなのご飯を作っているわけですね。食堂でございます。水兵の居住区でございますね。小さなベットが三段に並んでおります。得意の便所でございます。2個しか在りません。混みそうでいやだなあ。機関室でございますね。この時代の潜水艦は、水上航行時はディーゼルエンジンで、水中航行時は鉛蓄電池+電動機で進んだ訳でございます。鉛蓄電池の操作パネルのようです。後部魚雷室です。この当時の米国潜水艦は前部と後部の両方に魚雷室がございました。ドイツは前しか作らないケースが多かったようですが…。後ろ向きに魚雷を発射することなんかあったのかなあ…。そして、ここから甲板に上がります。左右に見えているのは魚雷です。恐ろしい…。以上で、バウフィンの艦内の様子は大体レポートしてしまいました。とにかく狭くて生活が厳しそうな艦内でございます。このような潜水艦が日本に出入りする商船をばんばん沈めて行ったのでございます。特にこのバウフィンは昭和19年8月に、沖縄からの学童疎開船対馬丸を沈めました。小学生(当時は国民学校)1500名近くの生命が失われました。幼い犠牲者に合掌。今回のニューヨークでは「空母イントレピッド」を見に行きました。前は、このイントレピッドの脇に潜水艦が展示されていたのですが、今回行ったら撤去されていました。残念です。
2005/12/23
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ちょっと消耗気味ですけど、無事に家に着きました。旅行中にコメントいただいた皆さん、ありがとうございました。今日から平常状態に戻りましたので、デザインを従来のベーシックデザインに戻しました。はい。
2005/12/22
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取り敢えず、成田空港に到着しました。最後までトラブルの連続でした。今は荷物が出てくるのを20分以上待たされています。まじで今回の旅行はトラブルの連続でございましたですねえ。
2005/12/22
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えーと、今はマクドナルドJFK空港店で書いています。東京成田行きの便の出発を待っています。この空港では何故か、Fクラスチェックインカウンターの方がCクラスよりも混んでいました。私はCに並んであっさりクリアしましたけど、延々ならばされたF客の皆さんはお気の毒でした。JLさんは少し反省した方が良いかも知れませんね。昨日は、ジャマイカで一時間待たされ後に無事にペンステーションへ行けました。ジャマイカで並んでいるのは着膨れた黒人ばかりでございました。そんな中にシャツだけの髭のアジアンが混じっていたので、目立ってしまった。うん。「寒くないのか?〈寒いに決まっているだろう〉」「お前のコートは何処にある?〈今、サンパウロから着いたところだ、コートはない〉」 「写真を撮ってもいいか?〈どーぞ〉」「コートはどうするの?〈マンハッタンで買う〉その前に凍えるわよ」というような、励ましのお言葉を、通行人の黒人や汽車待ちの黒人の皆さんから、多数頂きました。今回のアメリカ合衆国では、この時点では白人とは言葉を交わしていないのです。黒人かアジアンだけしか口を聴いていないのです。私のアメリカ感が更に歪みそう…。やっと汽車〈ディーゼルカーでした〉に乗れました。普通列車ペンシルベニアステーション行きです。隣に座った白人女性と無駄話〈地下鉄の悪口及びマンハッタン観光情報〉をしながら、約30分でペンステーションに着きました。意外に運転速度が速いなあ、という感想でした。誰も切符を買っていなかったので、払い方が解らず、無賃乗車してしまいました。マンハッタンに入ったらタクシーで何とかなるだろうと高を括って居たのですが、これが大間違いでした。マジソンスクエアガーデン前のタクシー乗り場は警官が出るほどの大混雑で警官の指示で相乗りかつ南北移動のみになっていました。料金メーターは使われず、一律一人十ドルでした。46丁目で降りて、タイムズスクエアを通って〈おおっ、ここは映画で見たぞ、という場所の連続でした〉、途中吉野家で牛丼並を食べたりしながら、目的地の空母イントレピッドにたどり着いたのでした。かつての敵空母に乗り込んで、沖縄近海における我が国の神風攻撃のビデオを見たりして〈反日ムード満点です〉過ごしました。このイントレピッドに対する特攻は成功し、見事後部格納庫甲板をヒットし、死者69人を出し、この艦の機能を停めたのでした〈つまり沖縄の邦人被害を減らしたのです。この空母は百機以上の対地攻撃機を運用していたのです。〉帰りもロングアイランド鉄道でジャマイカまで行き、エアトレインに乗り換えC駅で更にホテルシャトルバスに乗って、凍えながら宿に戻ったのでございました。はい。今度はフルフェアを払いました。交通が普通の状態であれば自由の女神とか国連とかを見に行くところなのですが、帰りが心配だったので諦めました。トラブル続きの今回の旅行のフィナーレに相応しい観光でございました。以上は現地時間21日の午前にニューヨーク・ジョン・F・ケネディ空港で記述しました。
2005/12/21
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くーっ、寒いっす。今はロングアイランド鉄道の発車を待ってます。屋外で散々待たされたので、身体が冷えています。昨日はバリグのラウンジで延々12時間も待った後に、無事にJLのFクラスでニューヨークJFK空港まで到着しました。航空会社のラウンジは嫌いではありませんけど、バリグのラウンジ滞在時間は12時間にもなりました。流石にしんどいものがありました。これがチャンギのSQラウンジの様にシャワーもあって、インターネット〈日本語入力OKのもの〉も使えて、タバコも吸えて、日本語や英語の雑誌や本も在って、12時間はおろか、48時間でも持ちそうですけど、サンパウロのバリグラウンジは何もありません。辛かったのでした。それにしても、JLのサンパウロの皆さんにはお世話になりました。特に最初にバリグのラウンジ迄連れて行ってくれたグラスタさんにお世話になりました。郵便物の発送までお願いしてしまいました。さて、12時間後にJLからバリグのスタッフに電話連絡があり「ブリティッシュエアウェイズのラウンジ迄来て欲しい」との新たな御命令が届きました。日本航空とブリティッシュエアウェイズに何の関係があるのかな、と思いながら行って見ると、何のことはない、日航のラウンジでした。JLはBAとラウンジを共用しているんですね、へー。この後はスムーズで普通に飛行機に乗れました。サンパウロ積込みのF飯〈深夜便なので、今は朝食とアラカルトのみ〉は初めてでしたが、バンコク積込みF飯と同じような水準感でした。シンガポール積込みのF飯の水準が突出していたことが何となく裏付けられた感じです。機内で到着直前に客乗さんから、ニューヨークの地下鉄もバスもストライキで全面ストップ、というバッドニュースを教えてもらいました。ニューヨークでの宿はヒルトンのゴールドVIPの特権を活かすため、ガーデンインにしました。8時にチェックインして、インターネットでメールチェックだけやって宿を出ました。マイナス4度でした。真夏の街から来た身には堪えました。取りあえず何をするにもマンハッタンに出なければなりません。ストに参加していないロングアイランド鉄道を利用してマンハッタンへ行こうとしたら、この混雑です。何時になったらマンハッタンに辿り着けることやら…。以上は現地時間20日の午前にジャマイカ駅付近の路上で記述しました。
2005/12/21
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今朝は、サンパウロで入国拒否に遭ってしまいました。昨夏のトラブルと言い、ブラジルのイミグレとはとことん相性が悪いですなぁ。(>_
2005/12/20
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んもう、やっぱバリグは酷いエアラインでした。ブエノスアイレスのエサイサ空港から、サンパウロまで利用させて頂いたのですが…。先ずはチェックインの開始が遅いのです。エサイサはテロ対策を割ときちんと行っている空港なのでチェックインの開始は普通の空港よりも随分早いのが普通なのです。米系では3時間以上前に始まりますし、LA米系でも2時間半前にはチェックインカウンターを開けます。現にバリグの15分前に出発便を持つLAも、バリグと同じ午前6時に始発を出すTAMも2時間半前にはチェックインを開始していました。バリグだけは2時間前になっても手続きが始まりません…。組合からスト指令が出たのかと心配になってしまいました。その後、チェックインカウンターは開いたもの、なぜかエコノミークラスしか開きません。Cクラスカウンターが開いたのは更に十数分後でした。謎だ…。しかし、ぶつぶつ云うのはここまでで、後は大変スムーズでした。なんと、ドアクローズは定刻でした。バリグの定発は初体験です。飯も一応出てきました。コールドミールかなあと思っていたら、ちゃんとしたホットミール風のプレートが出てきました。やるじゃん、バリグ!、オムレツかなあ、と思って蓋を外すと、クロワッサンにチーズを挟んだものが入ってました。なんだなかあ、なんかコールドミールみたいだぞ、ずっこけました。でも、美味しかったので良いですけどね。ホンモノのトラブルはサンパウロ到着後に待っていたのですが、長くなるので、ここで切ります。以上は現地時間19日の午前にサンパウロの空港で記述しました
