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「グチを言わないですむ方法」人生をよいものにしたかったら、グチや文句、不平不満といった、「わるい種」を蒔かないようにすればいいと、この前書きましたが、このグチを言わないようになるためには、最初のうちは、少しコツがいるんですね。それは、「意識する」ということです。この世のほとんどの人には、ものごとを「不都合」にとらえる「習慣」があります。大変なこと、いやなこと、めんどくさいこと、しんどいことが、本当に存在しているのではなく実は、この、ものごとを「不都合」にとらえる「習慣」で、その出来事に、そういう「意味づけ」をしているだけなのです。「習慣」とは、言い換えると「クセ」です。「クセ」とは、無意識に流れていくということです。ですから、あることに対して、「いやなこと」と「意味づけ」をしてしまったら、無意識のうちにそれが、本当に、「いやなこと」になってしまうのです。自然と、そっちのほうへ自分が流れていってしまうのです。ですから、そのまま放置しておくと、その、無意識の自然の流れにそってグチや不平不満も、無意識に自然と出てくるようになるのです。よく、いろんな教えで「自分は不幸」と思うことは、「いけないこと」だとされますが、それは、いけないことではないのです。それが、普通なんです。そう思うのが、人間なんです。「自分はしあわせ」と言っている人のほうがおかしいんです。普通じゃないんです。何が普通じゃないかと言うとほとんどの人が、無意識に流れてしまう場面で「意識」を持っているところです。だから、しあわせに生きている人は「普通」ではないのです。では、グチを言わない自分になるために、「自分はしあわせ」と言える自分になるためにどんな意識を持てばいいか?ということになってくるんですけどこの世のほとんどの人には、ものごとを「不都合」にとらえる「習慣」があります。と、書きましたよね。もう一度、おさらいになるんですが目の前に、あるイヤな出来事が起こったとします。そこで、その出来事が、自分にイヤな思いをさせている、「それが起こったせいで、自分はイヤな思いをしているのだ」と、人は思うのですが、実はその出来事には何の責任もなく、その出来事を「不都合」ととらえる「習慣」を持つ自分が、自分に「イヤだ」という思いを、植えつけているだけなのです。つまり、自分が「不都合」という「とらえかた」から「別のとらえかた」でその出来事を見た場合、まったく同じ出来事が起こっても、自分の中で「イヤ」から「別のもの」へと、その出来事に対する「自分の中の意味づけ」が変わってしまう、ということです。ですから、「ものごとのとらえかた」を変えるだけでこれからの人生が、これまでと、同じ出来事が繰り返し起こる人生であっても「その意味」は、自分の中で激変してしまうわけです。しかし、その出来事を「不都合」ととらえることは、「習慣」(クセ)になってしまっていますから反射的に自分は反応してしまいます。その、無意識に流される流れから抜け出すのに「しあわせに生きている人」は「意識の力」を活用しているわけです。これは、具体的にどういうことかというと、しあわせに生きている人は、「イヤなことがあったら、我慢するのではなくて、物事を前向きに、「ありがたいこと」だと受け止めて今の自分ができることを探している」ということです。ものごとには、必ず、「2つの面」があります。それは、自分にとって「都合のいい面」と「不都合な面」です。どんな出来事も、必ず、この両方を含んでいます。しあわせに生きている人は、イヤなことが起こってもとにかく、「ありがたいことだ」と、自分に「言い聞かせる意識」を、その場で持ち、なんとか、その出来事の「自分にとって都合のいい面」を探そうと、「不都合な面」だけを、無意識に自然と見ようとする自分の習慣から抜け出す努力を、最初は続けてきたわけです。これは、意図的に「意識」を持たないとできないことなんですね。