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最近の分けのわからない犯罪について、つくづく考えさせられる事がある。昔の子供の躾と言えば、基本的に人として身に付けなくてはならない最低限のルールを叩き込む事であったように思う。その中には、礼儀作法から日本の歴史に至るまでの人間形成に必要な教訓が脈々として息づいていた。言うまでも無く、敗戦後の日本では、それまでの封建的慣習が一掃されながら欧米型の個人主義が根付いて行ったのである。発言の中で、常に言っている事なのだけれども、この世の中に、一定の真理など存在するはずもなく、全否定されるものもなければ、全て肯定されるものも無いのである。ある意味、全てはバランスの問題である。封建制の中で苦しめられて来た一般市民(身分制度によって下級階級に属していた)にとっては、封建制が瓦解し、対等に物言える個人主義(民主主義とも言うのか・・・???)の台頭によって、それまでの抑圧的な力からの開放で、自由でのびのびとした人生が送られるようになったのは悦ばしい限りであった。然しながら、段階的に変革して行った他国と比べ、突然前触れも無くやって来たその事が、我が国の住人達にとっては、理解する暇が与えられなかったのと同じ状況の中で、多くの誤解が生まれたようである。自由主義や民主主義を標榜する多くの欧米諸国では、社会のシステムが変わろうとも、国としてのアイデンティティは、むしろ強固に堅持されている。個人主義の国の多くは、国を治めるシステムとして民主主義のある形として議会制という政治形態をとっているに過ぎず、国の持つ歴史、伝統、文化とは別物として考えられているように思う。現在の自国の在り方の過程としての歴史、文化、伝統などといった国を形作る独自のアイデンティティはそれなくしては存在せず、それを無視すれば、その国を否定する事になってしまうのである。だからこそ、国が違えば、マナーの在り方も違って来るのである。日本では、武家の支配する時代が長かったせいか、武士や侍の持つべき心得としての礼儀作法が、日本人の根底に流れており、それが、外国人から見る日本の姿にもなっている。武士や侍は常に人斬り包丁を所持している事から、その事についての心得はかなり厳しく躾けられていたと思われる。江戸時代に於いては、大刀を振り回す事もなくなり、むしろ、脇差の重みが増して来る。人を斬る、人を殺すための刀ではなく、自らを処す為のものとして携帯していた意味の方が大きいのである。だからこそ、刃は人に向ける物ではなく、自分にこそ向ける物であり、すべからく、先の尖った物は人に向けるな、刃物を人に渡す時は、刃先を人に向けて渡すな、先の汚れたものでさえ、汚れた方を人に向けて渡すな、と、やかましく躾けられたものである。最近では、野放しの若猿が増えすぎて、物の言い方も知らん、分からん、悪戯に個人攻撃の刃を振るう馬鹿ボンばかりが野生化する時代となってしまった。彼らの親の世代も既に、間違った個人主義全盛の時代だったからこその悲劇ではあるが、日本人全体が考えなくてはならない、悲劇の時代なのではないだろうか・・・???人気ブログランキングへ
2008.03.27
最近、DNAの研究が進み、人類についての解明がなされている。アフリカで誕生した人類の祖先が、幾つかのルートに別れて、それぞれの環境に順応しながら進化し、それぞれの文化を育み、更に、その生活圏を広げていったらしいという事実は、最早、疑いようの無い定説となってきているようである。つまりは、元を辿れば、人類の祖先は皆同じであり、姿形や文化が違えど、人間は同じ血統を持つ同一種族である事には違いないのである。"天に唾する"とは、その同一血統の人類が犯した間違いを、反省する事無く、住む場所や文化が違うだけの理由で、一方的に自らの責任を相手に転嫁した所で、結局己と同じ者に対して責任逃れしているに過ぎないのである。要は、人間は同じ種から発生している以上、人間以上、以下ではないのであるから、同じ間違いを犯し、同じようにしか生きて行けない動物であると言う事である。民族だの人種だのと言ったって、所詮は地球上に発生した、血統を同一になす、生き物である事に何の違いも無いのである。人間以外の動物が、命を賭けて闘争するのは、強い種を守り、種族を存続するためであり、其処に自らの力を誇張するかのような武器は要らないのであり、むしろ、自分の力以外の力を借りる事は意味の無い行為なのである。人間の生活に、貨幣経済などというややこしいものが無かったなら、ここまでして、人殺しの武器を進化させて、兄弟同士で争う事など無かったのではと思う今日この頃である。宗教対立とか民族対立とか勝手な理由をつけて、争いを煽る報道がやたら目に付くけれども、経済抜きで他国と戦争を始める動機など何処にあるのだろうか・・・???日本にしたって、経済抜きで、他国に対して侵略戦争を仕掛けた事など一度も無いではないか・・・!!!一部の利権を握る権力者どもの煽動によって駆り立てられた、頑迷な大衆、一般市民にならぬよう普段から権力者監視を怠らない事が肝心である。人気ブログランキングへ
