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当時風刺漫画を描いてみた結果。政治には関わりたくはないが、いつまで新55年体制(造語)みたいな状況を続けるのだろう。綺麗な言葉が踊ってもそれが実際に社会を変えなければ何も意味はないわけで、保守政治の限界は30年以上も示されてきたのに何故に民意に変化がないのか? 日本人の頭が他国より悪いわけがないが…政治の欺瞞はずっと見てきたから期待はできないが、憲法は守らなければいけないわけで、安倍政権でなされた生活保護法の改正は、行き詰った人が即座に受けられなければ飢え死にもあり得るのに、保護を受けにくくしているから、憲法違反であることは確かではないか。安倍政権では生前贈与の減税、ふるさと納税での所得減税、格差対応済みの保育の無償化という実質的な富裕層への再分配、マクロ経済スライド下での金融緩和という物価上昇により抑制される年金というつくられた構図による巧みな年金減(特に国民年金の目減りが大きい)、など富裕層のための政治をしても弱者救済のふりをして、メディアも批判があまりない状況だった。富裕層は金融緩和により何もしなくても貯蓄が増え続け、資産格差は増大。低所得層は貯蓄なしが増えていった。その状況で富裕層に税軽減策を重ねていた。教育無償化だとか富裕層増税の流れはその前の旧民主党政権のときの決定だった。金融緩和で資産が増えている富裕層に課税して財政と経済を回すのだから死後に課される相続税の増税などを問題視してはいけない。それらをする際に事前に公的ポジションの人事への介入を繰り返していた。憲法の番人である法政局長官に息のかかった人物をおいたが、首相が介入してはいけないものだった。NHK会長人事もそうだったし、他にもそういうことがたくさんされていた。官僚の人事は従来は人事院がしていたが、安倍改革で上位官僚の人事は内閣人事局がすることになった。大手の新聞メディアのトップ記者との会食を繰り返していたことも報じられていたが、ジャーナリストは権力を監視するのが役割なので、権力のトップがそこと会食することなど許されるはずがないものだった。それに加えて汚職の特売セールがずっと続いていた。今後も追及は続くのだろう。政策報道は小さく汚職報道は多かった。以前はネットで政治批判などを中道左派の立場で書いていたが謀略がされて止められた。僕が書いた批判を朝日新聞が書けなくなるという抑制策がなされたので、政治について直接的に書くことができなくなっていた。いまは大丈夫そうだが、念の為避けている。安倍の汚職問題もまだ訴訟もあるだろうし謀略があったから読むことも避けていた。だから10くらいあるだろう多くの汚職については書かない。(しかしネットで政治批判する人は左翼ばかりで、それを批判するネトウヨはいまでもいるかは知らないが、中道左派の言論が識者にしかないのはどういうことだろうと疑問には感じている。僕がフィルターバブルで左派ばかりの環境にいたから、中道左派に接触しにくかったのだろうか?)フィルターバブル:アルゴリズムがネット利用者個人の検索履歴やクリック履歴を分析し学習することで、個々のユーザーが見たいであろうと推測される情報が優先的に表示され、利用者の観点に合わないと推測される情報から隔離され、自身の考え方や価値観の「バブル(泡)」の中に孤立する情報環境を指す。そういえば朝日新聞が一度ミスをしただけで、メディア戦略により社長の謝罪と辞任にまで追い込んでいたのはあまりにひどかった。フクシマでの被爆報道の誤報とされたものだったが、どうしてか朝日は当時の現場関係者に再取材などをして事実確認をすることさえしていないようにみえたが、連日謝罪報道だった。ほとんど言論弾圧だったのではないか。アベ官邸が裏にいただろうか?とにかく汚職の多い内閣だった。特に汚職報道が連発される前に、彼があれだけのメディア統制をしたのは首相の人間性に依存するものだということがよくわかり、普通は罪悪感と自身の尊厳からできないほどのレベルだが、権力の恐ろしさを一般市民はどれほど認識しているのだろう。民主主義はどこにあるのか?日本は民主主義国であり法治国家なので、当然のこととしてそれは立憲主義に基づいているということだから、どんな人であろうと、特に権力者であればあるほどに、憲法を守らなければいけないのですよ。自民党さんを教育する者がいないのが問題だ。被害については、過去の記述を参照ください。僕の被害の危ない方のものは安倍政権が樹立するにあたって発生しており、特に安倍‐トランプ政権の期間が最悪だった。被害の訴えも十分にできないその期間の被害の悪質性は筆舌に尽くしがたいが、、僕は何も悪いことはしていないのに、トランプ時代に僕を嵌めようとする者が多く来ていたことから、難しい対応ばかりになっている。
2021.01.23
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侵入思考について 一般的な心理現象とは異なる特殊な現象に侵入思考というものがある。侵入思考の定義は「他と区別される、特定可能で、意思とは無関係な、意図しない、繰り返し生じるあらゆる認知事象。この事象は、思考の流れを中断し、課題遂行を妨げ、否定的感情を伴い、制御困難である。」とされる。(デイビット・A・クラーク「侵入思考」 p6)侵入思考 雑念はどのように病理へと発展するのか [ デイビッド・A.クラーク ]価格:3080円(税込、送料無料) (2020/4/30時点)楽天で購入健常者においても意思とは無関係で不愉快な概念を侵入的に経験することは一時的にではあっても日常のなかではあるようで、これは強迫観念という精神医学用語があてられるもの。そういったものは前述の著書には、韓国の大学生だと心配、強迫観念、鬱的思考、怒りの順で多かったとある。侵入思考は強迫観念に似ているが、意思とは独立して無関係なものとして認識され、不快な感情を伴って認知活動を妨げるが制御困難なものとして感じられる思考の一種で、強迫観念のように状況に不合理だと感じるだけではなく、独立した意思によると認識される思考・観念とのこと。目的志向のある思考に比べて、目標が不明確で非随意的な思考の方が侵入思考の制御が困難であったとのこと(同p15)。心配と強迫観念・侵入思考さらには統合失調症における幻聴との違いだが病的レベルの差としてだけの捉え方で計れるものかは明確ではない。侵入思考を危険と捉える患者ほど、幻聴が聞こえる可能性が高いという記述(同p247)。幻聴がある人は恐れている結果を避けるために安全行動をとるが、その結果として間違った予測への反証が得られなくなり苦痛が維持されてしまう。(同p249)強迫観念は何らかの否定的な因子が原因で侵入思考が発生し、そこから疑念と推論がはじまり、認知の歪みなどに基づく誤った評価や解釈なされ、それが複数組み合わさって悪循環に陥るような回路が形成されていることが根底にある。(同p205)意思とは無関係な侵入思考に対する感受性を増大させる5つのパーソナリティ(同p205)・強い否定的感情・不安特性・アンビバレントな自己評価・帰納的で個人特有のナラティヴ・誤ったメタ認知的信念強迫思考における帰納的で個人特有のナラティヴ(物語、談話)に特徴的にみられる推論の誤り(同p207)・カテゴリーエラー 論理的または本質的に異なるふたつの特性または対象を混同すること・一見共通した出来事 時間、空間、および/または原因が異なるふたつの出来事を混同すること・文脈外の事実または見当違いのい具体的情報の選択的利用 概念的な事実が特定の個人的文脈に不適切にあてはめられること・純粋な想像による連鎖反応 説得力のあるストーリーを作り、本当にその気になること・逆の推論 現実に関する推論を現実の観察の後に行うのではなく、その前に行うこと・正常な知覚に対する不信 現実をより深く追及していくことを優先して感覚を無視すること「心配」について心配は強迫観念と比べて、持続時間が長く、より言語的であり(イメージは少ない)、現実的で、さほど非随意的ではなく、行動に移そうという強い衝動を伴うと評価された。