意図的に生きてないと、夢を持つこともできませんし、意図的に生きてないと、「目先のこと」に、ついついふりまわされてしまう自分になってしまうんですね。「習慣」とは、繰り返すことで「習慣」となりますから、それを続けていくと、今度は、どんな出来事が起こっても、「その出来事の自分にとって都合のいい面」だけを見る習慣が自分の身につきます。そうなったら、もう、「意識」は必要ありません。「その出来事の自分にとって都合のいい面」だけを見る習慣が自分の身につくと、起こる出来事はすべて「自分にとっていいこと」ですからそこに、「我慢」や「争い」は生まれません。「我慢」や「争い」がないところには「否定」はありません。「否定」がないところには「グチ」はありません。「グチを言わなくてすむ方法」とは、こういうことなのです。言葉で書くと簡単ですが、自分が何十年も続けてきた習慣を変えるのは、これがなかなか大変で(笑)でも、「しあわせに生きる」ことを「決意」した人は、これを、根気よく続けていくしかないんですね。「新しい習慣」を、根気よく育てていくしかないんですね。私もまだ、達成度70~80%といったところでしょうか。「グチを言わない」って、ほんと、むずかしいですよね(笑)でも、続けていて思うのは、大切なのはあせらないことと、目の前に起こる出来事、出会う人が確実に変わってくるということです。これは、やればやるほど、如実にかわってきますからおもしろいですよ。「実験感覚」が、大切だと思うんです。私も、小林正観さんのただ、やみくもに「ありがとう」を言い続けることやトイレ掃除の話しを聞いて「そんなあほな」と思っていた人間だったんですが本当にそんなことが起こるのか、「実験」してみたら本当に、現実で「えっ!?」と思うようなことがやってきたりして。たまたまかもしれないけど、けど、何か、そうすることで現実を変えていく「何か」があるような気はしてきています。大切なのは「行為」ではなく「どんな心構えでそれをしているか?」であってこれは、どうやら、「行為」で「心構え」を変えていく「ひとつの方法」のような気がしています。だから、切羽つまって自分を変えていくよりも「本にこんなこと書いてあったな。ほんまやろか?」と、「実験感覚」で「おもしろがって」やっていくほうが楽しく、また、続けやすいと私は思います。どんなことでも、最低3ケ月は続けないと「結果らしきもの」は出てこないですから。「結果」よりも「過程が楽しい」ほうがずっと大切なような気がするんですね。だって、結果というは一瞬であって、人生のほとんどは、「過程」なわけですから。
2007年10月19日
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「人生とは」Part2前回、本当に人生をいいものにしたかったら目の前の出来事や、自分のこれまでの人生というものは、「誰かのせい」「何かのせい」でそうなったのではなく、「ぜんぶ、自分が蒔いてきた種が実ったものと、出会ってきただけなんだ」と、自分の深い部分で納得することが必要なのです。と書きましたが、納得できない人もいると思います。その人に、「納得しろ」と強制したり、おしつけるつもりはさらさらありませんが、同じ、納得できないでも、「できることなら納得したいんだけど、できない」といった人に向けて今回は書いてみたいと思います。「あいつのせいで、こうなったんだ」「こんな親のもとに、生まれなければ」「あいつが、あんなこと言ったから」「あいつが、こんなことをしたから」 「金さえあれば、もっとこんなことができるのに」「この親は子供にどんな教育をしてるんだ」などと、つい、人や環境を裁いてしまうときがあります。そんなとき、そこにあるのは、「正しい」か「正しくない」かです。こういったとき人は、相手を裁いているように見えて、実際は、「自分の正しさを証明しよう」としているのです。実は、これは、「人から認めてほしい」気持ちの裏返しなのです。「人から認められるためには、自分は正しくあらねばならない」というのが、自分の深いところにあるから、無意識に、「正しい」か「正しくない」かに、こだわってしまうのです。