2008.03.24
全世界数十億人のブロガーの皆様、貴方達がブログなどと言う匿名性の強いシステムによって綴られる想いや意見や批判や苦悩の告白は一体何のために行っているのでしょうか・・・???少なくとも、この社会を混沌とした悪魔の蔓延る火炎地獄に貶めるためでもなく、唯、興味本位で特定の個人を貶めるために始めたものではないものだと確信致しております。人間は、その拙い知能を駆使して地球や宇宙をも征服出来るかのような妄想にとりつかれ、本来の人間の成長とは如何なるものかを忘れかけているようにさえ感じられる今日この頃です。そもそも、ブログなどを始める動機とは、全世界の様々な人間の持つ考え方や、想いや、苦悩や、意見や、批判などに基いて、未熟な自分という一人間個人を更に高めて行こうという事では無かったかと想像致します。人間とは、本当に愚かな動物ですから、宇宙、世界の根本も突き詰められないままに、全てを見てしまったかのような錯覚をし、我こそが最も良い考え方の持ち主だ・・・などと思い上がってしまうものなのです。私が、主に記事にする抑圧者に対する批判は、人間が元々弱い動物であり、弱い動物同士が補い合いながら生きていかなくては、虐待者と被虐者しか生まない集団しか形成しないのであり、互いが互いの個性を尊重し、助け合って生きる、本当の意味での社会の構築のためには、どうすれば良いかを考えるという根本理念が出発点となっております。人間界に於ける真理とは、未だかって誰も解き明かした事の無いものであります。例えば、強力な船頭によって導かれる社会が一概に悪いとも言えないし(社会が熟成する或る過程では必要である事が否めない)、強い者が、弱い者を間引きながら、より強い者を選択しながら構築する社会が絶対に悪い社会と言い切る事も出来ないのであります。将来的に、何れ滅亡する地球上の生命体"人間"がどのように、その与えられた時空の中で生きて行くのが本来人間の在るべき姿なのかを、人間は生れ乍らに、重たい荷物として背負わされているのであります。であるからこそ、個々の人間は、自分の人生に、夢とか希望より、むしろ、不安と絶望の念を深く抱いて生きているのであります。一部の思い上がりの激しい方々は、自分の思想、感情が全ての人々に対して通用するものだとお考えのようですが、彼の人々にしても、一体ご自分の言いたい事のどれだけを表現出来ていることでしょうか。私は、自分の考えている万分の一さえも表現出来ないジレンマに日々襲われており、少なくとも、最低限弱者の立場に立った意見で在りたいとだけ思っております。ですから、その反対意見があっても、物の見方が違っても、それは各人の自由だと考えております。但し、余りにも思い上がった一部の無理解ブロガー様方には、心より、社会の弱者に目を向けられん事を強く願望するものであります。人気ブログランキングへ
2008.03.13
世の中が、悪くなる(乱れると言った方が良いかも・・・?)大きな要因の一つに、最近の若者言葉で言う群れる事が上げられる。"群れる"とはよく言ったもので、こういう事を言う人間達が一番群れたがっているようにも思えるのだがどうなんだろう・・・!!!群れからはみ出した、と言うよりは、はじき出された者の、その僻み(ひがみ)根性から出た言葉にも思えるが、実際は群れの中心にいる者から出た言葉ではないかと思う。なぜかと言えば、その事に一番気付いてない者が往々にして発する言葉が、なぜだか、何時も、重みを持って伝播するからである。何でもそうだが、この群れる(=集団)という行動には、何か生物の憐れ(一人では生きられない寂しさ、とか哀愁)を感じさせるものがある。そしてそれは、群れの力関係によって、苛められる者(被虐的な者)と苛める者(虐待する者)を生み出してしまう。被虐的な者達も、その集団から離れる事を恐れる事によって、何時しか虐待する側に組する事で虐待する者からの庇護を受け、新たな被虐者を生み出すのである。この連鎖によって、何時までも虐待行動は治まらず、無論その群れの中には、個人の論理などと言うものは無く、虐待者の理不尽な論理のみが罷り通る事になる。昔から、私は群れる事が嫌いで、群れている者達を見ると、何時も虫唾の走る想いをしたものである。個性を消し、何でもかんでも上から下への命令によって伝達されるシステムは、たとえそれが間違っていようと、理不尽なものであっても罷り通り、やがて群れの壊滅を招くのである。現代社会に於いても然り、社会でなく、群れる集団であればこそ、個人の人格や個性が打ち消され、虐待者の言いなりとなり、被虐者が被虐者を生む理不尽な集団を形成し、それを社会だなどと誤解しているのである。社会とは、基本的には、人間が、人間を生かすために形成する生産的システムであり、人間が人間同士で締め付けあう集団を社会とは言わないのである。全国の、いじめられっ子の諸君、君達がいじめられっ子であり、群れのつまはじき者である内は、君達はきっと正常な人間であると胸を張って生きれば良いだろう。然しながら、一度群れの仲間になってしまえば、君達はきっと猿以下の人間として明日から生きていかなければ成らないだろう。開き直る、居直る事は、決して悪い事ではない、一度開き直ってしまえば、この世に怖いものなんか何にもなくなるのだ。落ちた猿になりたくなければ、決して自分の中の自分に嘘を付く事無く生きて行く事こそが大事であると存ずる。人気ブログランキングへ