2005/12/19
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エサイサ空港でバリグのサンパウロ行きのチェックインが始まるのを待っています。サンパウロとブエノスアイレスの往復をバリグで手配したのですが、帰りが午前6時離陸の便なのです。この時間だとホテルを午前3時に出発しないといけなくなります。その上、タクシーの深夜割増料金がかかります。余りに馬鹿馬鹿しいので、終バスでエサイサ空港まで来て、ここで夜を明かします。こんな時間でこの便にお客が付くのでしょうか?。他人ごとながら心配になります。この空港には暇つぶし施設が殆どありません。シンガポール・チャンギ空港であれば、映画館もあればプールも在って、24時間くらいは楽勝で潰せるのですが、ここエサイサにはデイルームすらありません。頼みの綱のインターネットは満席でした。つらいなあ。バリグは常習遅延エアラインです。こちらには午前零時に機材が着くことになっていますが、遅延・推定到着時間不明になっています。大丈夫かなあ。まあ、気長に待つことにいたします。ふー。警官が頻繁に巡回していますし、夜明かし組もたくさん居るので安全面は大丈夫風ではあります。しかし、誰も寝ていない…。インチョンでは安心し切って寝ている白人がそれなりの数居ましたが、エサイサは少しは緊張感があるのですね。以上は現地時間18日深夜にブエノスアイレス・エサイサ空港で記述しました。
2005/12/18
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再びアルゼンチンのメンドーサに来ています。サンチャゴからのバスは6時間強でメンドーサバスターミナルに到着しました。逆方向では7時間以上掛かりましたが、方向が変わると色々と変わるもんなんですね。西行きの国境越えは既に2回の経験があるのですが、東行きは初めての経験です。西行きはチリのチェックポイントでCIQを行いましたが、東行きはアルゼンチンのチェックポイントを使いました。チリ側では動植物検疫を随分厳重に行いますが、アルゼンチン側では 検疫検査は行われませんでした。チリの名産のワインの原料となる葡萄がどうも病気に弱い品種らしく、えらく神経質になっている様なのです。アルゼンチン側の葡萄苗は別に病気に弱い品種ではないらしく、検査は至ってカジュアルでした。これに限らず、チリは一応ラテン系の国なのですが、何事にも生真面目に取り組む非ラテン的な〈ゲルマン的?、スラブ的?〉体質があるような気がします。アルゼンチン側のチェックポイントには売店があって、ホットサンドイッチを売って居ました。ロモサンドと言うステーキサンドなんですが、これが美味しかった!。チリのシーフードも大したもんですが、肉に関してはアルゼンチンに一日の長があるようです。バスの乗客の時間の潰し方ものどかで、編み物をしている老婆が3人も居ました。メンドーサは相変わらずのどかな雰囲気です。今はカフェテラスでコーヒーを飲みながら、レポートを書いていますが、周囲の雰囲気が弛緩しきっています。気だるい日曜日の午後という感じです。ちょっと前までインターネットカフェでブログにコメントを付けていたのですが、突然停電になってしまいました。長閑過ぎかなぁ。さて、そろそろ空港へ移動します。今晩は久しぶりに野宿です。以上は現地時間18日の午後にメンドーサ市内で記述しました
2005/12/18
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今は、サンチャゴバスターミナルでメンドーサ行きのバスの出発を待っています。日曜日にサンチャゴに居るのは初めてなのですが、見事に商店が閉まっています。地下鉄すら8時にならないと動かない…。カトリックの国の日曜日というものはこういうもんなんですかね。お陰で宿からバスターミナルまでタクシーを使うはめになりました。余計な出費だなあ…。出発前のバスにはもの売りが何回か乗って来ました。地下鉄やカフェテラスに居てももの売りが来ます。商品を置いていって、気に入ったら買って下さいという訳です。一昔前は韓国の地下鉄で良く目にした光景ですけど、最近のソウルの地下鉄ではもの売りは見なくなりました。さて、発車です。以上は現地時間18日早朝にサンチャゴバスターミナルで記述しました。
2005/12/18
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夕食を食べて来ました。ルイジアナと言うホテルの近くの高級店です。シーフードをチョイスしました。美味しかったあ。13000ペソでしたがリーズナブルでした。暗くて、写真撮影が出来なかったのが残念。レストラン街の中程にいかがわしいバーを発見しました。スペイン語に自信がないので、偵察は見送りにしました。さあ、明日は出発が早いので、寝ることにします。以上は現地時間17日の夜遅くに記述しました。
2005/12/17
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ここサンチャゴでは土曜日の夕方です。日本標準時では日曜日の朝でございますね。プロビデンシア通り〈サンチャゴ市を東西に貫く大通り、札幌市の中央通りのイメージ〉のカフェで日が暮れるのを待っています。ブラジル、というか、サンパウロでは何処でもやたらと美味しい珈琲を飲めたのですが、チリのサンチャゴではコーヒーはインスタントが普通のようです。南米なのにインスタントかよ…、と思ったりします。ブラジル・アルゼンチン・チリはお互いに遠いので当然産品も違います。当たり前と言われれば、そうなんですけどね。さて、午前中にモネダ宮の衛兵交代式を見物したのですが、撮影ポイントを間違ってしまったようです。 モネダ宮の正面を確保したのですが、軍楽隊がカメラの前に整列してしまい、どうにもなりません。ベストポジションは宮殿の脇からのようでした。無念…。衛兵と言っても、カラビローネでして、兵というより警官に近いのですが…。チリでは軍種は4つあることになっております。陸海空三軍プラス警察軍となるのかなあ…。今は亡きソビエトであれば内務人民軍と言う感じです。仕事は警察ですが、行動様式は軍隊そのものです。この国はつい十年前まで、資本主義国にもかかわらず南極近くや砂漠に共産主義国ばりの収容所群島を有しておりました〈因みにこの国の隣国では政治犯は行方不明になる時期があったようです、隣国には収容所は無いようです、こっちの方がもっと怖いっす〉。警察も、日本警察とは随分雰囲気が違う感じがしました。怖いっ、という感じです。敢えて例えると、やはり、ソビエトの内務人民軍か北の国家保衛部か東独の国家保安省という感じでしょうか。まあ、本人たちに言わせれば、民政移管から十年近くも経っていて、今現在は愛される警察を目指していますとでも言うのでしょうけど。さて、衛兵交代式が終わると、やることが無くなって仕舞い、サンタルシアの丘に登ったり、中央駅に行ったり、大通りを歩いたりしているうちに夕方になりました。真夏だけあって暑い一日でした。チリ〈というかサンチャゴ市〉では外国人相手の寸借詐欺が多くて閉口します。大体が、良く分からない詩を示して、「私はチリの大学生だが援助してくれ」と申し出るのです。別に断ってしまえばどうということ無いのですが、やっぱウザいのです。今回の旅行では髭も剃らずに、フィリピンかミャンマーと書かれたTシャツを着ているのに、的確に日本人と見抜き、今日だけで三回も声を掛けられました。小汚いを通り越して、大汚い恰好〈ほとんど、おこもはん、です〉なのに、なんで声を掛けてくるのかなあ。そうかと思うと、もの売りは「チーノ」よばわりでございます。お前らは東洋の国を中国しか知らんのか?。日本でラテンアメリカ諸国の人間を見かけたら、全員ブラジリアン扱いしちゃる〈南米では人口は圧倒的、かつ日本在留者数も最大なので、あながち誤りと言う訳でもありません〉。今の南米大陸浪人みたいな格好でJLのFクラスに乗ってしまいます。JLの客乗さん、赦して下さいね。お風呂には入っていますので安心して下さい。伝染病は持ってません。さて、サンチャゴでの宿はロスレオネスと言う地下鉄の駅のそばのシェラトンにしたのですが、ちょっと妖しい感じの街です。高そうなレストランもたくさんありますので、日没後に散策してみようと思います。明日は早朝のバスでアルゼンチンへ移動します。チリの夜は今日が最後になりますので、少し高い夕食にしようと思います。以上は現地時間17日夕方にサンチャゴ市新市街で記述しました。
2005/12/17
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ぐはー、良く寝ました。今は憲法広場でやることもなく、ボケーっとしています。いやいや、衛兵交代式を待ってます。昨日は午後6時頃に寝て仕舞い、そのまま朝まで起きませんでした。休養十分です。チリは物価が高いので、朝飯はホテルを避け、アルマダ広場の近くの定食屋でいただきました。1390ペソでした。こんなものかなあ。南米通貨が米ドルに対して強い上に円安ですのでとんでもない物価です。南米三国の中ではチリはもっとも物価が高い…。この面からもチリに長居は無謀だったかも知れません。そろそろ式典です。撮影ポイントに移動します。以上は現地時間17日の朝に憲法広場で記述しました。
2005/12/16