このように、「人から認められること」が、人生の中で一番大切になっているとき、人は、「正しい」か「正しくない」かで生きてしまうのです。「納得がいかない」ということも、これと同じなんです。「自分の正しさ」にそぐわないから、納得がいかないんです。だから、納得したかったら、「人から認められるため」に生きることを、やめたらいいんです。「自分のしあわせ」のために、生きるようにしたらいいんです。「あいつは正しい」「あいつは間違っている」そう思っているときの自分の心は、おだやかでしあわせですか?ということです。そうじゃないですよね?だったらもう、正しい、正しくないにこだわるのはやめましょうよということです。戦争を起こすひとは、許せない。でも、その、「誰かを許せない」という気持ちが戦争を引き起こすのではないですか?ということです。相手が何をしているか、ではなく、「じゃ、自分はどうするのか?」ということです。「自分だけは正しい」と思うところからすべての争いは起こっていくのです。戦争を起こす人にとっては、戦争を起こすことが「正しいこと」なんです。このように、100人いたら、100通りの正しさがあるわけです。だったら、「これが正しい」なんて言えないじゃないですか。そこにいるのは「そうすることを、正しいと思いたい自分」だけです。自分が何を正しいと思ってもいい自由があるように、相手にも、何を正しいと思っていい自由があるわけです。自分の正しさを、相手におしつけようとしているとき、そこにいるのは、相手を認めることなく「コントロールしたい」と思っている自分です。自分の自由だけ認めて、相手の自由を認めない自分です。それでも、正しい、正しくないがでてくるなら、「こうするのが、正しい」というのは、自分自身だけに言える言葉だとわきまえて、自分がそれに従って生きていったらいいだけなのです。しかし、そうすることで心がおだやかでないなら、本末転倒ではないですか?ということを言いたいのです。しあわせに生きるとは、特別な出来事が起こる人生ではなく、心に波風が立たず、日々を送るということです。つまり、外界からの刺激にいちいち反応しない生き方、一喜一憂しない生き方ということです。これが、正しい、正しくないで生きていると「正しくない人」と出会うたんびに、自分が反応してしまって心に波風が立つことになります。そして、その、正しい、正しくないが自分の心に波風が立ったことを、「誰かのせい」「何かのせい」にしていくのです。しかし、自分の心に波風が立つのは正しい、正しくないを持つことにより「正しい」「正しくない」に反応してしまう自分を作ってしまった自分に原因があるのです。このことを理解することが、前回書いた、目の前の出来事や、自分のこれまでの人生というものは、「誰かのせい」「何かのせい」でそうなったのではなく、「ぜんぶ、自分が蒔いてきた種が実ったものと、出会ってきただけなんだ」ということに、つながっていくのです。正しい、正しくないをなくすと、本当に「楽」に生きれるようになります。しかし、自分の正しさが、「すべてに共通する、本当に正しいこと」ではなく「自分が勝手に、正しいと思いたがっていたこと」だと認めることは、過去、それを正しいとして生きてきた自分を「全否定」することにつながってしまいそうで、「じゃ、今までの苦労は何だったんだ?」「自分は無駄に生きてきたのか?」と思うことが怖くてど~~~~~~しても最初のうちは正しさを手放すことに「無意識のブレーキ」がかかりますけどぜんぶ、今ここで、このことに気づく自分にたどりつくために必要な「過程」であったわけで人生に無駄は何ひとつないのです。私がここに書いていることも、「正しいこと」ではなく「ひとつの提案」です。どんな考え方を採用して生きていくかは、すべて、その人の自由です。そして、その採用した考え方に見合った現実と出会っていく、これが、人生というものです。だから、どんな現実が目の前に現れても、誰にも文句は言えないのです。
2007年10月17日
