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「分(ぶ)」その、思い描くものが「夢」なのか「妄想」なのか。それは「自分というものを知っているか?」で、決まってくる部分が多いと思います。たけのこは、カニにはなれません。カニは、コンブにはなれません。コンブは、まつたけにはなれません。そう、生まれてしまった以上それは、どうしようもないことです。そして、それぞれの食材を、最高に活かす最適な調理方法も、違ってきます。自分という食材が、何なのかを知りその、最適な調理方法をみつけていく。それが、生きていくということなのかなって思っています。
2007年11月30日
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「いじわるな人」昨日の日記の話しの続きから言うと、「いじわるな人」というのは存在しないことになります。なんで、そんな事が言えるかというと赤ちゃんの時からいじわるな人というのが、存在しないからです。赤ちゃんの時から、今に至るまでの間、家庭や、学校や、職場などでいろんなことがあってそういうキャラクターになっていったのです。生まれながらにいじわるな人というのが存在しない以上どんないじわるな人にもそうなる「背景」というものが必ずあるということです。その「背景」の中で、その人はいろんな事情や理由があって自分の中のいじわるな面を使い慣れていったということなんです。どんな人でも、少しくらいは「いじわるな自分」というのが自分の中にいることを認識していると思うんです。ただ、その自分を使ってないだけですよね?いじわるな人というのはその「いじわるな自分」をただ、使い慣れているだけの人であってその人の本質、その人の存在そのものがいじわるではないのです。だから、どんないじわるな人でもその人が、どんな自分を表に出すか?その選択をしなおすだけでいくらでも、変われるということなんです。その人の可能性は常にその人と共にあるのです。だから、表面に見えることだけでその人を見限ってしまうとそこで人間関係がぎこちないものになってしまって結局、自分で自分の首をしめることにつながってくるのです。無理して、いやな人とつきあわなくていいのです。ただ、その人が使いやすい自分を使っているだけなんだな、とわかる人がわかってあげるだけでその人に直接、働きかけなくても目に見えないところで動いてくるものがあるということは、不思議なんですけど事実なんです。大切なのはいじわるな人が何をしたかではなく自分はどうしたいのかです。いじわるな人に出会ったとき自分はどちらに意識を向けやすいか?それを決めているのも使いやすい自分を使っている結果なんですけどね(笑)
2007年11月29日
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「選んでいる」ある出来事が起こります。それが、気にならなければそこで、おしまいです。夕食の時の、話題にもならないでしょう。でも、「それが気になる心」を、自分が持っていた場合。気になる心というのは、その出来事に対する「アンテナ」が心にあるということですから当然、その出来事と出会った自分には「反応」が起こります。アンテナを立てているから、「受信」してしまうんですね。そして、その「反応」と同時に「感情」が湧き上がってくるのですが実は、同時ではないのです。たとえば、バカにされて、カチンと来るのはワンセットではないんです。まず、「バカにされた」そう思う前に、実はその言葉をバカにされたと受け止めるのかまた別の意味で受け止めるのかといった、「受け止め方の選択」が自分の中で行われています。そして、バカにされたという受け止め方を選んだので「バカにされた」と思います。次に、「バカにされた」と思ったときにどんなレベルで、どんな感情をだすか?自分の中で選択が始ります。この場合ですと、怒りを選択したことになります。そして、今度は、自分が怒りを感じた場合、どんな行動をとるのか?その選択が始ります。それが、反論であったり、暴力だったりします。このプロセスが、とても時間が計測できないくらい瞬時に起こるので、バカにされて、カチンとくることはあたりまえになってしまっています。感じた感情をその場で感じつくすということは、とても大切なことです。でも、今回は、仕組みのお話しなのでこのことは、横に置いておきます。ここでひとつ、知っておいていただきたいことは人というものは、普段、使い慣れた受け止め方、感情を使う。つまり、人は、使い慣れた、自分にとって使いやすいものを継続して使う傾向がある。ということなんです。つまり、同じ、もしくは、似たような出来事と出会ったときいつも自分の中で、同じ反応が起こるのならそれは自分が使い慣れて、使いやすい受けとめ方や感情ばかりを、使い続けるあまり、「選択する」という過程を飛ばしていきなり、そう受け止めるいきなり、そう感じるといった、「パターン」になってしまっている場合もあるのです。その出来事があるから、苦しい。実は、そういうときも、「苦しいと受け止める」「苦しいと感じる」自分がそういった受け止め方や、感情を普段から使い慣れていて使いやすいから、使っている結果苦しいと感じてしまっているケースもあるということなんです。だから、苦しいとか、つらいとか、悲しいとか、虚しいとかそんなの、感じていたくないんだけどこの現実じゃ、仕方ないよな・・・・と思うとき実は、現実のせいじゃなくて自分が苦しいとか、つらいとか、悲しいとか、虚しいとかそういった感情を普段から使い慣れていて、使いやすいからその出来事と、その感情を勝手にワンセットにしてしまっているのかもしれない。と、たまには疑ってみることもひとつの、方法だと思うのです。
2007年11月28日
