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私たちはこの世界に「望むとおりの状態」という「かたち」が存在しないとしあわせと感じることができないとよく思ってしまいます。私たちがしあわせを感じる原因とは「外界の状況が改善されたから」ではなくそのときの自分が「よろこびの流れ」とつながっているからです。そのよろこびの流れとつながっている結果心によろこびが流れその心が外界に反映されて望む現実となっていくのです。その流れとつながるにはまず「かたち」にこだわることを「いったん」手放さないといけないのです。あきらめるのではないのです。入口に入るために「いったん」手放さないといけないのです。「望むとおりの状態」という「かたち」が存在しないとしあわせと感じることができないと思うのは外界に反応して自分の感じるものを決めてしまうという習慣にしかすぎないのです。「望むとおりの状態」というのはよろこびの流れにつながることでよろこびにあふれた心の反映にしかすぎません。自分の心がよろこびの流れにつながり続けた結果の副産物みたいなものです。「かたち」でしあわせが決まるのではないのです。自分が何に意識を向けて何とつながっているのか?なのです。そのことを理解することが「外界の状況に一切左右されない心の平安」を知る過程であり「自由の本当の姿」を知る過程でもあるのです。そのためにお金がないと食べ物がないと生きていけない「からだ」という乗り物に乗って私たちは体験の旅を続けているのです。
2008年01月31日
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すべてはうまくいっている。理屈や根拠抜きでこのことが心から納得できるようになるといろんな場面に出会ってその場面に「反応」して自分の意識の向ける方向が揺らぎそうになるとき「すべてはうまくいっている」ここに立ち帰ることで「自分」を保つことができるようになります。人生とは横に並んだシーソーの上を歩いていくようなものでスムーズに進むにはシーソーのまん中を踏んで渡っていけばいいわけです。まん中を踏むためには自分のまん中に意識を向けて生きる姿勢が必要になってきます。望むこと望まないこと全部ひっくるめてすべてはうまくいっているのです。自分の意識が左に偏っているからシーソーの右側を踏んでしまう。自分の意識が右に偏っているからシーソーの左側を踏んでしまう。すべてうまくいっている中に生きてるからそうやって「バランスを取ろうとする働き」が人生の中で起こっているだけなのです。望まないものを遠ざけようとすることに意識を向けないで「すべてはうまくいっている」そのことばで自分を包んであげたらいいのです。
2008年01月30日
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昨日の日記でじゃなぜそのまんまじゃいけないんですか?と質問したらその「理由」をずらーっと並べますよね。と書いたんですけど「自分がそれを求める理由」をはっきりさせることはとーっても大切なんですね。「○○がしたい」「○○になりたい」そういう思いがあったらなぜそうしたいのか?なぜそうなりたいのか?自分に質問して「その理由」を自分で確認することが大切なんですね。それではあなたはなぜ○○がしたいのですか?なぜ○○になりたいのですか?どちらかでも両方でもいいですからその理由を紙に書いてから下に進んでください。さて質問はあなたはなぜ○○がしたいのですか?なぜ○○になりたいのですか?でした。そこでもう一度紙に書いたものを読んでみてください。そこで確認してほしいのは自分は本当にその質問に答えているのか?ということなんですね。そこでもう一度紙に書いたものを読んでみてください。いいですか?ではいきます。今まで願いがあまり叶ってこなかったあなたその紙に書かれているものは自分がそれができない理由。自分がそれになれない理由。ではありませんか?質問はあなたはなぜ○○がしたいのですか?なぜ○○になりたいのですか?でしたよね。その紙に書かれているものはそれをしたい理由ですか?それになりたい理由ですか?それとも自分が望んでいない今の状況となぜそれを望んでいないかの理由ですか?ということなんですね。なぜ○○がしたいのですか?なぜ○○になりたいのですか?こう自分に質問したときに△△がこうだから○○がしたいのです。△△がこうだから○○になりたいのです。ではなく○○ができたらこんなことを感じることができる。○○になれたらこんなことを感じることができる。これを自分が実際に感じるまで『自分に語らないと』いけないのです。何度も書いてますが心が先で現実が後です。△△がこうだから○○がしたいのです。△△がこうだから○○になりたいのです。では△△を否定している自分がまた未来で実現するだけなのです。今日ちゃんと書いてからこれを読んだひとは1000万円もうけました。読んでから書いても「先入観」が入ってしまってそれが気になってちゃんと書けないんですね。私が初めてこの知恵を知ったとき衝撃を受けました。なぜそれをしたいのか?の理由のところでつまづいていたから叶わなかったのだとわかったからです。今日でマニアの人は1100万円もうけました♪
2008年01月29日
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そのまんまでいいんですよ。私がもしお金もらって人前で話す立場の人間だったら失格ですね(笑)質問されたらいくらでも話しますけど私から一方的に何かしゃべってくれって言われたらこれ以外言うことがないんですね。5秒でセミナーは終了です(笑)個人的にはこのひとことで100万もらってもいいぐらいの価値のあることばだと思ってるんですけどね。ここに来たマニアの人は100万円もうけたわけです♪(笑)上のことばに「抵抗」を感じているひとに逆に私から質問したいんですけどなぜそのまんまじゃいけないんですか?セミナーとかに来る人は今の自分が今の環境がそのまんまじゃいけないと思っているから勉強しに来るわけですよね。貴重な時間とお金を使ってわざわざ会場まで行ってそこで「そのまんまでいいんですよ」と5秒でセミナーが終わったら「おい!ちょっと待ったらんかいっ!」となりますよね(笑)そこで私がじゃなぜそのまんまじゃいけないんですか?と質問したらその「理由」をずらーっと並べますよね。その「理由」をできるだけ具体的に詳しく書いて自分で確認したことがありますか?頭の中で漠然と思っていることであやふやにしてませんか?ということなんですね。いや!と思うものを何かを変えることで遠ざけようとするのかなぜそれをいや!と思うのか?そこを観ようとするのか。何が変わらなくても今、いやと感じているものを自分がいやと感じなくなったらその時点で問題は問題ではなくなるのではないでしょうか?問題は何かが変わらないことではなく自分の中から何かをいやと思う気持ちがなくならないことなのではないでしょうか?何かをいやと感じる原因は外にあるのでしょうか?自分の感じ方にあるのでしょうか?どこにあるんでしょう?本当にあなたは何かが変わるまで気持ちよく生きることを待たないといけないのでしょうか?そうなるまで苦しいことは「仕方のないこと」なのでしょうか?それは「真実」なのでしょうか?それとも自分がそう決めているだけのことなのでしょうか?