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「人生とは」Part1人生とは、心という目に見えない畑に考え方という目に見えない種を蒔き続けていくようなものです。米を蒔けば米が実り麦を蒔けば麦が実るように、人生においても自分の蒔いた種が、蒔いたとおりに実ります。そして、その実りを収穫するということが、「現実と出会う」ということなのです。ですから、よい現実と出会いたかったらよい種を蒔く必要があるのです。「どうやったら、人に明るく笑顔で挨拶ができるのか?」「どうやったら、自分の口からでる言葉は、温かく相手を勇気づけたり、励ましてあげられる言葉であるのか?」「どうやったら、目の前の人に喜びを与えられる自分になれるのか?」「そうなれるためには、日々、自分はどんな考え方で生きたらいいのか?」そういったことをね、毎日自分に質問しながら実行していくということが、よい種を蒔くということなんです。つまりね、「自分がしてもらってうれしいことを、相手に先にしてしまう」ということなんです。それが、よい種を蒔くということなんです。だからね、人から何かしてもらえなかったり今の環境が変わらないからといってグチや文句を言っている間は、いつまでたってもよい種は蒔けないんです。そして、そのグチや文句も思ったり、口に出したときに種になりますから、その種が実ったとき、また、「グチや文句を言いたくなる現実」と出会うわけです。今出会っている現実も、過去に自分の蒔いた種が実ったものなのですからそれはそれで、「仕方ない」と受け入れて「じゃ、今日からどんな種を蒔いていこうか?」とどこかで、スパッと気持ちを切り替えない限りグチや文句、不平不満を言うといった「わるい種を蒔く習慣」は、なかなか終わらないのです。本当に人生をいいものにしたかったら目の前の出来事や、自分のこれまでの人生というものは、「誰かのせい」「何かのせい」でそうなったのではなく、「ぜんぶ、自分が蒔いてきた種が実ったものと、出会ってきただけなんだ」と、自分の深い部分で納得することが必要なのです。自分に起こる「わるいこと」も実は、「このことに気づいてよ」というメッセージなのです。だから気づくまで、繰り返し、繰り返し、起こるのです。いくら、グチや文句、不平不満を言っても現実が変わっていかないことはあなたが、一番よく知っているはずです。いい種を、蒔いていきましょうよ。
2007年10月17日
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「成功法則」この世に、成功法則というものは、数多く出されていますがどうもうまくいく人とそうでない人とに分かれます。それに、一時期、そういった本を出していた成功者ともてはやされた人でさえも、今やそうではないといったことも多々見受けられる世の中です。ここでひとつ質問したいのが、「そもそも、あなたにとっての成功って何ですか?」ということです。それは、自由な時間と、生きていくのに必要以上のお金を手にして好きなように生きていくことでしょうか。それとも、何かの世界で頂点を極めることでしょうか。いろいろあると思うのですが、大切なことが1点あると思うのです。それは、「今の自分の能力や環境などを否定することを出発点とし、 今の自分以外の「何か」になれることが成功」だとしているのなら、あなたは、「成功」というものを勘違いしています。ということです。成功とは、「功が成る」と書きます。これは、自分が世の中の役に立っていて、なおかつ、世の中から必要とされている状態を指します。つまり、これこそが、成功の状態なんです。そして、自分が世の中の役に立っている、また、世の中から必要とされる度合に従ってついてまわるお金の量や、つきあう人も変化してくるということなんです。どれだけ、世の中の役に立っているか?どれだけ、世の中から必要とされているか?成功をはかる物差しはこれだけで、その人の年収や地位は、そのおまけみたいなもので、成功をはかる物差しではないのです。