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朝も早くから起き出して、サンチアゴ市内をうろうろしています。今は夏至に近い季節ですので、サマータイムを採用している国は夏時になっています。チリとブラジルはサマータイムを採用していますが、アルゼンチンは採用していません。通常はブラジルとアルゼンチンが同じタイムゾーンになるのですが〈チリが仲間外れ〉、夏はチリとアルゼンチンが同じタイムゾーンになるのです〈ブラジルが仲間外れ〉。割と頻繁に国境を越えて、かつ、バスと飛行機を乗り継ぐ場合は気を付けないと行けないのですよ。さて、割と早くに目が醒めてしまったので、宿を出てセントロ方面へ向かいました。とりあえず、モネダ宮〈チリの大統領官邸、クーデターで有名〉に行って見ましたが、自由広場〈大統領官邸の南側に隣接する広場〉は工事で立入禁止になっていて、憲法広場〈大統領官邸の北側に隣接する広場〉は何とかエクスポと称して地方特産物のブースで占領されておりました。何とかエクスポのせいか分かりませんけど、衛兵交代式も行われませんでした。ウーン、不満です。憲法広場にはサルバドル・アジェンデ〈クーデターで自殺した元大統領、共産主義者〉とエドアルド・フレイ〈元大統領〉の銅像がありました。昨年の冬〈現地ベース〉に来た時には気がつきませんでしたが、前からあったのかなあ…。尚、アウグスト・ピノチエト〈クーデターで政権を掌握した軍人、強烈な人権蹂躙で有名、経済政策は割と上手く行った、韓国の朴政権にイメージは近い〉の銅像はありませんでした。探したのですが…。人気が無いからなのか、存命中だからなのかは不明でございます。定食チックなコースになってしまいましたが、中央市場に行ってウニとかフジツボとかアワビをいただきました。シーフードを一回は食べないとチリに失礼なような気がしたのです。相変わらず美味しいのですが、お値段も良いのですよ。つらいなあ。サンチアゴは一回来たことがあるので前に来たサンルシアの丘はパスして、サンクリストバルの丘に登りました。開業百年のケーブルカーを使ったのですが、壊れそうで、少し怖かったのでした。本来はこの丘からサンチアゴ市を一望に出来る筈なのですが、大気汚染が酷くて良く見えません。なんだかなあ…。(-。-;)その他、博物館を回って過ごしました。まあ、こんなものかなあ。大体見たいところは見てしまいました。サンチアゴ3泊は要らなかった感じです。明日は何をしようかしら…。以上は現地時間16日夕方にサンチアゴ市内で記述しました。
2005/12/15
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やっと、チリの首都サンチアゴ迄着きました。サンパウロでの沈没から3千キロ位移動してきました。今回も地球を一周以上動くことが決定です。我ながら移動が好きですね。サーフェイスでのアンデス越えは随分久しぶりでした。最近は景気が良いのかなあ…。国境が酷く混雑していました。チリ側の検疫が相変わらず、鬼のように厳しく、通過に一時間以上を要しました。このルートのチケッティングはブエノスアイレス市のバスターミナルでメンドーサ行きの寝台バスと通しで行いました。このため大手のCATA社になったのですが、トラブルが…。窓側と指定したのに、通路側だったのです。(T_T)この路線は車窓が絶景なので凄く楽しみにしていたのに…。祟ってやるぅ。こう言う訳で写真的な成果は殆どありません。帰路もバスにしよう…。大体7時間でサンチアゴ市中央バスターミナルに着きました。サンチアゴ市は一年と数ヶ月ぶりだったのですが、新しい地下鉄が何本も開通していました。サンチアゴ三日あわざればかつもくすべし…。《かつもくが変換出来ない…。阿保な携帯です。》宿はブエノスアイレスで既に手配していたシェラトンでございます。うー、快適だあ。(^o^)vここまでは、泊まりは飛行機か寝台バスかサンパウロの日本人街の安宿で、寛ぐと言う感じでは全くなかったのでした。しかーし、今度はシェラトンです。テレビもあればバスタブもございます。うんうん。(o^_^o)その上、私はスターウッドの上級会員〈ゴールドメンバー〉ですので、部屋のアップグレードもあればスペシャルアメニティもございました。うー、気持ち良いのー。サンチアゴのシェラトンはお洒落なレストランが集まっている地域に在りまして、夕食は豪華ステーキディナーにしてしまいました。南米では唯一シーフードがイケる街でまたステーキです。美味しかったのでよしとしましょう。今回の旅行では結構お金を使っています。予算オーバーです。帳尻を合わすために、最後の寄港地のニューヨークは野宿にしようかしら…。さあ、6日ぶりに湯舟に浸かって夜行バスの垢と汗を落として、眠ることにします。以上は現地時間15日の夜に、サンチアゴ市にて記述致しました。
2005/12/14
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やっと、メンドーサに着きました14時間でした。走行中は全く煙草を吸えなかったので、厳しかったあ…。今回利用した寝台バスは実に快適でございました。黒服の女性客室乗務員が居て飛行機に近い感じでした。勿論トイレ付きです。(^^)vシートはフルフラットシートで、JLの古いファーストクラスのシートと同じ位の快適さでございました。きっちり熟睡できました。(-_-)zzz・・テレビは共用で、流石に個人用AVはありませんでした。飯は2食で、エコノミークラスのノリですね。ワインがガンガンサーブされるのが、メンドーサ線らしさを出していました。メンドーサはアルゼンチンの代表的なワインの産地なのです。その分、運賃は割高で通常のバスなら80ペソのところが、この寝台バス《カマスイートと言います》は135ペソもします。差額の価値は在ったと思いました。さて、ここメンドーサのバスターミナルで、サンチアゴ行きのアンデス山越え国際バスに乗り換えです。待ち時間は一時間程です。今日の夕方にはチリの首都サンチアゴに入ります。久しぶりにまともなホテルに泊まります。(^ー^)以上は現地時間15日の朝にメンドーサで記述致しました。
2005/12/13
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今はブエノスアイレスのフロリダ街のレストランで遅い昼食を摂っています。やはり、アルゼンチンに来ると1キログラムのステーキを食べないと納得できんのです。今回は肉の間に野菜を挟んで焼いたタイプをチョイスしました。凄まじいボリュームです。馴染みのウェイトレスのアンドレアはノーファット等と無責任な事を抜かしておりましたが、嘘に決まってます。2キロカロリーはありそう…。(x_x;)さて、今日は久しぶりにバリグに乗ってサンパウロからブエノスアイレス迄移動しましたが、相変わらず酷いエアラインです。同じ席番の搭乗券を発行する癖が治っていません。末期の国鉄みたいです《最終的にはインボラUGにしてました》。機内食は最悪の部類だし、明日を感じさせない会社でした。便数も随分と減っておりました。その分安いのは助かりますけどね。それにバリグはまがりなりに☆組ですので、NHのマイルにもなりますし、スタアラゴールドの扱いでラウンジも使わせてくれますし、荷物も最初に出してくれました。素直に感謝します。我ながら現金なもので、エサイサ空港に着いた瞬間から元気になりました。やはり、アルゼンチンが合うのですね。空港からバスターミナルに直行し、メンドーサ行きの寝台バスのチケットを購入しました。これで西へ進むことが決定です。前回の旅行以来乗りたかった寝台バスです。嬉しいなあ。ここまで方針がはっきりしたので、ついでに、メンドーサからサンチャゴのアンデス越えバスの乗車券、帰路のメンドーサからアエロパルケのエアとサンチャゴの宿泊の手配も済ませてしまいました。サンチアゴからメンドーサまでを飛行機にするか、バスにするかは最後まで悩みます。バスの発車まで一時間位です。暇です。それにしてもこのバスターミナルの病的な規模と来たら…。70本以上のホームが30分間隔で完全稼働しています。大したものです。ブラジルも韓国もバンコクも日本の大都市もそうなのですが、バスターミナルが分散していて乗り換えに不便なのです。ブエノスアイレスとサンチアゴはターミナルが実質一つ〈サンチアゴには小さなのが幾つかありますけど無視して可〉なので大変便利です。偉い!。バンコクに見習って欲しいです。西ターミナルと北ターミナルが離れていて、しかもタクシーしか連絡移動手段がない…。そういえば、クアラルンプールでもバスターミナルで苦労しました。まあ、いいや。とにかく、ブエノスアイレスのバスターミナルは使い安いと言うことでございました。以上は現地時間14日の夕方にブエノスアイレスにて記述致しました。
2005/12/12
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今は、サンパウロ国際空港のバリグのラウンジで出発を待ってます。バリグ名物の遅延がまた生じていて、まだまだ待たされそうです。この会社の飛行機が15分以内の遅延で出発したのを見たことがありません。どうでもいい事ですけど、この空港の人は、日本人という外見でポルトガル語を話せると判断するのを止めてくれないかなあ。英語しか解らん日本人も居るのですよ。日系人がそれだけこの街に根を張っているということなんでしょうけど。英語を話せる航空会社の職員からしてこうなのです。実際のところ、サンパウロ市では東洋人を頻繁に目にします。昨晩もろくなことがありませんでした。(>_