2008年01月28日
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平原綾香さんを観るといつもこの人は菩薩様の生まれ変わりだなあと思います。人には自分が体験したいことをするために生まれてくる人とそういったことを終えてもう人間やらなくてもいいのにあえてガイド役(指導役)をかってでて生まれてくる人とがいます。歌手でいうと平原さんとかB’zの稲葉さんとかが後者にあたります。人は死ぬと地獄幽界霊界のどれかに行きます。実は地獄というものはあるとも言えるしないとも言えるんです。というのはこの人間の世界もそうですが自分の想いが、自分の世界を創ります。つまり地獄にいる存在というのは自分で創った世界にいるだけということなんです。だから血の池とか針の山があるわけではなくまた悪いひとを罰するためにあるのでもないのです。だから生きている間にも地獄は存在することになりますね。幽界というのは今の自分が死んだらすべて終わりと信じているひとが行く世界です。浮遊霊とか地縛霊とか呼ばれてる存在がその世界にいる存在です。自分が死んだことがある意味本当に理解できてないんですね。そして死というのは終わりではなく次の始まりだとわかってる人が霊界に行きます。守護霊とか指導霊とか個人に関与してくるのはほとんどが霊界の存在です。ほとんどの人がこの霊界と人間界を行ったり来たりして輪廻を繰り返しているんですね。その霊界を卒業すると天界に行きます。○○天とか、○○明王とか日本では八百万の神々と呼ばれている世界です。そこを卒業すると菩薩界に行きます。菩薩様には慈愛系の菩薩様と叡智系の菩薩様とがいてその慈愛と叡智両方を極められた菩薩様が観音様になります。そしてその観音様を卒業して如来様になります。けど人間のときの生き方次第で死んでいきなり菩薩様になったり如来様になったりする人もいます。これを観てもわかるように私たちが神とあがめる存在でもさらに上、そのまた上があるわけです。だから人間やってる間に完璧を求めることがいかに無意味かということなんですね。人間やってる間は人間やってたらいいそのくらいでちょうどいいと思うんです。正しいことではなくやりたいことをやったらいいと思うんです。楽しい心地いいに従っているだけでいいと思うんです。上を目指すということは正しい存在になる立派な存在になることではなく本来の自分で生きるということなんです。いかに本質で生きるか?が上を目指すことなんですね。だから上を目指すとは成長することではないんです。私たちは成長するためではなく自分が体験したいものを体験するために生まれてきています。学ぶためではなく体験を通して自分の本質を知るために生まれてくるのです。だからその体験に必要な偏ったものの見方を持つ今の自分を選んで生まれているのです。ここが理解しにくいところだと思います。成長も学びも生きる目的には関係ないと言っているのですから。もっと言うと上を目指すというのもほんとはなくて私たちにあるのはまるごとの自分としての進化だけなのです。その瞬間、瞬間で私たちは別人なんです。眼に観えるかたちでは認識できないことなのですが。え~っとなんでこんな書かなくてもいいことを書いてるんだっけ?(笑)そうそう平原綾香さんが菩薩様ということで脱線したんですね(笑)今日は平原綾香さんの新曲をご紹介したくて書き始めたのにごめんなさい♪星つむぎの歌おまけなつかしいところで最後の雨
2008年01月27日
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人から馬鹿にされて腹が立つ。私個人の感想なんですが自分が馬鹿でいることが「はずかしい」「みっともない」と思っているときに人から馬鹿にされたら腹が立つのだと思います。自分が馬鹿でいることが「はずかしい」「みっともない」そう思っていなかったら相手の言ったことを「馬鹿にされた」と受け止めることもないでしょうし仮に「馬鹿にされてるのかな?」と感じても「そうなんですよ。馬鹿なんですよ。あはは…」となると思うんですね。自尊心の解説をしても長くなるだけだし根本の解決にならないのでやめときますが相手の言ったことで腹が立つということは相手に自分が表に出したくない部分を触れられたと思ったほうがいいです。そしてなぜ自分はそれを表に出したくないのか?そこを見つめたほうがずっと建設的で自分が前に進めます。はずかしいと思うこと自体自分が自分を否定している現れですからね。何も自分につけ足さずに自分が自分に対してしている否定(ブレーキ)それをひとつずつ手放していくだけで流れていくんですよ。人生は。
2008年01月26日
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今日自分の心が開いているか?それは自分の眼の光に慈愛の波動が乗っているか?それを確認したらいいんやということがわかりました。自分が声をかけたくなる人はどんな人やろう?と思ったときにみんな「魅力的な人」であるということに気づいたんですね。でどこに魅力を感じているか観てみたら眼の光だったわけです。でその眼の光を真似てみたら慈愛の波動が乗っていることに気づいたんです。でその眼で日常を生きると決めたんです。
2008年01月26日
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人生が思うようにいかないと感じるのは目の前の現実に望むことと望まないことが混在しているからです。いろーんな願望実現の本やセミナーがある中でこのことにふれているのは少ないと私は感じています。頭が欲しいと思っていることと心が望んでいることは必ずしもイコールではないということなんですね。願望実現の本やセミナーにお金と時間を使って取り組む前に心から望んでない生き方を「認めて」それから心から望む生き方を「決める」このプロセスをふんだほうがぐっと効率はよくなるわけです。それを明確にしてないから目の前の現実に望むことと望まないことが混在してしまうのです。それとこれもいろーんな願望実現の本やセミナーがある中でこのことにふれているのは少ないと私は感じているのですが自分の普段の生活の意識の向ける方向によって人は望むものを引き寄せやすい体質になったり望まないものを引き寄せやすい体質になるということなんです。それは何を感じることに意識を向けていますか?ということなんです。望む自分になったときに感じているものと同じものを「今」感じていますか?ということなんです。前回書いたようにフィルムを先に用意しないとスクリーンには映らないわけです。スクリーンに映るものをいくら変えようとしてもフィルムを変えない限り不可能なんです。それにはまず「自分は正しい」「自分は間違っていない」「悪いのは○○だ」その自分に従って生きてきた結果これまでの過去が創られてきたという「事実」を認め受け入れられるか?ということなんです。その過去が全部納得いくものならいいです。でもそうでないなら何を変えないといけないのでしょうか?正しい自分に間違ってない自分に従って生きてきた結果出会いたくない現実に自分がめぐり会っているのなら一体何が正しいのでしょうか?