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「いやなこと」午前2時半に突然目が覚めてそのとき人生の中に「いやなこと」が存在する理由がすらすらすら~とでてきてそこから、1時間半かけて懇切丁寧にその仕組みを書いていざ、アップしてみたら楽天メンテナンスによりあっさりと消えてしまいました。ただ、それだけのことなんですけど。簡単に言うと「いやなこと」というのが本当に存在するのではなくてその「こと」を「いや」という受け止め方をする「個人の心」がそこにあるだけということなんですけど。そしていやなこと、苦しいこと、辛いことがなかなか人生から消えないのは自分の願いを叶えるよりも受け止め方を変えるほうが大切な課題だからです。だからわざわざ、ややこしい親を選んで生まれてきたりとあえて、自分を不自由にすることを自分で選んでやっているわけです。それは「いやなこと」の数だけ自分の受け止め方を変える機会を得ることができるからです。
2007年11月25日
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「今」今、お世話になってる家から自転車で15~20分行ったところに、樹齢1000年を軽く超えるクスノキがあります。この土地には30年住んでいてそれから、この土地を出て、ホームレスになって今年、この土地に10年ぶりに帰ってきて市役所のパンフレットを見て初めてその存在を知った木でした。保護樹に指定されているので周りを鉄柵で囲まれていて直接触れることはできないんですがその柵の外側にいても、即座に手が温かくなるくらいエネルギーに満ち満ちた木です。木にも、好き嫌いがありまして私のことを嫌いな木に手をかざしても手はほとんど温かくなりません。なので、どうやらこの長老は私のことは、嫌いではないみたいです。今日は、手をかざしながら過去のキズについて考えてました。そこで、ふと感じたことは「今」を、ぜんぜん見ていないなということでした。確かに「傷つけられた」という記憶はあるのですが今、私の目に映るものにそのときの状況、登場人物というのはどこにもないんです。ただ、目に見えないものとして私の中にあるだけ。そして「傷ついた」という思いも今、血がでてたり、骨が折れているわけでなくこれもまた、目に見えないものとして私の中にあるだけです。「今、ここ」という現実の世界から見るとそれはもう、実態のない、ただの「情報」にしかすぎないのです。今、ここには、私を腕力で支配したり金の力で支配するひとはもういなくて、「虐げられてきた」という「情報」を持っている自分がいるだけなんです。と、今まで目に見えない情報ばかり意識していま、現実に見えている状況や、人のほうを意識して、注意深く見ていなかった自分に気づけたんです。ただ、それだけなんですけどね。ただ、気づけたというだけでじゃ、これからこうしていくという、気力は、もう、どこにもありませんから。ましてや、いろんなことが見えてきて「誰にも文句が言えない」ということがわかって余計につらいですね。この世を支配する宇宙には感情がなくて人間には感情がある。これが「なんで、こんなことが起こるの?」 の答えなんですけどね。
2007年11月24日
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「受け入れる」どうやら、このことが本当に大切だな、ということをいまさらながら、感じ始めています(笑)そして、受け入れると、感謝も同時にやってくるというのもほんの「さわり」ですけど体験できた気がします。厳密にいうと、やってくるというよりか受け入れた瞬間に憎んでいた対象に自動的に、オートマチックに、感謝を(なぜか理由はわからないんだけど)感じている自分が、出現する、といいましょうか。つまり、こういうことをしてもらったからという条件付きの感謝ではなくただ、感謝できる自分、というのも自分のキャラクターの中にいたんだということを、確認させてもらったといいますか。私が、自分の過去を受け入れられなかったのは、あいつのせいでこのせいで自分の人生はこうなってしまったという、憎しみ、恨み、つらみから抜け出せなかったのはそういった現実を招いたのは実は、自分に責任があったからということを認めたくなかったからでした。つまり、それを認めてしまうと過去に反撃できない自分にあんなことをされたりこんなことをされたりしたことに対して怒りの持っていき場所がなくなってしまうからです。普通の人が経験しないようなあんな苦しい思い。それを招いたのは、自分の責任だとは、思いたくなかった。なぜなら、そんな思いしたくないから。だから、誰かのせいにしてお金のせいにして「させられた」ことにしておきたかった。だから過去を受け入れられなかったのではなく受け入れようとしなかった。自分の非を認めることは過去のあんな苦しい思いをしたことに対する怒りを誰にも持っていけなくなるから。俺は、そんなこと望んでないのに。俺は、そんなこと望んでないのに。俺は、そんなこと望んでないのに。望んでないことが、起こったのは実は、自分のせいだった。それを、認めたくなかった。けど自分のせいであることが認められないから過去を受け入れようとしてこなかったという過去を受け入れられない原因が、わかったとき同時に少し自動的に受け入れることができたみたいでその証拠に自動的に過去の許せない相手に対して理由もなく感謝してる自分が現れて少し、驚いています。どうやら受け入れよう とか許そう とかしてる間はそうすることはなかなかむずかしくてまず現実を招くのは自分 という仕組みを 「知って」それからその「知ったこと」 が自分のからだの中に落ちて本当に理解できるときを待つしかないのではないだろうかということを感じていたりもします。現実は自分が招いているという仕組みを知らない限り誰かのせいにする というところからはなかなか抜け出せないと思うのです。だから「知る」ということは自分が変わる最初の段階で大切なことだと感じました。そして、納得できない知識は放っておくのがよくてあとは、必要なときに芽がでるみたいになっているみたいです。
2007年11月23日