2005/12/12
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さて、今は世界最大の日本人街のリベルダーデで飯を待ってます。この街は公用語が日本語という雰囲気で、凄いです。世界に二カ所と無いでしょうね。街中に日本語の古臭い看板が氾濫しています。日本語の日刊新聞が3紙も発行されています。さて、ここに着くまでには、飛行機に24時間も乗って来ました。毎度のことながらJLのFクラスでした。JL048便に成田空港からニューヨーク経由でサンパウロまで通し乗車でした。Fクラスもこれで6回目なのでもう感動はありません。飯の写真を撮る気にもなりません。いつも同じようなメニューばかりですので…。しかしながら、この前にSQのビジネスクラスを経験してしまったので、JLの古いファーストクラス〔スカイスリーパー〕には不満を感じます。専有面積は広いものの、物を置くところが無く、大変使いにくい。先進国のエアラインでは、最低のファーストクラスの椅子でしょう。まあ、Fクラスのサービスと言うものは椅子だけで決まるものではありませんけどね。しかし、これだけは言いたい。「JLのスカイスリーパーの椅子はSQのビジネス以下です」さて、JLの古いファーストクラスの数少ない優位性の一つが、機内エンタメですが、048便は古い機材を使っているので、選択肢の少ないMAGIC2でした。なんだかなあ…。それでも24時間も乗っていたので、5本も映画を見てしまった。JLは古典作品を入れて来るのですが、『ロシアより愛をこめて』でした。久しぶりに見ましたけど、えがったぁ。それでも、エンターテイメントにも不満がありまして…。画面が小さい、小さすぎるのです。この前に乗ったOZのビジネスクラスの半分くらいしかありません。字幕が見にくいのじゃあー。ホンマに。飯は成田積込み分はステーキを、ニューヨーク積込み分は和定食をチョイスしました。毎度のことながら、JFKの飯は旨い。真面目に、成田より美味しいと思います。この2年で、CクラスとFクラスの和食と洋食をいただきましたけど、印象良いです。絶賛レベルです。コメントカードで褒めてあげたい。それにしても、JLは優秀です。この悲惨極まりないファーストクラスにもかかわらず、なんとNRT→JFKも、JFK→SAOも全クラス満員なんですな。ダイヤ設定が巧妙なことと、営業能力の成果でしょう。東京⇔ニューヨーク単純往復では組みにくい、成田夕刻出発なのです、48便は。仕事で米IT企業の人を東京に呼んだことがあるのですが、私の5便・6便リコメンドを無視して47・48便でやってきました。ダサいF・Cクラスでも売り切ることができるので、問題なしと言う訳ですね。いやいや、ダサいタイプの方が、沢山の客を積めるので、商売としてはより効率的という訳です。SQとは違う意味で「商売とはこう言うものか」と感じさせる運用でした。ちなみに、同日の6便はFとYに空席が残っていました。48便より遥かに良いシートを使っているにも関わらずです。実にご立派ですね。競合相手があのSQであるシンガポール線でFクラスを飛ばしていた頃は当然最新の機材を投入し、「ニューソロ」でした。それでも、勝てなかったらしく、一年持たずにFクラスは廃止になっています。サンパウロの競合相手はRGですので楽勝でしょうし(まだRGは運休かしら…)、ニューヨークは時間帯的に競合はないも同然ですので…。おんぼろハイデンシティ744が最適なんでしょうね。さて、サンパウロ空港に着陸したのは3回目です。余り良い印象は無い空港なのです。私は物ぐさなタイプでして、余程のことが無い限り、コメントカードは書きません。しかし、前回にこのサンパウロからJLを利用した時に「余程のこと」がありました。逆上した私は、渾身の力を籠めたクレームレターを書かせていただきました。そのうち資料編としてフリーページにアップさせていただきますけど、それはそれは酷い目に遭いました。サンパウロ空港にトラウマが残っております。ネガティブなバイアスが係りますので、割り引いて読んで下さいね。久しぶり〔一年数カ月ぶり〕のサンパウロ空港ですけど、相変わらず薄暗いターミナルで雰囲気悪い感じでした。ブエノスアイレスやサンチアゴに比べると、見劣り著しいのでした。大体、保税区域に喫煙室が無いこと自体が非常識です。禁煙帝国のシンガポール・チャンギ空港にも、禁煙同盟の盟主たるアメリカ合衆国の首都ワシントン・ダレス空港にも、保税区域内に喫煙室があります。喫煙室を作って置かないと、トイレ等で煙草を吸う者が出て、火災予防上危険なのです。無論他の南米主要空港には喫煙室が設けられています。こう言うセンスを感じさせない空港なんですな。こんな空港に長居は無用です。さっさとバスに乗って市内へ向かいました。いよいよ、「犯罪と暴力のメッカであるサンパウロ」デビューです。各種ガイドブックに『とにかく夜は出歩くな』と書かれております。勿論のこと我が国外務省からは渡航注意情報が発っせられております。と言っても、東京の治安はここ十数年で急速に悪化しておりまして〔例えば殺人事件の検挙率は20パーセント程度になったようです〕、アジア最強の犯罪都市東京で生活している方は何も恐れるものはないのかも知れませんが…。ちなみにリオデジャネイロの方がもっと凄いらしいです。BRICsとは言いますけど、これらの国に共通するのは凶悪犯罪が多いことですか…。ネガティブな事前情報をたっぷり仕入れて仕舞ったせいか、市内での移動中も全然リラックス出来ません。バス停から地下鉄で移動しましたが、緊張感でガチガチになっておりました。普段なら、電車を見たらシャッターを切るのでしょうけど、ここでは何をされるか判らないので自粛です。ブエノスアイレスなら「女性の夜の一人歩きも大丈夫」なのですが…。南米主要三ヵ国ではブラジルの治安が突出して悪いようです。チリとアルゼンチンはこの面では評判が良いようです。この二国は西側最悪の人権蹂躙国家であった歴史はあるので〔今は違います〕、なんとも言えませんが…。ビクビクしながら、目的地のリベルダーデ迄参りました。ここは、多分世界最大の日本人街です。商店でもホテルでも旅行代理店でも日本語が通じるのです。変な感覚です。ワイキキやパッポンなどでも日本語OKでしたけど、明らかに異なるフィーリングです。観光客と生活者の違いなのでしょう。1キロメートル四方の日本の地方都市です。そこここに日本料理店がありネクタイ姿の日系人が焼き魚定食や寿司を食っていました。観光感覚やリゾート感覚がないのですね。代わりに生活感が充満しておりました。ちなみに、「日本に出稼ぎに行きませんか」と言うビラを貰いました。dekasegiが一般名詞になっているようでした。やるなあ…。ここで宿を確保し、市内を探険です。一泊二千円の安宿です。フロントで日本語が通じるのです。鉄道で国内旅行をしている気分になりました。他にも日本国内に似ているのが公衆電話です。形状が似ているのではありません。ピンクチラシがベタベタと貼られているところが似ているのです。なんだかなあ。この街の北にセー広場と言うところがあるのですが、ここには昼間から大量の街娼が立っていました。こういう所は、昔の新大久保みたいでした。何箇所か博物館を回りましたが、カメラを使い難い雰囲気なのです。写真的成果はほとんどありませんでした。チラテの長距離バスターミナルも偵察してきましたが、国境まで千キロ以上あるせいか、便数が少なく、バスでの国境越えは断念しました。日系の旅行代理店でバリグのチケットを買って、明朝アルゼンチンへ向かうことにしました。ちなみに、昨日は雨で今日は曇り空です。今の季節は日本の6月下旬に当たります。ひょっとして、梅雨なのでしょうか…。鬱。以上、現地時間13日の午後にサンパウロの安宿のベッドの上で記録しました。アップは帰国後になりそう…。
2005/12/12
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成田よりとりあえずサンパウロ行きに乗ります。全く予定を立てず行き当たりばったりで、サンパウロからひたすら南を目指します。帰国予定は2週間後でございます。完全にブログ更新が停まりますが、見捨てないで下さいませ。
2005/12/11
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こんどは2週間近く南半球に参ります。更新が途絶えますが、見捨てないで下さいませ。
2005/12/10
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続きです。ここから指令所に入って参ります。艦橋の直下にある潜水艦を操艦したりする場所ですね。トリム操作板のようです。指令所の入り口です。狭いなあ…。物凄い量のメーターです。これを全部読んでいたのかしら…。潜水艦は狭いし、潜水中は当然外には出られません。もし穴が開いたら石のように沈みます。こんなものに乗るのはどれほど怖いのでしょう…。普通の人がこんなものに乗れるのかしら…。ストロボを焚かずに撮ってみました。メーターの縁とかがピカピカに磨き上げられています。こういうところが凄いです。スイッチもピカピカです。コンパウンドを使って手で磨き上げないとこういう感じにはならないでしょう。通信室みたいです。ここで暗号を受信して、日本の商船を沈めたわけでございますね。当時も今も日本は食料すら自給できません。外国との通商を絶たれることは餓死を意味するのでございます。昭和18年だけで私たちは200万トン弱の商船を米潜水艦により沈められました。当然資源の輸入は止まり、大変なことになりました。英国がドイツ潜水艦の通商破壊作戦に耐え凌いだのに対し、日本は米潜水艦の通商破壊作戦により日干しにされてしまった訳です。商船乗組員や乗客の多くは再び日本の土を踏むことができませんでした。戦後の海上自衛隊が潜水艦を目の敵にし、シーレーン(海上交通路)の確保を第一目標に掲げたのは無理もありません…。今回はこんなところで。