収入のアップを目指して本を読みあさり、セミナーに出まくっても「成功」できない人がこんなにも多い理由は、「成功」とは、人の役にたち、また、必要とされる状態を指すものなのに、それを、年収が高いとか、有名だとかといった、「自分の満足を自由に満たせる状態」だと、勘違いしてしまって、それを基準に行動を起こしてしまっていることにあるのです。ですから、あなたに、心の底から「ありがとう」と言ってくれる人がひとりでもいたとしたら、その時点であなたは「成功者」なのです。あなたの人生は「成功」なのです。このことをよく肝に命じて、年収の多い少ない、地位の高い低いで自分と他を比べることなく、今の自分のできる範囲で、人に喜びを与えることを続けていくことが、「真の成功者」へ続く道なのです。
2007年10月17日
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『譲ることの大切さ』鳥や獣は、今日の食べ物をむさぼるばかりです。人間も、目先の利益だけを追い求めるのならこの、鳥や獣と何ら変わりありません。私たちが今、木を切ることができるのも何十年か前に、木を植えてくれた人がいたからです。今年米が実るのも、米を全部食べずに蒔く米を残してくれた人がいたからです。つまり、後の実りのために今日、木を植える。今日、米を蒔く。それができるのが、人間と獣との一番の違いだと思うのです。獣は人間より、力の強いものが多いです。しかし、その生涯のほとんどを獲物を獲ることに費やし、「安堵の地」を知らずに死んでいきます。これは、「互いに譲ること」を知らず、生涯、おのれのためだけに生きているからに、他なりません。力の弱い人間が、今日まで生き残ってこれたのは、この、「互いに譲る」ということを、やってきたからだと思うのです。だから、譲ることを知らず、自分の利益ばかり追求していると、獣と同じ、苦労の絶えない、やすらぎのない人生になってしまうと思うのです。「もっと」「もっと」から、抜け出せなくなってしまうと思うのです。経済的に余裕のある人は、必要な分を残し、モノやお金を譲っていけばいいと思うのですが、そういった余裕のない人は、「行為」で譲っていけばいいと思うのです。席を譲る、道を譲るといったことから、笑顔で接する、温かい言葉をかける、そういったことも、立派な「譲る」だと思うのです。なぜなら、「譲る」とは、自分から何かを与えるということですから。今の自分で与えられるもので、それで相手が喜びを感じるのならば、「形」は問わないと思うんです。笑顔、温かい言葉、励ます言葉、勇気づける言葉など、どんなに貧乏していても、人に与えることができるものは、探せばあると思うんです。そうやって、「まず、自分から」与えることで誰かから与えてもらう(譲ってもらう)人生が始まっていくと思うんです。そして、それは、今の自分では想像もつかないような、展開を見せていくと思うんです。
2007年10月15日
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「夢を持つ」ということ。Part2さて、前回、「夢はどうやら、持ったほうがお得みたいですよ」ということを書きましたが、じゃ、世の中で「しあわせな成功」をしてる人たちの「夢」って、一体、何なの?ということになりますよね。それは、どうやら「そこに、涙がでるほど、感動があること」「そこに、自分が生きていることを、本当に実感できること」みたいなんです。「お金がほしい」とか「有名になりたい」といった『個人で満足すること』ではないみたいなんです。どうやら、「しあわせな成功」をしている人たちというのは、この、「個人の欲望」 と 「夢」というものを、自分の中で、明確に区別しているみたいなんです。ただ、自分が満足するということを通して、もっと力がつくとか、人の役に立てる人間になれるとか、よりまた自分の目指している夢が魅力的なものになっていくとか、そういうことに生かされてくれば、それは全く構わないそうです。 そして、口ぐちにされるのが、「ひとりだけの満足」というものは小さくて、「誰かと喜びあえる満足」は、桁違いに大きいということです。