2008年01月25日
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最近の私は赤ちゃんを目指しています(笑)赤ちゃんは自分に素直疑わない恐れない心を開きっぱなし。これぞまさしくしあわせの流れとつながる究極奥義なんですね。でも本当は奥義でもなんでもなくて本来の自分の姿に戻るだけのことなんですけどね。映画館のスクリーンに映っている場面を変えたかったら映写機の中のフィルムを自分の映したい場面のフィルムに変える以外方法はないわけです。スクリーンが目の前の現実。映写機があなた。フィルムがあなたの感じてること。フィルムを変えるとは望む現実に自分がいたら何を感じているか想像してその「感じ」を現実が変わらなくともいつも感じられる自分になること。
2008年01月25日
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やはりものごとがうまくいかないというのは根本の原因というものがあると私は思っています。心の問題にしても物質的な豊かさを目指すにしても。でこれだけどうしたらいいか書いてある本とかセミナーとかわんさかある中でやっぱりうまくいくひとといかないひととにわかれてくる。そのうまくいくひとといかないひとのちがいは何なのか?私はうまくいくひとというのは庭に水をまけるひとだと思っています。庭に水をまくには・じゃぐちにホースをつなぐ。・じゃぐちの栓をひねる。この2つの要件を満たしている必要があります。うまくいくひとはこれができていてうまくいかないひとはこれができていない状態で学ぶからうまくいかないと私は思っています。では解説していきます。・じゃぐちにホースをつなぐ。このホースとは自分の意識です。そしてじゃぐちとは自分が心地よく感じるものです。庭に水をまくにはじゃぐちにホースを「つなぎっぱなし」にしておかないといけません。この「つなぎっぱなしにする」というのが私はすんごいポイントだと思っています。つまり心地よくないものを感じたままにしておくとせっかくつないだホースを自分で抜くことになるんです。ですからうまくいくひとというのは自分がずっと心地よくいるためにはそのときのものごとやひとのどの面を観ればいいか?知っていてそれを実行しているひと。つまり視点の切り替えが上手なひとと言えると思います。・じゃぐちの栓をひねる。これは自分から心を開くということです。普段の日常から心地いい感じを感じられるように意識を向ける方向に注意をはらい自分から心を開いて世の中とかかわっていく。これが庭に水をまく方法です。庭とは自分の人生です。水とは豊かさです。実は豊かさとは所有することではなく流れのことなのです。その流れを自分の庭に絶やさないために・じゃぐちにホースをつなぐ。・じゃぐちの栓をひねる。そういうことなのです。
2008年01月24日
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どんな出来事にも自分が望むことと自分が望まないこと2つの要素が含まれています。そして出来事と出会うたびにそのどちらを見つけるか?いつも選択しているわけです。そしてほとんどの人は『現状に反応する』という習慣を持ってますからその出来事の中に望むことを見つけたとき「いい気分になる」という反応をし望まないことを見つけたとき「わるい気分になる」という反応をします。そうしていくうちにすべて望むことで囲まれた完璧な状況になれたときにやっと自分は「しあわせだなぁ」という反応ができるようになると思いこむようになります。しかしどんな出来事にも自分が望むことと自分が望まないこと2つの要素が含まれていますから望むことだけに囲まれたいという思いには矛盾がありその思いは叶わないのです。ですから自分が望むものだけが存在する完璧な場所を目指すのではなくてどんな場所にいても自分が望むものを見つけ出せる自分を目指さないといけないのです。________________________________今日の話しはちんぷんかんぷんだったと思います。「こうならないとこうなれない」と思うのは自分が現状に反応して行動を決めてしまっていることに気づけていないということなんです。だから現状を変えようとする。しかし自分が感じているものを「まず先に」変えないと何も変わらないんです。現状に反応しているうちはまず現状を変えようとしてしまうんです。だからうまくいかない。人間関係がいやで会社をやめても次の職場で似たような人が現れるのは自分の感じているものを変えないで現状だけを変えようとしているからです。そういう出来事があったからそういう気分になるのは自分が現状に反応しているからで現状に反応することをやめればどんな出来事と出会っても自分の気分は自分で決めることができるようになってくるのです。それが>どんな場所にいても>自分が望むものを>見つけ出せる自分なんです。しあわせになるとはある一定の条件が整うことを待つことではなくて今ここで現状に反応して流されず自分の意志で自分の感じたいものを感じられる自分になるということなんです。
2008年01月23日
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それは不安なのではなくただ『現状を変えたくない』という気持ちの現れかもしれないということです。「食べれなくなるから」「家族のため」という理由でいやいや好きでもない仕事をしている人の本音は『今の生活レベルを下げたくない』だったりすることもあるのです。「頭」はしきりに変わりたいと言います。しかし生命保存の本能は『それが習慣となった時点』でその生活のパターンを極力維持しようとします。頭の思いは自覚できる。でも本能の思いは自覚できない。これが「何で自分はこうしてしまうの?」のからくりです。苦しみの原因がわからないひとつにこの現状を維持したがる自分の存在を知らないことがあげられます。ただ本能には善悪の判断はありません。そこにあるのはその人が習慣としたものを維持しようという働きだけです。ですから自分が変わりたい方向に必要な習慣を自分の意志で意図的に繰り返し行って「これがこの人の新しい習慣なんだな」と本能に認識させる必要があるのです。そうすることで思いと行動の矛盾が減り現れる現実の矛盾も減っていくのです。どんな考え方を習慣としてるかでその人の人生は決まると言ってもいいと思います。ただそれは習慣なので変えられるということです。しかし一度習慣化してしまったものは本能の維持しようというサポートがはいるので変える最初の3週間がしんどいということなんです。そこを超えるほどの強い意志を持って人生を変えたいと思っているか?私がよく覚悟を問うのはそれだけの覚悟がないと「結果がでない」中でのこの3週間続けるというのはとても続けることができないからです。
2008年01月22日
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気分が浮いたり沈んだりする理由のひとつに出来事や人に自分が「いい」「わるい」をつけていることがあげられます。いいと思うから浮かれる。わるいと思うから沈む。そしてそのいい わるいをつけているのは自分ですから自分がいい わるいをつける回数が減れば浮き沈みの回数も減るわけです。でもいい わるいは無意識につけてしまっているケースが多いので気がついたら沈んでたということはよくあります。じゃなぜこうもほとんどの人や出来事にいい わるいをつけてしまうのでしょう?それはズバリ!『いい人』でいたいからでしょう!いいですか?サクラさん。なぜそうなのか?ということは長くなるので省略しますがほっとんどの日本人は『いい人でいたい』と潜在的に思っているわけです。するといい人でいたいから『何がいい行いなのか?』を決める必要がでてきます。そのためには他人を観察する必要がでてきます。ですから他人の欠点はよく見えるのです。これが自分と他人を比較してしまう始まりです。そしていつもいい人でいるためにはわるい行いを自分から遠ざけないといけません。そしてわるい行いを見つけ出すためには常にすべてのことをいい わるいに分けないと「わるい」が見つけられないのですべての人 出来事をいい わるいで見てしまうようになるのです。ですからサクラさんズバリ!『いい人』をやめたら苦しい人生から解放されるでしょう!それにはまず『なぜ自分がいい人でいたいと思っているのか?』そこを見つけることだね。クックックッ・・・・