2005/12/10
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日曜日から旅行に出ます。また、南に向かいます。更新が二週間弱止まります。お許しください。さて、続きです。このゲートを通って潜水艦バウフィンに乗り込みます。船体とタラップです。甲板と艦橋です。前部魚雷室です。磨いてありますね。厨房です。狭い。潜水艦は容積が限られるので全部狭いのです。食堂です。士官用かしら。艦長寝室です。艦長室でございますね。こんなハッチがたくさんあります。浸水した時はここで食い止める訳ですね。恐ろしい…。今回はここで切ります。次は指令所からレポートします。
2005/12/10
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今日は久しぶりに昔の上司とラーメンを食べ歩きました。本日は九段の斑鳩を初めとして市ヶ谷方面で3軒を征きました。うー、三杯はつらい…。さて、続きです。アリゾナメモリアルビジターセンターの隣のバウフィンパークに参りました。先ずは入り口でございます。 入るといきなりミサイルです。合衆国海軍が有する最も強力な兵器でございます。手前はポラリスA3ミサイルです。奥がポラリスA1ミサイルでございます。今からでは信じられないかもしれませんが、第二次世界大戦後に米国海軍は存在意義を問われた時代がありました。昭和20年8月6日の広島への核攻撃以降、核による抑止力が世界の軍事バランスのベースになりました。朝鮮戦争から冷戦初期には、戦略爆撃機と核爆弾のみで超大国のパワーバランスが保たれると考えられた時代があったのです。核兵器の前には空母機動部隊など無力であると。このような考え方の下、空軍(当初は戦略爆撃機+核爆弾、後には地上発射型の大陸間弾道弾を持つ軍種)への予算の集中が始まります。海軍は、核兵器時代にどのように役に立つか、という課題を突きつけられます。艦載機に核兵器を積むだけでは戦略爆撃機には敵いません。そこで、潜水艦に戦略ミサイルを積めば良いというアイディアが出てきます。しかし、中々うまくいきません。最初に登場した潜水艦搭載型のミサイルです。レギュラスという名前です。残念ながら弾道弾を潜水艦に積む技術がまだ登場せず、無人飛行機のようなミサイルです。発射に時間がかかり、なかなか効果的な抑止力になりません。海軍は努力を重ね、漸くのこと、ポラリスを開発し、潜水艦発射の本格的な核ミサイルを保持できるようになりました。超大国同士の抑止力は、核兵器搭載戦略爆撃機・地上発射の大陸間弾道弾・潜水艦発射の大陸間弾道弾があるわけですが、潜水艦発射のものは最も生残性の高い報復攻撃手段の地位を占めます。こうして、米海軍は再び確固たる地位を占めるに至りました。潜水艦公園の入り口の最初に目に入る位置にポラリスミサイルが展示されるのもむべなるかなでございます。こちらは第二次大戦塩魚雷でございます。我が国の「マルシップ」多数を撃沈した魚雷でございます。沖縄本島からの学童疎開の児童千人近くを載せ、この公園に展示されているバウフィン号に撃沈された対馬丸も、この魚雷で沈められたのでした。沖縄の児童に合掌…。余談ですが、対馬丸の撃沈で、沖縄本島では疎開する方が危険と言う雰囲気が高まり、本土への児童疎開は進まなくなりました。そして運命の昭和20年4月を迎えます。訓練に使われたらしい、司令室と潜望鏡です。我が軍が使用した特殊潜航艇(ひょっとして回天?)みたいです。現在の海上打撃戦力の主力兵装のハーブーンミサイルです。我が国海上自衛隊の艦船も多数装備しています。屋外展示はこんな感じでした。次回はバウフィン本体の内部をご紹介いたします。【本日の成果】なし。【資料:バウフィンが沈めた我が国の艦船】25 Sep 1943 Kirishima Maru Passenger-Cargo 26 Nov 1943 Ogurasan Maru Tanker 26 Nov 1943 Tainan Maru Cargo 26 Nov 1943 Beryl (Vichy French) Passenger-Cargo 27 Nov 1943 Van Vollenhoven (Vichy French) Cargo 28 Nov 1943 Tonan Maru Tanker 28 Nov 1943 Sydney Maru Passenger-Cargo 17 Jan 1944 Shoyo Maru Cargo 10 Mar 1944 Tsukikawa Maru Cargo 24 Mar 1944 Bengal Maru Cargo 5,39924 Mar 1944 Shinkyo Maru Transport 2,67214 May 1944 Miyama Maru* Cargo 10 Aug 1944 Seiyo Maru Transport 22 Aug 1944 Tsushima Maru Passenger-Cargo 4 Sept 1944 Hinode Maru #6 Picket 16 Feb 1945 Coast Defense Vessel No. 56 Frigate 17 Feb 1945 Nanshin Maru #28 Picket Boat 2 Mar 1945 Chokai Maru Picket Boat 4 Mar 1945 Fukuyu Maru #1 Picket Boat 1 May 1945 Chowa Maru Passenger-Cargo 8 May 1945 Daito Maru No. 3 Fishing Vessel 11 Jun 1945 Shinyo Maru No. 3 Passenger-Cargo 13 Jun 1945 Akiura Maru Cargo 我が国商船乗組員及び乗客の霊に合掌。
2005/12/09
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今日も寒いですね。本屋で旧国鉄の試作車輌の本を買って参りました。キハ391とかクモハ591などの懐かしい試作車の写真や来歴が克明に記されており、中々楽しめました。さて、続きです。今回のハワイ戦跡めぐりは撮影枚数が多いので、一回当たりの掲載枚数が今までの倍くらいのペースになります。ちょっと重いのですが、ご容赦ください。アリゾナメモリアル内部から見た外側の風景をご紹介いたしましょう。フォード島とオアフ本島を結ぶ橋です。後ほどミズーリに行くときに渡ることになりました。空母のお尻です。クラスが分からない…。ニミッツクラスかしら…。「マイティモー」ことミズーリを2カットです。謎の海上構築物です。多分艦艇をこの辺に止めるときに舫っておくものだと思うのですが…。どうでしょうか?。アリゾナメモリアルの上に翻る星条旗でございます。USSバウフィンでございます。アリゾナの次はこの潜水艦に乗艦します。迎えの船が近づいて参ります。どんどん近づいてきます。時間の関係でこの船に乗らねばなりません。名残惜しいのですが、港に帰ります。帰りの船の運転台です。帰りも空母の脇を通りました。ちょうど空母の出航時にあたり、周辺警備のためか、武装ヘリが次々に飛び立っていきました。曇りの日は露出が難しいのです。晴れていれば背景が青いのですきっとヘリが浮かび上がるのですが、曇っていると背景が明るすぎて、露出を補正しなければなりません。3分の2ほどオーバー方向に補正してますが、足りませんね。以上でアリゾナメモリアル見学はお終いになりました。合衆国の国営施設でございました。中々の史跡でございます。このアリゾナの次には「バウフィンパーク」へ進むのですが、長いので、ここで切ります。バウフィンとアリゾナの間にあるジープです。ニミッツ元帥が使用したものだそうで、手数料を払うと記念撮影させてくれるようです。真珠湾攻撃編は今回でお終いですので、もう少し著作権フリーの画像を掲載します。64年前の本日(日本時間)に真珠湾攻撃が実行されました。今回は日本側の写真を中心にご紹介いたします。空母赤城艦上で出撃を待つ九十七式艦上攻撃機でございます。米軍のコードはKATEと言ったようです。胴体下に航空魚雷が見えます。背景の空母の艦橋にはハンモックが縛り付けられております。被弾対策と思われます。戦闘配置でございます。空母翔鶴より発艦した直後の零式艦上戦闘機でございます。米軍コードはズィークあるいはゼロファイターでございます。空母赤城から飛び立つ零戦です。当然増槽が付けられております。発艦を待つ攻撃隊のようです。後に見えるのは空母は何と言う船でしょうか。同じく発艦待ちの零戦です。甲板に非常に多くの人が映っております。空母運用には多数のメカニックが必要なんですね。何人くらい乗っていたのでしょう…。米軍側が地上から撮影した九十九式艦上爆撃機です。米軍コードはヴァルです。急降下爆撃後の上昇時でしょうか。お尻から撮影されています。背景の黒い点々は対空砲火と思われます。爆弾や魚雷を喰う人も酷い目に合いますが、爆撃する方も物凄い恐怖感に晒されていたのでしょうね…。空襲直前の米海軍の戦艦群です。アリゾナもまだ浮かんでいます。後ろの方では既に煙が上がっています。まだ対空砲火は全然上がっていません。手前の戦艦に向かう雷跡が見えますね。空襲後の米軍ヤード群です。本日は真珠湾攻撃が実施された12月8日でございます(日本時間)。こうして、先の大戦が始まって行ったのでございました。日米の犠牲者の霊に合掌…。【本日の成果】楽天ラッキースピードくじ 5÷2=約2マイル(NH)インフォシークスピードくじ 1÷2=0,5マイル(NH)本屋(JCB) 16×1.5倍=24マイル(NH)
