1
今ではすっかり忘れられたような事件であるが、その昔、高名なフランス文学者の孫が祖母を殺害して自殺するという事件があった。親殺し事件の中には、様々な類型があるが、そのうちの一類型として「社会的地位のある親の重圧」というものが底流になっているものがあるのではないか。そういう意味で、この祖母殺し高校生の事件は、もっと検証されてもよいように思う。この事件の高校生は、フランス文学者の祖父と脚本家の母、そして祖母と共に暮らしていた。母方の祖父と同じく文学者だった父は離婚して、別に暮らしていたようである。この高校生は事件を起こす前、「手記」を書いていた。「手記」の内容そのものは、ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公の思想をベースにしたようなものであるが、その「超人」の部分をエリートに変え、エリートである自分は凡人を殺す権利があるかのようなことが記述してあったのが、特徴的である。まるで呪文のように、「自分はエリートだ」と繰り返してあるこの手記は、「エリート」の家庭に生まれた自分は「エリート」でなければならないといった重圧がこめられているようでかえって痛々しい。少年は利発ではあったが、すいすいと「エリートコース」に乗るほどの才があったわけでもなかったようである。「エリート」にはなりたかったが、「エリート」にはなれない自分。それゆえ、その鬱積が、最も強く自分に期待し、干渉してくる祖母に向けられてしまった。※親子という宿命を考えた場合、能力、才能、そして運において、子供が親を乗り越えるのなら問題ない。親も子を心から祝福し、誇りに思うだろう。ただ、問題はその逆の場合である。幼いうちは尊敬し自慢していた親であるが、やがてそんな才能や能力は自分には受け継がれていないらしいことに気付くようになる。それにもかかわらず、日本の社会というのはうるさい。とかくそうしたエリート家庭の子は、周囲や家族から、「お父さんは○○なんだから、あんたもしっかりしなくちゃね…。」と言われる。あの両親殺し予備校生の事件では、犯人は周囲から「親は一流(家の姓は一柳)、子は二流」と言われていたらしいが、親と子を別人格ととらえる、よい意味での個人主義が未成熟なのである。※祖母殺し高校生の後にも起きた様々な事件。両親殺し予備校生の事件、留学帰りの息子が政治学者の父を殺した事件…そして最近たてつづけに起きた2件の事件もどこかでこうした事件とつながっているような感がする。親は親で子は子。しょせん別だとわりきれば、重圧に思うこともないし、過保護や過干渉をすることもないはずである。「政治家の家に生まれたのは宿命で子供は子供であるというだけで準公人」なんていうくだらない議論がまかりとおる日本では、それもなかなか難しいのかもしれないが。※※以下は「エリート家庭云々」とは対極にある話。葛飾のある公立中学では逮捕者が14人にも上っているという。犯行の形態も障害致死寸前の暴行やむりやりヌード写真をとってばらまくなんていうものだから、親としてはとてもじゃないけど安心して子供を通わせることはできないだろう。逮捕された事件以外にも表に出ていない事件がかなりあるのではないか、こんなことがあるのは本当にこの中学だけなのか、と様々な疑問がうかぶ。※思えば何年か前、おとなしめの少年が執拗な暴行と恐喝を繰り返し受け、ついには自殺してしまう事件があった。当時、マスコミや評論家の多くは、あの行為を犯罪ではなく「いじめ」と称し、バカな評論家の中には「いじめは被害者にも原因がある。」という人までいた。事件も、もっぱら文部省マタ-の問題としてとらえられ、「いじめ対策」として被害者に対するカウンセリングなどが導入されたのもこの頃ではなかったか。今では、もうわかったはずだ。公立中学で起こっていることは「犯罪」であって、「いじめ」(この言葉は仲間はずれや悪口などに限定すべき)ではない。こんな事態になっても、なお犯罪少年に甘い「少年法」を維持しろというのだろうか。少年法の見なおしと公立中学における退職警官によるパトロール。これを早急に行なわないと、そのうち、公立中学に通わせる親なんかいなくなる。
2004年11月28日
閲覧総数 243
2
私こと七詩さんは性年齢一応不明(笑)としてあるので、あまり世代ネタは書きたくないのであるが、昨日の日記で教育について書いた流れで、今でも不思議に思っていることを書いてみることとする。ここ数年教科書をめぐる論議がかまびすしく、つい最近も東京都が「つくる会」の教科書を採択したと話題になっているが、こんな議論をみるにつけ、自分が学んだ教科書にはもっとすごいのがあったなんて、つい思ってしまう。といっても、社会科や国語の教科書に社会主義や共産主義を賛美する内容が載っていたとかそんなのではない。問題は確か中学3年の時の音楽の教科書である。「山や川が呼んでいる」という題のポーランド民謡が掲載されていた。短調の曲調と明るい歌詞が不釣合いであったが、教師は「短調でも明るい歌詞をつけるときもありますよ。そうするとちょっと悲壮な感じがでます。この歌はもともとは革命家だったらしいのですが。」とそんな説明をしたような…。記憶しているかぎりでは下記のような歌詞であり、クラスの遠足などでも女子達がうたっていたようである。山や川がよんでいる みんな元気にでかけよう夏はすぎて草に木に 風に命がみなぎる胸をはれ胸をはれ あおげはるかな青空道は広くひとすじに すすむぼくらをまねくよでも、よく考えるとこの歌詞は変だ。春が来て草に命がみなぎるのならわかるけど、なんで「夏がすぎて」なのだろうか。それにポーランド民謡というけど、ポーランドに山なんてあったっけ。それはともあれ、曲調は軽快で、教科書の中では好きな曲の一つであった。※だから高校に入ってから、ある大学の紛争を扱った「圧殺の森」という映画をみたとき、ワルシャワ労働歌としてこの歌がでてきたときにはびっくりした。