どうやら、「しあわせな成功者」の「夢」というものは自分自身の中だけで完結するわけではなくて、「世の中の人の幸せに繋がっている」ということみたいなんです。それに、「しあわせな成功者」というのは、例外なく、『人に与えることが大好き』なんですね。これは、お金やものだけではなく、言葉をかけたり、笑顔を向けたり、人を紹介してあげたり、といった、「自分ができることを、してあげること」も、含まれています。そして、どうやら、「しあわせな成功者」というのは、『与えることで、相手が喜ぶ姿』に、同時に「自分の喜び」を見出しているみたいなんです。つまり、『人が喜ぶことが、自分にとっての一番の得』になっていて、それを基準に行動を起こしているみたいなんですね。与えることによる、「相手の喜ぶ姿」が、一番であって、見返りなんてなくても、「相手の喜ぶ姿」を見て、喜んでいる自分に、満足を感じているみたいなんですね。だから、「夢」に対しても叶う、叶わないといった、「結果」に、執着しないのでしょうね。なぜなら、そのプロセスにおいて、自分が満足する手段があるからです。これが、夢が叶うことでしか満足が得られない生き方だと、どうしても、叶う、叶わないに執着してしまい、「夢が叶わない限り、満足することのない人生」を夢が叶わない間、苦しく生きることになるのでしょうね。そして、ひとつ夢が叶ったら、休む間もなくまた、次の夢に向けて苦しい日々を、送り始めるのでしょうね。このように見ていくと、「しあわせな成功者」と、そうでない人の違いは『日常の喜びを感じるポイントがどこにあるのか?』ただ、その違いだけだと思えてきます。私は、離婚、自己破産、ホームレスを通していろんな人から、いろんな扱いを受けてヤクザから、仏のような人から、金持ちや政治家まで、いろんな人を見てきましたけれど、年収や、社会的地位に関係なく人ひとりの持つ能力というか、資質はそんなに差はないというのが、正直な実感です。というか、皆、内に持っているものは同じだと思うんです。じゃ、何が違うかというと、皆、等しく持つものの中から、何を表に出しているか?ただ、それだけだと思うんです。持っているものが同じだからこそ、言葉がなくても、人は、相手のことを「感じ取ること」ができるのだと思うのです。だから、自分が理想とする生き方をしている人がどんな言葉や表情を表に出して生きているのか?どんな考え方を行動の動機にしているのか?それを「とりあえず真似てみる」そして、その中で、自分がやってみて「心地いいもの」を採用していく。「我流」で生きていて、思うようにいかないならそういった方法を試してみるのも「アリ」だと思うのです。
2007年10月14日
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「夢を持つ」ということ。Part1最近よく、いろんな社長さんの書いてるものを読む機会に恵まれているのですが、「夢」に関しておもしろい共通点をみつけました。まず、1・「夢」は持つべきであると考えている。まぁ、これは、想像がつくと思うのですがその次が、2・その夢が叶うかどうかは、あまり重要視していない。なんですね。これは、業種問わず、世の中で、「しあわせな成功」をされている社長さんほとんどが、こういう考え方でいることがおもしろいなぁと思いました。どうやら、夢というものは、叶う、叶わない、関係なしに、「持つこと」が、大切みたいなんですね。そして、夢を持つことで、自分の中に何が起きるかというと、夢という、これからワクワクしようとするものを持った瞬間に、今、自分の持っているものや過去を生かしたくなる、ということです。 例えば、過去の経験を生かして夢の実現に向けて行こうとか、今、目の前にあるものや自分のやっているものを生かして、前に進んでいこうとか。 つまり夢には、自分の生きている意味や、過去の自分の意味を全部変える力があるのだと思うのです。 例えば、山で遭難して、とてもお腹がすいて助け出された後、食べたお粥の味が忘れられないといった話しがあったとします。