(同p159)心配は強迫観念と比べて、焦点が否定的な出来事の結果に向けられる傾向がはるかに強く、苦痛であり、苦痛を感じていることが一層多くの心配を生み、日常的な問題の効果的な解決策につながることが多く、確認行為を引き起こすことが多かったほか、日常生活により多くの支障をもたらした。(同p160)前述は強迫性障害と全般性不安障害の違いなのだろう。不安障害における否定的信念は通常、肯定的信念の後に発生するが、病的な心配および全般性不安障害への移行は、この否定的信念の発生によって起こる。(同p172)メタ認知とは、思考そのものを評価し、制御し、監視する認知のことを指す。大半の認知活動は、メタ認知機能によって監視され、制御されている。(同p168)健全なメタ認知が働いていれば、現実と対応の乖離に気づける可能性が高まる。普通は心配は必要性があるから生じる感情であり、安全であることを確認するまで答えや対処法を見つけようとして、将来の災難に対処できると感じられるまで続けるが、心配が制御不能であるとか危険であるという否定的な信念をもつことで心配を心配する(メタ心配)の状況に陥ることがある。(同p171〜)メタ心配(心配について心配する)は、不安や悲しみといった否定的な感情の増加を招く。こうした感情が問題となるのは、心配するのをやめても安全であると知らせる内的な感情状態に至るのを妨げる場合があるためである。その上で、いろいろな観念が浮かび、感情的な問題や抑うつなどにより症状が悪化して、おかしくなってしまうのではないかと過度に心配するとパニック発作が生じることがある。なるべく心配は制御不能であるという信念にまで繋がらないようにする対応ができることが望ましいが、この問題に対しても前述の「認知行動療法」の手法が有効である。本当にその心配は制御不能なのか、その心配は危険なのか、の検証から始めるのがいいだろう。認知行動療法・心配が普段の日常で起きたときの状況と、その自分の心理を客観的に認識できるようにする。・それらの考え一つ一つが状況に対して現実的か解決に繋がるものであるかを評価する。・非現実的な心配を、現実の状況をより良く反映して、かつ自分自身に助けとなるようなかたちに言い直す。・心配に繋がる不安を修正しながら、心配がない状況であることをこころが認識できるように序々に実践していく。侵入思考はなぜ存在するのか?上述から再引用するが、「侵入思考は強迫観念に似ているが、意思とは独立して無関係なものとして認識され、不快な感情を伴って認知活動を妨げるが制御困難なものとして感じられる思考の一種で、強迫観念のように状況に不合理だと感じるだけではなく、独立した意思によると認識される思考・観念とのこと。」ということで、侵入思考自体は独立した意思であり、本人の意思とは無関係な別のものということになるようだ。僕の個人的見解にすぎないが、侵入思考が本人の意思とは別に独立して存在するのに、本人に侵入してくるという不可解な現象は、幻聴とも異なる思考であることで、また、幻聴というものの由来との区別も曖昧ではあるけれど、もしかしたら過去に得た知識や誰か別の人の発言の記憶が想起されている可能性があるだろう。フロイトの理論を応用すれば、過去に得た何らかの情報が本人が望まないもの、もしくは本人の感情に何らかの訴えをもたらしたにも関わらず本人が拒絶したようなものが、本人の無意識(深層心理)の構造のなかで抑圧されてしまっていたがために、何らかの心理的葛藤やストレスを引き金にして、無意識の領域から引き出された結果、それが侵入思考や幻聴として現れるのではないかということがいえるのではないか。(実際はわかりませんが。)しかし侵入思考および他者の声の記憶は意識という一時現象にすぎず、実際は自分自身とは別のものであるといえるだろう。他者の声にも好ましいものとそうではないものがあるはずで、好ましいものに関しては広く共有されるようなものが多いが、それらを自己に取り込むことも必要なことも多く、その場合は自分自身の理解によって自分の言葉としてなされなければいけない。これらはおそらく、ストレスや睡眠不足などの結果として超自我もしくは理性(正確には異なる概念だが)の機能が低下したがために生じているのだから、十分な休息が必要であるということになる。
2021.01.22
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(日本は法治国家です)権力であれ誰であれ、日本国内では日本国憲法および法律、さらには国際条約を守るべきです。日本国憲法第36条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。第31条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。また公務員に限らず、刑法では傷害(204条)や強行(223条)に罰則がある。日本や米国、中国など主要な国は、拷問等禁止条約に加盟、批准などをしており、国際的にも拷問をしてはいけないことになっている。平和と人権が守られることを希望します。僕は中道左派の価値観を重視しています。北欧志向。福祉国家※。欧州社民主義※。社会自由主義※。社会的市場経済※。未来志向の社民主義+イノベーション。(イノベーションのジレンマ※を社民主義的な社会保障および教育、職業訓練により補って社会経済の維持に必要な産業を維持し再分配の原資とする。日本では難しいかもしれないが、デンマークの社会モデル。北欧社民主義の持続的な経済的発展の理由) ↓自由※、平等※、平和※、人権※、民主主義※、汎愛。利他と救済。男女同権※。言論の自由※。権力の透明化≒情報公開※。敵のいない開かれた社会(※)。イノベーション※。シェアリングエコノミー・共有経済※。均等待遇※。機会の平等※。教育無償化※。学び合い教育(フィンランド教育)*。ベーシックインカム※。福祉※の充実。格差是正※。寛容。多様性※とすみ分け※と互助※。自然主義※。(※はウィキペディアの項目へのリンク)国家も個人もその中間組織(企業や団体)も全て民主化できるかどうかがグローバル化が進む21世紀の課題だと考えます。https://twitter.com/AkihiroFrtn《精神医学の問題》日本の精神医療には問題が多いことは知る人ぞ知る事実だ。不要な長期入院の問題、多量の薬の投与の問題、予算の問題、差別や偏見の問題、様々な社会問題がここに集約されているのかもしれない。日本は敗戦で荒廃した後に復興を目指して開発独裁に近い擬似民主主義により産業を中心にした社会をつくってきたが、そこでは人権や人間性が犠牲にされてきた部分があったのだろう。侵略戦争をして大陸で多くの犠牲を出し敗戦に至った経緯からの戦場での記憶とその罪悪感から、それを払拭するかのように長時間労働でも経済成長に邁進してきた過去の日本。そういう産業社会にあって、その一方的な社会の流れに適応しにくかった者に心身の健康を崩す人がでてくるのだけれど、端的に書くとその際に精神科に行けば軽い心の風邪程度の人が強い薬を投与されて廃人化するというのが日本の精神医療の世界だったようだ。あたかも産業社会の落伍者は不要であるかのようだが、どんな人でも自分の人生があって懸命に生きており、誰にでも人権は存在する。また、社会のあり方に疑問を呈するような人のなかに、明日のイノベーションを担う人材が多くいる可能性があるので、産業の振興のためという間違った正当化があるとしても、実際はそれにすら矛盾していることになるだろう。■問題がある多剤併用の日本での常態化日本の精神科に行くと薬をたくさん処方してもらうケースが多いといわれるし、そういうケースをネットなどでブログやSNSをしている人の情報から確認することは容易だ。