2008年01月21日
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昔、浦島太郎さんという人がいました。ある日、浦島太郎さんは浜辺で亀をいじめている子どもたちをみつけました。そこで浦島太郎さんはその中にわって入って亀を助けてあげました。★問1ここでの浦島太郎さんの心の動きを説明しなさい。(20点)(2007年度よがふく幼稚園入試問題より抜粋)さてここでの浦島太郎さんの心の動きなんですがまず亀がいじめられているという「現状」を観て浦島太郎さんの中にある「感じ」がわいてきます。そしてその「感じ」を「解消」するためにわって入るという「現状を変える」という行動を起こしています。私たちが人生を変えたいと思うときもこれと同じように今の人生で感じている「感じ」を変えたいから現状を変えようとする行動を起こすことがよくあります。浦島太郎さんの場合はたまたま相手が子どもだったので自分の思うように「コントロール」することができました。しかし私たちの人生の場合はそうそううまくいきません。相手が自分より強かったり関係を壊したくない相手であったり上の立場の場合もあるからです。しかし私たちは今の人生で感じている「感じ」を「解消」するために相手を変えようとすることを相手に変わることを望むことをよくやってしまいます。それは相手が何をしていても相手が何を言っていても自分の感情は左右されないということに気づいてないからです。浦島太郎さんの心の動きをもう少し詳しく説明すると「亀がいじめられている」現状を観たとき浦島太郎さんの中に「反応」が起こっているんですね。そしてその「反応」の結果「感じ」が生まれその「感じ」が自分にとって好ましくないものだからそれを「解消」するためにわって入っているわけです。そして多くの人の場合その出来事に対する「反応」は無意識に「固定」されてしまっているわけです。だから同じ出来事に出会ったとき同じ「感じ」が「反射的」に出てくるのです。つまりその出来事に対する反応は他にもたくさんあるのだけれども自分がひとつの反応しかずっと採用してないことに気づいてないからずっと同じ対処の仕方をしてしまっていることに気付けないでいることが自分の中に同じ「感じ」を生む原因であってその出来事がその「感じ」を生む原因ではないのです。亀がいじめられている現場を見て「かわいそう」と思うのもそれが「かわいそうな出来事」なのではなくていじめられている現場を見たら「かわいそう」と思う「反応」を自分が採用しているからなのです。ですから相手が何をしてようが何を言っていようが「自分は今までとは違う反応をすることもできる」ということを知っていれば自分の感情が相手ではなく自分の相手に対する反応で決められてきたことが見えてくるのです。それが自分で納得できたとき自分の感情は誰にも影響されるものではなかったことが見えてきて自分がいつも自由であったことに気づくのです。
2008年01月20日
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「もやもや」とか「すっきり」とかという自分の中にある「感じ」。それは今、まさにその流れとつながっているということです。電波にいろんな周波数があってその周波数にチャンネルを合わせて受信するのとまったく同じで「もやもや」も「すっきり」もその流れ(周波数)に自分が自分のチャンネルを合わせているからその「感じ」が自分の中に出てくるわけです。ですからこの出来事があったからもやもやするんです。とその出来事が起こったせいでもやもやしている。それさえ起らなかったらもやもやすることはなかったのに。と思っていることは実は思い込みなんです。そういった出来事が起こる。 ↓そういった出来事が起こったときは「もやもや」にチャンネルを合わせるということが無意識の「クセ」(パターン)になってる自分が「反射的」に「もやもや」にチャンネルを合わせる。 ↓「もやもや」を感じる。本当はこういうことが自分の中で起こっているんですね。だからどんな出来事が起こってもそのときの自分の中の「感じ」は「自分で選んでいるんだ」ということがわかっているかいないかでそのあとの対処は大きく変わってきます。それがわかってないとつまり自分の「感じ」は目の前に起こる出来事で決定されると思いこんでいるとお金があればこんな気分で生きていけるのに。こんな自分になれたらこんな気分で生きていけるのに。と「その気分」で生きるためには絶対その条件が整わないとと思いこんでしまうんですね。でその条件がいつまでたっても整わないから苦しい日々が続く。そのことがさらにお金さえあればこんな自分になれれば今すぐにでも抜け出せるのに・・・という思いを強くしてますます悪循環を強固なものにしていくんですね。前置きが長くなりましたがここから本題に入ります。よく自分を観察してほしいんですがこういうときって「人生とはおもしろくないもの」「人生とはつまらないもの」というところに自分のチャンネルを合わせてお金があれば・・・こんな自分になれたら・・・のお金やこんな自分を求めてませんか?ということなんですね。もしそうだとしたらそんなところにチャンネルを合わせたままで手にできるのでしょうか?ということなんですね。仮に自分の感じたい「感じ」が「すがすがしく生きる」だとします。でお金があれば・・・こんな自分になれたら・・・と思うことはそれが叶いさえすれば自分の「感じ」が「すがすがしい」に変わると思っているからそう願うわけです。環境が先に変わらないと自分のチャンネルは変わらないと信じているわけです。でも本当は自分が合わせているチャンネル通りの現実しかやってこないわけですから現状関係なく「先に」チャンネルを変えないといけないんですね。出来事があったとき反射的に反応する自分を見ながら自分の「意志」で「意識」をどこに向けるかを決めていく。これがチャンネルを変えるということです。お金を手にしたときそんな自分になれたときの「感じ」を先に自分の中でつくることでそれにふさわしい現実があとからついてくる。これはもうこういう仕組みになってますからこれに従うしかないんですね。心が先で現実が後。だから「人生とはおもしろくないもの」「人生とはつまらないもの」というところに自分のチャンネルを合わせたままでは何を勉強してもどんなセミナーに行ってもおもしろくないつまらないと感じる現実からは卒業できないのです。
2008年01月19日
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ありたい姿のことを最近書いてますけどありたい姿を決める前に少し注意点があってそれは否定を出発点として決めないということです。これはいろんなことに応用できて思いと現実が一致しないときもほとんどが自分が否定を出発点としてその思いを持っていることに気がついていないからです。自分は自分がきらいだから好きになろう。このとき自分が自分をきらいなことを「いけないこと」として自分を好きになろうと決めてませんか?ということです。あと自分はマイナス思考の持ち主であるとか貧乏であるとかいけないと思いつつ責めてしまうんですとかそういったものを「いけないこと」として正反対を目指してませんか?ということです。そうじゃなくて自分は自分をきらいでもいい自分は自分好きでもいいそのどっちでもいいと思う自分は今どっちでいたいの?これなんですね。両方にOKをあげて心地いいほうを選ぶ。これだと否定を出発点にしてないですよね。このやり方なんですね。うまく流れるのは。「現実は必ず思いの出発点に帰ってくる」 ◆プリンス・不器用・よがふく◆(1968~ )これ覚えといて損はないですよ。つまり否定が出発点の思いを持つと必ず何かを否定したくなる現実がやってくるということです。だから否定したくなる現実が現れているなら必ず自分のどこかに否定を出発点とした思いがあるということだからそれが何か見つけ出して手放す。それをしないと「なぜ繰り返し起こるの?」になるわけです。「なんでこうなるの!!!」の答えはそれにふさわしい考え方を自分が大切に持っているから。「そんなはずはない!!!」の長年慣れ親しんだ世界をいつ手放すか?そこだけなんですよ。言葉にできない言葉にできない言葉にできない~動物編~