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おはようございます。というのも、さっきの日記書いてごはん食べてたら、急に眠たくなって寝てました。で、そのとき、いろいろ気づいたことがあったので忘れないうちに書いておこうと思います。どうやら、今回、本物みたいです。今までも、何回か、気づいた!、わかった!という瞬間は、あったんですけど。あまり覚えてないんですけど目が覚める前、次々と、今までの疑問の答えがすらすら、すらすら出てきていたのだけは覚えています。具体的には、今、思いだせないですけど。ただ、目が覚めた瞬間思ったのは、自分は、傲慢だ。ということです。それで、今までの過去、今の現実すべて、説明がいくんです。そして、納得してる自分がいるんです。しかも、ただの傲慢じゃないんです。超傲慢 なんです。超合金 じゃないですよ(笑)そう、俺は、超傲慢なんです。だから、この人生なんです。で、それを変えようと思う自分はどこにもいないんです。俺は、超傲慢である。ということに、すんごい納得がいってて、そうであるがゆえに、これからも、どんな現実が待っているか安易に予想がつくのですがそれでも、ぜんぜん、変える気が起こらないんです。それは、変えようとするものではなくて必要があったら、というか、うまくいえませんが「変わるときがくれば、変わる」というのが、なんか知らないけど、わかっていて、「いじらなくていい」というのが、なんか、自分の中にあるんです。そんで「俺は、傲慢でいたかったんだ」ということがわかったときに、これまでの人生、すべてが納得いったんです。「願望実現」なんかに走らなくても、よかったんです。なぜなら、自分が一番やりたいことを、すでにしていたということに、気づけたからです。俺は、傲慢でいたかったんだ。それを、いろんな知識で縛っていたから苦しかったんだな、と。ただ、それと同時に、その知識も間違ってなかったことにも同時に気づけました。実感できた、というか。つまり「人とはこうあるべき」という、先人が残した方向性と、私のしたいことが、異なっている。だから、これまでの私は、無意識のうちに「その方向性の枠の中」からはみださないようにしてきて、苦しい思いをしてきたわけですが、「その方向性の枠」よりも、もっと大きなものがあってその中でひとは生きているということが、わかったんですね。ただ、いつかは、必ず、その方向性にいかないといけないというのも、事実なんですが、(いかないといけない、というのも、ちょっと表現が違うのですが 私は傲慢なんで、この表現を今は使っています)私は「まだ、傲慢やっていたいです」という段階で、だから、この現実を受け取っている。その現実を受け取るのがいやなら、傲慢をやめたらいいという「仕組み※」になっているだけで傲慢であることそのものが間違いであったり、ペナルティの対象であったりということはなく、「そうしたいのなら、そうしてなさい」ということになっていることがようやく、わかり始めたところです。(※「投げかけたものが、還ってくる」という3次元の仕組み)つまるところ、3次元は、ぜんぶ、波動なんですね。目に見えるものも、見えないものも。回転による振動というか、波です。で、感謝とか、謙虚がいいといわれているのはそうであるときの人間の波動が高いからです。で、波動が高い自分だと、何かと都合のいいことが起こりやすいというのが、3次元(物質世界)なんですね。おおざっぱにいうと、そういうことなんです。で、わたしは、都合のいい人生を送りたかったのでそうでない自分を否定しまくって、なんとかそうなれるよう、自分をねじ曲げ続けてきたわけですけど感謝とか、謙虚とか、「そうであらねば」と、思い続けていただけでそれらは、「本当にしたいことではなかった」のですね。私が、本当にしたかったのは「傲慢である」ということだったんです。今回、ここに気づけたんですね。そしたら、不思議と不本意な人生が、不本意でなくなったのですね。傲慢であるにもかかわらず。ユリの球根が必死にバラの花を咲かせようともがいているうちに芽も出せずに、土の中で腐ってしまった。私のこれまでの人生を例えるとこんな感じですね。じゃ、これからどうする?という、方向性は何もないんですね。ただ、傲慢であり続けるだけ。そこから、変化があるかもしれないしないかもしれないし。ただ、死ぬ前に気づけたのであっち(笑)に引きずっていくものが少し減ったのでそれはよかったな、と思っています。
2007年11月18日
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最近、とある依頼で、朝からパソコンの前にずっといることが多いのでひと段落ついたので、歩いて買い物にいきました。その歩いている途中、自分の今の環境、これまでの人生、ぜんぶ、自分にふさわしいからそうなんだということが、妙に納得できました。そしたら、あれがほしいとか、ああなりたいとか、そういう気持ちが、す~っと抜けていったというか。私の今のボキャブラリーではそれを、「あきらめ」という表現しかできませんがお釈迦様のいう、「諦観」って、こういう感じなのかな?ということを、思っていたりして。すねて、あきらめていたころのあきらめとは、また違うあきらめなんです。そうしたら、なんで私がこれまで苦しいと感じていたのか、その理由がわかりました。それは、私の中に「自分は、こんなものじゃない」というのがあったからでした。「自分はこんなものじゃないのに、 こんな現実が来るのはおかしい」という理論が、苦しさの原因でした。でも、「こんなもん」だったんです。だから、過去がそうであり、今が、こうなんです。やっと、この歳になって、そのことが受け入れられる(あきらめられる)自分になれたといいますか。だからといって、なげやりになったり、すべてを放棄してるわけでもなく、すごく、落ち着いているんですね。まさに、経済的にも、精神的にも、豊かになりましょう!