この、「山で遭難したこと」は、一見、不幸のように見えますが遭難することでの空腹がなければ、お粥にこれだけ感動することはなかったと思うんです。つまり、何が言いたいかというと、自分の過去の出来事を、「いいこと」「わるいこと」と分けないで、生まれてから今日まで、すべて「ひとつの流れ」ととらえると、過去のわるいことは、これからのいいことの『前半分』とも言えると思うんですね。「山で遭難した」という、「わるいこと」は、それ単独で存在する出来事ではなくて、実は、その後の「お粥を食べて、今まで味わったことのない感動を覚える」と、ワンセットになっている、シナリオの前半部分。こういうふうにとらえていくと、遭難に限らず、過去のいやな思い出の「意味」が、変わっていくと思うんですね。生まれてから、今日までの「自分の時間」というものは、途切れることなく続いているわけですから、過去のわるいことも、「必ず、次につながっている」んですね。だから、「次」に意識を向けないといけないんです。そのわるいことが起こった、「過去」ばかりに意識を向けていると苦しくなるんです。それに、それが、「本当にわるいこと」だったなら今、生きてないはずですからね(笑)今、生きているということは、それは、「次のあるわるいこと」だった、ということです。話しがそれましたが、「夢を持つ」ということにも、これと同じように、『自分の過去の意味を変えてしまう力』があるので、「持ったほうがお得ですよ」ということみたいなんですね。長くなりましたんで、続きは次回に。
2007年10月14日
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誰だって、輝いて生きていけるんです!「何でこんな毎日ばかり続くのだろう?」「そんなに不幸じゃないけれど、そんなに楽しくもないなぁ」できることなら、「毎日を輝いていきいきと過ごしたい」と思いながらも、思うようにいかない現実にとまどうことは誰にでもあります。人を木に例えると、そんなときは、自分の葉っぱだけを見て、「自分とはこんなものだ」と決めつけてしまっているときです。葉っぱの下には枝があり、枝は幹に支えられ、幹は根っこに支えられています。この、「自分は自分の根っこに支えられているから、生きていけるんだ」ということに気づくことが、自分の幹や枝や葉っぱを、「活かす」ことにつながっていくのです。これが、「自分らしく輝いて、いきいきと生きていくこと」です。つまり、葉っぱから根っこへと、「視点を変えていくこと」。これが、最初の第一歩なのです。根っこは大地とつながっているから、木を支えることができます。この、「つながり」を「思いだす」ことこそが、自分らしく生きる人生を築いていくうえで、とても大切なことなのです。「自分がしあわせならば、それでいい」「なぜ、自分だけが不幸なのか」こう思って生きているときは、「つながり」を「忘れて」しまっているときです。だから、空回りしてしまう。思うように、人生が進んでいかない。何も特別なことをする必要はないんです。ただ、「思いだす」だけでいい。「思いだす」だけでいい、ということは、「あなたが探している答えは、すでに、あなたの中にある」ということなんです。売れている本や、有名な先生の言葉の中にあるのではないのです。自分の中の答えを見つけることができるのは、「自分だけ」です。ただあなたは、その、「見つけるコツ」を知らなかっただけなんです。何かになろうとしなくていい。あなたは、あなたになればいい。
2007年10月13日
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人生が思うようにいかないとき人生が思うようにいかないときは、「すべきこと」より「したいこと」を優先しているときです。それを確かめるには、今の自分が「したいこと」が、何も知らない幼い子供たちに、「こうして生きなさい」と胸を張って言えることかどうか?自分に問うてみてください。後は・・・わかりますよね?