しかも歌詞も教科書とは全く異なり「立てはらからよ、行け戦いに 聖なる血にまみれよ」といった、今でいえばテロ賛美のような歌である。なぜ、このワルシャワ労働歌が教科書に掲載されていたのか、本当に不思議である。※ちなみにこのワルシャワ労働歌の来歴を調べてみると、やはりもともとはポーランド民謡であったが、それがロシア革命で革命歌として歌われ、やがてはワルシャワ条約機構軍の行進曲にも使われるようになったという。それと同時に世界の左翼陣営でもひろく歌われたのは周知のところである。もともとポーランド民謡だったときにどんな歌詞だったのか、なぜポーランドの歌が革命のロシアで歌われたのか、この歌にはどうもいろいろな経緯があり、日本で中学の音楽教科書に掲載されていたなんてのもその一挿話なのかもしれない。※余談であるが一世風靡した人気漫画「男組」のラストシーンでも、なぜかこのワルシャワ労働歌の歌詞が全文掲載されていた。荒唐無稽なバトル漫画と左翼革命歌とのとりあわせも中学教科書への掲載同様、趣旨不明であった。※※この歌以外にもポーランドの民謡はなぜか教科書や学校が配る愛唱歌集などでも多く紹介されていて、「娘さん」や「ポーレチケ」は定番であった。その中の一つに「へい、ヤシネック」という歌があって、その歌詞に「~麦飯とたくわんじゃお昼までもたないよ」という一節があったが、なぜ「ヤシネック」(人の名前?)なのに麦飯とたくわんなのかとひどく疑問に思ったものである。
2004年08月29日
閲覧総数 3903
3
その昔から名前は知っていたのだが読まないできた本である。奈良の名刹を巡った旅行記であり、大正8年に刊行された。著者は当時は30歳であり、車(人力車?)でお寺を巡り、お坊さんに会って仏像を見せてもらったりしている。今の観光旅行とはずいぶん趣が違う。そこで出会った仏像に感動しながら、唐や天竺に思いをはせ、結局はこうした仏像は穏やかな日本の風土の中で生まれたものであろうとする感想が多い。著者の後年の名著である「風土」の考えの芽生えはすでにこのころからあったのだろう。それにしても、穏やかな日本の風土、日本の自然といっても、この本がでた4年後には関東大震災が起きる。日本の自然は穏やかなだけではない。日本の自然は穏やかだから、日本人は農耕民族だから…という前提で、日本人の国民性や習俗を理屈づければなんとでもいえるし、そうした「日本人論」が流行した時代も知っている。こうした論調の淵源の一つは和辻哲郎にもあるのかもしれない。余談だが、和辻哲郎の「風土」は読んだことがないのだが、そこに記述されている砂漠には一神教が生まれ、自然豊かな地域では多神教が生まれたという論調は、かなりの影響力をもっていたようだ。しかし、イスラム教は砂漠よりもインドや東南アジアの信者数の方が数では多い。和辻哲郎氏は実際には中東には滞在したことはないという。昔は今に比べると外国滞在の経験機会も少なかったし、該博な知識と流麗な文章があれば、多くの読者を感心せしめたのであろう。「古寺巡礼」は、読んだ後、奈良を訪れてみたくなる本であり、また、随所に仏像などの写真があることも読書の助けになる(もっとも今ではスマホですぐに見ることができるが)。
2024年11月25日
閲覧総数 26
4
米大統領選挙で一番印象的だったのは、その日の夕方までに結果、それもかなり一方的な結果が出てきているのに、朝刊の見出しは「史上まれにみる大接戦」となっていたことだ。どこが大接戦やねん…別にこれは日本のマスコミのせいではないだろう。日本のマスコミが取材源にしている米国の高級紙の予想がはずれたというだけのことだ。じゃあ、なぜ米国のマスコミの予想が外れたのだろうか。米国のマスコミだってしかるべき世論調査を行ってこの結論になったわけだし、彼らとて願望をそのまま予想にしているわけではない。世論調査の対象にしても、その昔のリーダーズダイジェストの徹をふまないために、属性には留意しているはずだ。それでも、世論調査と実際の結果がくいちがうというのはそれなりの理由があるはずだ。よくあるのは、ワールドカップで日本が出場するとき開催国の住民にマイクを向け勝敗予想をきくのがある。そうすると、実際の可能性以上に日本の勝利を予想する人が多いようにみえる。考えてみればあたりまえで、聞いているのは日本の記者だとわかるし、そうだとしたら喜ぶような回答をするのがあたりまえだろう。世論調査については、回答が匿名であり、電話調査などの顔の見えない調査であっても、回答する側は自分の答えがどううけとめられるかを気にする。日本での報道を見る限り、米国のマスコミはかなり一方的に民主党候補を推していた。それも冷静に政策を比較した理論的なものではなく、トランプを支持する人々が〇〇であるかのような印象調査をしているのではないかと思うほどだった。こういう状況の中では、世論調査であっても、トランプ支持というのは言いにくかったのではないかと思う。同じことがもしかしたら日本でもあるのかもしれない。兵庫県知事選である。マスコミ報道では現知事をとんでもない人物であるかのように報じているし実際そうかもしれない。しかし、その中身をみてみるとパワハラの被害者は県幹部職員で、本当に弱い立場の者を踏みつけたというのとはちょっと違うように思う。まあ、もともとは現知事は総務省官僚で、彼らの中には自治体職員に対する強烈な優越感を持ち、なめられないために威圧的態度をとるというのもいるのかもしれないけど。いずれにせよ、個々の行為は態度悪いねえ…といったもので、あの「こ~のハゲ~」のようなものとは違う。内部告発者が自殺に追い込まれたのは大きな問題ではあるが、これと対立候補とを比較して県民はどちらを選ぶのだろうか。世論調査と実際の投票との乖離はないのだろうか。気になるところである。