という、今、はやりの道とはまったく逆の道をいってますよね(笑)ぜんぶ、あきらめたんですから(笑)でも、思うのは私は、過去の先人たちが、先に悟りを開いた分、追いかけていく立場だからある意味、方向性が示されているから「楽」なんですけど逆に、それに縛られやすい立場でもあったなということです。先に悟りを開いている人がいなかったら「これでいいのかな?」というのは、出てきにくいと思うんです。自分の感覚がすべてに、なると思うんです。今月の初め、とある、上から(笑)の話しが聞ける人に「あんたは、自他の区別がついてない」といわれたんですけど、ひょっとしたら、このことをいっていたのかもしれません。けど、なんていうんでしょう。自分がこうだから、こうなんだという、あきらめはついたんですけどだからといって、自分の好き勝手にしていいわけではなく「それは、スタートの段階だ」ということも、同時にわかってるんですよね。不思議なことに。それは、どういうことかというと、「自分はこういう状況だ」ということと、「世の中に働きかけていくこと」は、別のことで自分の状況が、世の中に働きかけない、他人を無視する理由にはならないということも、同時に納得がいってる、ということなんですよね。「すねない」と、楽ですよね。そして、すねるのは、「自分は、こんなもんじゃない」という気持ちが、強ければ強いほど、すねてしまうんですよね。どんなに気づきがあろうが、何をどこまで理解していようが、そんなの、一切関係ないんですよね。自分がこうだから、この人生であり、この現実である。だから、自分をどうこういじるのではなく、あきらめてしまう。でも、そのあきらめは、自分の向上を放棄するものではない。しかし、そこに、向上に対する執着はない。ことばで書くと、わけわかんないですね(笑)でも、俺は、感じているからそれでいいんです。なんか、ものすごく身勝手な自分の延長線上に、他を尊重する道があるような。道があるというよりは直結してる感じですね。ただ、アプローチの方法がひとそれぞれ、違うだけなんですね。だから、ますます、人に、「ああしなさい」「こうしなさい」といえなくなりそうです。だからといって、それも放棄しないですけどね(笑)けど、自分からはしないですけどね。何に、気づいている、気づいていないって、そんなに大した問題じゃなかったんですね。みんな、好きにしたらいいんですよね。「常識」でくくれるほど、小さなものじゃなかったんですよね。今日は、自分をすべて捨て去って初めて、自分の思いを大切にできるスタートラインに立てるというか、執着と思いを大切にすることの違いに気づけたというか、そんな場所に、近づけた日でした。
2007年11月18日
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「だけが」これだけが正解。私だけが不幸。「だけが」ということばを使ったときひとはもうそこから先へは進めなくなります。ひょっとしたら「動けない現実」というものが本当に「実在」しているのではなく「○○だけが」と思う「心」がひとを動けなくさせているのかもしれません。
2007年11月16日
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「迷い」今までの、私の中で「迷う自分」というのは「いけない自分」だったんですけど、迷わないと「楽」なだけで迷うことそのものが、「いけないこと」ではなかったことに気づけました。わからなくてもいいんですよね。「正解」が早くほしいのは、それだけ早く、「安心」したいからでした。正解を求める前に、自分の内、外、ありとあらゆるものにOKをあげていかないと「スタートラインにすら立てない」ということを、強く感じています。今、思えば自分にOKをあげられない状態で得た正解って私にとっては「自分と他人を差別化する道具」でしかありませんでした。不完全な自分を丸ごと引き受ける覚悟が持てて不完全な自分なんて初めからいなかったことに気づけたんですよね。とにかく、どんないきさつがあったにせよ何に傷つけられ、何にねじ曲げられてきたとしても「これが、今の自分なんだ」とうらみ、つらみは置いといてどこもいじろうとせず「その不完全な自分でやっていく」とどこかで区切りをつけないと根っこが変わらないで葉っぱだけが変わっていくような・・・そんな気がします。過去を許すことは自分が「負け」になることではないんです。「不幸No.1決定戦」はちょっとお休みにして自分が感じていたい「心地よさ」を感じながら人生を生きることをそろそろ、自分に許可してみませんか。いろんな条件が整わないと、そんなのとても感じることなんてできないと思えたとしても、とりあえず、許可だけ、出してみませんか?形だけで、いいですから。
2007年11月15日
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「教え」自分を高めようと、いろいろ勉強しているうちに、自分の本音と教え(他人のことば)がごちゃ混ぜになってないでしょうか?教えとは自分を縛るためのものではありません。自分の思いに自信が持てないからひとのことばに頼ってしまうわけですが教えを守ろうとして苦しいのなら一度、原点に帰って教えに反していると感じつつもやりたいことをやってみてはどうでしょう?それで、思う結果が得られなかったらそこから、もういちど「なぜ、その教えはそういっているのか?」自分の考え方、行動、結果と照らし合わせてみてはどうでしょうか。そこから、その教えを再び、守るかどうか決めていけばいいのではないでしょうか。生きる起点を「間違いを起こさないこと」 に置くと、生きるとはこのうえなく、苦しいものになっていきます。
2007年11月14日
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「後悔万歳!」後悔とは、過去にそのことをしてしまった自分より、進歩しているからこそ、感じることができるものです。進歩のない人に、後悔はありません。何かを責める心があるだけです。後悔を感じるのは自分が進歩した証拠。後悔万歳!進歩した自分に万歳!