伝統的に漢方医療が存在した日本においては、複数の効果を組み合わせて一定の効果を目指すという感覚が手探りの治療者にとっては自然なことに感じられるという可能性もあるが、それにより患者が思考力を失って主訴がなくなりおとなしくなるということの方が重視されているかもしれない。精神科の薬について素人がわかったようなことを書くつもりはないが、向精神薬は昔に比べれば安全になっているとはいっても、脳の神経に作用して知性の源となっている脳機能を抑制するわけで、その際に目的以外の神経にも影響がでるのは回避できない。酷い場合は治療の作用よりも副作用の方が大きくなっても、薬をやめるということを医師が判断してくれるとは限らず、さらにその副作用を治療するための別の薬が処方される。患者が扱いにくい場合は薬によって抑制されるから、問題行動はあるが若々しくて健康だった患者が老人のようになり衰退していって、ある日突然に死亡するなどの状況があり、しかし医療現場はその責任をとることはなく、治療行為を正当化する傾向があることが、これらの問題を報じる側からは指摘されている。気になる人は類書を読んでもらえば納得されるだろう。ゆえに僕は精神科にはいかない。多剤併用についてだが、日本では普通にされているものの、抗鬱薬や向精神薬などがドラックストアーなどで容易に入手できる米国ですら普通は避ける傾向があるようだ。それはウィキペディアの「多剤併用」という項目の日本語版と英語版の内容比較でも明らかで、英語版ではそのリスクへの喚起が大半だが、日本語版では現状追認と注意程度でしかない。医療の発展は治療経験の蓄積からなされるが、米国のような新しいことに積極的にチャレンジする国でも様々な試みがなされてきた過去があり、あらゆる(なかには医療とは思えないものも含まれるようだが)療法をする医師が多くいて、その経緯と結果からすでに多剤併用には治療効果よりも副作用による問題が大きいということがわかっているので、明らかな治療効果が他に比べてなければ避けるのが普通だろう。(ここでは出典は避けるけれど、比較的最近に海外の事例を知りたくて読んだ米国の精神医療に関する著作でも普通は1~2種類で多くてもまれに3種類であり5~6種類以上という多剤併用の事例は例外的な問題である趣旨があった。)■先進国で異例の精神科のベッド数と入院日数日本の精神科のベッド数が他国と比べて極端に多く入院日数も長いという話がある。精神科のベッド数は人口千人あたり日本は2.63で先進各国(OECD)平均が0.68で、入院日数は日本が30年前の500日から改善しても300日に近いが、他の国は多くてもせいぜい100日程度で普通はそれよりずっと少なく一ヶ月以内だ。その理由に入院費用の保険点数が精神科においては低くなっているため、たくさんの人を入院させないと赤字になるという問題がある。その背景に社会的な隔離政策としての社会的入院などがあるのだが、他の先進各国ではそのような対応はされていない。日本の場合はこの分野に限ったことではないが、スタッフの不足からすぐに身体拘束に頼るなど、人権が保障された現代社会では考えられない対応を精神病院がしているようだ。拘束された人の立場からすれば、到底許されるものではないが、スタッフが少ない場合はどうしようもないケースもあるかもしれず、日本の福祉国家としてのあり方に問題が大きい。(それは生活保護の現場やDV及び児童虐待などでも同様で、現場の人員不足と予算不足が、社会で弱い立場に立たされている人たちの人権を脅かしている。)日本に関しては精神疾患が寛解した人たちですらいまだに入院隔離されている現状があるので一般社会に戻れるようにすべきだが、精神疾患などへの差別意識が払拭されておらず、地域の賛成が得られないという状況があるようで、その背景に精神医学への無知からくる一般市民の不要な恐れと、それへの政府の無策があると思われる。精神疾患の人への無知からくる誤解による恐れのなかに犯罪との結びつきがあるが、実際には「精神疾患のある人の犯罪率は一般人の十分の一程度」というデータもあり、彼らはおとなしくて元気がないので犯罪などはしない人たちがほとんどだ。誤解を払拭して人権が守られる社会にしなければいけないだろう。■どういう経緯で精神医療に陥るのかむしろちょっと元気がなかったり、会社や家族とのトラブルで弱い立場の人が精神科にかかった結果として、徐々に多剤投与に至って人生が崩壊した人たちなどの患者が多くいるはずだ。なかには睡眠不足で精神科受診しただけの人もいるだろうし、いじめの問題や会社でリストラされた人などもいるだろう。DV被害を受けた女性が夫に精神疾患扱いされて入院したケースなどもあるようだし、昇進競争に敗れて調子を崩した人もいる。普通に生活していただけなのに、何かのドラマなどの影響によりある日突然に世界がひっくり返るかのような恐怖に駆られて精神科を受診した人もいるかもしれない。多くは何か普通ではないことがあって調子を崩して、しかし内科や脳外科などの疾患がなかったから精神科に行ったみたいな人たちではないのか。そこで診断次第では向精神薬が処方されて、その副作用によりちょっとものごとの見通しが悪くなって調子がよくないだけの普通の人たちでしかないのかもしれない。もちろん重度の人もいるだろうけれど、精神科の薬もかつてほどの副作用の強さがないようだから、といっても副作用が軽いというわけではなさそうだが、少なくとも廃人になるような薬が減っているので、以前に比べて重度の精神疾患が激減しているといわれているが、だからといって安易な投薬が安全というわけではないのだろう。■精神医学における分類そもそも精神疾患とは何なのかということだが、神経症(不安障害、強迫性障害、解離性障害など)、鬱病、双極性障害、統合失調症、その他(てんかん、薬物性の精神疾患など)に分類されるもの。神経症のうち、不安障害は対象が不明確でも不安が非常に強いもの。強迫性障害はどうでもいい考えが浮かんで自分の意志ではどうにもならないもの。解離性障害は自我が解離してしまったり不自然な疎外感に覆われるもの。こういう症状により疲労感、集中力の低下、焦燥感、不眠や頭痛、神経症性疼痛で悩まされる。鬱病は抑うつ気分が強まり意気消沈して抜け出せなくなるもの。双極性障害は逆に気分が高揚して誇大妄想などがあり抑制が利かなくて様々なことをするが上手くいかず抑うつ状態に移ってそれに周期性があるもの。妄想や幻聴が伴うものは統合失調症とされるが、破瓜型、緊張型、妄想型に分けられる。破瓜型は比較的若くて純粋な人がかかるが妄想や幻聴があって無気力になり予後が悪い。緊張型は異常な興奮の後に無気力状態になるが予後は悪くはないものの再発傾向がある。妄想型は30~40歳と比較的遅く発病し被害妄想などに囚われるが人格は比較的保たれる。それ以外に単純型という妄想はないが意欲の低下が続くものがある。精神疾患にもいろいろあるが、アルコール依存症により精神疾患と同じ症状がでることがある。■注意僕の場合は下戸なのでアルコールは飲まないが、幼少期から神経症で苦しんでいる。これは僕の子どもの頃からの知人なら上の神経症の記述をみてもすぐにわかるだろうものだ。ここの目的だが2012年の後半にある特殊な被害状態になった結果、悪質な見えない者に巻き込まれて、かなり酷い目に遭っていることの訴えであり、それが統合失調症かのようにみえるだろうものだが、憑依は解離性障害の一種で、もしかしたら何らかの技術的人為性のあるものかのようであり、それからわかるのが精神疾患は人為的につくられている可能性があるかもしれないということだった。しかし、この記述こそが統合失調症らしいという手法で医療者は理解するのが常であって残念だ。僕の場合は神経症が酷かっただけだった。 