2024年11月15日
閲覧総数 158
5
数学には嫌われているのだが、どういうわけか数学のでてくる映画は好きだ。特に「博士の愛した数式」は小説だけでなく、映画の方も大傑作だと思う。そして今回ネット配信でみた韓国映画「不思議の国の数学者」もそれに匹敵する、またはそれ以上の傑作だと、個人的には思う。主人公は脱北した数学者で、韓国では学校の警備員をしている。生徒たちは彼の正体を知らず、脱北したことにちなんで「人民軍」のあだ名でよんでいる。主役のチェミンシクは有名な俳優なのだが、いわゆる知的な風貌ではなく、天才数学者のイメージではないが、さすがの貫禄の演技で、目が離せない。その彼と、貧しい母子家庭で塾に通うことができず、落ちこぼれ気味で転向を薦められている高校生ジウとの交流が物語の大きな流れでそれに脱北の複雑な事情が絡んでくる。不思議という言葉には日本ではマイナスの意味はないのだが、原題は異常な国であり、主人公は、自由な研究を許さない北朝鮮も異常なら、数学が就職の手段になっている韓国も異常だと言う。問題を解くことが重要なのではない、問題を解く過程が重要なのだといったような含蓄の深い言葉が随所にあり、数学を度外視しても、十分に楽しめる。もちろん博士の愛した数式にもでてくるオイラーの等式はここにもでてきて、数学者は、高校生相手にその美しさを熱弁する。さらに、円周率を音楽に直してピアノ演奏する場面は圧巻であり、この円周率の音楽は映画の随所に使われている。数学は美しい、だからこの世界は美しい…ぜひお薦めしたい映画である。
2024年11月24日
閲覧総数 25
6
非嫡出子の相続分を嫡出子の半分にするという民法の規定について違憲判決がでる可能性があるという。そもそも父親と子供の関係で考えた場合に非嫡出子と嫡出子を相続で区別すると言う理由はなんであろうか。家業への協力や生活を共にしていたことによる介護などが考えられるが、家業は別の形で継承がなされるし、それに今の時代、そうした家業のある家というのは少数であろう。介護はこの問題とは別に相続の際に重視すればよい話で、嫡出子同士の間だって親と同居介護をした孝行息子(娘)がばかをみるような今の制度はおかしいともいえる。結局のところ、非嫡出子を相続で不利に扱う理由というのは希薄だとしか思えない。*それにたとえ相続分を同じにしたところで嫡出子と非嫡出子が同じになるわけではない。妻の相続分は2分の1であるが、妻が相続した分は、妻を通じて嫡出子だけに行く。また、兄弟が複数いて一人だけ大学をだしてもらった場合には受益者として相続の際に不利に扱われることもあるが、これもおそらく嫡出子の間だけの話で、子供の中で非嫡出の子だけが進学の費用をだしてもらえなかったとしても、相続では考慮されないだろう。嫡出子は父親と生活をともにすることで、日々の生活、進学、学習や職業教育の費用などで様々な便益を受ける。せめて相続は嫡出子も非嫡出子も平等に…という考え方もある。*それにまた、このように嫡出子、非嫡出子を相続で平等に扱うことはある意味で男性の無責任に歯止めをかけると言う効果もある。未成年を相手にした場合はともかくとして、大人の女性を騙した場合には、男性が責を負うということはまずない。世間ずれしていない女性に「妻とうまくいっていない」とかなんとかいいながら火遊びをやったって、それが犯罪になることはない。100%女性の側の自己責任であり、道徳的非難もむしろ女性に向けられる。ただ、そうした場合でも、女性が自分の子供を生んだとして、その子供が嫡出子と同じ相続分をもつとなれば、男性も無責任ではいられなくなる。*最後に…暴論をあえていってしまおう。幸福観の問題であり、人生観の問題でもあるのだが、バカとくっついてバカな子を生むのと優秀な男性と付き合って(確率ではあるが)優秀な子を生むのとどっちがよいのだろうか。生物の進化の摂理は圧倒的に後者であり、自然界には正当婚姻も一夫一婦制もない。たしかに婚外子差別の現実はあり、問題となっている憲法訴訟の当事者はこうした差別を訴えている。しかしハンディ、不平等、差別、そうしたものは人の世にはつきものである。もちろん差別はなくすように努めていかなければならないが、現実にある障害、現実にある事故や犯罪被害の悲惨、そうしたものに比べて「婚外子である苦しみ」がどれほどのものだというのだろうか。肉体的、精神的ハンディをもって生まれるのと、能力資質に優れた婚外子に生まれるのと、どっちか選べと言われれば、躊躇なく後者を選ぶ。自身が婚外子であることを公言している作家の方だって、その優れた能力、才能、資質は生物学上の父親から受け継いだのかもしれないではないか。
2013年07月10日
閲覧総数 14
7
障害のある49歳の息子を72歳の母親が殺害する事件があった。「息子に精神的な疾患があり、将来を悲観していた」と母親は言っているそうなので、治癒の見込みのない重度の障害だったのだろう。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160815-00000011-kantelev-l27こうした事件はときどき起こり、そのたびに福祉の貧弱さを問う声があがり、自分の子供を手にかけなければならなかった親に同情が集まる。この年老いた母親も本当に気の毒であるし、年齢からいっても酷刑にはならないだろう。そしてそれを多くの人が当然だと思う。でも、考える。この「将来を悲観」というのと「生きていてもしょうがない」というのはどう違うのだろうか。もし、手を下した人物が母親ではなく、父親だったらどうなのだろうか。そして実際に介護を行なっている施設職員だったら…。障害者に対する殺人でも、あの事件については、「障害者も生きているだけですばらしい」、「重度の知恵遅れで寝たきりの障害者に命のきらめきを感じて感動した」、「重度障害者は世の光だ」云々といった言説がさかんにふりまかれ、加害者の思想は「ナチスと同じおぞましい危険思想」として糾弾されている。そうしたおぞましい危険思想と、この気の毒な母親の思いとの間には、世の中の受け止め方は天地ほどの差がある。障害者を産み育て、彼の人生に責任を負い、彼の将来をわが身のことのように心配しなければならない母親の立場というものは、それだけ重く辛いということなのだろうか。