2007年11月13日
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みなさん、はじめまして。僕の名前は、甕岡弓男(かめおかゆみお)といいます。「今日のフォーカスチェンジ」でおなじみのかめおかゆみこさんの、腹違いの種違いの弟です。姉に「さん」付けするのもおかしな話しですよね(笑)でも、お察しください(爆)僕は今まで、あまり人様にお話しできるような人生を歩んでいませんでした。でも、今日から、姉を見習って、僕なりに学んできたことを姉の日記をぱくって参考に書いていこうと思います。さて、姉は今日、「やめてもいいよ」という、日記を書いてました。その中で姉は、大切なことは、「選ぶ」ことであって、「つづけること」ではありません。と、書いてました。これは、とっても深いテーマだと思います。そして、深いゆえに、誤解されやすいテーマでもあると、僕は、思うのです。今日は、姉の日記を読んで、「それなら、会社を辞めよう」と思った人にだけに向けて書きます。確かに、姉のいうとおりなんです。でも、心に少しでも余裕のある人は、会社を辞める前に、これから書くことを考えてほしいのです。それは、「あなたは、あなたのことが好きですか?」ということです。「そうです」という方は、会社を辞めたらいいと思うんです。でも、そうでなくて会社を辞めたいと思っているなら、ちょっと、聞いてほしいのです。自分が嫌いで、仕事がむなしいのなら、それは職場の問題ではなく、自分の問題かもしれないからです。なぜなら、自分が嫌いな間は、「嫌いな自分」を、どんな職業を選んで、どこの職場につれていっても、むなしさはなくならないからです。そのことを、会社や上司や同僚の「せい」にしている自分がいないか?確認してからでも、辞めるのは遅くないと、いいたいのです。「何度も転職を繰り返してしまう」「仕事が長続きしない」そんな人は、職場が原因ではなく、「自分が自分を嫌いなこと」が原因の場合もあるのです。なぜ、そんなことがいえるのかというとかつての僕が、そうだったからです。僕は、20歳から30歳までの10年で、50回以上、転職しています。不動産の営業から、ファッションヘルスの店員までそれはもう、いろんな仕事をしました。「自分は正しい」間違っているのは、会社や上司である。「自分で自分が嫌い」なことに気づかずに「正しさ」だけを、追い求めた結果、僕に待っていたのは、おびただしい転職の後、ホームレスの生活でした。「やりたくもないこと」や、「もうやめたいこと」まで一度、決めたからといって延々つづけるほど、人生は長くはないのです。姉は、そういってます。確かに、そうなのです。でも、その「やめたい」 や「やりたくない」 が会社の場合に限定して、「自分が自分を嫌い」だから思っていないか?心に余裕のある人は、そこを見てほしいのです。心に余裕のある人は、です。これが正しいとか、こうしなさい、という話しではなくて必ず、逆にも真理は隠れていて、どちらを選んでもいいということなのです。やめるには、やめるの真理があり、つづけるには、つづけるの真理があるということです。今の自分の状況に応じて、好きなほうを選択していいということです。今日の日記で、姉がいいたいことは「自分にうそをつくな」です。(たぶん)(爆)そして、それを受けて僕がいいたいのは、「自分にうそをつかない」ことは人生で、一番大切なことだけれども、「自分が自分を嫌いでいる」ことに気づかずにそれを実行しても知らず、知らずのうちに、結果的に自分にうそをついている場合もあるということです。「やめたかったら、やめていい」姉のいうことは、真理です。でも、会社に限っていうと、心に余裕のある人は、「自分のことを好き」でやめたいと思っているか?ちょっと確認してみてください。というのが、今日の、僕のいいたいことです。
2007年11月12日
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『執着』よく、いろんな本とかに、「何かがほしいと思ったら、執着しないことです」って書いてあると思うんです。つまり、「ほしい、ほしい」と思っているから、手に入らない。と、そういった本には書いてあるのですが、人が「ほしい」と思わないことなんて、できるのでしょうか?私は、人間やっている限り、何かを「ほしい」と思うことは、なくならないと思うんです。「思わないでおこう」と、思えば思うほど、「ほしい」と思ってしまうのが、人間だと思うんです。それに、では、どうやったら執着しなくてすむのか?といった、「具体的な方法」を書いてある本ってないと思うんです。でも、「ほしい、ほしい」と執着していると、手に入らない。というのは、事実なんです。さぁ、どうしましょう?(笑)となるのですが、私は、「なぜ、それをほしいと思うのか?」という「動機」の部分に目を向けていくと、解決の糸口が見えてくるような気がするんです。それはどういうことかというと、今のあるがままの自分や、今生きているあるがままの環境を「否定」するところから始まって、何かをほしいと思っていませんか?ということです。