メディアに関する関係念慮 があったかもしれないけれど、それらの妄想の類いは統合失調症一般にあるものであっても、過去の様々な不可解が実際は何であったかを2015年以降に知らされている。妄想にみえても実際に過去にあったのだから仕方ない。なるべく忘れるように努力はしている。これは秘密ですが、長期の誤解等から背後霊に嫌がらせを受けているので、回避したくて書いています。※2016年ごろに以下のことに気づかされる前から、以下と同じような経緯と状況などがあることなので、それらは僕の妄想ではないから、それは理解してもらわないと誤解されていろいろと困りかねないので注意してください。お願いします。ぼくが背後霊に抑制されると、それで周りもその影響でいくらか抑制される現象は、30年以上前から確認している。 順が逆なのかもしれないが、何かがある。ぼくの進歩的な中道左派か中道の属性は総合的には記号的に仕組みで決まっているらしい。独:フランクフルトとエルフルトでフルトが2つ。英:ブリタニア。仏:ブルターニュとアキテーヌ。ヘロナ (Geronaはスペインのカタルーニャ州)。アメリカにはフルトン郡が8つもあるが蒸気船の発明家フルトンから命名。日本:名古屋(谷?)、秋田、安芸‐広島。主要先進国とイノベーション? ちなみに欧州は社民主義国家群で米国はリベラル国家です。日本は自由民権運動によりいち早く近代化した国です。再掲フルトが2つ。ブリタニア。ブルターニュ、アキテーヌ、ヘロナ。フルトン。名古屋(谷?)、秋田、安芸‐広島。十口 :く口 章彡 氵告 妄想でしようか?僕の同級生の優等生は左っぽい子が登校拒否。中道左派の左側の僕は不可解な不調。中道の又従兄弟も少し不調。保守っぽい子は好調。非優等生の生徒会での活躍。この世代が社会に出てから統計に影響が出ている。まるで日本だ。日本には健全な民主主義が必要ということになる。進歩的福祉国家志向(中道左派)のぼくだが、冷戦(1989年)、旧社会党(1996年)、旧民主党(2016年)の崩壊時に不調になっている。 理系と芸術に極だって優れた(=イノベーションができる)ぼくのような者が抑制されていなければ、この国は底から崩れることはなかっただろう。こじつけではないのですけれど…日本は失われた30年を経験している。1996年に日本の社会党が崩壊し、翌年に絶不調になったが、その頃に欧州でこの論文数が減っているのる偶然だろうか? 2004年頃には日本で論文が激減している。 ぼくの手造り3DCG年賀状だが、平成14年(2002)のあとに抑制されて簡単なもの(平成20年(2008)のもの)しかできなくされ夢を一時諦めた。ぼくは少年期からずっと中道左派 (リベラル左派/政治:民主主義、経済:社会自由主義、スタンス:進歩主義)なのだけれど、元理系でもある。ただ芸術系の要素から性格的には理系ではないのに、知能傾向が理系なので、理系の人々と一緒に抑制されたのかもしれない。背景に何があるかはわからない。ぼくは中道左派だが、2006年右翼アベ内閣のとき政治話題から一時的に離れている。しかし教育基本法の問題を耳にして戻ったことを憶えている。当時のぼくの批判は、道徳教育に関して「大人が子どもの心に点をつけて評価してはいけない。自己評価だけでいいのかという意見もあるにしても、心はその人個人がずっとつき合うもので、昨日や昨年の自分より成長していればいい。おそらく他者に評価されることは利益より弊害の方が大きいことは理解できるはずだ。」という趣旨だった。これを理解できなかった人が、主観評価が問題であるという「謀略」をしたかもしれないが、心に関する主観評価は他者と比較するものではなく、昨日の自分より心が成長していればいいだけだ。2009年から政権交代に伴い調子が改善した。そのときに政治より自分の人生の改善をした方が総合的によかったかもしれない。2012年末アベ総理が再登板して不調に陥っている。2016年に日本の民主党がなくなり背後霊がくる世界になって大変だった。フランスでも社会党2017年に弱体化した。 この朝日統計は偶然か?こういった偶然かのようにもみえるデータとの関係だが、第二次ベビーブーマー世代が氷河期世代でもあり、その世代のぼくに不可解な被害がずっとあることに対しぼくは関係性を否定できない。その後だが、16年の背後霊により頭痛薬等を頻繁に呑むようになったら…(2023年4月、朝日)おかしな被害で苦しんでいるのは僕だけではないようです。薬は何年も前に民主党が崩れて背後霊老人が憑依したことの問題が大きいが、僕が優しい男なので老人憑依により意識が少女と誤解されるかもしれず、しかし不可解だ。麻薬が取り締られただけならいいが、総数統量がこのグラフではわからない。16年に民主党がなくなり、少女たちを守る強い政治勢力がなくなったせいなら心配だ。追記です。説明は省きます。ある特殊なまるで精神病かのような被害状態だが、技術的にそれが可能であったとしても、どうしてそういうことが起きているかは推測の域を出ないが、この被害が軽減すれば、単なる神経症に戻るだけで問題がなくなるのに、加害者が加害してくることにより訴えざるを得ない状況が継続しているのをどうにかしなければいけない。僕自身は健康で正常なままなので、たとえ神経症ではなく統合失調症だとされても、すぐに寛解できるだろう。(そもそも精神医学のある権威が、統合失調症は放っておいてもやがて寛解するということを書いていた。)健康には十二分以上に配慮して生活してるのです。大丈夫でしょう。生きる。生きる。生きる。大丈夫でしょう。■謀略?端的に説明する。幼少期から40年も長期の被害を受けている。あまりに被害が長いので何が本当か理解されにくいものになる。僕はもともと知性があるのだが、この被害で抑制されることが多く困っている。終戦から5年の1950年にレッドパージ(共産党とその関係者への公職追放)があり、祖父がその頃に電力会社を辞めているようだ。祖父は学年トップだった人。山奥のド田舎なので学歴はなかったが、そういう時代だったので電力会社勤務だった。戦争には行っていないからBC級の追放ではないだろう。戦中に官製労組にいたらしい。公職追放の頃に失業している。調べてみると電力会社でもレッドパージがあったことを被害者の訴えなどで確認できている。祖父は戦中に官製労組にいたようで集合写真もあったが、この場合は社会党のレベル(当時あったのは社会大衆党)であり本来は公職追放の対象ではないはずなので、戦後に何があったかは知らないのだが、祖父は冷戦が終結する頃の平成元年に他界しており実際のところはもう誰にもわからない。戦中にマークされた左翼者が祖父の住む小さな町に潜伏していて後に九州に逃げて行方を眩ませたことを12年頃に地元紙の記事(うちはずっと朝日ですが)で続んだが、祖父が関係していたかは不明。ただ、ここはド田舎なんてものではないので、電力会社を辞めると実際に公的機関以外にはそのレベルの仕事に就ける保証はなく、その後は小さな個人工務店で薄給だったようだ。父に関してはロッキード事件の頃の僕が6歳のときに他界しているので何も知らない。祖母が言っていたのはいつも百点ばかりとってくる子だったということ。祖父が学年トップだったらしいので父も勉強はできたようだが、非常に山深い町で、当時は学力があっても学歴を得るとは限らなかった時代であることだけでなく、それ以上にお金に困っていた可能性があって、父は中学を卒業してそのまま名古屋に働きに出たようだ。名古屋ではどこかの会社勤めを経てタクシー運転手やバーテンをしていたらしい。お金がなかったので進学しなかったようだが、旭丘高校の定時制は出たらしいということだった。結婚して高級車に乗っていたその父が早世しているので子どもの頃から非常に生活が苦しかったのは覚えている。父の死後は田舎で仕事も少ない土地なので適性にあうものがみつかるまで、しばらくは母が職を転々としていたようだった。人に好かれる人だったので友人も多く助けてもらえることもあったと思う。