2008年01月18日
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生きるのが苦しいということは今を生きていないということです。今にいながら意識を常に過去や未来に向け続けているということです。厳密に言うと過去あんなことがあったから苦しいのではなくて今を生きない(意識を今に向け続けない)という生き方を選択した自分が自分を苦しめているのです。これはうそのようなほんとの話しなんです。人生に不快を感じているとき自分の意識がどこを向いているか観察してみてください。そしてそれを今の自分に向け続けたとき感情がどう変化するか観察してみてください。
2008年01月17日
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苦しい人生から一瞬で抜け出す一番簡単で一番難しい方法。それは今を受け入れることです。今の自分今の状況にOKがあげられない。すべての苦しみはぜんぶここから出発しています。かといってOKをあげられないものに無理やりOKをあげようとしても心の矛盾は増えるばかりです。生きるのが苦しいというのは何かを拒む自分が自分の中にいるということです。それは言い換えるとすべてのものを「いい」「わるい」で分けている自分がいるということです。出来事が起こった瞬間に人が何かした(言った)瞬間に「いい」「わるい」どちらかに無意識で振り分けている自分がいるということです。この自分がいることに気づいてこの自分を手放すと決めない限り今を受け入れることはできないんですね。「いい」「わるい」を決めるのは自分の中の「基準」です。その基準を大事に持ち続けることがありたい自分にふさわしいことなのか?それをいつも根気よく自分に問い続けていくしかないのです。だから苦しみから抜けたいときはあれこれ始める前に自分のありたい姿を自分ではっきりさせることが最初になってくるのです。なりたい姿ではなくありたい姿です。仮にこの先自分をとりまく環境が変わらないとしても特別なことがない日常で自分はどういう心がまえで生きているかということです。その自分がはっきりしたら後は日々でてくる思考がその自分にふさわしいか問うて持ち続けるか手放すか決めていくだけですから迷いが減り苦しみから抜けていくスピードが格段に速くなるんです。自分のありたい姿がはっきりしてない人は勉強するのをいったん止めて何か月かかってもすべての力をそれを見つけることに向けたほうが遠回りに見えるけれども結果的に速くなると私は思うんです。でそのありたい姿もみつかった後も変わってくるものなんでそこは柔軟に対応していけばいいと思うんですね。
2008年01月17日
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私はこうだからだめなんです。私はこうだから不幸なんです。私はこうだから思うように生きられないんです。上の言葉を「翻訳」すると全部「私は正しい」になります。その正しさを証明するために自分はだめであり続ける必要がでてきます。不幸であり続ける必要がでてきます。不自由であり続ける必要がでてきます。だからいつもだめでいる自分を「選んでいる」。不幸でいる自分を「選んでいる」。不自由でいる自分を「選んでいる」。そして選んだ通りの現実がやってきている。これがからくりです。自分のことをだめと思っている人は本当にだめと思っているのではなくだめであることを証明したいだけなのです。自分のことを不幸と思っている人は本当に不幸と思っているのではなく不幸であることを証明したいだけなのです。自分のことを不自由と思っている人は本当に不自由と思っているのではなく不自由であることを証明したいだけなのです。じゃなぜ自分はそんなことを証明したがるのか?そうすることで自分が苦しくなるにもかかわらず・・・ここですよね。それにはまずなぜ上の言葉を「翻訳」すると全部「私は正しい」になるのか?ここですよね。「自分の正しさ」を自分が持つ(必要とする)意味と持つことによるメリットとデメリットに気がつくこと。ここが一番最初の入り口なんです。そしてこの入り口は誰にも教えられるものではなく自分で自分の中から死にものぐるいで見つけるしかないものなのです。そこを省略して人や本に答えを求め続けると抜けることのない迷路をずっとさまよい続けることになるのです。
2008年01月15日
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人の心の中には王国があります。そこでは自分が王様です。その世界のどんな立場にも立てます。その世界では誰も自分を責めたり傷つける人はいません。誰をどれだけ責めてもどれだけ見下しても相手は一言も言い返してきません。自分の言葉(正しさ)がいつもそのまま通るとてもとても居心地のいい場所です。でもその居心地のいい場所にいる時間が長くなればなるほど今度は現実にいる時間の居心地がわるくなってくるのです。そして現実が居心地がわるいからその居心地のいい場所にいる時間がますます長くなる。するとますます現実にいる時間の居心地がわるくなってくる。そしてまた・・・・この繰り返しをいつ手放すか。そこなんですね。
2008年01月15日
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しあわせには2通りあります。ひとつはマイナスとゼロの世界で生きているときのしあわせ。もうひとつはゼロとプラスの世界で生きているときのしあわせ。あなたがどちらの世界の住人なのかそれはゼロを理想の自分に設定しているのか今の自分に設定しているのかで決まってきます。それは「ない」に注目して生きているのか「ある」に注目して生きているのかの違いとも言えます。マイナスもゼロもプラスも自分の心ひとつで自由に決めることができてまたすでにそうしていることにいつ気がつくか。あなたが今歩いている道はそういうことに気がつくための道なんです。
2008年01月14日
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今まで歩いてきた。そしてこれからも歩いていく。それ以上でもそれ以下でもなかったんだと。過去に「特別な意味」をつけないほうが今を楽に生きていけることにやっと気づいたんだ。ずっとずっとただ歩いてきただけだったんだって。そしてこれからもただそうなんだって。そのとき自分が何に注目してたか?だけで「特別なこと」というのは初めからなかったんだ。夕日を見ながら心地いい風に吹かれてお気に入りの音楽を聴きながらつい踊りだしてしまうような・・・きっときっとそういうことだと思うんだ。僕たちが本当に求めてるものって。何かを手にできなくてもどれだけ望む条件が整わなくても自分が感じていたいものを素直に感じていられる自分とめぐりあえるだけで僕たちはしあわせってものをそして「今」どうあるかがこれからをつくっていくことを知ることができると思うんだ。素直に素直にゆっくりゆっくり丁寧に丁寧に歩いていったらいいと思うんだ。自分に与えられた歩幅が自分にちょうどいい距離。他人のドラマをうらやましいと思うこと僕にもあるよ。でもねその前に本当は自分はどうしたいのか?それをきちんとわかってあげないと。それをわかってあげられるのは自分しかいないんだから。素直に素直にただ素直に自分にたずねていく。ゆっくりとゆっくりと自分の歩幅で。そしたら青空の中に夕日の中に風の中に雲の中に人の笑顔の中にあなたの探しているもやもやの答えを見つけるときがきっとくるから。あなたの歩幅を信じてあげて。
2008年01月12日