「これがあったら、こうなるのに」という思いが、「今の自分じゃ、いやだ」「こんな生活いやだ」といった、「否定」から出発しているとしたら、それを「ほしい、ほしい」と思い続けている間、ずっと、自分や環境を否定し続けて、生きていくことになりますよね。それが手にできないと、自分は変われない、生活は変わらない、という思いが強ければ強いほど、ずっと、思い続けていきますよね。そして、「それが手にできないと、自分は変われない、生活は変わらない」ですから、ほしいものに対して「絶対それがなきゃ、だめ!」になりますよね。逆に、「これがあったら、こうなるのに」という思いでも、今の自分や環境に満足しながら、「これがあったら、もっと人が便利になるのに」「これがあったら、もっと人に対してこんなことができる自分になれるのに」といった「よろこびの上乗せ」を動機として何かをほしいと思う人もいます。この場合は、現状に満足してますから、「絶対それがなきゃ、だめ!」ではなく、「なくてもいいけど、それがあったらいいな」です。「絶対それがなきゃ、だめ!」「なくてもいいけど、それがあったらいいな」執着があるのは、どちらでしょうか?「否定」があるほうですよね。「否定」があるから「絶対」が生まれて、「絶対」が「執着」につながってますよね。では、現状を否定して生きている人と、現状に満足して生きている人の違いは何なんでしょう?現状に満足しているすべての人が、現状を否定しているすべての人より、収入が多いのでしょうか?現状に満足しているすべての人が、現状を否定しているすべての人より、健康なのでしょうか?現状に満足しているすべての人が、現状を否定しているすべての人より、恵まれた家に生まれているのでしょうか?そうではないですよね。人それぞれ、生まれ育った環境や、与えられた肉体は違うわけですから、満足して生きている人というのは、なにがあるから満足で、なにがないから不満足ではなく、ただ、今の環境、今の自分を受け入れて生きている人となりますよね。それは、言い換えると、上をみてもきりがない。下をみてもきりがない。今の自分が持っている考え方今の自分がまわりにしている行動今の自分がまわりにしている発言今の自分が自分にしている行動今の自分が自分にしている発言それらに、ちょうど見合った環境、自分が、今の自分に用意されている。ということを、受け入れている。ということです。ですから、現状を否定して生きている人というのは、「私は、私の考え方や行動を、あらためるつもりはありません。 けれども、不都合な部分だけは、取り去ってください」と、宣言して生きているのと同じことになるのです。なにがしあわせで、なにがふしあわせなのか。人それぞれ、基準が違います。だから、人のしあわせと、自分のしあわせは比べることができない。基準の違うものは、比べようがないのです。比べようがないものを、比べると「否定」が生まれます。否定があるから「絶対これがなきゃ」の「これ」が生まれてくるのです。「これ」がないから、苦しいのではなく「否定」があるから苦しいのです。「これ」がなくても、今、生きているのです。今、生きていられるということは、「必要なものは、すでに手にしている」ということです。「ないもの」に目を向けると、人と比べることが始って、否定が生まれます。水、空気、大地、食べ物など「必要なものは、求めなくても与えられている」というところに、目を向けるとそこに否定は生まれません。生きることができて、初めて、「なにかをほしい」と思うことができるのです。その「今、生きていること」があたりまえになってしまうと自分がほしいものが手にできないとき、「なんで自分の人生は、こうも不幸なんだ」となってしまうのです。執着があると、ほしいものが手に入らないと、書きました。そして、その執着は「現状を否定する生き方」から生まれると、書きました。そして、その否定は「すでに手にしているもの」ではなく「ないもの」だけを見ることから生まれてくると書きました。そして、現状に満足して生きている人というのは、その「ないもの」が手にできているから満足しているわけではない、と書きました。では、「これがないから苦しい」と思うひとはこれから、なにを、どうしていけばいいのでしょう?決めるのは、あなたです。
2007年11月09日
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「ありがとう」最近、「ありがとう」についていろいろと実験をしているのですが、どうやら、「ありがとう」という言葉は、いろんな力を持っているみたいです。何かをしてもらったり、何かをいただいたり。そういった場面で「ありがとう」ということは簡単です。しかし、生きているととても「ありがとう」とはいえない場面が多々でてきます(笑)そういった、自分が不快に感じる場面で意識して「ありがとう」といってみると、前回書いた、「視点を変えること」をする余裕が不思議と自分の中に生まれてくるんですね。そのとき、心はついてきてなくていいんです。心は不快に感じたまま、頭の中で機械的に「ありがとう」といってみるんです。最初のうちは、不快という感情に支配されている今まで通りの自分がいます。それを意識して、継続的にやっていくと、あるとき、不快という感情の支配から、ふっと抜けだす瞬間を感じるんですね。