2008.03.11
最近、世の中がどんなに薄汚れた汚いものであるかを理解せずに、やたら自国のみが清廉潔白であるかのような主張が目立っている。要は、人間などと言う者は、どいつもこいつも根底にはしっかりと汚らしい性根を持って生まれているのであり、環境が整えば何をしでかすか解らない狂気を秘めているのである。人間を平等に見れない人間が、己だけは、自国だけは、と、どれだけ主張しようとも、何処の国にも善人は居り、何処の国にも悪人が居るのである。そして、その善人も悪人も極限の状況に立たされた時、その本性を現すのである。人間を平等に扱うと言う事は、まず、人間の本質がいい加減で、汚らわしいもので或る事を認識し、その人間がどうすれば、呪われた素性を発揮せずに生きられる環境を作れるのかを考えなくてはならない。所詮、地球も何時かは、宇宙の藻屑となって消え去る運命にある儚き天体の一つに過ぎず、日本だアメリカだ中国だロシアだヨーロッパだなどと戯言を言っている事は、実に無駄であり、もし神様が存在するのであれば、さぞかし腹を抱えて大笑いしている事であろう。たとえ、どんなに憎しみ合い、傷つけ合う人間同士でも、この世に、その二人だけになってしまえば、助け合って生きていなければならない。そうでなければ、人間一人を人間とは呼べないのであり、相対する一組の人間がいてこそ、初めて人間という認識が生まれるのである。他者を批判すると言う事は、同時に、自分の在り方を問う事であり、他者を認識するからこそ、自分を自分として認識できるのであるから、常に他者を批判する中には、自分への自戒が込められているのである。但し、何でもかんでも、唯、自分達だけに利があり、他者は全て悪者だとする考え方に固執する人々にはその悪者と自分達の内に居る悪者が吊るんで汚い世界を創っている事など到底認める事が出来ないのである。何れ、大人となって世の中にデビューするであろうその時、彼らは世の中の不条理さを身を以って知らされる事になるであろう。人気ブログランキングへ
2008.03.07
昨今、ずっと聞こえてくるのが、責任の取り方である。然しながら、これって少々おかしいとは思いませんか・・・???責任とは、本来負うものであって、取るものでは無いと言う事を皆さんは考えた事はありませんか。責任とは、事が起こらないために負うものであって、事が起こってから取る責任など何の意味も無いと言う事に気付いて欲しいとつくづく考えさせられる昨今である。戦争責任云々についてもそうなのだが、事が起こった後でするのは反省であり、その事について重大な過ちがあれば、処罰されると言うのは、別に責任を取るという事ではないと断言したい。事後、責任を取るというのは、過ちが起きないための責任を負っていなかったと言う事であり、責任を取れない人間を配置した者達は処罰を免れないし、また、責任も負えないのに、その責を担った者も処罰される運命を逃れる事は出来ないのである。今回のイージス艦の衝突事故についても、責任を終えなかった者は、処罰される事を逃れないし、その事は、責任を取るという事ではないのである。敢えて責任を取るという言葉を使うのであれば、何事も起らぬように、全ての管理、指示、命令系統について、完璧にこれを遂行すべく、その責任をまっとうするという事である。最近の日本では、問題が起る事の方が当り前であり、その事が起こった時に誰が責任を取る(処罰される)かが事前事項のような取り扱いをされており、絶対に問題が起らないためにどうするのかという対策は常に後回しにされてはいないだろうか・・・???第二次世界大戦の軍事裁判の時のある司令官が、部下の戦争犯罪について全て自分が被って処刑台の露と消えた話が美談として映画化されたようであるが、本当に処罰される冪は日本国を牛耳って、戦争を始め戦争に拍車をかけた連中であり、そもそも戦争のプロが、戦争状態の場でいちいち統率が取れるような状況が無い事など充分予想がついたはずである。事が終わってからの責任などあるはずが無く、責任とは、まっとうしてこそ責任なのである。もともと、日本の責任の取り方とは、一切の言い訳をせず、自ら切腹する者のみが罪人扱いをされず、言い訳に終始し、自らの失態を認めない者は罪人として、処罰、処刑されていたのである。責任とは、それ程重く、また、命を懸けてまっとうするものだと言う事を改めて考え直して欲しいものである。人気ブログランキングへ
2008.03.03
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