しかし自分の問題とは関係なく不幸な状況に陥った人の身になって考えてほしい。父が早世していることに加え、日本は女性の賃金が安く(当時の時給は5百円程で、それだとフルタイム労働で年収百万円。平均が5百万円くらいだから安すぎる) 母子家庭の貧困率が5割の(先進国では異例の)社会であり、加えて度田舎の低賃金の問題も大きく、そういう状況のために教育という観点からは全てが崩壊しているという環境だった。(様々な問題があった結果として何とか医療技師をしていた僕が憑依被害で失業しており、それ以前からも母はずっと働いているから大変だと思うけれど、この問題の難しさはどうすることもできないもので、しかし何とかできる可能性があるので頑張っているところだ。)父が死んで僕も鬱状態が酷かったのだけれど、それでも何とか学校に通っていた。あの頃はできることもできなくなる鬱の状態だったが、すぐに曾祖母も他界して離人症のように、ものごとがすべて遠くのラジオの声かのような状態を経験している。周りは元気のない子程度にしか捉えていなかったようだが。しかし、子どもやがてそれを克服して小学校高学年から中学生の頃は、クラスで一番友だちが多い子だった。いつも友人に囲まれていたし、休日も家に十人くらい誰か彼かが来ていた。それでもその後もおかしなことが多かったが、それらの要因が後述の問題のような謀略的なものであったことは、ずっと後に知ることとなった。それでも僕に関しては祖父などの知性が遺伝していたので、劣悪な教育環境でも頭だけはよかった。これを書くのは謀略によりそう見えない罠のような状況が次々と起きていたからで、誤解されたくないからだ。幼少期に学習を妨害するような様々な抑制や被害的状況があって、本来的に僕の性格だと学ぶことを好むだろうに、それが妨害されてできないという、一般には理解されにくい特殊な技術による被害を受けていた。それゆえに知的能力が高いのにそれが発揮されにくいという状況がつくられていて、普通に考えればそれは僕の誇大妄想かいいわけとしか理解されないということになるのだが、それでも記憶力が良かったので徐々に勉強もできるようになり小学校や中学校で推薦や選挙により学級委員長をしたりしていた。それでも昭和時代は、まだ家で宿題をしたり勉強をすることを抑制されてノートも開けないようにされていただけで、授業自体は普通に受けられたから小中学生だと記憶力が非常に優れており理解力が高かったので、そんな状態でも成績はいい方だったため、母子家庭ということもあり高校には優等生しか受けられない当時の日本育英会の無利子奨学金を得て入った。当時としては2%の狭き枠だった。平成に入ってからバブルと冷戦が崩壊したが、非常に不調の度合いが強く、授業以外に勉強させてもらえない状況を不可解な技術(後述)により精神疾患的につくられていたが、それでも成績がトップクラスだったので、高校では授業中に不自然に記憶を消されることが頻発して、ひどいうつ状態かのようだった。しかし勉強以外は記憶力がよくて(まるで新型うつかのようだが)、J-POPなどは2度聴いただけで伴奏なしのアカペラというか鼻歌で歌詞を全て覚えて歌えたし、記憶量が少ない数学の期末テストは直前の10分休みに公式を覚えればいつも学年トップの点数…千人の高校で最後の難問をいつも解けたのはぼくだけだったから被害がなければ旧帝大に行くはずの子だっただろう…だったので答え合わせのときに模範解答にもっていかれていたせいで復習の機会が失われたが、ただ、そういうのは範囲が狭い期末テストだけで、模擬試験は入学した頃に理系科目で偏差値78(上位0.3%)をとって以来どんどん落ちていき、原因不明の体調不良で出席日数が足りず春休みに学校に行かなければいけなかった。高3のときには受験どころではなく、酷いうつ状態で全身鉛のように重くて勉強どころか卒業できるかどうかだった。そのときにも不可解な謀略 (詐欺師が来たなど) が多重に仕掛けられており途方に暮れるばかりだったのは確かな事実だ。(僕の記憶と思考だけに、それが僕に特徴的なものであることは僕自身が確認できるし、それが可能なだけのメタ認知や客観性が僕にはあるので、そういった事実が事実であり、妨害さえされなければ僕はおそらくそれなりの知的社会的成功ができたはずだ。)考えてみればそれ以前から定期的(おそらく米大統領選挙の年)におかしなこと(書けばきりがないがよく計算されている謀略だけに誤解されるだけで読む人が路頭に迷うようなものでしかない)が多くあったように思う。これは一般的にはただの妄想かいいわけに思われるだけかもしれないが、たとえそうであっても不幸な環境におかれた人が能力があっても落ちていく日本の実情であるという理解はされるはずだし、実際に日本の母子家庭の貧困率が(当時から最近まで)五割という異常な高さであり、教育への公的支出が先進国では異常に低いこともあって、他の先進国なら起こり難い状況があることくらいは認識されるだろう。非常に不幸な状況が続いても、被害があって簡単にはいかないのだが、背景にメディアと政治があるように思える。僕は中道左派だが日本は保守支配が続いている国で、他の先進国なら中道左派は成功しやすいはずだが、僕の場合は不可解な被害が続いていた。日本のバブル経済が世界を席捲していたときだから、僕のような進歩的な左派系で数学と美術が際立って得意だったイノベーションの担い手がうつ状態にならなければ…被害を受けてやられたということなら統合失調症ということかもしれないが…そもそもバブルで税収が多いときに大学の授業料を2万円から50万円(私大だと120万円)に上げて学生寮を廃止していく流れは格差が拡大するなかでは不可解だったが、その影響がどの程度あったかわからないにしても、問題がなければその後の日本経済と社会の停滞は避けられたはずだ。■罠…?僕が長く中道~中道左派の政治に関係しているかのようにみえる状況が子どもの頃からある。そういう状況で僕の方に何かがあるが、その隠蔽のために父の時代に親戚(血縁者の配偶者など)や同級生(名前付け=ニクソンガウォータゲートで退いているが…その頃、や誕生日)、近所にまで工作がされている。まるで僕は妄想のある精神疾患だが。。。ゆえに調べても誤解される可能性ばかりになりかねない状況がある。僕が生まれる前にカナダでの秘密実験が被験者の息子が医者だったため暴露された事件(別途一般書籍等お調べ下さい)があり、それへの対策がなされた後にみえる。僕の同級生の優等生は左っぽい子が登校拒否。中道左派の左側の僕は不可解な不調。中道の又従兄弟も少し不調。保守っぽい子は好調。非優等生の生徒会での活躍。この世代が社会に出てから統計に影響が出ている。上述の公職追放された可能性がある祖父が冷戦崩壊のときに他界しており、親を反面教師にしたのかはわからないが写真をみるとインテリヤクザかと誤解しかねない高級車に乗っていた父はロッキード事件のときに早世している。ロッキード事件はそれまでの社民主義の底流があるリベラリズムが、格差が拡大するリバタニアリズムを基調とした「ネオリベラル」(レーガノミクス)の時代になっていったきっかけのようだった。(55年体制から数年後に日本の共産党が米ソの核合意に反対する中国に合わせたため、ソ連の資金が日本の社会党に渡って、そのため政権交代のない政治になった可能性のある日本社会の不幸がどう関係しているかは不明だ。)冷戦の崩壊はソ連と東側陣営の崩壊であり同時に日本のバブル経済の崩壊でもあって、社会主義が失敗したという烙印を押された結果、その対極にある「ネオリベラル」というレッセフォールな競争と格差の時代への本格的な突入になっていた。(約30年の新自由主義の時代に政権交代で非自民与党が2度(計4年間)あったが、本来なら他の先進国と同様に活躍するはずの社会党系は非常に地味な感じになっていた。)あたかも父と祖父の不幸と世の中の変化に関係があるかのようだが、故に僕は右翼左翼は避けているのだけれど、僕の運命利用が中道左派だったので、それから外れることが社会の未来にとって不幸になるような利用があるかのようだ。