すると、今まで不快に感じていたことを、客観的に冷静に見れる自分が、でてくるんです。何の努力もいらないんです。不安や不快を感じる場面に出会ったら、ただ機械的に、「ありがとう」と唱えてみるだけ。それをただ繰り返しているだけで、いろんな変化が、自分の中に起こってくるんですね。どうやら、とても「ありがとう」とはいえない場面で、「ありがとう」といってみることを、繰り返していくことで、自分の「器」というか、許容範囲が広がっていくみたいなんです。それも、自動的に。「ありがとう」は「有り難い」からきています。「有り難い」とは、「ありえない」「めったにない」ということです。だから本来は、自分が得をした場面でのみ使うことばでは、ないみたいなんです。「何でこんなことが起こるの!」という「ありえない」場面も、有り難い、すなわち「ありがとう」みたいなんですね。自分にとって、いいことも、わるいことも「ありがとう」。つまり、有り難い、つまり、「あたりまえ」ではない。いいことが起こったから、感謝ができる。それが起こることは、あたりまえではない。わるいことが起こったら、自分の器を広げるチャンス。それが起こることもまた、あたりまえではない。このことは、しいては、自分が生きていること自体も、「あたりまえ」ではない。つまり、見方によっては、ありとあらゆることが、感謝の対象になる。ということを、教えてくれている気がするんですね。自分が生きていることさえも、あたりまえではない。このことを、本当に理解している人のことを「謙虚」と呼ぶのでしょうね。そして、謙虚な人は、何に対しても「ありがとう」といえるから何があっても、なくても何が起こっても、起こらなくてもグチや不平不満をこぼさずに生きていける。だから生きていて、苦しいと感じることがない。どうやら、「こんなときは、こうするのがあたりまえだろう」「他の人がこうなんだから、自分もこうなってあたりまえだろう」といった「あたりまえ」の数が多い人ほど生きていくのが苦しくなるように「人生の仕組み」というものは、できているみたいです。ですから、機械的にでも「ありがとう」ということはわたしたちの人生を「本来の流れ」に近づける力を、呼び起こすのかもしれませんね。■おまけ■きらいな食べ物や、まずい食事に出会ったとき。「これが、今の私にとって必要な食事なんだ」と思って、「私の体の一部になっていただいて、ありがとうございます」といってから食べると、味がかわります。これが一番手っ取り早く、「ありがとう」の力を体感できる方法だと思います。私はこれで、ピーマンを食べれるようになりました(爆)
2007年11月09日
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『5000円』何で今日のタイトルが、5000円かというと、なんとなくです(笑)深い意味はありません。もしも、あなたが、ものすごく、お金に困っているとします。もう、食うことすらできません。そんなとき、そのことを聞いたお金にそんなに困ってない友人が来て、5000円札をくれたとします。そのとき、あなたはどう感じると思いますか?そのすぐあと、同じ話しを聞いた、別の友人がやってきました。その友人は、あなたと同じでお金に困っています。けれど、今までコツコツ貯めた、1円玉や5円玉や10円玉をビニール袋いっぱいに入れて、あなたにくれました。そのお金も、ちょうど5000円でした。そのとき、あなたはどう感じるとおもいますか?もし、最初の友人と、あとの友人とであなたの感じたものが違っていたとしたら、一体、何が違っていたのでしょうか?どちらの5000円も、お金としての価値は一緒です。そして、「5000円をくれた」という、事実も一緒です。もしも、その同じ2つの事実に対して、あなたの中で、異なる感情があるとしたら、そこにあるのは、あなたの「受け止め方の違い」ですよね。つまり、同じ事実に対して、異なる受け止め方をしたために、2通りの感情がでてきた。ということになります。お金に困ってない人の5000円と、お金に困っている人が、かき集めてきた5000円とに「異なる価値」をつけている、ということになります。お互い、同じ5000円というお金で、「5000円をくれた」という、「事実」は同じにも関わらず。このように、人は、「自分独自の受け止め方」でそのものが本来持つ価値とは別に、自分の中で、新たな価値を作りだしています。そして、その価値を基に、感情が生まれてきます。そして、その感情を基に、行動を起こします。つまり、「絶対的に」「すべての人が等しく感じる」うれしい出来事とか、許せない人が存在するのではなく、「自分独自の受け止め方」で、そう感じているにすぎないということです。ど~~~しても、許せない人がいるとします。その人がしたこと、いったことが、許せません。しかし、その人がしたこと、いったことがあなたを傷つけて、あなたに「許せない」という感情を抱かせているのではなく、その人がしたこと、いったことを「自分が傷つくような」受け止め方を自分が採用しているから「許せない」という感情がでてくるのです。そう、「受け止め方」は変えることができるのです。