2005/12/08
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続きでございます。小さな船でアリゾナメモリアル本体へ進みます。こんな感じの船が二隻投入されており、アリゾナメモリアルとビジターセンターをピストン輸送しておりました。空母の直ぐ近くを通ります。折角ですので空母も撮影してみました。とこんな感じでした。出航直前でございました。船に乗っている人々はこんな感じでした。東洋人は殆ど居ないです。白人中心ですが、真珠湾の遺族という年齢層の方も殆どいらっしゃいません。六十年以上経っているので、ここも歴史の一部になっているのですねえ。ニューヨークのWTC跡地もいずれは歴史の一部になるのでしょうか…。ミズーリも間近に見えてまいります。僅か数分でメモリアルに到着いたします。アリゾナの船体の位置とメモリアルの関係を示したプレートです。船体の中央を跨ぐようにメモリアルの建物が設置されていることが分かります。水面上に僅かに顔を出しているアリゾナの煙突でございます。大変浅い海底に沈んでいるのです。海面の下にある構造物もうっすら見えます。海底の構造物の間で魚が泳いでおりました…。哀れと言うか、何と言うか、何とも言えませんです。そう言えばサイパンの海岸に放置されている日本軍戦車も魚の巣になっておりました。メモリアルの内部はこんな感じの構造になっています。60年経っても浮いてくる油でございます。犠牲者の銘板でございます。この辺りのデザイニングはどの国も一緒でございますね。この記念館のプレートです。何名もの米海軍の提督の名前が書いてありました。旗が10振りくらい展示されていました。説明が無かったのですが、何の旗なのでしょう…。ちょっと枚数が多くなったので、今回はここで切ります。【本日の成果】本屋(JCB) 16×1.5倍=24マイル(NH)AMPM(EDY) 2マイル(NH)ローソン(JCB) 3×1.5倍≒約4マイル(NH)
2005/12/07
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眠れない…。体調は悪いし眠れないし、我ながら大丈夫かなあ…。どうせ眠れないのであれば、続きを書いてしまいます。ホノルル国際空港に着いたところからです。ホノルル国際空港です。ここからバスに乗ります。THE BUSと呼ばれる路線バスの小さな停留所がありまして、パールリッジ方面行きのバスに乗りました。運賃は一人2ドルです。1ドル紙幣しか使えませんので、お釣りが要らないように用意する必要があります。20分くらいで「アリゾナメモリアル」に到着します。真珠湾関係の戦跡はこの辺りに集中しています。なお、ヒッカム飛行場もホイーラー飛行場も現役の米軍施設ですので入れません。一般民間人が入れる場所は限定されます。これがアリゾナメモリアルのビジターセンターの案内図です。オアフ島にビジターセンターがあって、ここで勉強した後に、撃沈着底した戦艦アリゾナの上に建設された橋状の「アリゾナメモリアル」に船で連れて行ってもらえます。荷物は一切持ち込めません。近くの売店の中にある手荷物預け所(バッグストレージ)に全部預けてください。ウェストバックもだめです。最初に目に入るのはアリゾナの錨です。でかい…。料金は無料なのですが、乗船整理券を受け取る必要があります。私は週末に行ったせいか、一時間待ちでした。入場整理券です。左上に「14」という番号が見えます。この番号で呼ばれます。入場整理券の裏面です。真珠湾攻撃の犠牲者の名前・階級・写真・業務・死亡時の状況が書かれています。米国陸軍の看護士官の方でした。救護活動中に死亡したとのことでした。合掌。早速海辺に出てみます。このアリゾナメモリアルからは空母岸壁が見えます。丁度入港中でした。舫綱が見えますね。なお、水上打撃艦艇は別の湾に停泊するので見えません。対岸のフォード島に留め置かれている戦艦(本当は記念艦)ミズーリもすっきり見えました。このミズーリ号はあとで訪れます。これがアリゾナメモリアルです。この白い建物の下の海中にアリゾナは沈んでいるのです。昭和16年のあの日に沈んでいくアリゾナです。アリゾナは我が方の800キロ爆弾の水平爆撃の直撃を受け、弾薬庫に引火し、一気に爆沈したと伝えられています。真珠湾は水深が浅いので、多くの船は引き揚げられ戦列に復帰していきますが、アリゾナは余りに被害が大きく、引き揚げは断念されたようです。本当は斜めになったアリゾナを正面から写したものを使いたかったのですが、著作権が残っている感じなので使えません。こちらは着底したテネシーです。舷側が水面下になっているものの水平を保っています。こういう状態だと引き揚げも可能に思えます。少し引いて撮ってみました。ヤシの葉と空母が不似合いでございます。真珠湾の案内図です。左上がフォード島、右側の白いところが現在位置です。左下に水上打撃艦艇の停泊地があります。記念碑や島のミニチュアなども展示されております。非常に荘厳な雰囲気で、聖地の印象を強く受けました。とてもはしゃげる雰囲気ではありません。広島原爆資料館の重圧(十数万人分)には及ばぬまでも、重~い雰囲気です。アリゾナ・ビジターセンターの隣にある「潜水艦バウフィン」も見えます。艦橋の脇に白っぽいものが見えますが、後で紹介しますが、我が国の商船20数隻及び艦艇数隻を撃沈したというインシニグアでございます。先の大戦で、我が国商戦隊は米国潜水艦により壊滅的な打撃を被ります。商船乗組員の多くは故国の土を踏めなくなったのでございます。死亡率は50%を超えると思われます。商船乗組員に合掌…。ビジターセンターの中庭です。大変床が滑りやすいので要注意です。この周囲に各種展示室があります。アリゾナから引き揚げられた鐘です。この鐘で時刻を知らせていたようです。ビジターセンターに展示されていた、我が方の空母「赤城」の模型です。こちらが健在だった頃の赤城です。こちらは赤城と共に真珠湾攻撃に参加した加賀です。余談ですが、第二次世界大戦の頃、日本海軍では戦艦には旧国名の大和とか武蔵という名前を付けておりました。重巡洋艦には足柄ですとか愛宕と言った山の名前を付けておりました。赤城は元々は重巡洋艦として計画された艦であり、加賀は戦艦あるいは巡洋戦艦として計画されていた艦であったと思われます。真珠湾攻撃に参加した6隻の空母のうち4隻はミッドウェイ海戦で、米艦載機の攻撃により沈められることになります。世界初の空母統合運用に成功し、真珠湾攻撃で大きな戦果を挙げた彼らにも非常に厳しい運命が待っていたのでした。ミッドウェイ海戦の犠牲者に合掌…。さて、この後に、記録映画を見せてもらい基礎知識を得た上で、船でアリゾナメモリアルに進むのですが、少し長くなったので、ここで切ります。
2005/12/06
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今日は寒かったですね。東京地方は本格的に冬になったようです。ベトナムで仕入れてきた鳥インフルエンザ?が悪化して苦しいです。仕事で発言していると咳が止まらなくなりました。大丈夫かなあ…。言い忘れてたのですが、表題の「トラトラトラや」は映画「トラ!トラ!トラ!」で田村高廣さんが叫んでいた台詞「結城、発信!、我奇襲に成功せり、トラ・トラ・トラや」から頂きました。時に、今回の旅行日記では、初めて「私が著作権を持っている訳ではない」画像を掲載します。もちろん、他人の権利を侵すわけには行きませんので、著作権が消滅していると思われる写真のみを使います。著作権に関する法律はいくつか在るのですが、今回参照した条文は、以下の二つです。===========================著作権法第五十三条法人その他の団体が著作の名義を有する著作物の著作権は、その著作物の公表後五十年(その著作物がその創作後五十年以内に公表されなかつたときは、その創作後五十年)を経過するまでの間、存続する。2 前項の規定は、法人その他の団体が著作の名義を有する著作物の著作者である個人が同項の期間内にその実名又は周知の変名を著作者名として表示してその著作物を公表したときは、適用しない。3 第十五条第二項の規定により法人その他の団体が著作者である著作物の著作権の存続期間に関しては、第一項の著作物に該当する著作物以外の著作物についても、当該団体が著作の名義を有するものとみなして同項の規定を適用する。→つまり日本海軍撮影分で撮影者が不詳の写真は公表後50年で著作権は消滅している。===========================アメリカ合衆国著作権法第105条本編に基づく著作権による保護は、合衆国政府の著作物には及ばないが、合衆国政府は、譲渡、遺贈その他によって合衆国政府に移転した著作権を受領しまた保有することを妨げられない。→合衆国政府(連邦政府)の職員が、職務として撮影した写真に関しては米国国内では著作権は無い。