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誰でも自分が大好きなんです。自分が大好きだからこそ人生で苦しく感じるときがでてくるのです。自分がきらいだとか自分に自信が持てないとかそういう人でも自分が大好きだからそう思うんです。いついかなるときも自分の根っこにあるのは自分大好きなんです。そのことに気づいている人と気づいていない人がいるだけの話しで。ただそれだけのことなんです。わざわざ自分を好きになろうとしなくていい。自信を持とうとしなくていい。もともと生まれたときからずっと自分は自分を大好きだったんだということを思い出すだけでいいんです。思い出せないのではなく思い出したくないだけなんです。これまであなたはあなたを守らないといけない場面がいっぱいあったので自分が自分を大好きなことを忘れたほうが都合がよかったから。けどもうそれはいいんです。これからは自分が何を表現して生きていきたいか?それを守ったらいいんです。もうあのときのことは終わったんです。もうあのときのことは終わったんです。もうあのときのことは終わったんです。もうあのときのことは終わったんです。今ここのあなたの眼には何が映っていますか?今ここのあなたの心はこれから何を感じていきたいと言っていますか?過去を責めるから苦しい。今を否定するから「こうなった未来」にだけ救いを求めて「こうなった未来」がいつまでたっても来ないからいつまでも苦しい。ほしいほしいほしいほしい・・・両手いっぱいに何かをつかんだ手でそのほしいものがつかめると思いますか?あなたはどっちが大切なんですか?順番はいつも「まず自分から手放す」なんです。これだけはどうしようもないことなんです。守ったほうが都合がいいものと守りたいものこの違いに早く気づいてください。それはいつでもすぐあなたの手の届くところでそのときを待っています。
2008年01月11日
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あなたが何をどう決めてもいい。ただし自分の人生は自分が決めた通りになっていくのだから何かのせいに誰かのせいにしてはいけない。いやなら決めてることを変えたらいい。そう決めたいと思う今の自分を手放せばいい。変えられないのではない。変えたくない自分がいるだけ。できるできないじゃないんだ。自分の本当の思いを知ろうとするかしないかなんだ。そこから目をそむけてはいけないんだ。
2008年01月10日
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こういう言い方したら失礼になりますが私が「この人わかってるな」と思う人すべてに共通することがあります。それは呼吸の大切さを理解してるということです。そして呼吸でも深呼吸を紹介していて必ず「吐くのが先」と言っていることです。生きるのがおもしろくない願いが叶わないそう思いながら生きている人に絶対と言っていいほど共通していることはお腹ではなく胸で呼吸していることです。でも今日はこのことの解説ではなくて深呼吸で「吐くのが先」ということが何につながるのかということについて書きたいと思います。私ねやっと願いが叶わないメカニズムというのがわかったんです。願いが叶うとは今とは違う自分になることなんです。今とは違う環境に生きる別人になるということなんです。でも願いが叶わない人いろんな成功法則の本を読んだりセミナーにいっても現実が変わらない人に共通してることは自分が 「別人になる」という意識がなくて今の自分をベースに何かを付け加えていくという意識でそれらに取り組んでいるんですね。小学校や公園に「うんてい」というのがあったのを覚えてますでしょうか。これが「うんてい」です。人生もこれと同じなんですね。前に進むためには今つかんでいる棒を「まず手放して」からでないと次の棒はつかむことはできません。その今つかんでいる棒が今の自分なんですね。願いが叶わない人というのは両手で1本の棒をつかみながらそれを手放そうとせず次の棒をつかもうとしてるのと同じことをしてることに気付かないでいる人のことを言うんですね。つまり「自分は正しい」と思うことは自分を守るためにはすごく有効な思いだけれども願いを叶えるためには不必要だということにいつ気づけるかということなんです。「今の自分は正しい」と思っているから自分が別人になることにブレーキがかかる。だから夢が叶った現実にいる今とは別人の自分に今の自分がなることを許さない。これが夢が叶わないメカニズムなんです。夢を叶えるとは今の自分を手放すことを自分に許すことなんです。
2008年01月08日
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昨日現実を変えるにはイメージを変えると書きましたがちょっと違ったみたいです。変えるのではなくて手放すが表現としてはふさわしいなと思いました。といいますのも私自身「俺以上に 孤独と金がないことに 耐えてきた人間は ほとんどいないだろう」という自負に近いものをずっと持ってましてそれでいろんな人を見下していたんですね。しかしもう一方でここまでいろんなことが見えるようになってきたのに誰も話しを聞きにくる人がいないことに疑問を感じていたんです。だからひょっとしたらそういうのを伝えることがおれの役割じゃないからかなと思っていたんです。けど、わかったんです。つまづいている人を救いたいという思いの裏にはその人を変えたいという思いがあってその人を変えたいという思いの裏には人をコントロールしたい自分がいたことに。つまりね相手より見えていて相手よりわかっている立場だと相手をコントロールすることは容易になってきて相手をコントロールする立場に自分がいると自分が相手に傷つけられることから自分を守れるわけです。つまり自分の一番の動機が相手をコントロールしたいにあることがわかってそりゃそんな人間のところに話しを聞きにくる人はいないよなとわかったわけです。それとですね「俺以上に 孤独と金がないことに 耐えてきた人間は ほとんどいないだろう」この思いを持つことでこの思いの中に逃げることができる。すなわちその思いに依存したいからその思いを持ち続けてきたことにも気付けたんです。何かができないとき「こうだからこうなんです」と言い訳ができるしまたその自分をアピールすることで人の同情を誘うことができるからその思いを私は持ち続けてきたんですね。そして私は自分の中に逃げ場所を持つことよりも孤独で金がない現実はもういやの方を選んだんです。その現実は私がこの思いを持ち続けるために自分で必要としていたことがわかったからです。その現実の中を生きないとその思いを持つ「正当性」が保てないからです。だから手放したんです。そしてわかったんです。「ありのままにみる」とは知識や体験を手放さないとできないことが。赤ちゃんや幼い子がありのまま現実が見れるのは過去の知識や体験がなく自分を縛るものがないからだと。知識や体験は自分を守るためには必要だけれどもありのままに今をみるためには必要ないことがわかり人は今、ここという瞬間の体験をするために生きていてそこで得たものさえも手放していく。そうしないと自分が見たいように見ていく生き方からはずっと抜け出せなくていつまでたってもあるがままみることができないとわかったんです。そしたらあれだけ忌み嫌っていた父親を生まれて初めて何の感情も沸き起こることなくながめることができたんですね。私が父親を嫌い、憎い、汚いものと思っていたことは「事実」ではなくて「私の中のイメージ」だったんです。つまり私は父親が嫌いと本当に思っていたのではなくて私の中のイメージにそう、思い込まされていたことがわかったんですね。つまり自分でつくったイメージに自分が支配されていることに気付かずにここまで生きてきたんです。それからははずかしいと思う自分がいなくなりました。自分をよくみせようとする自分も。やっとどうすればいいかがみえてきました。人は自分でつくったイメージの中で生きている。そしてその世界から抜け出すにはそのイメージを必要としている自分をみつけること。そしてその自分をみつけることができたならそれを必要とする依存を自分の意志で手放すと決めること。それで本来の自分を生きるスタートラインに立てる。こういうことなんだろうと思います。あとは自分の人生で実験していくだけです。ありがとうございます。
2008年01月08日