2016年08月19日
閲覧総数 90
8
遠藤周作「沈黙」を読んだ。この本のタイトルは前から知っていたのだが、読む気はずっと起きなかった。キリシタン弾圧がテーマだというから、たぶん陰惨な拷問や殺戮のシーンが延々と描かれているのではないか…そんな想像をしていたからだ。しかし読んでみてよかった。たぶん遠藤周作氏の最高傑作だろう(英文のウィキペディアにもそう書いてあった)。arimaさん、ありがとう。※ここでいう沈黙とは神の沈黙をいう。信徒が拷問を受けても処刑されても沈黙をつづける神。それなのに神の存在を信じ続けることは可能なのだろうか。この「神の沈黙」という主題は、実は「カラマーゾフの兄弟」のイワンの説く無神論にも出てくる。虐待を受け必死に「神ちゃま」に祈りながら死んでいった幼い少女の話をしながら、だから神は存在しないと説く場面である。小説ではなくともこの神の沈黙によって信仰を棄てた人は多いのではないか。数学者ピーターフランクル氏の本を読んだ時、彼の両親は収容所でも過酷な体験故に信仰を持たなくなっていたなんていう挿話があったと思う。※しかし、私などは逆に神の沈黙…つまり世の中には途方もない不条理や悲劇があるからこそ、逆に宗教というものが存在するのではないかと思うことがある。正しい者や優しい者が不幸になり、奢った者が富み栄えるような現実や理不尽な事故や災厄などがあるから、人は超越者の配剤や死後の裁きで帳尻をあわせようとするのではないか。となると神が沈黙していたから信仰を失ったのではなく、信仰を失ったから神が沈黙していると思うというのが実態なのだろう。※「沈黙」には江戸初期の長崎の風景や情景が目に見えるようにいきいきと描写されている。そして読者は主人公の異国の司祭になりきって小説を読み進める。モニカという洗礼名をたった一つの装飾品でも紹介するように披露する農民の女など、たしかにあの時代の日本にいたに違いない。最後に主人公が到達した境地は遠藤氏の宗教観そのままなのだろうか。遠藤氏が大変な小説家であることは「沈黙」を読むとよくわかる。でも、よくいわれるように彼がクリスチャン小説家だったかとなると、それにはちょっと疑問を感じる。「沈黙」でも「イエスの生涯」でも、彼は奇跡の存在には懐疑的で、悲しみに寄り添い、共に苦しむところに神の本質をみているように思う。合理や理性を超越した奇跡を信じないのであれば、それはもはや宗教ではないのではないのだろうか。「イエスの生涯」で、この男は奇跡など起こせなかったと書きながらクリスチャンを自認するのは、ムハンマドは預言者ではないと言いながら自分はムスリムだと言うようなもので、大変な自己矛盾であると思う。
2007年12月12日
閲覧総数 8
9
いよいよ各政党とも選挙に向けて走り出すようで街中にはそろそろ選挙ポスター用の看板板が立ち始めている。マスコミによると今度の争点はイラクと年金問題ということなのだが、前回同様、拉致事件に代表される国民の安全や国家主権の問題もかなりのウェイトをしめるのではないのか。※総理の二度目の訪朝は全くひどいものであったし、サミットでの言動も失笑ものである。しかし、じゃあ、そうした総理への批判票が民主党に流れるかというとこれもどうも疑問であろう。新党首の岡田代表は、変化好きのマスコミがいくら持ち上げてブームを作りたくてもそれができないくらい地味なキャラである。そしてまた、今の時点で日本の非核化を宣言しようとするあたり、ちょっとセンスが悪いのではないかと思わざるを得ない。北朝鮮の核武装で一番脅威を感じなければならないのは日本であって、日本が核武装する可能性があると思うからこそ、各国は北朝鮮の核問題にも真剣に対処しようという気になるのではないのか。http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20040614ia26.htmそれにそもそも民主党という政党自体が非常にわかりにくい。自民党にも様々な考え、立場の人がいるが、民主党はそれ以上である。国家意識を前面にだした論客がいるかと思えば、生きている化石のように旧社会党的思考をする人もいる。あの政党をみていると、政党としての論理、主張があるとはとても思えない。平たくいえば、政権についていい目をみたいといった目標以上のものが民主党にはあるのか。あと余計な話であるが岡田代表のポスターで青みがかったカラーで撮ったのはどうみてもホラー映画の宣伝にしか見えない。やめた方がよい。※また、かなりの政党が在住外国人の地方参政権を主張しているが、あれもよくわからない。国はだめだが地方ならよいというのは、あまりにも地方自治というものを軽視した感覚ではないか。それに外国人といっても、実際に問題となるのは韓国籍、北朝鮮籍の人がほとんどであろうが、これがまた相互主義という意味からは大いに疑問である。北朝鮮は論外としても、韓国で在住外国人に選挙権を与えるなどという動きはあるのだろうか。皆無である。ならばなぜ日本で外国人に選挙権を与えることを急がなければならないのか。そのあたり、全く理解に苦しむものである。※※公職選挙法とネットの関係は不勉強でよくわからない。まあ、こんなぼやきが「選挙運動」に該当するとは思えないが、ちょっと不安なので選挙ネタはしばらくはやめておく。
2004年06月18日
閲覧総数 2
10