===========================万国著作権条約の実施に伴う著作権法の特例に関する法律第三条万国条約の締約国の国民の発行されていない著作物又は万国条約の締約国で最初に発行された著作物で、万国条約第二条の規定に基いて著作権法 による保護を受けているものが、その締約国の法令により保護期間の満了によつて保護を受けなくなつたときは、その著作物の保護期間は、著作権法 の規定にかかわらず、その締約国の法令による保護期間の満了の日までとする。2 万国条約の締約国の国民の発行されていない著作物又は万国条約の締約国で最初に発行された著作物で、その締約国の法令により保護を受ける著作物の種類に属しないものは、万国条約第二条の規定に基く著作権法 による保護を受けないものとする。 →つまり、本国で保護を受けない「モノ」は、日本でも保護を受けない。===========================と、この三つの条文から、次のものは掲載しても良さそうです。日本海軍の艦艇及び航空機から日本軍人の手で撮影された写真で公表から50年を経ていることが確認できるもので、撮影者が特定できないもの。あるいは、撮影者の死亡日時(多くの場合は戦死です、合掌)が確認できるもの。合衆国陸海軍軍人が職務として撮影したことが確認できるもの(合衆国海軍のウェブサイトで権利の所在が確認できるものだけを拾って担保します、報道写真は権利が残っているリスクがございますので、有名な写真を落とさざるを得ません)。他人様の撮影なさったお写真を載せるのは大変でございますが、合衆国海軍の管理が行き届いているので、何とかなります、はい。前置きが異常に長くなりました。本編に入ります。当分は私の撮影分ばかりになります。今回の旅行は成田エクスプレスで成田空港に向かうところから始まります。成田エクスプレスは3000円以上もかかって高いのでございますが、自宅でだらだらしているうちに時間がなくなってしまいました。最初の搭乗区間は、成田→中部です。中部は離着陸ともデビューです。名鉄でターミナル見物には行ったのですが、飛行機を利用するのは初めてです。これが、中部まで載せてもらった機材です。操縦席の窓を磨くクレーンみたいな車輌がありました。成田でしか見たことが無い気がします。おお、ファーストクラスがアサインされました。うれしー!。新しいニューソロではなく、古いスカイスリーパーでございました。はい。早速便所を撮影しました(こればっかですね)。余談ですが、私以外にも、ブログに便所の写真を載せていらっしゃる方を見つけました。ちょっと安心しました。一番下の写真をご覧下さい。手洗い後に手を拭くためにガーゼが置いてあります。もちろん使い捨てです。化粧品も国際線運行時のFクラス用のもののままでした。花はありませんでした。雰囲気でます。中部空港で始めて撮影した写真です。ただの通路ですけど。早速ラウンジに参ります。成田のさくらアネックスには及びませんけど、高級感がばっちりありました。あとで出てきますけど、ホノルルよりは名古屋の方が上でした。中部の出発ロビーです。売店が点々と散らばっているんですね。ちょっと広すぎて…。でもスタバもあるし、他の一種空港と比べると使いやすい感じがしました。他の皆さんはどう感じていらっしゃるのでしょうね。普通の回だとここで切ってしまうのですが、ハワイ編はご紹介したい写真の枚数が尋常ではないので、続けてしまいます。ハワイ行きの飛行機の便所の化粧品です。暫定レポートでも書きましたが、ジャルウェイズ便で客乗さんの半数はタイ人クルーでした。家族連れが多くて子供が多い便だったのですが、タイ人クルーの子供扱いの上手なこと…。彼女らの優秀さに舌を巻きました。一食目のミールです。KSMLです。二食目のミールです。オールペーストタイプのベルギー製でした。ジャルウェイズだとこのタイプになるようです。JL便のアメリカ製のKSMLよりもこっちの方が美味い…。大急ぎで、ホノルル国際空港到着直前までをレポートさせて頂きました。次回は、ホノルル国際空港到着からアリゾナメモリアル見学までを猛スピードでレポートします。【本日の成果】ローソン(JCB) 3×1.5倍≒約4マイル(NH)
2005/12/06
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今回から新シリーズのレポートになります。notoshunは基本的には普通の人が行かないところに参ります。どうも、一般的なリゾートは苦手でございまして…。そんな気持ちからハワイを避けて参りました。6年で増刷パスポートが満杯になるほど海外に出かけておりますが、ハワイに来たのは今回が初めてでございます。今回の旅行の目的は以下の通りでございます。 1 真珠湾攻撃の聖地を巡る 2 日本の教科書にも登場する戦艦ミズーリを見る →教科書に登場する唯一の戦艦 3 その他ハワイの軍事施設を見る 4 日本の旅行業者のワイキキ占領状況を見る 5 中部国際空港からの出国を経験する以上でございます。題名も真珠湾攻撃を描いた傑作戦争映画「TORA!・TORA!・TORA!」より拝借いたしました。なお、幸いなことに戦争の記録写真は殆どが著作権フリーになっております(50年経過したケースと合衆国政府が撮影したものであるケースがございます)。ところどころ、白黒の写真も登場させたいと思っています。はい。この日記で初めて登場する私が撮影したのではない画像でございます。帝国海軍が撮影した空襲を受ける真珠湾でございます。
2005/12/05
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楽しかった奄美群島紀行も今回で終了に致します。次回より、ハワイ・オアフ島の第二次世界大戦に戦跡を巡る「パールハーバーで、トラトラトラや!」をお送りいたします。さて、続きです。喜界島空港を出発する所からです。飛行機は、往路と同じSAABでございます。YSの後継機としてJAC日本エアコミューターが採用したものの、現在では製造中止のようです。このSAAB導入後に60名以上乗れるQ400が登場し、YS11の後継はQ400で決まった感がございます。JACもELも採用していますですね。夕刻なので機内も暗いです。こんな機材で飛行時間10分弱のフライトに出発します。当然飲み物も出てきません。飛行時間が短く、あっと言う間に到着してしまいます。これが沖縄県であれば、どこからとも無く1000馬力のエンジンを積んだ高速船を運航する船会社が現れ、航空路は廃止に追い込まれそうなんですが、奄美群島ではこういう航空路も健在です。飛行機から降りてもしつこく撮影を続けました。一昔前は、YS11がここに駐機していたものなのですが…。この空港は、真正面から写せるので、機材撮影にはなかなか良い空港です。奄美空港の到着経路です。まあ、あまり変わったところはありません。乗り継ぎの羽田便のチェックインを行いました。ここも普通です。奄美空港ともなると売店も充実していました。ここで黒糖焼酎をお土産に買いました。奄美空港の時刻表です。結構便数がありますね。ちなみに、現在は全日空系の寄航はなくなりました…。青森とか徳島とか奄美がそうですが、旧日本エアシステムが営業で頑張って、新規参入の全日空を蹴散らしたというケースもございます。天下の全日空も万能と言うわけではないのですね。こちらが旧全日空系のチェックインカウンターです。空いてしまったので奄美大島の特産品や出土品の展示スペースになっていました。関西空港の旧日本エアシステムチェックインカウンターに似た利用方法です。時間的に夕食の時間でございましたので、この奄美空港で頂くことにしました。こりもせずに鶏飯です。だって美味しいのですもの。搭乗ロビーでございます。喜界島には搭乗ロビーはありませんでした。改札口の外はもう駐機場でした。奄美空港はこの面でも普通の空港でした。この奄美空港でも最近ブームの「空弁」を売っていました。すかさず買い込み、機内で頂きました。その名も「鶏飯風炊き込み御飯」です。うーん、知らない人が聞いたら、「鶏飯って炊き込み御飯のことだろう??」と言われそうです。ちなみにお味はグッドでした。はい。帰りの機材はMD81でした。当然、旧JDの機材でした。国内線では便所の写真はあまり撮らないのですけど、なかなか乗るチャンスのない機材なので撮っておきました。一時間半くらいで羽田に到着いたしました。このような感じで、一泊二日の奄美群島巡りを終えました。バーゲンを使って行くにはいい感じの行き先ではございますが、如何せん広いのです。一泊二日では食べきれないデスティネーションでございました。今度は二泊三日か三泊で行きたいと思います。ご愛読ありがとうございました。次回より、パールハーバー編をレポートいたします。
2005/12/05