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イメージというのは過去の体験をベースにつくられていきます。最近思うのは人はイメージの中をいつも生きているなということです。「自分はこうだ」「あの人はこうだ」「世の中とはこうだ」これ全部自分がつくったイメージなんですね。そしてそのイメージを持つ自分にふさわしい現実の中を生きている。これが今の時点での私の結論です。だから現実を変えたければイメージを変えたらいいこういうことになるんですけどこれがむずかしい。それはそれがイメージではなく「事実」だと信じてしまっているからです。今日、姉のメルマガ 見てたらでも、実は、○千万円なんて、簡単に手に入るんですよ。って書いてあるんですね。「じゃ、手にしてみろよ」というツッコミは当然、しませんでしたよ(汗)そんなこと僕が言うはずないじゃないですか!もう、やだなぁ・・・(汗)そこで、はっ!と思ったんですね。私の中に「○千万円手にすることは、とても困難なこと」というイメージが自分の中にあることが。だから手にできなかったんだって。そのイメージにふさわしい○千万円手にすることは、とても困難な現実を自分で自分に引き寄せていることに。過去の自分の経済状況という事実を観て「○千万円手にすることは、とても困難なこと」というイメージを自分に縛り付けてきたんですけどその過去の自分の経済状況をつくりあげているときの自分の持つイメージはまったく無視していたわけです。ここがねすご~~~~~~~~~~く大事なポイントだと思うんです。過去こうだったから「自分はこうだ」「あの人はこうだ」「世の中とはこうだ」と人は決めるわけですけど過去に何があったじゃなくて過去どういうイメージで生きていたかそこに目を向けないと本当の意味で過去を把握することはできないと思うんです。つまり過去そういうことがあったから「自分はこうだ」「あの人はこうだ」「世の中とはこうだ」と過去の出来事でそれらを決めているから「その出来事さえなかったら」と過去の出来事のせいにしてきたけれどもその過去の出来事さえも過去の自分の持つイメージが原因で自分に引き寄せられてきたものだから結局は自分のイメージの責任になるわけです。ここでどうするかだけだと思うんですね。「それでも自分は悪くない」という立場を選ぶのかそれとも納得いかないこともあるけどそれを追及するよりもイメージを変えて現実が変わるなら少しでもおもしろく生きるためにそっちを選んでみようか。という立場を選ぶのか。その結果がこれからを決めていくと思うんですね。「こんな自分」になってしまったのは誰かのせいなのかそれとも自分の選択の積み重ねの結果なのかどちらの立場の自分でこれから生きていきたいのか?それをはっきりとさせないといけないと思うんです。で、それをはっきりさせるためには本当は自分はどうありたいの?何をしていてそれをすることで何を感じて生きていきたいの?それを自分に問い続けるしかないと思うんです。
2008年01月07日
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今日は昨日の晩急に思い立って生まれて初めて伊勢神宮に行ってました。後で気づけば今日は「小寒」暦の上でも節目の日でした。月読宮猿田彦神社内宮外宮とまわったんですが特に内宮で感じたのは「フェイク」でした。一般向けと「本当の場所」を巧妙に分けているなと感じました。天皇家ゆかりの地ですからあたりまえといえばあたりまえなんですが。神社に行くと誰もが本殿を目指すと思うんです。でも建物の大きさや立派さというのは人間だけが気にすることでそれがそのままその土地のエネルギーと比例してるかというと必ずしもそうではないんですね。むしろその土地を預かる人間としてはわざと立派な建物で参拝者の気を引いてあまり荒らしてほしくない場所にはわざと質素なお社を建てるというケースが少なくないんですね。確かに内宮のエネルギーはすばらしいんですがどうも拡散していて「外側」を歩かされているような気がしたんですね。おそらく内宮の中で一般人が入れる場所で立ち入り禁止の場所に近いエネルギーは風日祈宮だと思います。その次が荒祭宮でしょうか。人間は自分より高い波動のエネルギーに出会うと「冷たく」感じるようにできています。ですから神社とか山とか行ったときにひんやりした風が吹いてきたらそっちの方角に行ってみると思いがけない場所と出会うかもしれませんね。「冬があり」 詩・星野富弘冬があり夏があり昼と夜があり晴れた日と雨の日があってひとつの花が咲くように悲しみも苦しみもあって私が私になってゆく晴れの日があって雨の日があってひとつの花が咲くように晴れの心と雨の心もその人が咲くためにあります。どちらがいいとかどちらがわるいとかではなくどちらも自分に必要だから体験する機会を与えられてきたんだ心からそう思えたとき人は・・・
2008年01月06日
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子どもというのは最低限のルールの中で何をしても何を言ってもそこに制限を加えてこない大人とめぐりあうことができてその中で育つことができたなら自分は何をしても何を言ってもいいということに安心感を持つようになり人がみな生まれながらに持っている自分から動くという「自発性」と自分から創り出していくという「創造する力」を自然と発揮していくようになります。そしてその状況を継続させるよう心配りができる大人とめぐりあうことができたなら自発的に動き創造していくことがその子の人格の土台となり本当の意味で生きることを堪能できる人生をその子が若いうちからスタートできる確率は限りなく100%に近いものになります。生きるのが苦しいどこかおもしろくない。そう感じるのは大人になった今でも自分は何をしても何を言ってもいいということに安心感が持てないからです。小さいころに自分より強いものからの何らかの否定や拒否や暴力がそこに加わって自分がしたいようにすることに自分が言いたいように言うことにストップをかけられることを「継続して」受けてきたからです。そこから「その人から拒否されること」への恐怖が生まれます。そしてそれは自分が大きくなりその人の支配から抜け出るころには「すべての人から拒否されたくない」という思いに変わっています。そこで今度は自分がしたいようにすることに自分が言いたいように言うことに自分でストップをかけることを「継続して」続けていくようになります。その結果が今の現実です。そこで人生を変えたいなら 「自分がしたいようにすることに 自分が言いたいように言うことに 自分でストップをもうかけない」ただ、そうするだけでいいんです。しかしそうすることに安心感が持てない。だからそうすることが怖い。「そうしたら また 拒否される」「もう 拒否されるのはいや」「だったら 自分の言いたいこと言わないで 相手に合わせておいたほうが楽」こういう思いがわいてくる。でも安心感が持てないことを実行するって半端なことじゃないんですね。むちゃくちゃ怖い。それにそこに飛び込んでいかなくても生きてはいけるわけだし。それに拒否され続けてきた人ってのは精神的に疲れてしまって怖いに向かう元気すら残っていない場合が多いんです。私は誰よりも孤独と拒否の中を生きてきた人間だからそのことがよくわかります。けどだからこそ見えてきたこともあります。それはどんな人生も自分の「怖い」に飛び込むことで自分で変えることができるということ。そして怖いに飛び込むとはしたいことをすることに言いたいことを言うことに自分で自分にかけているブレーキを自分の意志ではずすということ。そうすることで「自分本来の力」が解放されて自分で流れをつくっていけるようになるもう他人の顔色をうかがわなくてすむようになるということなんです。「自分自身」を変える必要はどこにもなくて自分にブレーキをかけている「行為(習慣)」を変えるだけでいいんです。それは何がそろっていなくても今、この瞬間から始めることができることです。出口のない人生なんてないのです。ただ「自分が決めたこと」にふさわしい現実の中を生きてきただけであって自分が決めることが変わることによって現実も変わってくるのです。「私はこうありたい」とあなたが決めているものそっくりそのまま今の現実なのです。同じ毎日の繰り返しは同じことを決め続けてきた結果なのです。あなたは何を「する」と決めた結果その現実の中にいると思いますか?あなたは何を「しない」と決めた結果その現実の中にいると思いますか?