チャンヨンシル関連で別の大河ドラマ「大王世宗」を視ている。もともとチャンヨンシルは大王世宗の時代に才能を見出され、活躍した人物で、「チャンヨンシル」は「大王世宗」のスピンオフのような趣もあり、世宗大王は両方の大河ドラマで同じ人物が演じている。この大王世宗という人物は李氏朝鮮の第4代の王で大変な名君とされている。主な功績は独自の暦と文字の制作なのであるが、この時期はかの地の歴史には珍しく外国に対して攻勢にでたことも人気のある理由なのかもしれない。明国という圧倒的な大国が極東世界に君臨しているわけであるが、明国との関係をうまく調整しながら、冊封国としてはできないこととされている暦や文字の制作を行う。そして北では女真を撃って国境を北に広げ、そのときの国境が今日の北の国境になっている。南では倭寇討伐を名目に対馬に侵攻し、これは応永の外寇として日本史の出来事になっている。応永の外寇については、いろいろな見方があるだろうけど、こういう時代は珍しい。http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-759.html「大王世宗」にでてくるチャンヨンシルの方が童顔でオタク顔でより科学者らしく見えたりして…。※日本と違い、韓国の大河ドラマでは女真、中国、日本などがでてくることが多い。李舜臣は何度か大河ドラマになっているし、最近ではその参謀を主人公にしたものもある。面白いのは、歴史ドラマよりも自由に作れる時代劇で中国とアメリカをだぶらせているものがあったりする。米国軍人の少女ひき逃げ事件で反米感情がどっとひろがり、ロウソクデモが行われたことがあったが、時代劇「一枝梅」の中で、清国の使節が市中で馬を乗り回して少女がそれに蹴られて死に、怒った住民達が押しかけるという場面があった。圧倒的な影響を持つ大国として、かつては中国、今は米国という感じなのかもしれない。
2017年09月15日
閲覧総数 178
11
名前の聞いたことのある小説、気になっている小説はできるだけ読んでおこうというポリシーであるが、このたび「異邦人」(カミュ)を読んだ。これは高校生の頃、生意気な学生がサルトルと並んでよく話題にしていたのだが、話題になればなるほど、かえってその当時は読む気が起きなかった。それにサルトルの「嘔吐」は一応読んだが、どこがよいのかさっぱりわからなかったということもあったのかもしれない。そしてあれから〇〇年…「異邦人」を手に取り、一気に読んだ。面白い小説である。太陽が熱いから殺人を犯し、人々の憎悪の中で処刑されることに喜びを見出していく青年…どう考えても共感しようもない主人公なのだが、読んでいるうちに主人公になり切って読み、そして最後の歓喜の中で処刑を待つ心理も不思議に分かるような気がする。主人公は無神論者。そして主人公は「現在」しか考えていない。別にそれがよいとか悪いとかではなく、そういう人はめずらしくないだろう。殺人といっても相手に対して強い殺意があるわけではない。つきあっている女性にも強い執着はない。母親の死にもとりたてての感情はない。死についても30歳で死ぬのも70歳で死ぬのも同じだと達観している。きわめて身近に感じられる人物だが、「殺人」により、この社会の向こう岸にいってしまう。なんということなしに加賀乙彦「宣告」の主人公を思いだした。女友達と一緒に水泳を楽しむ場面が共通しているからだろうか。それとも刹那的な生活と動機の希薄な殺人が共通しているからだろうか。「宣告」は死刑判決を受けてからの主人公の心理が焦点であるのに対し、「異邦人」の方は歓喜のうちに死刑の執行を待つ。そこは対照的なのだが、それでも「宣告」はどこかで「異邦人」の影響を受けているのかもしれない。
2018年03月26日
閲覧総数 130
12
なりすましウィルス事件の容疑者が逮捕されたというが、絵に描いたようなキモ××タイプでできすぎている。要するに世間の期待どおりのタイプすぎるのだ。報道をみるかぎり、今のところ匿名ソフトの何とかを使った云々くらいしか辿れないようだが、匿名化ソフトを使うことは違法でもなんでもない。それよりも肝心のウィルス作成なんてどうやって証明するのだろう。そうなると頼みの証拠は、江の島の猫とのビデオということになるのだろうが、頭のよい人なら何ものかが首輪をつけた猫をみてそれに細工をして、その首輪をつけた人を容疑者にしたてるくらいのことは考えるのではないか。そのうち来るかもしれない。「真犯人」からのお助けメールが…。*ある巨大新興宗教に入っている友人かたときどき逆境を信仰でのりこえた話をつづった手紙が来る。宗教団体は本当にうまい。自分の神様の話をしたって誰も寄ってこない。それよりも病気の人には病気の話を、貧乏な人には貧乏の話をして、悩みに共感し、ともに出口を探しながら、最後は神様(信仰の対象)に行きつく。今日本ではものすごい勢いで格差貧困が拡大しているが、こうした経済的弱者の受け皿になるのは、案外こうした宗教団体をバックにもつ政党ではないか。そしてそれとアメでもムチでもなく、他人(公務員や生活保護受給者)のムチうちをみせものにしてうっぷん晴らしをさせてくれる政党。本来であれば経済的弱者の側にたつはずの政党は「自分の神様」の話をしすぎる。その「神様」は、憲法9条であったり、脱原発であったり、コソダテシエンであったり、保育所であったり、沖縄の基地であったり、非核平和であったり。なぜ貧乏の話をしない、なぜ過労死の話をしない、なぜ最低賃金の話をしない、なぜリストラや失業の話をしない。不思議でならないことである。
2013年02月13日
閲覧総数 8
13