「私は、何もわるいことはしていないのに、 相手が、一方的に傷つけてきた」という「受け止め方」を選ぶこともできれば、「こんな人が目の前に現れるなんて、どんな意味があるのだろう? 何かのメッセージなのかな? それとも、今まで自分が誰かにしてきたことが、 返ってきているだけなのかな?」といった「受け止め方」を選ぶこともできるのです。そして、自分が採用した「受け止め方」にふさわしい感情が、自分の中から、わきあがってくるのです。ですから、自分が普段、感じていたくない感情が絶えずわきあがってきているなら、相手や環境を変えるよりも、「自分の受け止め方」を変えるほうが先なのです。「受け止め方」を変えたらつまらない人生も、変わっていくのです。「同じ受け止め方」をずっと採用しているから、ずっと「つまらない」という感情がでてきているだけでまわりの人や環境が問題ではないのです。「お金があったら」「あの人が、こうしてくれたら」「こんな自分になれたら」という、「今無い、ものや変化を手にすること」が自分の「つまらない」を解消してくれるのではなく、そんな変化を待たなくても、自分の受け止め方ひとつで、「今、ここ」の「つまらない」は変わっていくのです。「しあわせとは、追い求めるものではなく、 すでにそうであるということに、気づくこと」とは、このことをいっているのです。自分の環境、目の前の現実、そういったものは本来、「無色透明」なのです。そこに、「いい」「わるい」といった「色」をつけているだけなのです。どんな色にするのか、決めるのは「受け止め方」です。そして、「どんな色をつけてもいいよ」と、人には「自由」が与えられています。「自由」と「責任」は、ワンセットです。だから、自分がつけた色にふさわしい「感情」も同時に受け取らないといけません。だから、今、受け取っている「つまらない」という感情を変えたかったらまわりの人や環境を変えようとしないで「自分の受け止め方」を変えていけばいいのです。それを実行してみて初めて、「つまらない現実」「つまらない人生」というものが本当にそこに、存在しているのではなく、中立で無色透明のその現実に対して、自分が「つまらない」と名前(色)をつけていただけということが、見えてくるようになるのです。受け取り方を変えるとは、見る場所を変えるということです。ないものではなく、すでにあるものを見てみる。できないことではなく、できることを見てみる。わるいところではなく、いいところを見てみる。その人のしていることではなく、「なぜそういうことをしてしまうのか」という背景を見てみる。人というのは、みる場所を固定しがちなんです。だから、そこを「意識して」変えてみる。そうすることで、同じ出来事に出会っても自分の中の感情は、少しずつ変わっていくものなのです。
2007年11月09日
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『すべてが、あなたにちょうどいい』お釈迦様の残された言葉で、「すべてが、あなたにちょうどいい」という言葉があります。あなたは、今日まで、どんな考え方で、生きてきましたか?どんな言葉を使って、生きてきましたか?どんな態度で、生きてきましたか?どんな表情で、生きてきましたか?何を責めて、生きてきましたか?何に感謝して、生きてきましたか?何を褒めて、生きてきましたか?何に怒って、生きてきましたか?今日までそうしてきた、あなたの「生き様」にちょうどいい現実(環境)が、あなたの目の前に用意されている、という意味です。同僚に、どうしようもない部下のグチをこぼしている、上司がいたとします。確かに、事情を聞くまでもなく、その部下のしたことは間違いかもしれません。しかし、部下を教え導く立場にありながら、陰で、部下の悪口をいっているその上司に見合った部下が、その上司の下にやってきているのです。つまり、その上司にちょうどいい部下が、やってきているのです。ですから、陰で部下の悪口をいうことを止めない限り、たとえ、その部下をクビにしたとしても、その上司の下には、また、「悪口をいわざるをえない」部下が、やってくるのです。つまり、「どうしようもない」と、部下の悪口を陰でいっているその上司も、その、どうしようもない部下と同じくらいどうしようもない上司だ、ということです。「レベルが同じ」ということです。ですから、この上司は、部下の悪口をいう前に、自分が、陰で部下の悪口をいう程度の上司なのだということに、気づかないといけません。「すべてが、あなたにちょうどいい」のです。このように、グチや不平不満をいっているときは、「自分のレベル」を相手に、さらけだしていることになります。なぜなら、グチをいわざるをえない環境にいることが、今の自分のレベルに、ちょうどいいからです。何かを責めているとき、責めている自分が正しくて、責められている対象がわるい、という図式が自分の中にあります。「自分は正しい」と思っているとき、今の自分にちょうどいい現実がやってきていることは、なかなか、納得できないことなのかもしれません。
2007年11月09日
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