2008年01月05日
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最近「待つ」ということについて考えるきっかけをもらう出来事とよく遭遇します。どこかに行く時同じ料金なら早く着く方の電車に私なら乗るのですが別に何時につかないといけないというのがないにもかかわらずなぜ早く着きたがるのか?そこで無意識に私を動かしているのはどういう考え方なのか?そういうことを考えていたんですね。おそらくねそこに意味を見いだそうとする自分がいると思うんです。そして意味を見いだせないことは無駄だと判断している自分がいると思うんです。そして無駄はなるべく省きたいと思う自分もいるはずなんです。つまり 目的地まで時間をかけて行くことに意味を見いだせない自分がいて意味を見いだせないことを「無駄だ」という判断を下す自分が自分を「せかす」のだと思うのです。でもね自分が意味がないと思うことは「自分の都合」からだけ見てそう思っているのかもしれないという考え方が持てるようになると「あるのに見ようとしてなかったもの」が見えてくるときがあるんですね。二日前じいちゃんが初詣に行くので伏見稲荷まで一緒に行ってました。ものすごい人でした。本殿の前で入場規制のロープが張られていて30分くらい列で並んでいたんですけどその時私は空を見てたんですね。神社の上だけ雲がなくこれだけの人がいてこれだけの想念が渦巻いているのにちょっと上空ではすごく波動の高いエネルギーが何事もないように流れているんですね。「すごい土地やな」と思っていたんですね。「だからこれだけの人が集まるんか」と妙に納得してたら急に後ろの人の話し声が聞こえてきたんです。「空がきれいやねぇ。 今は、これを見ときなさい ということなんやね」と。「並ばないといけない」という現実があったからこそ立ち止まって空を観ることができたわけです。このときに「並ぶことなんて無駄」「早くお参りしたい」と「自分の都合」からずっと出来事を観ていたなら並んでいる時間というのは自分にとって不愉快でしかない時間だと思うんです。しかしそこで「今はこの景色をながめときなさい とういうことなんやね」というとらえ方で並んでいる人もいるわけです。同じ「並んでいる」という状況は同じなのに「どの視点(立場)から」「どこを観てるか」でこんなにも心に感じることは違ってくるわけです。つまり状況が何も変わらなくても今の自分が「どの視点(立場)から」「どこを観てるか」そこを確認して「意図的」にそれを変えたら「受け取れるもの」が変わってくるということなのです。自分が今一番必要としている答えは本を読んだり先生の言葉を聞きに行かなくても「日常」という目の前の現実に対する今の自分が「どの視点(立場)から」「どこを観てるか」そこを確認して「意図的」にそれを変えたら得られるということです。どんな人でも答えは「すでに」用意されているということです。人生に意味や効率を求めないでそれをしないといけない状況にでくわしたらとにかくやってみる。そしてとにかくやるなかで「いろんな思い」がでてきます。そしてその思いはとにかくやっていることをどういうふうに見てどういうふうに受け止めているからそう思うのか?それを見つけることが「すでに」用意されている答えをみつけることだと思うのです。
2008年01月04日
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おもしろいあそびをご紹介します。それは自分の名前をひらがなにして並べ替えてみてことばをつくるというものです。濁点は自由につけたり、はずしたりしていいみたいです。それで今回の自分の人生のテーマがわかるというのですが・・・本当なのでしょうか?(笑)たとえば、私の場合にしおとしかずが名前です。これを並び替えるとおとしずかにし(音静かにし) とかにじとかしすお(虹と化しすお) とかすしかしおとに(寿司菓子音に) とかになります。確かに寿司も菓子も音楽も虹も好きなのですが・・・(笑)あまりぴんときません(笑)もうひとつ例をあげるとかめおかゆみこ さんの場合おかめかこみゆ(おかめ過去見ゆ)みおかかこゆめ(澪か過去夢)おかみかこゆめ(女将過去夢)なんかとなります。なんとなく前世の夢を実現するために今回やってきたのかなぁということが想像できます。普段自分の名前ってあまり意識しませんが一生使うものなので結構、メッセージも含まれているのかなぁと思ったりもしています。まぁ、おあそびということで。
2008年01月03日
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お金がほしい。愛がほしい。なぐさめがほしい。何かをほしがってそれさえ手に入ればと生きていく生き方もあれば自分から誰かに何かをあげていく生き方もあります。それはあげる「もの」がないなら「温かいことば」でもいいわけで。どちらがいいとかわるいではなくて「かたち」のあるなし関係なしにその人が一生忘れられないような贈り物を自分が贈ることができたならそういうものを贈れる人生を自分が生きることができたならかっちょええなぁとふと、思ったもんですから。ギフト
2008年01月02日
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ちゃんとあなたに伝わってるかな・・・本当に伝えたいことはことばでは現わせなくて・・・伝わったとしてもそれは伝えたい瞬間よりもずっとずっと後のことで・・・人は光だけを手に入れることはできなくて・・・大好きで大好きでどうしようもない人と結ばれたとしてもそれはいつかその人と別れるときがくるということも同時に手に入れることであって・・・私はその人の眼を見て心が読めるのでちゃんとあなたに伝わってるかな・・・ここを歌い終わったときの一瞬上を見上げた吉田美和さんの眼を見て涙が止まりませんでした。もうこれ以上泣けないほど泣いたことがそしてすべてを受け入れてそれと共に生きていくことを決めたことがわかったからです。強がりじゃない本当の強さを見せていただきました。吉田美和さんありがとうございます。ア・イ・シ・テ・ルのサイン~わたしたちの未来予想図あたりまえのようにそばにいるひとに伝えたいことを伝えられる間に伝えていますか?
2008年01月01日
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あけましておめでとうございます。本年もよろしくおねがいします。じいちゃんは明日初詣に行くと言ってたので今日はひとりで神社3つはしごしてきました。まずは住んでる家から一番近い神社。これを氏神(うじがみ)さんと言います。その土地に住んでいる間仕事運、金運を担当してくれています。それと自分が生まれた場所に一番近い神社。これを産土(うぶすな)さんと言います。その人を生涯にわたってサポートしてくれます。人生が変わるような場面や結婚なんかは産土さんの担当です。ですが、私は自分の産土さんがどこか知りません。なので氏神さんの次はいつもお世話になっているクスノキさんの神社に行きました。お参りをすませクスノキさんに手をかざすといつもとちょっと違います。なので、場所を変えてみるといきなり「ドン!」と来てそれで終わりというのがわかったんですね。終わりというのは医者が患者さんに「もう治療は終わりましたから 後は、1か月ごとに検診に来てください」みたいな感じの終わりを感じました。「通り抜けた」ことにお墨付きをもらったみたいな感じでした。次に私の住んでいる土地で一番古い神社に行きました。ここには女性の木があります。この木はまだ樹齢300年くらいなんですがすばらしい木で樹齢500年以上の木と同レベルのエネルギーなんですね。クスノキさんは癒しという面からすると持ってる力のひとつなんですがこの木は、癒しが専門なんですね。それに心だけでなくちょっとした肉体の不調も引き受けてくれる木なんです。今日はこの木からたくさんお年玉をいただきました。ずっと歩いてまわっていたんですがすれ違うひとすべてに心を開いて笑顔というのをずっと実行してました。いつものクセで下を向きそうになるともう「楽」はしないと自分に言い聞かせながら。「楽」をするということは「逃げること」ということにそのとき気づいたんですね。じゃ「逃げない」とは何か?それは「立ち向かう」ことではないとわかったんです。向っていかなくていいんです。その場面に意識を正面から向き合う位置にもってきてそのときに自分の中でどんな感情が動いているかどんな思考が働いているかそこにいい わるい をつけないでそれをあるがままながめる。それが逃げないってことだと思ったんです。逃げるって恐怖から来る逃げるもあれば「はずかしい」から来る逃げるもあると思うんです。恐怖というのは本能からくる場合もありますけどはずかしいはぜんぶ思い込みからきてるんですね。よく「恥を知れ」と言われますけど本当はなぜそれを恥と思うのか?というところを知らないといけないんですね。恥なんて本当はないんです。自分のこういう状態をはずかしいと思う心の「クセ」を自分が胸をはって目をそらさずに前を見て人とすれ違うことでそれを治そうとするんじゃなくてそのクセがあることを認めつつ自分がどうするか決めていく。つまり今、ここの自分に意識を向け続けることで無意識にはずかしいに支配されて行動を起こしている自分から意志の力で、その支配から抜けだす。それが「自覚」をもって生きるということ。今日はそれが8~9割できたと思うのでよかったです。
2008年01月01日
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