初の言文一致体の小説である。ただし、話し言葉と言っても明治の20年代。今とはずいぶん語彙が違う。ただもちろん「あないみじ」とか「いとおかし」なんていう言葉ではないので、おおかたに意味は通じる。江戸時代くらいだったらタイムスリップしても、たぶん言葉には困らないだろう。*ただし世相はずいぶん違う。主人公内海文三は父親を亡くして叔父の世話で刻苦勉励、勉学にはげみ、優等で学校をでたあとめでたく官員見習いから官員になる。寄留先の叔父の家には美しい従妹がいて、義理の叔母もゆくゆくは従妹の夫にでもというもくろみもあって愛想がよい。順風満帆のような人生なのだが、突然、職場から免職をくらって…というところから物語がはじまる。叔母や従妹の目がしだいに冷たくなり、その反面、世渡り上手で免職を免れた友人は我がもの顔に叔父の家に出入りを始める。特にそれ以上の波乱があるわけでもないし、従妹が結婚を決めるというような結末があるわけではない。ただそうした話がどこか戯作を思わせる筆致で描かれてあるので面白い。*今と違う点のその1。官員の地位は高かったとはいうものの、それは安定したものでは全くなかったこと。特に理由はなくとも免職になることは普通にあったし、それを免れるためにも有力な上司に対するご機嫌伺いは必須であった。今と違う点のその2。なんだかんだ言っても親族のつながりは強かったこと。主人公は、父親を亡くした後叔父の世話になって学校を出て、官員となってからもその家に寄留しているのだが、これは今だったら考えられない。今と違う点のその3。免職になった後も主人公はあまりあせっているようにもみえないし、従妹の心変りも当初は心配していない。英語の翻訳でいくばくかの収入が得ているようなふしがある。明治期は急速に欧米の「新知識」が入ってきた時代で横のものを縦にするだけで学者が務まったともいわれる。それはともかく、すぐに翻訳で収入を得られる人物というのは、この時代にはどれくたいいたのだろうか。*それにしても、文学的であることが自然なままを描くこと、文学的であることとストーリー的な面白さとは相反するものであることのような観念は明治初期から始まっていたのかもしれない。浮雲を読んでみてそう思う。江戸時代の小説のように屋根の上で決闘をしていて落っこちたら下にたまたま舟があったなんてのは、たしかに文学的ではないけれども、散歩にでかけてどこの店で何を食べたみたいなことを書く後年の私小説は読み物としてつまらない。*おまけ明治時代に官員の地位は高かったけど、その身分は非常に不安定でもあった。よく考えてみれば戦後もかわらない。明治新政府が財政難に苦しみ、冗官がつねに問題になっていたように、戦後の日本政府も朝鮮総督府から引き揚げてきた役人の処遇、制度改革による人員過剰に苦しんでいた。何度も行政整理が行なわれ、多くの公務員が解雇された。なにも解雇が行われたのは満鉄からの引揚人員を抱えた国鉄だけではなかったのだ。ただ今と違うのは、地方にはまだまだ農村社会が残っており、「国に帰って畑を手伝う」という形での失業の吸収ができたことだろう。
2014年01月11日
閲覧総数 4
14
全国の相当数の施設で高齢者虐待が起きているという。http://news.yahoo.co.jp/pickup/6156131これでも、恐らくは氷山の一角だろう。介護労働者の低待遇故の人手不足が叫ばれて久しい。刑事被告人が反省の弁として「老人介護の仕事をしたい」というのも見慣れた光景である。最近アパルトヘイト擁護で問題になった高名な女性作家のコラムには、介護を「誰でもできる仕事」と記載した箇所があり、これはこれで問題なのだが、世間の本音はそこにあるのだともいえる。誰でもできる仕事、刑事被告人が反省の弁としてやるというような仕事…こんな認識で待遇改善を後回しにしたばかりに、介護の現場では人材崩壊ともいうような現象が起きているという。精神を病んだ人や社会的に問題のある人がふりだまりのように滞留し、まともな職員は辞めていく。職場の人間関係そのものがなりたたなくなり、それは働く側からすれば低待遇と同様の問題がある。こうした職場で不平不満やうっ屈がたまればその矛先は入所者である老人に向けられるのはあきらかではないか。こうした中で高名な女性作家や某新聞が熱弁をふるうような外国人労働力の導入は解決策になるのだろうか。おそらくNOである。外国人とて日本に来れば日本の物価で生活する。それを考えれば介護の仕事が外国人にそんなに魅力的にうつるわけもない。めはしのきく外国人なら介護で入り、しばらくすれば他の高収入の職に転職していく。そして職場からはじかれいきどころのない日本人が増えるだけ…となるだろう。介護現場の労働環境や職場環境がよくなるわけもないし、かえって余計な負担、余計なあつれきを増すばかりである。
2015年04月11日
閲覧総数 157
15
朝食の時にはなんとはなしにテレビをつけている。いつもみるのはワイドショーのようなニュースのような番組なのだが、真の意味でのニュース、芸能ニュース、たまたま入手した面白い映像など、まるでごった煮のような印象を受ける。それにしてもニュースの軽重はどうやって決まるのだろうか。テレビでは、どうも映像の有無というのが大きいのかもしれない。絵がないとニュースにはしにくいし、絵がないと視聴率はとれない…ということだろう。*今のところ誰一人怪我したわけでもないドローンに大騒ぎしているのに、タリウム事件があまり報道されていないのは不思議でならない。ドローンとタリウム…怖ろしいのはどうみても後者ではないか。銃などがあんなに厳格に規制されているのに、毒物については高校生が薬局で購入できるというのは、どう考えてもおかしい。そしてまた少年犯罪としてみても、川崎殺人事件や船橋の生埋事件は殺害報道は衝撃的で現場など「絵になる」のかもしれないけど、あえていってしまえば被害者の生活実態は普通の中学生や高校生とは距離があった。それにくらべるとタリウム事件はごくごく普通の高校生の日常生活の中で起きた事件である。何年か前の事件で、しかも少年事件ということで、映像がつくりにくいのかもしれないけど、毒物の売買などの規制は、それこそ検討すべきではないか。