2007年10月11日
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『人生とは思うようにいかないもの』人生とは、思うようにいかないものですよね。皆さんがどうか知りませんが、少なくとも、私の人生はずっとそうでした。「こうなったらいいな」と思って、そうなったことは、まずなかったですね。好きと思った人からは、100%フラレ続けてきましたし、30万円以上の現金を手にしたことがありません。ずっと、1日、1食か2食の生活で、恋人も友達も家族もなく、家に帰れば話す相手のいない生活を、ずっと続けてきました。でね、何でそういう人生がずっと続いたかというと、それは、私の中の「あたりまえ」に原因があったんです。つまり、お金のある人、恋人や配偶者のある人、家族のいる人、友達のいる人、そういった人たちと自分とを比べて、私は苦しく感じていたわけですけど、そのときの私は、世の中のほとんどの人は、それらのどれかを手にしているわけですから、そうでない自分を、とても特別な存在だと思っていたわけです。でもね、世の中のほとんどの人がそうだから、「それは、あたりまえ」と思っていることが、苦しみの原因だと気づいたんです。このときの、私の中の「あたりまえ」は、お金、恋人、配偶者、家族、友達、このうちのどれかは、あってもいいだろうというものでした。つまり、「それらのうち、どれかがないとイヤ」という考えで生きていたわけです。そうすると、何が起きるかというと、それらがあって、あたりまえだから、当然だから、それらが手にできたら「ゼロ」それらがないときは「マイナス」つまり、人生の中に、「ゼロ」か「マイナス」しか存在しなくなるんです。これを、思いが叶わないことを、あたりまえ、すなわち、「人生とは、思うようにいかないことが、あたりまえなのだ」と考え方を切り替えたら、どうなるでしょう。思うようにいかないのが、あたりまえだから、思うようにいかないことが「ゼロ」何かひとつでも叶ったら「プラス」「ゼロ」か「プラス」しか、人生に存在しなくなるんです。「人生とは、思うようにいかないとおかしい」とそれまでの私は考えていたのですが、その考え方そのものがおかしい、ということに気づけたんです。「何も、思うようにいかない」と言っている私を、目の見えない人や、しゃべれない人や、読み書きのできない人や、自分の足で歩くことのできない人たちが見て、何と思うだろうか?私は、足りないものばっかり見て、すでに手にしてるものをぜんぜん、見ようとすらしてこなかったなぁと、思ったんです。「人生とは、思うようにいかないのが、あたりまえ」これは、なにも、「あきらめろ」と言っているのではありません。これが正解、というのでもありません。ただ、こういった考え方を採用したら、楽に生きれますよ、ということを言いたいのです。「思うようにいかないとおかしい」(思うようにいくのがあたりまえ)だと、思いが叶わない間は、ずっと「マイナス」を感じて生きることになります。でも、「思うようにいかないのがあたりまえ」だと、思いが叶わない間は、ずっと「ゼロ」ですから、心に波風が立つことはありません。それでいて、叶えば「プラス」ですから、どんな小さなことにも喜びを感じ取れるようになります。ただ、「投げかけないと還ってこない」のが、この世の法則ですから、「人生は、思うようにいかないものだけれども、こうなったらいいな」と「こうなったらいいな」という投げかけは、必要かと思います。それが、叶わなくてあたりまえだから、叶わなくても、やきもきしなくていいし、叶ったら叶ったで、もうけもん。同じ願いを持つにしても、こういったスタンスで生きたら、楽に生きていけると思うんですけど、どうでしょう?
2007年10月11日
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『よがふく流問題解決法』生きていれば、そりゃいろんな問題が起きてきます。問題が起こったとき、人はおおまかに下記の解決策をとります。1・戦う2・逃げる3・我慢するしかし、これらの行為は、風邪に例えるならば、「熱が出る」「鼻水が出る」などの「症状」を抑えることと同じにすぎず、それらの症状を引き起こす原因である、「ウイルス」をやっつけることには至っていません。つまり、これらの行為では、問題そのものの解決には至らないということです。ここで多くの人が忘れてしまっていることは、「宇宙には元々、問題というものはない」ということです。実は、目の前に「問題」というものが本当にあるのではなく、「ただ、そのことを問題だととらえている自分の心」があるだけなのです。同じ出来事を目の前にしても、「それが気になる心」を持つ人には問題となり、「それが気にならない心」の人には問題とはならない、ということなのです。ですから、今すぐに、解決できないような問題を抱えていて悩んでいたとしても、「自分が気にならなくなりさえすれば、それはもう、問題ではなくなる」のですから、解決しようとすることすら必要ではなくなってくるのです。今までそのことを、「問題だととらえていた心」を、「気にならない心」に変えていく。つまり、そのことを、何かと比べることなく、裁くことなく、「あるがまま受け入れていく」これが、よがふく流問題解決法なんですけど、いかがでしょうか?
2007年10月03日
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