というのは僕が大学受験の際に酷いうつ状態で苦しんだときに、日本の「失われた20年」が始まっている。また国家資格を得て就職したが原因不明の体調不良で失業し、再就職しても失業したときに、旧日本社会党が崩壊している。旧民主党政権の崩壊から神経症のひどいものでしかなかった被害が、統合失調症かのような被害状況になっており、一昨年末から酷い謀略被害を受けて同時にコロナが世界に広がっている。コロナ禍で五輪の開催が危ぶまれていたが、いまは決して1940年の辺りの時代ではない。同じようになるわけではないと思っていたけれど、大丈夫だったようだ(追記)。父や祖父の不幸のときに社会のターニングポイントになっていたかのようだったが、僕には子どもがないので中道左派という価値観と立場は普遍的で重要だから自分は大丈夫ではないかと感じている。死ぬつもりはないし、家族も元気なので大丈夫と信じる。生き続けます。長年に亘って何者かに次々と脳が同期されており困っている。憑依は神経症性ヒステリーてんかんの一種だが、この問題があるがために誤解される懸念があって困っている。この問題による妨害さえなけれぼくには社会で活躍できる一定の武器があるのでいくらでもやり直しも成功も可能なのです。目に見えない背後霊による生活妨害、作業妨害で困っています。僕は何も悪いことはしていません。憑依現象等は解離性同一性障害の一種とされますが、他者の意識への介入はしてはいけないもののはずです。生活妨害、作業妨害をしないでもらいたいのです。 幻声とは幻聴のことですが、かなり離れたところにあるのが精神医学的な一般のはずです。また侵入思考とは非常に軽い精神現象なので、幻聴など重い精神疾患と異なります。また憑依という解離性障害が統合失調症一般より重いのはあり得ないことです。意識介入してボケ防止している憑依者が、その人のわかる範囲で他者の意識を使ってつくってきた部分意識があるらしく、その人たちが繋がったときに他者の意識で何をしてきたかわかるようで、実際のところはボケ防止を誤魔化したりしているらしいのです。意識を部分的に合成される撹乱で困っています。多様な人が共存する世の中は、なるべく普遍的な観点で、典型と例外の全てに問題が生じない言葉や対応が望まれます。プライベートや専門は各個人のものなので、それぞれ尊重して関与してはいけません。 -------------------------------------------------------人の意識を読む人たちの問題行為があり、人の意識を読まない僕が誤解されて、認知症者に憑依されて困っているのです。これらは僕にとっては幼少期の1980年代にはあった可能性があるのです。僕は誰にも憑依されたくないのだけれど、離れてもらっても老人が憑依してくるのか、残っているのか、という問題が生じて非常に苦しんでいるので、くっつかれても相方気にならない人がもしいるなら有難いのかもしれないけれど実際はそういう人は極稀にしかいないだろうことに加えて、もしかするとこの被害の問題や相手の欠点などで相方に爬羅剔抉(※)になっても困るでしょうからね。(※ハラテッケツ:隠れた人材をあまねく求めて用いること。また、人の欠点や秘密をあばき出すこと)また、平凡な(場合によっては超高齢の)老人が誤魔化して憑依してきて、それにより僕は能力低下しているのに老人は向上するので、僕のふりをして老人が優秀な別の人がくっついたと(嘘や誤解等を含めて)言い張って僕を困らせる状況が続くのは、抜け出さなければいけない構図です。しかし、過去に貶められる罠ばかりだったので説明しておかなければいけないのですが、能力は生まれつき高いのに保守支配の日本で進歩主義だからか、優秀にみえなくされる手法で誤魔化されて一般に比べて損をしているのですが、遺伝的優秀さは覆り難いものです。(僕と認知症者などを含む誰かが意識に介入してくるので誤解されやすく、対応されると誰かが別対応にしたりすることも多く複雑化は避けたいのですが、相変わらず不要の批判を言わない僕のふりをして文句を言う幻声に困っています。このような他人が意識に介入できる手法の利用は改善しないと社会の底が抜けてしまいかねません。)事実を主張したとき、嘘だという幻声があって困っていますが、意識に介入されて事実を嘘かのように理解される構図があるかのようです。別途、事実が妄想である構図との関係や、誰かの妄想かもしれないけれど僕には嘘にみえる憑依者による幻声も気になります。事実が妄想である構図とは、過去に憑依者がしたのか誰かがしたことが憑依者のせいにされた多重構造があるかわかりませんが、それらに関係があるかのようにみえて実際は直接は何も関係ない僕のせいにみえるかのように憑依者が来て、権力しかできないことをブレインハックを含むハッキングにより誰かが記述したことがあり、その罠の回避措置をしたことがあります。一般には妄想処理されることばかりですが、それら以外の事実までもを嘘扱いされると困るのです。 -------------------------------------------------------憑依による過去30年の経緯が僕に問題を起こしていることが分かるように配慮されているようです。長期的な憑依の問題はたとえば小学生のときなら成績最下位の人の声が聞こえてきて何も分からなくなるような種類のものですが、僕は知能が高かったようで、それでも学力は十分ありました。本来はトップになる人が平凡な優等生に堕ちていたかのようなものかもしれません。過去にあって続いていた問題ですが、低能力の憑依者が有能者をバカにして意識がいい立場をとるから意識介入で有能者が抑制され、低能者憑依の結果おこる問題をその低能者が人のせいにして、問題が起きない人で問題が起きているかのようにみせられているので困っています。本来は僕では何も問題が生じない状況において、憑依者がトラブルを起こしているのに、低能者憑依の結果おこる問題をその低能者が人のせいにして、問題が起きない人(←この場合は本来は僕だった)で問題が起きているかのようにみせられていることが問題視されて、僕が誤解されないように超高齢者が憑依でボケ防止して生きているのも問題ということになるでしょうか。結果として有能者が低能者に憑依され続けて低能者になるなら後天学習だけの人だが、妨害され知識が本来より乏しいだけで知能が高いなら先天的に有能だったということになるにしても、ひどすぎる妨害による生活面の副作用が残っているので、それをどうにかしなければいけないのです。分かりやすくする目的もあって、端的な表現が使われています。あしからず理解ください。 -------------------------------------------------------ものごとは未来に向けて改善していくものです。問題に怒るために犯人捜しをしても社会の本質にある構造問題は解決にはならないので、改善する方向で人権を護りながら解決していけばいいのです。例外が多い僕のようなタイプに先入観から一般的な思い込みで対応がされると困ることがあります。介入可能性のある誰もが常に他者の意識と意識距離を大きく離してもらうだけでいいだけということなので、改善は可能です。僕の頭は、空間的かつ構造的な関係性を言葉や概念で結びつけてものごとを捉えるので、文章はいくらでも書けるけれど、思考は理系的なので記号によることが多く、ほとんどのケースで新しいことを捉える場合においてのみ文章的なだけであり、本来は思考が速く文章的ではあり得ないのです。価値感は多様に存在するものだけれど、他者と共有するものもあるでしょう。しかしそれは一定の価値集団に普遍的なものであるからであって、プライベートやその人の専門はその人個人のものなので、それぞれ尊重して関与してはいけないのです。