化学の実験は学校などのしかるべき場所で行なえばよいことであろう。*だいたいドローンなんてあんなに大騒ぎすることなのだろうか。なんかオモチャにしかみえないのだが。件の少年はドローンをとばしてその映像をネットにアップしていたというが、それはマスコミだってやっている。マスコミがやればなんの問題もなくて、一般人がやれば威力業務妨害というのがよくわからない。官邸の屋上にほったらかされていたドローンが威力云々というのも変だし、善光寺の参道の人ごみの上にとばしたドローンが威力云々というのも変だ。それにしてもこのごろ威力業務妨害というのが多い。2ちゃんねるで脅しの書込みをしたといって、これも威力業務妨害で逮捕されているが、脅迫とまではいえない書込みでもこの罪名なら逮捕できるということか。それにしても警察に対する威力業務妨害って…警察の仕事を妨害するのではなく、警察が動けば、それで「余計な仕事」をつくったといって威力業務妨害になるのだろうか。警察というのはそもそも罪名があって動くのではないのかしら。何とかの容疑で捜査するというように…。警察が動いたから警察に対する威力業務妨害罪というのはなんかよくわからない。
2015年05月21日
閲覧総数 96
16
最近はせっかく法曹資格をとっても生活できない人もいるという。新米の弁護士が先輩の弁護士事務所に勤めながら研鑽をつむのをイソ弁というのは昔からだが、最近ではこうした弁護士事務所に就職することができずに事務所の机だけ借りる軒弁というのがあるらしい。依頼する側からすれば、どこも雇わなかった弁護士よりも、きちんと事務所に勤めている弁護士に依頼したいのは当然であり、こうした軒弁さん達はますます仕事を探すのが難しいのではないか。今さらながらの話であるが、そもそも法曹人口を増やす法曹改革の方向というのは正しかったのだろうか。諸外国に比べて日本の弁護士がどんなに少ないかという議論はさんざんなされていたが、日本のような社会で弁護士がどれだけ必要なのかという議論はあまりなかったように思う。弁護士に相談すればすぐに1万とか2万の金がとび、交渉などの実務を頼めばさらに万単位の金がいる。親がなくなれば相続人はそれぞれ弁護士を連れてきて交渉するのがあたりまえ…なんていう社会は地球のどっかにはあるのかもしれないけど、普通の家庭の相続でそんなことをやるような社会がよいのかどうか。相続でも離婚でも御近所トラブルでも、市民の日常生活レベルでは、弁護士に使う金なんてもったいないし、それくらいの金だったら弁護士に出すよりも譲歩して相手にくれてやった方がまし…これが普通の感覚のように思う。法曹改革というのはいったい誰のためのものだったのだろうか。疑問をつきつけていくとここに帰着する。国民の側からすれば、別に弁護士が足りないなんて思っていなかったのに、自分の子息に事務所をつがせたい弁護士や法科大学院の教授の地位につきたい法律家の思惑などが背景にあって、法科大学院制度と法曹人口倍増という結果になったなんか考えるのはうがちすぎなのだろうか。同じようなことは裁判員についてもいえる。裁判に市民の意見を反映するというが、別にそんな制度を望む市民運動が盛り上がっていたなんていう話は聞いたことはない。市民とはちょっと離れたところでこんな制度ができたとしか思えない。裁判員の中には死体写真を見せられて精神的に変調をきたした人がいるという。性犯罪被害者の中には裁判員制度に不安を感じ告訴を取り下げた人もいるという。個人の側からみれば、こうした「被害」は小さくないと思うのだが、これも「司法への市民参加」という高邁な理念のためには仕方のない犠牲だというのだろうか。
2010年08月01日
閲覧総数 357
17
ネット上で自衛官勧誘のダイレクトメールがちょっとした話題になっている。高校三年生にダイレクトメール形式の自衛隊からの勧誘が続々ととどいているのだという。いまどきダイレクトメールなんて…ということは当然疑問になるのだが、これにはわざわざ住民基本台帳で把握した情報を基に送付した旨が記載されている。http://bylines.news.yahoo.co.jp/inoueshin/20150703-00047219/考えさせられるのはその中味だ。自衛官になると生活費がかからないこと、様々な視覚が取得できること等をうたっている。経済的な余裕のない家庭の子や就職の決まらない子などはちょっと気持ちが動くのかもしれない。それにしても、公務員の職種はいろいろあるが、こうした多額の費用をかけてダイレクトメールで勧誘しているのは自衛官くらいではないのだろうか。自衛官というのはそんなに人の集まらない職種なのだろうか。そしてまた、ダイレクトメールで紹介しているのは生活費や資格取得のメリットだけなのだが、自衛官には他の公務員にない特徴がある。それは命令に従わないことや辞職が刑事罰になるということである。普通の公務員であれば公務員の地位を利用して賄賂を受け取ったり、一般人に対して暴行を加えたり、秘密を漏らしたり…と言うこと以外で刑事責任を問われることはない。せいぜいが懲戒免職として、その集団から排除されることが制裁の上限である。ところが自衛官の場合にはそうした公務員の一般的な刑事責任に加えて、上司の命令に服従しない場合や緊急事態下の辞職も刑事責任の対象となるという。そうした情報ももっと知らせるべきであろう。
2015年07月06日
閲覧総数 307
18