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今日も雨でした。うーん。結局洗濯をしただけで終わってしまいました。さて、続きです。今回はローカル色が極端に強い喜界空港の全貌をレポートします。空港前に立っている看板と案内塔です。この配置って、空港というよりJRの駅ですよね。ターミナル正面です。この自動販売機の配置とバス停が駅っぽさを増加させています。一応管理者(鹿児島県)の管理事務所があります。しかし誰も居ないような感じでした。空港バスの時刻表です。結構便数が多い…。空港内には一応売店があります。波照間には何にも無かったですから、こっちの方が勝っています。でも、余り買いたくなるものがありませんでした。ちなみにレンタバイクはこの空港売店で借りました。こちらが「送迎所」です。普通の空港では(与那国空港でさえも)送迎デッキあるいは展望デッキ(お客の顔すら識別できない距離になると送迎と言わなくなります)と呼ばれ、2階以上に設定されるのですが、ここは一階にありました。もちろん入場無料です。送迎所から金網越しに見たターミナルです。ここまで近いと、顔の識別はおろか、会話も可能じゃないかしら。送迎所の中にある「関西の森」です。関西喜界町郷友会が植えた木のようですが、「森」ではないでしょう…。大阪勤務時代には奄美群島出身者が周囲にたくさん居ました。奄美群島の方は東京まで来ずに関西で停まってしまうのかしら。送迎所で撮影をしていると、私の乗る機材が到着いたしました。往路と同様、復路も奄美空港経由になります。そろそろとターミナル内部に進みました。保安検査場でございます。何と手荷物検査機が故障しております。「台風14号」の影響だそうですが、修理できていないのです。渋い。搭乗者全員が手荷物の開封検査と身体検査となりました。SAAB機という36名しか乗れない機材なので、これでも何とかなります。ジャンボ機だったら、検査に2時間かかるでしょう。カウンターは相変わらず、田舎の郵便局のような雰囲気です。手書きの看板が郵便局臭いのですよね。さて、搭乗のためにエプロンに進みます。もちろん徒歩です。ここでは搭乗バスなんぞ当然ありません。エプロン側からも撮影しておきました。この空港の建物はこの三つ(管理棟、旅客ターミナル、化学消防車の格納庫)だけでございました。この後、喜界島を後にして、奄美大島経由で東京羽田に向かいますが、今回はここで切らせて頂きます。【本日の成果】AMPM(EDY) 3マイル(NH)
2005/12/04
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皆さんおはようございます。昨日は一日中寝ておりました。酷い休日です。旅行の予定を入れないとこうなってしまいます…。やはり毎週旅行に行かねば。来週末より再び遠く(地球の裏側)まで出かけます。明日はその準備に充当いたします。さて続きです。土地改良事業の案内板です。離島での農業のネックは水です。離島はどこも大体水不足です。そこで、こんな工事をしているようなのです。地下にダムを作って水を確保し、ダムの上面は再び農地にするようなのです。なんと大胆な。早速工事現場を見に行きました。誰も説明してくれなかったので定かではありませんが、多分ダムを作っているところです。こちらは農地を復旧しているところだと思います。工事現場の中にドコモらしきアンテナが在りました。この島でも携帯はすっきりと使えました。最後にお墓をもう1ショット載せます。日本本土文化圏であることを感じさせます。大体これで喜界島の観光は終わりに致しました。次回は、ローカル色が強烈な、喜界空港の全てをレポートいたします。【昨日の成果】なし。
2005/12/04
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昨日は、日記の内容に合わないデザインに変えてしまい、皆様を驚かせてしまいました。申し訳ありませんでした。たくさんのコメントを頂きましたが、皆さんご指摘の通りでございます。どう考えてもシャラポワデザインに合う日記では無いのです。元に戻します。一日で中止…。我ながら根性無いです。さて前回の続きです。島を時計の反対周りで一周して参りました。やっと起点の喜界空港に戻って参りました。別の角度からの喜界空港ターミナルです。民家風の空港ターミナル…。ここから内陸に入って喜界町中心部に入って参ります。喜界町役場と中心の通りでございます。結構商店があるんですな。しかし、流石にコンビニはありませんでした。沖縄の離島[沖縄本島北部でも見ました]のように共同売店(地域の住民がお金を出し合って店を作り、交代で店番をする営業方式。買い占めると怒られる)は無いようです。ここから僧俊寛の墓に参ります。中々見つからなくて苦労しました。喜界町による銅像です。俊寛は平氏政権末期に平氏政権打倒を企み(鹿ケ谷の謀議)、これが発覚し流刑にされたと言われています(平家物語に書いてあります)。ただし、流刑先は確定していないようで、硫黄島説(鹿児島県の方です、東京都では無い方です)とか伊王島説もあるようです。こちらがお墓本体です。お墓にお参りしてもなお時間がございました。海岸線沿いに一周したので、今度は内周道路で島を一周いたしました。もちろん距離は半分以下になります。島の中央部の高台にある中西公園でございます。誰も居ない…。この公園の中に展望台がございました。アタデノハナ展望台でございます。しかし…。崩落の恐れがあるので立ち入り禁止になっておりました。島の観光パンフレットに載っていない訳ですな。もー。これが立ち入れない展望台です。立ち入り禁止線のギリギリまで進んで撮影してみました。こんな景色でございました。そうそう、忘れていました。喜界島の中心部には立派な郵便局がありました。しかし…。風景印は無いのでした。涙…。今回はこの辺にさせて頂きます。続きは次回にさせて頂きます。【昨日の成果】E電乗車(SUICA) 3マイル(JL)ローソン(JCB) 4×1.5倍=6マイル(NH)
2005/12/03
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気分を変えて、楽天サンが用意してくれたスペシャルデザインを使ってみました。旅行のテーマと全然合わないですねえ…。
2005/12/02
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前回の続きでございます。島の東海岸を南下します。やっと見つけたマンホールの蓋でございます。喜界町の汚水のマンホールでございますね。お墓です。日本本土にあるお墓と同じデザインでございます。沖縄であれば、家墓か亀甲墓になるのですが、日本式です。沖縄の離島にもありますが、珊瑚で作った石垣です。何と大胆な…。途中で見つけた大きな公園です。塩道長浜公園と言うようです。大きな人口なぎさがございました。無料の海水浴場がたくさんあるのに…。公園内に在った謎のプレートです。なんだろう、プロペラ?。喜界島には郵便局が二箇所ございます。一箇所は町役場の近くの喜界郵便局で、もう一箇所がこの早町郵便局です。多分この辺が島で2番目に大きな集落でございましょう。これも観光名所なのでしょう。そてつの巨木でございます。ここまで太いと何の木だかわからないですね。日本復帰記念碑です。ここで初めて目にしました。奄美群島は沖縄と同様に、日本本土から切り離されて占領されました。僅かな期間ではありますが、A円という日本本土とは異なる通貨(というか米軍票)が流通していた時期もあったそうでございます。ちなみに、同時期沖縄で流通していた米軍票がB円でございます。碑文にあるように昭和28年に日本本土に復帰します。こんな経緯で、衆議院が中選挙区時代にこの奄美群島だけは小選挙区でございました。またまた珊瑚の石垣の路地を発見しました。静かでいい雰囲気です。妙に新しい「紀元2600年」碑です。紀元2600年は昭和15年でございます。65年前のものとはとても思えない…。さとうきび畑の中に建つ煙突です。多分、昔ここに製糖工場があったのでしょう…。大和製糖で検索しても、余り引っかかって来ないので、多分今はもうない会社なのでしょうね…。こんな感じで島の中心集落へ進んで参ります。次回は、島の中心部と俊寛の墓などをご紹介いたします。今回はこの辺で。【本日の成果】キオスク(SUICA) 2マイル(JL)
2005/12/02
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今日は職場の人と中華料理(上海蟹)を食べに行ってきました。やっぱ、上海蟹はうみゃい。うみゃ過ぎます。他のプレートも美味しかったあぁ。新橋のこのお店「鴻運」を探し出してくれた先輩に感謝です。さて、続きです。今日はちょっと単調な写真になってしまいます。百之台を降りて喜界島西海岸を海岸線に沿って北上します。喜界島の地図が無いと分かりにくいかも知れません。北部の平地は畑作が行われています。作物は殆どさとうきびでございました。この辺は沖縄県の離島と一緒です。「ムチャ加那公園」です。この「ムチャ加那」というのは人名で、島の英雄だったようです。英雄伝承が残っている辺りも、石垣や波照間や竹富に似ています。「ムチャ加那公園」から見下ろした西海岸です。さとうきびの段々畑…。水が確保できるんですねえ…。「雁股の泉」の案内板でございます。この島は平氏政権に支配された歴史がございます。源平系の遺跡がぽつぽつとございます。こういうところは日本本土との繋がりを感じさせます。なんか、ただの防火水槽みたい…。失礼しました。こんな感じでバイクで北上を続けます。島の最北端に出て参ります。志戸桶というところにでます。ここにも無料の海水浴場がありました。シーズンオフなので誰も居ません。ここで一休みしていると某日系キャリアから電話がありました。飛行機のダイヤ変更があり乗り継ぎが出来なくなったので予約を変更したいという内容でした。次の週末に新橋の市内カウンターに行く約束をさせられました…。海水浴場の中ほどにこのような石碑が建てられておりました。「平家上陸の地」。なるほどねえ…。今度は東海岸沿いに島を南下して参りますが、続きは次回にさせて頂きます。【本日の成果】なしです。
2005/12/01
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