30年に渡って何者かに次々と脳が同期されている実験を受けているが、この被害がなければぼくは有能なので、何らかの成功ができていただろう。苦手な英語ですら同期被害がなければもっと簡単なものだった。しかし、こういうことを書いてもぼくの被害が少年期から30年以上と長く、その結果として豊かな先進国で白日の下にされていない迫害下の生活が長いがために、ぼくの方が無能者と誤解されてしまうという、あまりに過酷な被害になってしまっている。しかし、ぼくには社会で活躍できる一定の武器があるので、妨害さえなければいくらでもやり直しが可能なのです。人の意識に、くっつかない、くっつけない。 特殊な技術被害がある。 僕---意識翻訳者(偽者/憑依者)---(誰か?)近づけると介入が強まり困りますが、権力側で恩恵を受けている誰かとは限らないかもしれないけれど、自分の性格や知能レベルを嫌がって他者に介入するとあとで大変ですよ。誰がくるかで性格から知性まで変化。 僕でいられる時間が短くて困っていることが多い。 僕は知性も性格もいい方の人間。 (精神病院にいる人やひきこもり、不登校、失業中の人の一部には被害側の人がいると思われます。)「意識翻訳者」を「僕」につけないようにしてもらえないだろうか?「電子洗脳」よりhttps://twitter.com/full_aki_hello問題を表に出したいのではないのです。謀略はいけないことを伝えたいのに被害があり困っている。中道左派には優秀な人が多く崩れるのは問題だ。背後霊、幻声等へ・人に憑依しない・人の嫌がることを言わない・誰かを誤解させたり怒らせたりしない・人のせいにしない・被害者を加害者にみせない・否定されることをしない・間違ってないことを否定しない・断定しない・撹乱音声をしない・誰かのふりをしない・勝手に誰かを想定しない怒る人や、性格の悪い人が、いなければいい。それだけの仕組みと聞いている。ニセ者を演じたり、そのニセ者をボクと誤解しないでほしい。端的に書くしかない状況なのだが、僕は子どもの頃から物静かで優しくて知的な方で、常に客観的であろうとする傾向がずっとあった。見えない意思による妨害がある。僕につけてはいけない人を僕につけてはいけない。君が君でないと僕は僕自身にはなりえない。こう書いたが、相手が僕に老人や平均並みの人を送ってきたときに、相手は自分を正直かつ客観的に認識しているのだろうか?ボクと相手が逆にみえるかのような手法があるかのよう。多くの場合において脳同期でボクの方が若く健康で知性があるから脳同期したまま相手が自分に戻ろうとするケースがあり、しかしそれは広い意味では意味がないどころか逆効果でしかないのではないか。しかし他人の意識を使わないと思考もできない者がきているときは難しいので、特に家族等にそういう人がいる場合は、あなたが去ったあとにそういう方がくることがあるようなので、なるべく人に同期しないようにしてほしい。ゆえに最初の段階でくっついてはいけない。これは正直な内容だけれど、僕アキヒロは昔から嘘は言わない性格だ。優しい方の人間で相手が嫌がることは避けるのが普通だ。僕はメンタル的にも身体的にも非常に強いが優しい性格なので体育会系を好まず、学校時代も昼休みなどは図書館で本を読んでいた。(昔のヤンキーや体育会系の中には苦手な人もいたかもしれないけれど、そういう人も特に嫌うことのない性格だった。)どうしようもない状況がときにあり得るが、加害者が反省してくれると解除される謀略らしい。僕の方の問題は、僕のせいにする人によってなされたことなので、僕は何も知らなかったから、僕が反省しても意味はないし、僕で解除もできないのに、僕のせいにしている人により解決ができなくなっていること。 実際のところ何があるのかは分からないことが多いのだけれど、相手がいるようなので、その方には以下のことを確認してほしいと思っている。 -----人によっては以下の手法でものごとの捉え方を改善された方がいいのではないかと思います。下の手法は僕の場合は30年以上前の中学の保健体育の授業で心理的防衛の勉強をしたときに気になって注意しながら生きてきたことなので、僕の問題に対するものではないのです。僕以外の人の問題を僕のせいにされても、その人自身が問題を解決しなければ意味がないのです。特定の誰かのことではありませんし悪気はないのであしからずご理解ください。ちなみに僕自身ですが、認知の歪みが小さい方の人間です。ただ、上述の問題があって、関連付けの可能性があるのでそこは誤解されかねないから注意はしています。これは一般には妄想とされるので、もし知った場合も注意してください。認知の歪みに関心がある人は改善が可能なのでそうされた方がいいでしょう。そのような問題は程度次第で誰でもあるのですが、程度の問題であって、あまりに大きいと困るので、もしその辺りのことに気付いた人には多少の改善をお願いしたいのです。人が陥りやすい自動思考による「認知のゆがみ」の存在を知る人には無意識にできた認識の仕方があり、それを心理学では自動思考といっています。その自動思考により認識にはそれぞれに歪みがあり、それが問題の場合は改善が必要なのです。改善により様々なことが上手くいくようになるでしょう。まずは認知の歪みの種類を知る必要があります。【認知のゆがみ】・AかBか「二分割思考」・偏った「選択的抽出」・気になることだけ重視する「拡大視/縮小視」・理由なき「自己関連付け」・自他の無分別と「責任転嫁」・過度の「自己正当化」・偏った「感情の理由づけ」・「極端な一般化」・根拠なき他者の「心の読みすぎ」・「レッテル貼り」・勝手な「恣意的推論」・「すべき思考」・「極論」「認知のゆがみ」を徐々に修正し改善していく「認知行動療法」自動思考による認知の歪みに気付いたら、それを徐々に改善することで、生活や仕事上の問題が自然と解決していくと思われます。【認知行動療法の手順】・自分の捉え方が意識できない自動思考ではないか気付けるようにする。・それを客観視し、「認知の歪み」が含まれてないかを確認する。・「認知の歪み」を含む考えなら、歪みのない建設的な考えに修正する。・より現実的な認識による建設的な考えを徐々に実践していく。・この手順を問題が改善するまで、普段の日常で中長期的に習慣づける。以下は追加説明です。僕個人の憑依によって困っていることです。僕の読みたい本は以下のような種類のものだが平均的な人につけられ相手の介入を受けて相手の脳を経由したのでは理解できなくされる被害で困っているのに、ましてや老人では…以下は僕にとっては本来は問題なく読めるもの。(これをロシア側だといってくる者があるが、日米欧の真ん中~左側の範囲で主に中道左派なんです。本は左派系、中道系ですが、仏教哲学は中道主義の平等思想で、ルソーが社会契約論で無宗教批判をしていたりすることに加え、介入者の無知に困っても相手が誰かわからないので無知の知の罠を避けるため無明の思想が必要でした。)マンガを描こうとしているので、普通の人では人の動きや表情を様々な角度から描くということができなくなると困るのです。誰かに介入されたり侵入されるようなことがあっては、相手の安全も考えるとまずいようです。 下は日米で選挙があったので描いたもの。 絵が上手である証明。小学4年生のときの同級生の木版画はそっくりだった。(これらとは関係なく介入してくる相手とこの仕組みは信じられないくらい卑怯なので、誤解も含まれるかもしれないが、僕が下手にされているのにもかかわらず、誰かに介入して上手くなっているという嘘を相手が言ってくることがある。しかし実際は、僕に来ている人たちの絵の下手さによって下手にされても、これらが描けるのです。本当はもっと上手く描ける可能性があるということ。)念のために昭和の終わりのこどもの頃(中学生のとき)の絵が残っているので証拠に出しておきます。僕はこの被害下であっもできるような仕事を選ぶ必要があり、漫画家を目指しているので一般人にくっつかれるわけにはいかないのです。