日本のニュースでは金正男殺人事件をとりあげすぎという感じがする。たしかに殺害前後の映像もあり、金正男氏も日本に来たことがあったりして、ワイドショー的には番組にしやすいのだろうけど、基本的に、外国人が外国で外国人により殺害されたニュースで、まともなニュース枠で大報道するのはおかしい。この後、現実に北朝鮮の指導層に動揺がはしり、国家崩壊の兆候がみられるとなればニュースだが残念ながらその兆候はない。それよりも、なぜ森友学園の問題をとりあげないのだろうか?あれこそはまさに平成の官有物払下げ事件ではないかと思っていたら、ようやくいくつかのマスコミがとりあげはじめた。格安での国有地提供だけではなく、教育勅語を暗唱させたり軍歌を歌わせたりする教育方針も議論をよんでいる。教育勅語も夫婦相和しとか朋友相信じ…には異論をとなえる人はいないが、天皇の言葉として暗唱させられることや、緊急の場合の滅私奉公を謳うことには疑問を感じる。そういうものがいけないとはいわないが、頭の柔らかい幼児期に植えつけるとしたら一種の洗脳教育ではないか。愛国というが、世界には様々な国がある。北朝鮮のような、恐怖政治を行い国民を飢えさせながら指導層だけが贅沢三昧をしているところもある。そういう国の国民にとって、外国が侵攻してきたとき、自国の体制を守るために命を捨てるのが賢いことなのかどうか疑問である。けれどもそうした国にかぎって、愛国教育は熱心に行なわれているのだろう。金日成は鋼鉄の霊将で北朝鮮人民は世界で一番幸せというのではほとんどジョークである。愛国心が悪いとはいわないけど、政治家がまず目指すべきは国民を食わせることであって、愛国心の涵養ではない。
2017年02月23日
閲覧総数 167
19
上野公園で二つの博物館をみてきた。科学博物館の特別展「人体」と国立博物館の特別展「美の誕生」である。まず「人体」であるが、これは今までの展示と趣が変わっている。最初の人体模型の展示の後は、映像や写真による展示が非常に多いのだ。たしかにものが人体となると、そのもの自体は見たい人もいれば見たくない人もいる。人間の心臓、腎臓、脳などの展示もあったのだが、それは区切られた一角にあり、見たくない人は素通りできるようになっている。印象としては、素通りしている人もけっこう多い。映像や写真でみても、人体についての知見は、昔学校で習ったものとはずいぶん違っている。昔は脳がすべての指令をだしているように習ったのだが、今では臓器同士も互いに物質によって「会話」していることがわかっているのだという。知見も進んだのだが、それにつれて新たな謎もでてきているといったところだろう。最後には縄文人の女性の復元展示があった。単に骨格から平均的な容姿を復元するのではなく、得られたDNA情報から髪の色など他の情報を得られるので正確性は増すという。昔読んだSF小説で古代人の骨から採取したDNAで生前そのままの姿を立体映像で復元する場面があったがいつかはそんな技術も実用化するかもしれない。北海道の縄文遺跡から発掘された女性の骨格と言うと、今の日本人とはかなり異なる容姿を想像していたのだが、案外、今の街角にもいそうな女性であった。美人ではないが、思慮深い印象を与える。文明による知識の蓄積がことなるだけで、生物的な意味でも知能は、この時代の人々も現代人も何ら変わりない。古墳でも人骨の残っているものはあり、そうした人骨からもそうした復元はできるのであろうが、おそらくそれはやらないだろう。北海道の縄文遺跡の女性は「まつろわぬたみ」であっただろうのに対し、古墳に葬られた人物はその後の支配者の血脈につながっているかもしれない貴人であるのだから。次に行った国立博物館「美の誕生」は所蔵品をテーマごとに並べた意欲的な展示であった。まず様々な薬師如来立像からは古来変わらぬ人々の祈りの力を感じることができる。人体が古来人間の探究の対象だったように、健康もまた昔からの人々の願いである。薬師如来はそうした病苦平癒の願いにこたえる仏で、崇拝の対象となった。この一体一体の仏像にどれほどの祈りがささげられたことか。他に源氏物語「初音」の帖をモチーフにした蒔絵小箱などの道具の展示には娘の幸福への祈り、水墨画に描かれた動植物には身近な情景に対する観察眼…そうした様々な伝統の上に今の日本の美意識が形成されている。そんなことを考えさせる展示であった。
2018年05月04日
閲覧総数 322
20
医師を人質にした立てこもり事件は9060問題や拡大自殺の問題などを彷彿とさせる事件であったが、もう一つ埼玉県では不可解な事件が起きている。中学生の暴行死事件である。死亡した中学生は母親と内縁の夫、そして8人兄弟の長男で、弟妹の世話をするということでほとんど学校に行っていなかったという。また、食事にも不自由していたそうで、学校に行った時も給食をたくさん食べるために来ていたということだ。戦前でもあるまいし、現代にこうした子供がいるということ自体信じがたいが、さらに不思議なのは、母親も内縁の夫も働いていないで生活保護を受給していたという。別に健康に問題をかかえていたというわけではなく、母親は看護師の資格を有していたという。当然に次のような疑問がわく。そもそもなぜ生活保護を受給できたのだろうか。特に看護師の資格があれば普通はすぐにでも働けるかと思うのだが、やはり小さな子供がいたことで稼得能力なしと判断されたのだろうか。また、生活保護を受給していたとしたら、子供の数に応じて生活費が計算されるはずなので、子供が食事にも不自由するということはないと思う。保護費は子供の食事には回らなかったのだろうか。さらに、中学生は弟妹の世話のために学校に行かなかったというのだが、母親は働いてなく、姉である長女は高校に通っていた。学校に行かないのには弟妹の世話以外の理由があったのではないか。それにしても、中学生が学校に通っていなかったこと、食事にも不自由していたことは教師を始め、周囲の大人も知っていたし、もっとはやくになんらかの手立てができたようにも思う。死亡につながる暴行の原因については、どこか外にでかけて暴行を受けてきたと両親は説明しているというが、これもよくわからない話だ。真相が知りたいものである。
2022年01月31日
閲覧総数 118