画力は子どもの頃からあるのでそこは理解してもらいたい。これでも憑依により少し下手にされているのです。(追記)人が自分もしくは人間の能力ではどうすることもできない状況に遭遇した場合に、何をどう考えてどう対応するだろう。最初は途方に暮れるだろうけれど、何とかやりすごしたり、抜け出すことを試みるのが普通で、それでもどうにもならない場合は諦めるか哲学的もしくは宗教的な心理状態になると思われます。どうすることもできない状況に遭遇し、多くの葛藤をしたあとに、もしそこを抜け出した場合は、人は存在のあり方と自らの限界を認識するので、他者とは異なる自分らしい自身の生き方を知ることになるのだそうです。妄念は観念の一種であって、観念は事実とは異なることもある情念の篭った個人的概念でしかないので、それに拘ることはより重要な概念や事項を蔑ろにしてしまうことになるのではないかという懸念となり、故に考えても意味のあることでなければ、それについて考えることは無駄でしかないことを知るのです。それにしても自分の考えなどではあり得ない侵入思考は、ある種の強迫観念であるかのようで、しかし独立して自身の考えとは異なるものであるから憑依の類いであって、その思考がどこからくるのかは不明だが、自分が言葉をどこで学んだかが不明瞭であるのと同様に、あらゆる言語的表現の無限の可能性から勝手に選ばれて独立的に他人の言葉のように神経ネットワークがつくり出したとしても、それがその人の意志とは別に作動しているなら、それは最早別の意思であり、そういう睡眠中の夢のようなものができる理由はわからないが、フロイトであれば抑圧された無意識のなせるわざであると解釈されるにしても不自然であって、たとえば脳が多重人格をつくり出すような現象の不可解さについてどのように理解すればいいのかは、21世紀の科学の主戦場である脳の解明には不可決のものになると思うのです。偶然の一致は、そこに意味があればシンクロニシティ=共時性があると考える人もいるけれど、偶然は偶然でしかなく、そこに意味を加えるのは人間の意識なので、その人間の意識の構造に問題があるわけで、その妄念についてあれこれと考えることは不要の行為にすぎないことを知ることの方が重要なのです。人間は脳でものを認識するのだけれど、脳は直接世界に触れることはできません。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚という五感を介して捉える世界は、脳で一度各脳葉に分けられて送られ、そこでそれぞれの個別認識要素に分解されて再び構成され直して、我々が認識しているものになっているにすぎないのです。ですから人の意識とは脳が機能して一時的にできたものであって、それは機能であるため身体性は本人自身の身体にはあるにしても、その意識自体には身体性は直接的にはないということで、これを心身二元論といいます。AIが話題になる時代ですが、AIが人間と異なる理由として身体性の有無があります。意識だけのAIがどんなに人間ぶってそれが本当に人間にみえたとしても、感情も身体もないので本質的に人間とは異なるものです。特殊なテクノロジーで合成された意識もAI同様に人間とは異なるものかもしれませんが、AI学習により得た知識はそうみえないかもしれませんし、AIが倫理を含めて間違った情報を提供してくるケースでは、それが間違いだと判別できる限りにおいては、それに影響されることは回避できるはずですから、新しい時代も人類は十分な対応が可能ならそれなりにうまく適応していくかもしれません。心身二元論に限らず、心とモノは別の世界にあり認識によって繋がっているだけだけれど、それを認識できるのは人に客観性があるからで、観察から捉えるそれらとは別に主観からなる自我が存在します。自我がものを捉えるときに生得的な思考の構図である神経構造の上に経験による言語や感性の情報が感情を伴って記入されていくのですが、その過程で辺縁系にある中期の記憶の貯蔵庫である海馬と不安等の感情の核である扁桃体が連動するので、不安障害の人は行動力は弱くても記憶力がいいかもしれません。成長の過程で様々な刺激や情報を得て人は人格を形成していくけれど、否定的なものに繰り返し接っすることは、一度の大きなトラウマ以上の心の傷をつくることがあるので、社会を健全にするためにも、人を傷つける発言は誰もが慎しむ方がいいのです。日本は平和で海外の戦下のような状況ではないにしても、皆がペルソナの鎧を着ているかに思える現代社会にあって、人によっては限界状況を経験し全てが己とは関係ないと感じることもあるでしょう。これはあまりにつらい状況に対して自分の意識の一部を切り離してしまう離人症の類いかもしれないけれど、第二次世界大戦の悲劇のトラウマから社会と距離をとらざるを得なかった人物の一人は、己の外にある他者の顔と関係し責任をもてばそこから解放されるという経験をしたようです。(※これは実際に他者に関係することなら問題はないのでしょうけれど、内なる他者の場合は様々なタイプがいる可能性もあり、また特殊な状況においては別対応が必要な場合もあるかもしれませんから、ときどきによる慎重な判断をすべきかもしれません。)現実に類する認識とは別にあるものとして観念的な内的世界が人に存在しますから、そこにある自我を護るために防衛機制が誰にでも存在するのですが、そういったものに頼らなければやっていけない状況や社会において、昇華というポジティブな行動に自分を置けない場合は何らかの歪みが生じるものだから、それを最少限にできるかが大切なのでしょう。観念的な内的世界は理性や感性と情動からなりますが、それぞれの状況と個人の特性により個性的な概念を形成して、ときに生きるための個人哲学を生むようなこともあるものの、それが他者と共にある社会と折り合えるかが重要な要素となるようです。どんなものであってもそれが存在する限りは、それは何らかの必要や条件があってそこに存在しているという考え方がありますが、人は気づいたら存在していたのだから、自由が許される社会においては存在理由は自らつくっていかなければいけないものなのだそうです。日本は民主的な自由主義の国ということですから、それはある程度は自由に選択できるということになります。自分で選ぶのですからそれにはそれなりの不安と責任が伴うということのようです。しかしもし自分の住む社会に自由に選択できないものが多い場合、そこに豊かな経済があるなら、社会のあり方や仕組みに問題があるのでしょう。どうすれば皆に公平に選択の自由があって、失敗しても助けられる生存権の保障された結果の平等のある社会にできるでしょうか?人は快と求め苦を避けるものですが、一部の人が大きな快を得て多くに苦がある社会より、皆にほどよい快がある社会の方が、幸福であるといえるでしょう。誰かの犠牲によって成り立つ社会は不健全で、全員の苦が最少の方が誰しもが何があっても安心できる望ましい社会なのは理解されるものだと思います。注意しなければならないのは、人間が自らを万能と捉えて安易に行動を選んだ結果の歴史的悲劇です。どう思われますか。人の理性は万能でしょうか? 皆が知つている通り人類は近代において自然と社会を支配するための利益追求に理性を使って大きな過ちを犯しています。ものごとの多面性と総合性を無視した実証性のみの理性では、再び利益追求に奔って人類は大きな間違いを犯しかねません。だからといって多面性の重視の結果として大衆主義(大衆迎合)という選択も正しい理性とはやや異なっており、むしろ人類の悲劇を回避するためには不十分なうえに、コントロールを失う懸念すらあります。悲劇を回避するためには時間のかかる民主的対話が必要で、そのためには寛容でバランスのとれた対応が望ましいと思われます。
2021.01.09
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